愛情と束縛の境
「ふぅ」
舞台の裏手でサクラは浅い溜息を吐いた。
肉体の疲労は感じないが、精神的な疲労が大きかった。
あの後、三人で舞台に出たところまでは良かった。まだ涙で視界は滲んでいたが、それも手から伝わってくるアイナの温もりが全てを塗りつぶして、充足感に満たされていた。舞台に出たところまでは。
そこからが酷かった。始めに男がマイクを持ってアイナの事を紹介し始めた。と言っても紹介は名前と自分の娘だという所まで、その次に出た言葉が「それじゃあ、次の曲は」であり、数秒後に過激なメロディーが鳴り響き、男が弾けもしないギターを片手に持ってから、地獄が始まった。
男は何を思ったのか唐突にギターを振り上げ機材をぶち壊し、ギターが壊れたところで最高潮になった客の歓声に満足したのか、二本目のギターを用意。必死にそれを押し止めていると、アイナが興味を持ったのか同じ事をしようとしていたので、お願いだからやめてくれと懇願している内に、男が再び破壊行動を繰り出し始めたのでそれを制止。続いて捕まった男がアイナに破壊活動を進め、それに頷いたアイナがやはり男と同じ事をしようとするので、止めてくれるよう懇願。と、同じよう事を延々と繰り返し、最終的に男を張り倒して、アイナ共々舞台袖まで引っ張っていって、その楽曲は終焉を迎えた。
引っ張っている最中、セシルに「あれ? アイナのやりたい様にやらせるみたいな事、言ってなかった?」と言われたが、それは違う。アイナを抑えつける枷となっている事を反省はしていたが、さすがに常軌を逸した行動を覚えさせる訳にはいかないのだ。
その後は男にたっぷりと説教を施し、二度とこんな事はしないと約束させてから、男とアイナを舞台へと送り出した。アイナが舞台へと行く最中、名残惜しそうに自分の事を見てくれていたのは嬉しかったが、精神的疲労が大きかったので付いて行くのは止めておいた。
舞台からはカントリー系の楽曲が流れ、それに合わせて二人の歌声が聞こえてくる。どちらも素人丸出しの歌唱力だが、それでも観客からは声援が飛んでいる。どちらかと言えば、アイナへの歓声が多い。アイドルにするつもりかと懸念していたが、本当にそうなってしまった様だ。
「凄いねぇ。アイナ大人気だよ」
いつの間にか横にセシルが腰かけていた。こいつもまた悩みの種だ。
「アイナ様でしょう、セシル。せめて外部の人間が聞く様な場では気を付けなさい」
「大丈夫だって。今、村の人は誰もいないから」
いかにも天真爛漫といった笑みを浮かべながら、セシルは断言した。
「人の有無では無く場所や状況の問題なのですが……」
言っても分からないだろうと考えて、サクラは溜息を吐いた。
セシルは主人に対する好意はあるが、敬意は全くと言っていいほど持っていない。セシルだけでなく、家中の忠誠心が全体的に薄いので仕方のない部分はある。しかし、生まれた時期が近く、共に教育を受け、アイナとの距離が非常に近いセシルには、アイナに対する敬意を持っていて欲しいというのが、サクラの望みだ。
「まあ、何を言っても無駄なのでしょうが……」
「何が?」
「……なんでもないです」
呆れながらもう一度溜息を吐いた。
頭に疑問符を浮かべつつもニコニコと笑っているセシルを見ると、正直羨ましいと思う。悩みがないという事はないだろうが、きっと余り思い悩みはしないだろうから。
ぼんやりとセシルを見ていて、ふとその手に何かを持っていて、更に脇に何かが置いてある事に気づいた。
「……それは?」
サクラの問いは言葉足らずで、セシルは一瞬眉根を寄せたが、すぐにその言葉の意味に気付いて、手に持っていたものをサクラの眼前に差し出した。
「飴!」
見れば分かる。
まさしく言葉通りの棒付きキャンディーがサクラの目の前に突きつけられた。
「さっき買ったの! 美味しいよ!」
恐らく祭りの間に開かれる市場で飴を買ってきたのだろう。
一瞬、祭りの市場という単語から、嫌な過去を思い出したが、すぐに振り払った。
「……まだ会場に来てほとんど時間も経っておらず、自分の主人が町人に向けて挨拶を行っているのに、よくもまあ飴を買って来られましたね。感嘆します」
イベントに関わる者以外、殆どの従者には自由時間が与えられいるのだが、なんとなく嬉しそうに飴を食べているセシルが気に食わなくて、皮肉を吐いてみた。
「うん、お祭りすっごく楽しみだったから!」
通じてない。しかも、余りにも純真なその答えに、なぜだかサクラの心が痛む。
自分に向けられる晴れやかな笑顔と目が合わせられず、サクラは思わず顔をそむけた。
「あ、そうそう。これいる?」
顔を上げると、目の前にカラフルな缶詰が差し出された。蓋が開いていて、中から甘い匂いが漂ってくる。覗き込んでみると、白い飴玉が詰め込まれていた。
「ミルクキャンディーだって。いる?」
「……いいのですか?」
後ろめたい気持ちがあるだけに、素直には受け取れず、おずおずと聞いてみた。
「もちろん。なんで? 太っちゃうから?」
「違います!」
恐らくこちらの気持ちになど何も気づいていないのだろう。そこまであっけらかんと言われると断る理由もなくなってしまう。
「……ではいただきます」
手をのばして缶詰の中から飴玉を一つ取り出して口の中に放り込んだ。口の中にじわりと甘さが広がっていく。
それを確認したセシルは既に残り僅かな棒付きキャンディーを嬉しそうに舐め始めた。
「飴ってさぁ、なかなか無くならなくていつまでも美味しいからいいよねぇ」
その瞬間、ガリッという音がセシルの耳に届いた。
セシルが驚いて横を見ると、サクラが無表情で飴玉を噛み砕いているところだった。
「そうですか?」
サクラは心底不思議そうにそう呟いた。
セシルはがっくりと肩を落とすと、僅かな残りを見つめてから、涙を浮かべつつ舐め始めた。
「……違うかも」
☆ ☆ ☆
「お疲れ様です、アイナ様」
サクラは帰ってきたアイナを笑顔で迎えた。
結局ほとんど紹介などやらずに、ライブだけで終わったイベントを断行した男をぶちとばしてやりたかったが、そんな事よりもアイナの方が大事だ。
「うん、大変だった。でも楽しかった!」
アイナは飲み物片手に強い笑顔を浮かべながら、そう答えた。
その笑顔を見るだけで腰が砕けそうになるが、サクラは背筋を伸ばして一礼する。
「何よりです」
そう言いながら、アイナが飲み干した紙コップを受け取り、ゴミ箱へ捨てた。
「アーイーナー!」
刹那、アイナの体が僅かに傾いだ。
セシルだ。
「コラ! セシル!」
「ねぇ、アイナ。これいる? これいる?」
サクラの言葉になど耳を貸さずに、セシルはアイナへ缶詰を突き付ける。
「これは何ですか?」
アイナが首を捻って外装を調べ始めた。
セシルはアイナの目の前で蓋を開くと、見せつけるように開いた穴をアイナへと向ける。
「飴!」
さっきと同じだ。
見るとアイナはそれだけでは分からなかった様で、まだ首を捻っている。アイナは飴を見た事がないのだ。
アイナが困っている。チャンスだ。
サクラは意気込んで、何と言って教えればいいのか、サクラが頭を悩ませていると、アイナは先に答えを導き出した。
「えっと、お菓子の一種? 甘いお菓子?」
役に立てると意気込んでいたサクラは思わずつんのめりそうになった。
サクラはアイナが大地の記憶を持っている事を思い出した。それは過去に地上であった全ての事柄が記録されているそうで、まだ経験の浅いアイナは使いこなせていないが、使いこなせばほとんどの事が分かってしまうのだ。
「……むう」
期待が外れたサクラは小さく唸って嫉妬心と疎外感を抱きつつ、和気藹々と飴を舐めあっている二人を眺める。
「では、これはお祭りで買ったんだ」
「うん! 他にも色々あったんだけど、楽しみは取っておこうと思ってこれだけにしたの」
ガシャガシャと缶詰を鳴らしながらセシルは笑った。
アイナはそんなセシルを見て、一拍考えた後、決意を込めて叫んだ。
「私もお祭り行きたい!」
それはサクラに向けられた言葉だったが、話の流れ的に自分に振られるとは思っておらず、数瞬の思考停止、一秒の戸惑い、一拍の思考を経てから、ようやく自分が求められている事にサクラは思い至った。
次の瞬間、サクラは反射的に答えていた。
「も、ももも、もちろんです、アイナ様!」
その言葉に、今度はアイナとセシルが固まった。どうやら理解ができなかったらしい。
「サクラ、ちゃんと聞いてた? アイナはお祭りに行きたいって言ったんだよ? それに対してもちろんっておかしくない?」
セシルは非難がましくそう問うが、サクラにしてみればなぜ理解していないのかが分からない。
「ですから、アイナ様は私に付いてきてくれと言っているのでしょう? その答えとして勿論と答えたのです。私がアイナ様のお願いを断るわけがないでしょう!」
当り前のことです、とサクラは胸を張るが、アイナとセシルはやっぱり理解ができなかった。
「どうして、行きたいが、付いてきてくれになるのですか?」
今度はアイナが質問をした。
「何故って……アイナ様はお祭りに行きたいのでしょう? そして私に許可を求める為にその意思を示した。当然、その意思は尊重されてしかるべきものですし、否定する理由はありません。そして、アイナ様はお祭りに行く事になるわけですが、僭越ながら、まだ経験の浅いアイナ様です、お祭りに行くのに誰かの同行が必要でしょう。アイナ様は賢いので間違いなくそれに気づき、誰かに一緒に行ってもらおうとするはずです。そこでこの私! 誰よりもアイナ様の身近にいて、アイナ様の為に尽くし、この一週間アイナ様のお勉強を手助けする教師という任すらも果たし、今アイナ様の信頼が急上昇なこの私が選ばれる事は明々白々です! そのお願いに対しても、私が頷く事は至極当然の事ではありますが、使用人が勝手な判断をする訳にはいかないので、あえてもちろんという返答をさせていただいた訳です」
サクラが拳を握り締めながら言い切った。
だがその熱意の籠った言葉はアイナとセシルには全く通じずに、二人の頭に混乱だけを残して溶けて消えた。
「あら、お祭りに行くの」
そこへアイナの両親がやって来た。
「うん、行きたい!」
アイナが元気よく答える。母親がアイナの頭を優しくなでる。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「お母さんとお父さんも一緒に!」
その言葉にサクラがちょっとだけ嫉妬する。自分はあれだけ熱意を込めて一緒に行く事を伝えようとして伝えられなかったのに、旦那様と奥様は伝える必要すら無く、一緒にお祭りへ行く事が出来る。世の中不公平だ。
「ごめんなさい」
アイナの母親の謝罪が静かな舞台裏に硬質な性質を持って響いた。
サクラはそれが自分に向けられた物かと思って思わず身を固くした。自分が嫉妬心から心の中で責めていた事を見抜かれたのかと思った。
だがアイナの母親の謝罪はアイナへと向けられた物だった。サクラがそれを理解するのにそれなりの時間を要した。サクラにとってアイナの願いを否定するなどあり得ない事だったからだ。
「ごめんなさい」
アイナの母親がもう一度言った。
「どうして?」
アイナが不思議そうに問う。問われた母親は青ざめた顔で気丈に微笑んだ。
「ごめんなさい。体調が優れないの。だから私達は家に戻るわ。アイナはお祭りを沢山楽しんで来てね」
そう言って従者に付き添われてよろめきながら去って行った。
「どうしたんだろう? さっきまで元気だったのに」
サクラはその理由を知っている。説明するのも簡単だ。だがアイナの疑問に答える事は出来なかった。言えば、知らなくて良い事にまで及んでしまう。
舞台にしばし沈黙が下りた。サクラはその重さに耐えられなくなって、冗談めかして言った。
「それで、アイナ様はお祭りに行くのですよね? 私はどうすれば良いですか? ここでお留守番ですか?」
それに対してアイナとセシルはぱっと笑顔に変じて、容赦無く言い放つ。
「ううん、一緒に来て教えて!」
サクラは拗ねたようにそっぽを向いた。ただ、その頬が紅潮しているのは横顔からでもはっきりと分かる。
「仕方がありません。そこまで言われるのでしたら、アイナ様のお願いですし、行ってあげなくも」
サクラの声はそこで途切れた。
その言葉を聞かせるはずだった二人は、サクラが否定するはずがない事を見越して、すでに祭りへと走っていた。




