黒い飲み物
目が覚めた。
女は周囲を見回した。目の前には机と数枚の書類。天窓から光がピカリ、ピカリと溢れている。
ここはどこなのだろう。
女は立ちあがろうとして、座り直した。ここは学寮事務室だ。仕事をしなければならない。女は書類をまとめ始めた。
しばらくすると女は立ち上がった。部屋の奥に扉がある。椅子を、ギュッと奥まで下げて立ち上がると、コトン、コトンと音を立てながら扉に向かって歩いた。
扉はきい、と耳障りな音を立てて開いた。
大きな部屋が広がっていた。大きな窓。雨が降っているのが見えた。まばらに長机と長椅子が置いてある。共有スペースのようだ。
女はコトン、コトンと歩くと、手前の椅子に座った。雨のザア、ザアという音と扇風機のゴオ、ゴオ、という音が広がる空間は存外に居心地が良かった。
女は目を瞑った。
キイ、ンという音がし始めたころ、トスン、という音が右から聞こえた。誰かがやってきたようだ。
女は目を開けた。
赤い髪の頬のこけた青年が黒いシミの滲んだパーカーを着て立っていた。
女は声をかけた。
「きみ、きみ。ご飯はたべているのかい。」
男は黒い目を女に向けると、眦を緩めて答えた。
「ああ、これは、これは寮母さん。ええ。大丈夫ですよ。ご飯は食べています。ただ最近はメルヒェンの女が彷徨いているでしょう。寝られなくて、この有り様です。とても、とても、恐ろしいんですよ」
女は頷いた。
「ああ、そうかい。食べているならよかったよ。」
女はにこり、と男に微笑んだ。
赤い髪の男はぺこり、ぺこり、としきりに頭を下げると左の出口に向かって歩いていった。
女は目を瞑った。
女が次に目を開けたのは、目の前からドスン、という音がしたからだった。
灰色のところどころに黒いシミのあるパーカーを着た男が大きな黒い袋をもって女の前に立っていた。
男はふう、ふうと息をきらしていた。
女が手で示すと、男は頭を下げると、女の向かい側にある長椅子に黒い袋を丁寧に置いて、腰掛けた。
「ありがとうございます。寮母さん。にしてもこんなところで目を瞑るなんてお疲れですか?」
男は黒のぐりぐりとした目を女に向けて尋ねた。
「いいや。ちがうよ。光が眩しかったんだ。」
男は大笑いした。
女は少しだけ首を傾げたが、にこり、と微笑んだ。
男はしばらくして、女に向き直った。
「これは、これはすみません。久方ぶりに聞いたもので。いいえ、失礼でしたね。すみません。…ああ、寮母さん。気を悪くしないでください。そういえば、これは知っていますか。メルヒェンの女が夜に彷徨いているっていう話は。」
女は頷いた。とても恐ろしい存在だ、と。
「実はですね。ここだけの話。これが効くらしいんです。私、とても怖くて、怖くて、眠れないんです。ですが、これがあるととても気分が落ち着くんですよ。そうだ。お詫びに寮母さんにも一つ差し上げますよ。メルヒェンの女がいてもこれがあれば寝られます。さあ、さあ、どうぞ。」
男は女に黒い液体を差し出した。
たっぷりと黒いなにかが入ったペットボトル。ラベルには消費期限のような数字が書かれているだけ。男は女をぐりぐりとした目で見ながら、ペットボトルを近づけてくる。
女は目の前の黒い液体をじっくりと眺めてから、そっと受け取った。
「ありがとう」
男は満足そうに微笑むと、足早に去っていった。左の出口だった。
女はまた一人になった。目の前には黒い液体の入ったペットボトル。まるで光を取り込むようにそこにじっと立っている。
部屋にはゴオ、ゴオ、と扇風機の音が響いていた。
女はまた目を瞑ると、ふと考えた。
メルヒェンの女ってなんだ、と。
赤髪の男もぐりぐりとした目の男も恐ろしい、眠れないと言っていた。でも、なんで恐ろしいのだろう。
女はしばらく考えていたが、分からなかった。
女はしばらくじっと考えていたが、頭がふつふつとしてきたので考えるのをやめた。目の前にある黒い液体をじっと眺めた。
液体はしっかりと密封されており、ゆらしても溢れることはなかった。ふっても特に変化はない。よく見たら黒い液体は茶色の液体だった。光に照らすと茶色く見えた。てらり、てらり、と光を吸い込んでいる。
とても、美しかった。
女の前に一人の黒い髪の女が座っていた。赤いワンピース。ひらひらしていて可愛い。
「こんばんは。その服とても可愛いですね。」
女は気づくとそう話しかけていた。
黒髪の女はじっとこちらを見ていた。その瞳はどこまでも深い、深い黒だった。
ジジジ、という音がした。古い電球がチカリ、チカリと点滅していた。
女は、ふと、そのどこまでも深い黒に黒い液体を見出した。その黒はたとえ用もないほど深い黒だった。集まっては、揺れて。見る場所によってその色は異なる黒。甘い果実のような甘味を感じた。その黒は女にどこか古い郷愁の念を抱かせた。女はなんとなく、黒い液体の入った飲み物をその黒髪の女に差し出した。
黒髪の女のワンピースがひらり、はらり、と翻った。
その影に、ヒュイと引き上がった口元を見た気がした。
女の視界はだんだんと暗く、黒く、染まっていった。
ふいに目覚めた。
ここはどこだろう。
ああ、学寮事務室だ。
仕事をしなければならない。
…なにかが変わった気がした。
だが女にはもうそれが何かを思い出すこともできなかった。目の前の机を見た。数枚の資料。隣に棚が一つ。黒い棚。そこには透明なペットボトルが一つ、入っているだけだった。
初投稿です。寛大な心とどこまでも大地のように広がる優しさをもつ方が読んでくださっていると思います。ありがとうございます。




