キミトキス
扉が開き、申し訳なさそうなサクラの声が入ってきた。
「お待たせしてすみません、アイナ様」
アイナが期待と不安を込めてそちらに目を向けると、そこにはサクラが立っていた。しかし、サクラに会えた喜びや不安を抱くよりも先に、質素で重厚なドレスが目に映った。
それは式典用のドレスだ。いつもの作業をする為の制服とは全く違う、人に見せ、人を魅せる為の服装。色調が抑え気味なのはサクラが使用人としての立場を逸脱しない様にと主張した結果だ。決して華美とは言えないが、その代わりにサクラの魅力を引き出す事に主が置かれ、実際にそれを着たサクラは、周りから特別浮いているわけではないのに、なぜか目が離せない力を持っていた。
やがて、アイナの視線に耐えられなくなったのか、サクラは恥ずかしそうに俯いた。
「あの……すみません、アイナ様。申し訳ないのですが……その、あまり……あまりマジマジと見ないで下さいませ」
「なんで?」
その様子を見てアイナが首を傾げた。
顔を赤くし、俯いているのは恥ずかしいという感情の表れであり、その感情は失敗を犯したときなどに表れる事はこの一週間で習ったが、どうして今サクラがその感情を表しているのか分からなかったのだ。
サクラが俯いたまま、消え入りそうな声で答える。
「……あまり……こういった服は着なれていませんので……見られると恥ずかしいというか……なんというか」
「着なれていないは恥ずかしいの?」
「それは、まあ……あの、特にこういった豪勢な服装は……私には似合わないですし……」
「サクラは似合ってるよ。なのに恥ずかしいの?」
サクラがその言葉を聞いて、はっと顔を上げた。次の瞬間、限界まで真っ赤になっていた顔が、更に赤くなった。
「大丈夫?」
「だ、だ、あっ……だい、だい…………っ」
聞き取れない。
「サクラ、落ち着いて」
「え? あ、落ちっ……おちつ……」
まただ。アイナは困惑した。
またサクラが変になってしまった。
昨日の夜、突然サクラがおかしかったので心配していたが、やはりサクラが変になってしまった。
いつもの優しく、冷静なサクラとは似ても似つかない狂態。
私が何か変な事をしているなら言ってほしいと、アイナは思う。
だが例えそれをサクラに言ったとしても、サクラはアイナの非を認めないであろう事をアイナは知っていた。きっとサクラは「いえ、私が悪いのです」と頭を下げる事だろう。それは絶対に間違っていると思うし、非がないのに立場を考えて頭を下げるサクラを見るのは嫌だった。だからアイナは何も言えない。
焦り続けるサクラと押し黙るアイナ。
どうすればいいだろう、とアイナが悩んでいると、変化は唐突にやってきた。
「アイナー? 準備終わったー? 早くお祭り行こう!」
ばたんという派手な音と共にいつも通りの制服に身を包んだセシルが猛烈な勢いで駆け込んできた。セシルは式典に参加しない為、ドレスは着ていない。
「って、あれ? アイナ、まだ着替えてないの? ってか、サクラ、何やってんの?」
アイナが何を言おうか迷っていると、それよりも先にサクラが答えた。
「何でもありませんし、何もしていません」
サクラを見ると、すでに先ほどの焦りは影も形も無くなり、いつもの冷静なサクラに戻っていた。
「んー? そうでもなかった様な……」
セシルが首を捻るが、サクラは有無を言わせない。
「何もありません」
強い口調で言い放った。
尚も食い下がろうとするセシルをサクラの眼光が抑え込んでいる。
やがてセシルは溜息と共に追及を諦めた。
「とーにーかーくー、もう準備はできた?」
セシルがアイナの前に立ち、問う。
アイナは自分の体を一度見回してから、頷いて肯定の意を返す。
「そっか、じゃあ行こう。時間はまだ十分だけど、早めに行った方がいいよね」
セシルが笑いながらアイナの手を引いた。
アイナはセシルの手を掴もうと、手を伸ばす。
「お待ちなさい」
が、横から手が伸びてきたためそれは叶わなかった。
見るとサクラがセシルの手を掴んで引っ張っていた。
さすがにセシルも黙ってはいなかった。
「ちょっと、何するの? 私に嫉妬してるの?」
するとサクラの顔が朱に染まった。
「な、そん……そんな訳ないでしょう。大体何処でそんな言葉を!」
「テレビ。嫉妬してないなら、いいでしょ? 行こう、アイナ」
セシルがアイナに手を差し伸ばす。
だが──いや、やはりというべきか、サクラの手によって阻まれた。
「お待ちなさい。大体あなたは言葉の使い方がなっていません。使用人の分際で主人とその一族に対する敬意がありません」
憤慨するサクラにセシルも反論する。
「ふんだ。言葉の使い方って言っったって、サクラだってちょっと間違ってるじゃん。勉強してる時に分かったもん」
「ですが、敬意を持って臨んでいます。例え多少間違っていても、心がこもっていれば良いのです」
「私だってみんなの事好きだもん。心こもってるならいいでしょ?」
「好意と敬意は違います」
「うう……あ! サクラだって敬意を払ってるとか言いながら、その主人である旦那様に対して敬意を払ってないじゃん。てか、馬鹿にしてるじゃん」
「あれはいいのです。あれは敬意を払うべき対象ではありません。それに私の主は奥様とアイナ様です。アイナ様がこの家に来た瞬間にそうなりました」
「ううっと、でも、旦那様だって、奥様だって、もっと気を抜いた方がいいって言ってるじゃん。皆だってもっとフランクな感じで喋ってるし。料理長のシャロンとサクラ位だよ? そんなにお固いのは。アイナだってもっと柔らかい方がいいよね?」
突然話を振られたため、アイナは思わず頷いた。
「ほらー、アイナもそう思ってるって」
「い、今のはずるいです。明らかにアイナ様のご意思で頷いた訳ではありませんでした。本当の所はどうですか、アイナ様? 私は何の問題もありませんよね」
サクラとセシルに詰め寄られ、アイナは頭の中が真っ白になった。
「えと……わ、分からない、です」
かろうじて発する事の出来た言葉がそれだった。
サクラがアイナの頭へと手を伸ばした。
アイナの体が竦んだ。質問にちゃんと答えなかった事に対して怒られると思ったのだ。
しかし、その手は優しくアイナの頭に触れた。
サクラの顔を見ると笑っていた。
「素晴らしいです、アイナ様。他者に追従せず、惑わされずに、自分を貫く事がどれだけ難しい事か。それを苦もなく実行するとは、さすが」
とりあえず褒められた事は分かったが、なぜ褒められたのかアイナはいまいち分からない。
しかし、説明を求めようとした時には既にサクラはセシルの方を向いていた。
「いいですか? 世の中には立場というものがあるのです。それは崩したらおかしくなってしまいます。誰が何と言おうと、使用人である以上は敬意を持って態度を示すべきです!」
「……えっと、でもでもでも──」
サクラが吐いている言葉には明らかに暴論が混じっている。
しかしその理不尽な言葉に必死に反論しようとしても、サクラの威圧的な態度と断定的な口調がそれを妨げていた。
サクラの高圧的な挙動の所為で、なんとなく自分が間違っている様な気がしてくるのだ。
結局、セシルは反論を諦めた。
「うー……じゃあ、もういいよ!」
「良くありません!」
サクラはなおも口論を続けようとするが、セシルがそれを封じた。
「それより、時間に間に合わなくなっちゃうよ?」
時計を見ると既に出発する時間だった。
「えっ!? ……あら。すみません、アイナ様。少し白熱し過ぎた様です」
「…………」
サクラがアイナに謝るが、サクラとセシルの舌戦に圧倒されていたアイナは何と返していいか分からず黙り込む。
サクラはアイナが黙る事を見越していたようで、アイナの返事を待たずに言った。
「それではお立ち下さい、アイナ様」
アイナは促されるままに立ちあがる。
「…………?」
ふと、二人が妙な視線を投げかけてくる事に気付き、アイナは首を傾げた。
やがてセシルが口を開いた。
「綺麗だね。てか、アイナ似合いすぎ。なんか絵本の中のお姫様みたい」
突然、ぐるぐるとアイナの周りを回りながら褒めてくるセシル。
アイナは少し考えてから、習った通りの返答をした。
「ありがとう、そんな事無いよ」
「いやいや、そんな事あるって。ああ、いいなぁ。私もそういう服着てみたいなぁ」
セシルの羨ましげな言葉を聞いて、自分だけがそういう服を着ている事を申し訳なく思った。
ふと見ると、サクラにじっと見つめられていた。
何も言ってこないサクラに、アイナが不安を覚えていると、ようやく口を開いた。
「お綺麗です、アイナ様」
サクラはアイナの姿を一言でそう評した。
言葉だけを聞けば取って付けた様な文面だが、込められているものが違った。むしろあまりにも言いたい事がありすぎた挙句、結局それしか言う事ができなかったのだ。その声には具現化しそうなほどの濃密な感情が込められ、注ぐ視線には今にも溢れんばかりの興奮が含まれている。
その気配は、まだ感情の機微に疎いアイナにさえ伝わった程で、今度はアイナが恥ずかしさの余り俯いてしまった。
その様子を愛おしげに見つめながら、サクラはアイナに手を差し伸べた。
「それでは、行きましょう」
アイナはそれを手にとって立ち上がる。
「あ、きゃっ」
突然、何かに気付いた様にサクラが顔を真っ赤にしながら手を振った。
反動でアイナの体がサクラに引き寄せられ、そのまま二人で倒れこむ。刹那、アイナの唇がサクラに触れた。
「ひえぇ」
雷光の如き速度で立ち上がったサクラは顔を真っ赤にして後ずさった。
それを見てセシルが溜息をつく。
「サクラ。いくらなんでも触れた位で赤くなるのはうぶ過ぎ」
サクラは必死に首を振って反論する。
「いえ、だって、私の頬に、アイナ様の、く、唇が! いえ、それよりも、生まれてから一年も経っていないあなたに言われたくありません」
セシルが微妙な顔をして言った。
「そういえば、サクラってキス駄目なんだっけ? いつも皆としないよね?」
「だって……ふしだらです! 日本ではそんな事しません!」
「日本てどこ?」
「旦那様の故郷です! 覚えておきなさい!」
「…………まあ、いいけどね」
未だに顔を真っ赤にしているサクラを見て、セシルは呆れ顔で呟いた。
しかし次の瞬間には悪戯を思いついた様な意地の悪い表情を浮かべた。
「時間もヤバいし、行こう、アイナ」
「うん、分かった。でも、なんでサクラは恥ずかしい気持ちになってるんですか?」
「さあねぇ。聞いてみたら?」
ニヤリと笑って、アイナの頬に口を寄せ、キスのまねをする。
振り返ると、更に顔を真っ赤にしたサクラが固まっていた。
固まるサクラを尻目に、セシルは笑いながら、アイナは困惑しながら、部屋を後にした。
扉が音を立てて閉まった瞬間、サクラは頭を抱えながら転げ始めた。




