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語り部と光の少女

 タウル・アル=ヒクマは、王都のどこからでも見えた。

 けれど、だれ一人として、そこへたどり着いた者はいない。

 風に溶ける蜃気楼のように、近づけば遠のき、遠のけばまた現れる――不思議の塔。


 その塔の主となって久しいのが、サハルである。

 地下深くに眠る“月との契約”を果たした聖女は、彼の姉とも、あるいは曾祖母とも語り伝えられている。

 塔に住まう彼は、気の遠くなるような時間を過ごしているが、

 自らがここで暮らしはじめたのが昨日だったのか、それとも一週間前だったのか――その境は曖昧だった。


 なぜなら、この塔の中では、時の流れが必ずしも不可逆ではない。

 ときに戻り、ときに進み、ときに重なりあう。

 だから、普通の人がこの塔に辿り着けぬのも、当然のことだろう。


 けれどその日、不思議の塔に、ひとりの客人が訪れた。



 「……こんにちは。塔のひと」


 声が玻璃の壁を渡り、静かに揺れた。

 サハルはその響きが、塔のどの“時間”にも属していないことに気づき、

 ほんの少しだけ眉を上げた。


 「こんにちは。どうしてここまで来られたのか、

  君自身はわかっているのかな?」


 少女はかすかに首を振った。

 光が髪の縁を沿うように走り、

 その瞬間、サハルは彼女の名を知らぬまま、

 塔の外の風が彼女を運んできたのだと理解した。


 「わたし、イルナ。

  文字……ほんとうの文字を見たかったの」


 その言葉が玻璃室の透明な壁に触れたとき、

 光がひとしずく揺れて、

 塔の階層がすこしだけ位置を変えた。


 それは塔が、彼女の来訪を“了承した”合図だった。

 サハルは掌を静かに掲げ、宙に文字を描く。

 淡い光の線がほどけ、空気の層を渡っていく。


 「――文字とは、形に宿る祈りです。

  祈りが正しければ、線は消えずに世界を照らす。

  君がそれを見たいというなら、塔もまた、応えるだろう」


 イルナは目を細め、

 ゆっくりとその光の文字に手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、

 塔の内壁に、幾千もの文字が目を覚ます。

 光が流れ、音が生まれ、

 塔そのものが語りはじめた――。


 イルナは鏡のそばに腰をおろし、

 玻璃室に満ちる光を、ひざに受けるように眺めていた。


 サハルは、少女のまわりで時間がふわりと沈むのを感じた。

 塔が話を聞こうとしている――そんなふうに思えた。


 「イルナ。

  文字はね、むかし、もっと賑やかだったんだよ」


 少女が目を上げる。

 サハルは、鏡の皓月に視線を預けたまま、静かに続けた。


 「最初は、魔道文学の時代だった。

  書き手を持たない文字があってね、

  頁を開けば、勝手に物語が流れ出した。

  息をするように、世界中へ広がっていったんだ。

  人はそれを“便利”だと言い、

  同時に“魂を奪う書”とも呼んだ」


 イルナは小さく息をのんだ。

 サハルはその反応を受け取り、声色をすこしだけ柔らかくした。


 「それを怖がる人たちがいてね……

  彼らは“もっと純粋な言葉を”と願った。

  そうして、有機文学の時代が来る。

  鉄の筆は祈りを曇らせると言われ、

  木の枝や風の跡で書くことだけが許された」


 塔の壁がわずかに鳴った。

 時間が、話の重さに合わせて移ろっていく。


 「でも、人はだんだん極端になってしまう。

  やがて、有機文学は“触れない言葉”へ変わり、

  世界を傷つけぬようにと願った末、

  ヴィーガン文学が生まれた。

  紙も粘土も葉さえも使わず、

  光と影だけで、読む人の心に文字を描いた時代」


 イルナは、玻璃室の床に落ちる影を見つめた。

 影がゆっくりと呼吸しているように見えた。


 「そして……

  その影さえ、世界を縛ると言われた。

  それが、エクストリーム・ヴィーガン文学の時代。

  文字に触れることが罪とされ、

  書くという行為そのものが

  “世界への暴力”になると恐れられていた」


 イルナは目を伏せた。

 サハルは、少女を傷つけまいと

 語りの温度をすこしだけ下げた。


 「けれどね。

  不思議なことがあったんだ。

  書くことが禁じられても、声は止められなかった。

  そうして最後に残ったのが、口伝文学の時代。

  言葉は再び、人の声を宿して歩きだした」


 風が玻璃室をめぐり、鏡の上の皓月がひとつ揺れた。


 サハルは、ゆっくりとイルナを見る。


 「だから、イルナ……

  君が“書いてみたい”と思うのは、

  ずっと昔からある願いなんだよ。

  世界を傷つけるかもしれないと恐れながら、

  それでも誰かに届いてほしいと願う気持ち。

  それこそが、文字を生んだ最初の祈りなんだ」


 イルナは何も言わなかった。

 ただ、膝の上に落ちる光をじっと見つめていた。

 その瞳は、塔の時間よりも静かだった。


 しばらくして、少女はそっと顔を上げた。


 「……じゃあ、サハル。

  ひとつだけ、聞いてもいい?」


 「うん。なんでも」


 イルナは胸のあたりで両手をぎゅっと握り、

 言葉を探すように、少し長い沈黙をおいた。


 そして――


 「どうして……書いたらいけないの?」


 その問いが玻璃室の壁に触れた瞬間、

 塔の時間がひとつ震えた。


 サハルは、答えられなかった。

 少女の問いの方が、あまりにも正しかったからだ。


 沈黙のあと、塔は静かに息をした。

 玻璃の壁に薄い亀裂が走り、そこから光が滲みだした。

 まるで塔そのものが、イルナの問いに応えようとしているかのようだった。


 サハルは掌をひらき、その光の糸を受けとめる。

 指先でたぐるたび、光は言葉に変わってゆく。


 「――書くことは、世界を固定してしまうんだ」


 声が細く震える。

 「流れるものを、留める。

  生まれたばかりの祈りを、名に縛る。

  だから古の聖女たちは、書を“封印”と呼んだ」


 イルナは、塔の壁に流れる光の文字を見つめた。

 ひとつの線が消えるたび、どこかで小鳥の羽音がした。


 「けれど、それでも書いたんでしょう?」


 「ええ。人は忘れる生き物だから。

  祈りを残すために、名を落とす。

  名を落とすことで、ようやく明日へ進める」


 サハルは鏡に歩み寄り、皓月に触れた。

 その指先から、淡い蒼光が溢れる。


 「この塔の下には、“書かれなかった物語”が眠っている。

  誰かが書かなかった言葉。

  届かなかった手紙。

  伝えられずに消えた祈り――。

  それらはすべて、まだ光になるのを待っているんだ」


 イルナの胸の奥で、なにかが小さく灯った。

 言葉にする前に、涙がこぼれる。


 サハルはその涙を見て、微笑んだ。

 「書いてごらん、イルナ。

  その涙の形でいい。

  それは、世界を傷つけない“やさしい文字”になる」


 少女は頷き、玻璃の床に指をのばした。

 光がその跡をなぞり、言葉がひとつ、生まれた。


 ――「赦し」。


 塔が、静かに鐘を鳴らした。

 その音は遠い夜の砂漠にまで届き、

 眠る月の瞼を、やわらかく震わせた。


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