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神の定め置いたもとに

作者: 鱈井 元衡
掲載日:2026/04/11

 マンスールは軒下で落日に怯えていた。

 キリスト教徒の軍勢が、いずれこのマラガあたりにも押し寄せてくるかもしれないという脅威が現実味を帯びていたからだ。

 かつては、このイベリア半島の南岸は最もキリスト教徒の王国から遠い地域だった。かつては半島のはるか北部にまでモスクが立ち並び、アラビア語による神への賞賛が聞こえたものだが、今ではもう、イスラームの新月しんげつの力は南の細長い地域にかすかに命脈を保つに過ぎない。

 マンスールは、よりによってこのような終わりの時代に自分の生を置いた神の冷酷さを呪いたかった。

 かつて、まだムスリムがこの地で栄えていた時、カリフの侍従として権勢をふるい、北のキリスト教徒に何度も強襲をしかけおそれおののかせたイブン・アビー・アーミルの称号と同じ名前であることが何となく恥ずかしかった。


 なぜ異端者が勝ち誇り、真正の教えを守る我々が撒けているのか。理由は明白。時代が変わったからだ。

 ムスリムは同胞すら信用できず、互いに分裂し、ほとんど団結することができなかった。そしてその隙をついて彼らは進撃し、少しずつ形成を逆転させていったのだ。

 アンダルスにおいて信仰が政治的利害に勝ったことなど一度もない。

 ムスリムであっても、キリスト教徒と組むことなどいくらでもあるし、その逆も然り。

 かつて、人々が生き永らえるための指針と言えば、常に打算であった。

 だがその打算も、両陣営が逆転し、もはや元に戻らないことが誰の目にも明らかになった今、狂信にとってかわった。

 キリスト教徒たちはもはや信仰の名において異教徒を海に蹴落とすことに容赦がないように見える。

 そしてムスリムの方は、自分たちは負けた、などと公然と認められるわけがない。何としてでも、自分自身を優越した者だと思わずにはいられない。

 もはや、ムスリムであること、キリスト教徒の王の支配にいないということだけが彼らにとっての誇りだった。


 マンスールは、麦の収穫の続きをやってから、しばらく寝ることにした。

 何軒か通り過ぎた時、空き地の火の元で数人が険しい口調で話し合っている。

「やむを得ないだろう……彼らの要求を呑んで、大人しく従うしかない」

「とんでもない! 俺は最後まで戦うぞ!」

 相手は激しくしわを寄せて、憤った。

「イエスを神の子だとほざく連中の元で、のうのうと過ごしている奴らの仲間になれというのか。あいつらの醜態を見ろ! それどころか、預言者の教えを捨てて十字架を手に取った背教者さえいるんだ!」

 この村の中では年長であるアリーが言った。

「同胞の海賊たちが沿岸のキリスト教徒の村を襲撃してくれることに期待するしかないぞ……」

 それを考えればいいだけではないか。

 それなのに、マンスールは、いつの間にか自分がこの世の不条理とか、狂信者への憎悪に満ち溢れていることに気づき、慄然とする。

 いや、誰もがここでは異教徒や同宗の内通者への恨みつらみにまみれているのだ。実際には存在もしない、霧のような敵への! 本当は誰もが本能のままに荒れ狂っているだけなのだ。何か計算ずくめの悪意に基づいて行動しているわけではないのだ。

 神がそのように定めたのだ、と言い聞かせるのだが、やはり存在しない敵への憎悪に駆られざるを得ない。誰も責めることができない状況にあっては。


 暴力が止むことはなかった。キリスト教徒の騎士が来襲することもあるし、逆にムスリムの兵士が往来することもある。

 毎日が危険と隣り合わせ。ここでは民間人と戦士の区別など曖昧なものだ。危険にさらされた時には誰もが武器を取って戦う覚悟がある。

 そしてそんな日々の中で誰もが疲弊していった。

 知人の一人はマッカ巡礼に行ったきり帰ってきていない。命の保証などない危険な旅路であるし、ましてや戻ったところで人生に何かあてがあるわけでもない。

 しかし、苦しめられるのはいつも末端の庶民なのだ。そこには信仰の違いなど問題にならない。


 マンスールは故郷に対する愛着を、捨てるべきかではないかと迷っていた。ここにいても、どうせ将来がないのだ。さっさとこの国を去ってアフリカの方に渡り、できればチュニジアあたりにまで逃れたいと思っていた。実際、キリスト教徒の王にぬかずくことをよしとしない者たちはみなそうした。

 昔からこの村はそうだ。だが、都市はこのような戦乱の中にあって栄え続けている――グラナダを訪れた時にフサインが語ってくれたことだ。

 辺境の村がひたすら戦火を恐れている中、グラナダではまだ水車が回っているそうな。キリスト教徒たちはそれを大々的に破壊することはないだろう。そこに宮殿があり、政治の中心である以上、占領した後もそのまま利用するつもりなのだろう。だがこのようなどうでもいい村などは、どうなるか分からない。

 この村の周辺にもキリスト教の聖堂がまだ存在していた。長い間放置され、そろそろ朽ち果てようとしていたが、決して叩き壊そうとする者はいない。狂信者とは思われたくないからだ。これほどまでに荒れ果てた世界であるからこそ、自分たちだけでも人間としての理性を保っていたい。

 どうせ、この大地がかつてのような栄光を手にすることは二度とないのだから。誰も彼もが刹那的な憎しみに駆られるばかりだ。宗教の違いに限らず。

 星々は、永遠に姿を変えることなく人間界を見下ろしている。


 そのまま群衆を通りすがろうとすると、そばからうめき声が聞こえてきた。

 マンスールがよく見ると、それは人だった。

「おい、どうしたんだ!」

 火をかざすと、男は北の方の服装をしていた。

 水をふくませると、やや男は息を吹き返した。だが、どうやら深手を負っているらしく、声はかすれている。

「アブドゥルマリクと申します。キリスト教徒です」

「キリスト教徒だと?」

 その正体を知って、誰もが唇をとがらせる。

「カスティリャの回し者だろう、捨て置け」

「いや、こんなにせめて最後は丁重に看取るべきだ」

 このような荒れ果てた地においても、男たちはまだ品性をかろうじて残していた。

マリクだと? それは唯一の神か、それともイエスか」

 男は壁際に寄せられ、上半身を立てかけられた。

 彼の顔には、若いはずだが、それでも目元には十年以上生きたかのような、異様なしわがあった。

 アブドゥルマリクは言った。

「確かにキリスト教徒です。しかし、カトリックの信徒ではありません。私は、北のキリスト教徒たちが攻めてくる前からずっとこの地でキリスト教を奉じていた、真の信仰者の末裔です」

 マンスールは、怪訝な顔をした。未だに、そんな連中がいるのか。

 キリスト教徒とムスリムの戦いが続くさなか、イスラームがこの地を覆う前からあった古い信仰は、もはや淘汰されてしまったのではないだろうか。

「だとすると、ムスタアリバか」

 かつて、イスラームの支配が続く中で、アラブ人の文化や言語を取り入れたキリスト教徒たちのことだ。ムスリムにとっては、北のキリスト教徒に比べより同胞と呼べるが、だからこそ厄介な隣人でもある。

「はい。西ゴート王国から続く儀式をずっと、守り続けていました。たとえアミールからどれだけ虐げられようと、私たちはイエスの再臨を信じ、決してイスラームに改宗などしませんでした」

 アブドゥルマリクの声に、誇りを守り切れなかった悲しみがにじみ出ていた。

「私も、父祖伝来の信仰をただ守りたかっただけなのです。しかし、権力者たちは皆、カトリック教会への改宗を求めた。同じキリスト教徒であるにも関わらず、アラビア語の詩歌や、アラビア語の名前を付けているというだけの理由でそれらを捨てることを命じました」

「キリスト教徒は、そこまで頑固な連中なのか?」

 マンスールは尋ねた。

「彼らは異教徒ですが、彼らの言語と文化に触れ、今ではそれと分かちがたいほどに一体化してしまいました。もはやそれ以前のキリスト教徒には戻ることができず、かといって異端のキリスト教徒に落ちぶれることもできない。ですから、私は全てに絶望してしまいました」

 この男は正気を失っていると誰もが思ったが、しかし本気なのは間違いないとも思った。

 アブドゥルマリクの境遇は、男たちとは全く別のものだが、それでもその心底にある感情は、確かに通じ合う物があった。

 ここにいる誰もが、遠くにやって来た者の末裔なのだ。

 中には、ずっとアラブの性質に染まった原住民もいるかもしれない。だがどちらにしても、ここでは確かに誰もがアラブだった。

 キリスト教徒が信仰を保ったままアラビア語を話し、ムスリムとそこまで変わらなくなっていくのは、珍しいことでもなかった。

 そうやって似ているにもかかわらず違う存在がある――ということで、ムスリムは彼らを時に排撃し、そのたびに彼らは北のキリスト教徒の王の元に逃げ延びたのだが、そこでも彼らは安息を手にすることはできなかったのか……。誰もが、完全な神に対する人間の醜さに、改めて嘆きを深めた。

「この民族の性質を捨てるくらいなら、いっそこのアラブの中に骨をうずめた方がましなくらいなのです。故に、もはや誰にも言わずにここまで逃げて参りました。しかし追手に手傷を負わされ、もはやここで……」

 すでに、彼らに不審な感情や敵意はなかった。自分たちも、いずれ彼のような末路を迎えるかもしれないと思えば、異教徒だからといって邪険に扱うなどできるわけはない。ここは、ひどい場所だが、だからといって心までひどくできるほど失ってはいなかった。


 年長の男がアブドの体に手を当てて、言った。

「残念だが、傷が深いようだな。もってあと数日だろう」

「私はやはり、神と共に歩みたい……あの十字架も、もはや私の心に光をもたらしてはくれない……」

 声がかすれてはいるが、激しい感情の荒波が確かに感じ取れた。

 このキリスト教徒は、よほど長い旅路を歩いてきたに違いなかった。

 一体、どれだけの人間にその信じ、保つ所を馬鹿にされてきたのだろう。

 この逃亡者は、ずっと孤独の中を生きてきたのだ。どこにも安全な場所を見いだせず、誰からも迫害された。

 そして、自分自身の奥深くに置いていた支柱すら、打ち崩されていった。その果てに、自分自身であるために必要な、決して捨ててはいけないはずの信心すら、摩耗してしまった。

「あいつらが憎いか」

「私が憎んでいるのは……人間その物です。神は完全であるにも関わらず、人間はその完全さを理解することができず争い合うのですから」

 もはや彼は、神その物を否定したがっているのではないだろうか。

 実際、その口ぶりからして、神を呪っているに違いなかった。しかし、そんなことを言えば今度こそ誰からも相手にはされなくなる。それがこの世界の掟だ。

 では、その恨みはどこに向かうのか。

 アブドは、最後の力をふりしぼって、

「彼らに対する恨みしか今の私にはありません。私は、この世界の残酷さに絶望したのです。その絶望で、私はもはや神をも畏れぬ行動を取ろうとしている。しかし、全能の神の力で、私はそれをするように導かれた……」

 その瞳に、にわかに光が灯った。

「私は、あなたたちの元に下りたい。信仰を改めたいのです」

 誰もが顔を見合わせていた。

 この男は、このためだけに故郷を捨てたというのか。

 もはや、この男が憎しみで動いていることは明白だった。

 もはや理性で動いているとは思えなかった。

 だが、神がそのように定めているならば、人間の方から無理やり曲げるわけにはいかないだろう。

 アリーが立て膝をついて、横からささやいた。

「信仰告白を言え」

 背教者はしばらく黙っていた。信仰を改めることに躊躇があったか、あるいは全てをどうでもよいと思うのに時間を要したからか。

 表情はよく分からなかったが、その声は穏やかだった。

「アッラーの他に神はなく、ムハンマドは神の預言者である」

 アブドは、そう言った後に、静かに目を閉じた。


 彼について、無論マンスールたちはほとんど何も知らない。突然やって来て、すぐにこと切れてしまった人間の話について、どれだけのことが事実だと言えるものか。

 しかし、アブドゥルマリクの言葉が嘘だとは思えなかった。彼の狂気が湧いて噴き出す奥底にあるものを、自分もまた共有しているとマンスールには理解できた。

 アリーは言った。

「我々の同胞だ。丁重に葬ってやれ」

 これで勝ったつもりか?

 マンスールもムスリムのはしくれとして、最終的なイスラームの勝利を疑ってはいなかった。だが、それはあくまで長い時間の中でのことだ。ここ数十年、数百年の尺度の中では、この地にぽいて彼らは敗北しているのだ。

 これは、歴史の終わりだ。もはやこの地で新しくイスラームに入信する者はもう二度と現れないだろう。

 向こうで、キリスト教に改宗した人間をなぜ責められるだろうか。もはやここは異教の地となってしまった。

「向こうではきっと我々の信仰を捨てた奴らが洗礼を受けて死んでいるのだろうな……」

「そうしていないだけ、俺たちはまだましだ」

「だから何だというんだ? 奴らと俺たちと間にあるのは、軍事力と経済力の差だけだ。信仰の違いがそこに何の影響を持つんだ」

 そう言われた者は一瞬むっとしたが、しかし大勢と同じように悄然とした顔に戻った。

「スルタンは、我々を見捨てるに違いない」

 アリーは言った。

「グラナダは丁重に扱われるだろうよ。だが俺たちはもはや捨てられる運命だ」

 誰もは沈黙を守っていた。マンスールは言った。

「誰もが、捨てられるんだ。ここにある古い伝統の何もかもがな」

 敵が、この地を併呑する。かつてこの地がキリスト教徒たちのものだったことを思えば、かつての歴史に戻っていくというべきか。だがそれだけか?

 いずれ、巨大な災厄が起きそうな気がした。それが何かは、マンスールにはよく分からない。だがきっと、多くの人間を巻き込む何かが。

 星々は、今も昔も変わらず、この国の乾いた大地を照らし続けている。

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