空虚な問答
「ふぇ?」
唐突に掛けられた言葉に、アイナは朝食に出されたパンを口に含みながら気の抜けた返事をした。
「アイナ様ぁ。いくらなんでもそれは……」
あまりの醜態にそばで見守っていたサクラも眉をひそめ、情けない声を上げる。
アイナはサクラの呆れ顔に焦りを覚えて、嚥下しよと口を懸命に動かし始めた。
「ふあ、ふま……もご……」
もはや何を言っているのか分からない。
サクラはそんなアイナを呆れ顔でみつつも、そうしていられる自分に幸せを感じていた。
やがてようやっと飲み込み終えたアイナが、目の前にいる父親へと問いかけた。
「それで? なんて言ったの?」
努めて冷静にふるまおうとするアイナだが、幼さゆえか、溢れ出る好奇心が顔をにやつかせて締まらない。
父親は笑いを噛み殺しながら、先ほどと同じ言葉を一言一句違わずに告げた。
「君は一〇歳、正確に言えば五歳だけど、それにしてはとても落ち着いていて、立派な良識を付けていると僕は思う。だから、この家に関わる重要な使命を伝えるとともに、正式にこの家の後継者になってもらおうと思うんだ」
朝食の場でまるでついでの様に出された提案だったが、その内容はその気軽さに反してとても重要な事だ。少なくともアイナにはそう思った。
事実、この提案はこの家にとっても、正式に血筋の繋がらない者が跡取りとなるという重大な事だった。
「本当か!?」
思わず身を乗り出したアイナだったが、すぐさま後ろに控えたサクラに引き戻され、席へと座らせられる。だが、大人しく座った後も、熱気の籠った真剣な視線が父親へと注がれていた。
「うん。本当なら物事の判断を自分で付けられるように、もう少し成長してからが慣例なんだけどね。さっきも言ったとおり、アイナなら自分で答えが出せると思う。そしてその答えが決して間違ったものにならないって僕は確信している」
アイナを鼓舞する為のその言葉には多分に嘘が含まれていた。前半の慣例などなかったし、後半に語った信用もほとんど出まかせだった。彼はそうであったらいいとは思っていたが、アイナが間違った答えを出したのであれば自分達で訂正してあげられると、そう考えていた。
その内心を知らずにアイナはこの家の本当の一員になれる、その事が嬉しくて彼の言葉に大きく頷いた。
アイナは浮かれていた。家族になるという至福に、彼女は周りが見えなくなるほど浮かれていた。
もしもこの時、彼女が周りを見る目を失っていなかったら、そしてその目で目の前に座る両親を見る事が出来たなら。彼女は気がつくことができただろう。目の前にいる二人の男女が酷く重い表情を浮かべている事に。特に女性の方は泣きそうな程の後悔をたたえている事に。
ともすれば重たい沈黙ともとれる静寂が立ち込めていたが、アイナはそれに気づかず浮かれた調子で父親へと問いかけた。
「それで、何をすればいいんだ? 儀式とかやるのか?」
「はは、ちょっと言葉足らずだったね。元々君は後継者として育ててきたし、周りにもそう認識されている。だから特別これといった手続きはしないよ。今日は、この家に関わる重要な秘密を君に伝えたいと思う。そして知識の使い方を一歩間違えれば、とてつもない悲劇が生まれてしまうくらい世の中にとっても重大な秘密だよ」
父親のもってまわった言い回しに、アイナは感嘆の息を漏らした。
「勿体つけずに早く教えてくれ! 気になるから!」
アイナが腕を振り回しながら父親へと訴える。
やがて父親が小さくため息を吐いて呟いた。
「駄目だね。もう決心はつけたはずだったのに……」
突然の憂いを帯びた顔にアイナは面食らった。言っている意味も理解しづらい。
戸惑うアイナを尻目に父親は真剣な表情をサクラに向けた。
「サクラ、ちょっとこっちへ」
サクラはあからさまに嫌そうな顔を形作ったが──真剣な表情から何かを察したのだろう──しぶしぶといった様子で父親の元へと歩んだ。
父親の横にサクラが立つと、彼は立ち上がってその耳へと何かを囁いた。
「どうしたんだ?」
アイナは訳が分からずに問いかけるが、その答えはどこからも返ってこない。
やがて父親はサクラの耳から離れ、再び椅子へと座り、サクラは彼から離れてアイナの後ろへと戻った。
アイナには何が何だか分からなかったが、サクラが離れ際に呟いた「この意気地なし」という罵り言葉だけは聞き取る事が出来た。
混乱するアイナに父親は言った。
「アイナ、悪いけどお父さんとお母さんはこれから町の人達と話し合いをしなくちゃいけないから、出かけるよ」
「え? 秘密はどうなるんだ?」
慌ててアイナが問いかける。
「それはサクラが知っているから、サクラから教えてもらって」
父親はにっこりと笑ってそう答えた。だが、その笑顔はどこかぎこちない。
どういう事か追及したかったが、そのぎこちない笑顔が聞いてほしくないと言っているようで、アイナは開きかけた口を噤んでしまった。
名前が出たサクラに説明をしてもらおうと振り返ると、そこには父親に向けられた蔑むサクラの顔があった。
「……サクラ?」
その言葉でアイナが自分を見ている事に気づいたサクラは、すぐさまアイナへと笑顔を向けた。
「はい、アイナ様。僭越ながら私が旦那様の代わりにアイナ様へお教えいたします」
その笑顔には有無を言わさぬ迫力がこもっているような気がして、アイナは再び口を噤んだ。どうやら今聞いてはまずい事らしい。
アイナが何も言わずにいると、父親はアイナが納得したと思ったのか、アイナに一言わびを入れつつ、母親と一緒に急いで出発の支度をはじめた。
アイナの体感時間であっと言う間、呆然と席に座ってお茶を飲んでいる間に二人は用意を終えて出発する事になった。
アイナはそれを見送る為に玄関口へと向かった。
「それじゃ、行ってくるよ」
「お土産は期待していてね?」
アイナの両親はそういって馬車へと乗り込もうとした。
アイナはそれに黙って見送る。それは、まるで逃げる様に外出をする二人に対するアイナなりのささやかな抵抗だった。
ふと父親が振り替えった。
その顔にいかにも悩んでいますといった表情を浮かべていたので、アイナは不審に眉をひそめる。
やがて心を決めたのか、父親は口を開いた。
「アイナ……これは君の事を信頼していないわけじゃないけど、約束してくれ。──今日聞くだろう秘密を決して他言しない事を」
アイナは頷いた。秘密と言われていたのだから、もとより誰かに話す気も無い。念を押されたのであればなおさらだ。
「うん、ありがとう。それから、もう一つ……」
父親はそこで一度言葉を切った。そして一つ息を吸ってから真摯な瞳でアイナを覗きこんだ。
「その知識を決して使わないと誓えるかい?」
アイナは質問の意図が分からず押し黙った。
「もしも得られた物がとても便利なもので君の役に立ったとしても、どんな状況であろうと使わない事を誓えるかい?」
アイナを覗きこむ彼の眼に力がこもった。
その気迫にアイナは一瞬気圧されたが、それでも足を踏ん張ってその眼を見返した。
「誓えない」
一瞬彼は驚いた様に目を見開いた。
「使うって事?」
アイナは頷く。
「例えそれがどんな危険な物だとしても?」
アイナは頷く。
「例えそれが悲劇を生もうとも?」
アイナは頷く。
そして言った。
「大切な人の存在を救う方法がそれ一つだとしたら、どんな状況でもどんな結果になろうともそれを使うし、もしもそれで誰かを救えたり、自身の信念を全うできるなら、リスクと天秤にかけて、その答えによってはそれを使う」
それを聞いた父親の目が据わった。
「君が信念を持っているとは初耳だね。君の信念っていうのは何だい?」
「まだ分からない。でも、生きていく上できっと手に入れると思う。それが人間の生き方だって学んだから」
アイナははっきりと言い切った。その言葉に迷いはない。それがサクラに教えられた人としての生き方であり、またアイナは人として生きようと心に決めたからだ。
父親はアイナの目に揺らぎがない事を見てとり、その心も揺らがない事を悟る。
「例えそれが悲劇を生もうともかい?」
「私にとってより大きな悲劇を生む方は絶対に選ばない。それに、質問の仮定とは反するけど、現実の選択肢は沢山あるから。悲劇が起きない選択肢を選べばいい」
父親は沈思した。
アイナもそれに合わせて口を開かず、両者はお互いの目を見つめあう。
やがて父親が最後の質問を口にした。
「アイナ──君は全てを背負う覚悟があるのかい?」
アイナは躊躇わずに自分なりの答えを口にした。
「覚悟があるかは分からない。でも、どんな時でも後悔のない決断をしたいし、例えそれがどんな結果になろうと、それに対する責任は取りたいと思う」
その答えを聞いた瞬間、父親の体から力が抜けた。倒れる様にして、馬車へと寄りかかる。
アイナが心配して駆け寄ろうとすると、父親はそれを手で制した。
「大丈夫。ちょっとした眩暈を感じただけだから」
やがて彼はその身を起こすと馬車へと乗り込んだ。
そして窓から顔を出した。
「サクラ、アイナをよろしく」
「何を当り前な事を。言われなくても、です」
その言葉にふっと笑うと、続いてアイナへと言葉を紡いだ。
「アイナ、君は僕に似ている。生き方とか考え方とかもろもろ含めてね。だから心配だ。君が僕と同じく、悲しみや後悔を引きずって生きていく事になるんじゃないかって」
それは実際の所、一笑に伏す様な根拠のない予感であったが、アイナはその声に宿る真摯な響きに嫌な予感を感じ取った。
アイナがそれに答える前に、サクラが横から口を出す。
「何を馬鹿な事を。アイナ様には私達が付いているんですよ? そんなにアイナ様に不幸が降りかかる事を懸念するのでしたら、そうならないよう手を尽くしなさい。アホですか、全く」
サクラの言葉にはいつもの様に嫌悪は籠っておらず、相手を労わる様な響きがあった。
父親はそれに驚き、やがて笑った。
「確かにその通りだね。全くだ。少し心配しすぎていたかな」
ひとしきり笑った後、窓から手を出してアイナの頭をなでた。
「それじゃあ、行ってくる。君が何を知って、僕をどう思おうと、僕はそれを受け入れるよ」
アイナが答える前に窓は閉まり、馬車が出発した。
☆ ☆ ☆
ゆらりゆらりと夢うつつ。
そこは静ける山間の町。文明から遅れた豊かな農村。
宿の外にある小屋から馬の嘶きが聞こえる。
この町に来てからもう二日。決行の日までもう少し。




