第17話 千個の約束
商談は新たな展開へ。
マーカスが用意していたのは、想像を超える規模の支援でした。
最高級の材料、最新の設備、そして技術学校の構想。
三ヶ月で千個——それは小さな工房にとって、途方もない挑戦です。
しかし同時に、F級の人々に希望を届ける千個の約束でもありました。
「さて」
マーカスが満足そうに手を叩いた。その音が、温かな雰囲気に満ちた応接室に響く。
「詳細を詰めましょう。理念の共有は済みました。今度は、現実的な計画を」
商人の顔が少し戻ってきたが、それは以前の冷徹なものではなく、真摯なビジネスパートナーとしての表情だった。彼は新しい羊皮紙を取り出すと、そこにすらすらと数字を書き始めた。
「三ヶ月で千個」
ペンが滑らかに動く。インクの跡が、具体的な未来を描き出していく。
「これが最初の目標です。現在の生産能力から考えると、大幅な拡張が必要になりますが——」
「一日十個以上」
リゼが素早く計算した。彼女の眉間に、考え込むような皺が寄る。風の魔法で物を動かすことはできても、それを千個も作るとなると、全く別の次元の話だった。
「今の設備では、到底無理ね」
「だからこそ」
マーカスが立ち上がった。その動作には、これから見せるものへの自信が満ちていた。
「実際に見ていただきたいものがあります。口で説明するより、その方が早いでしょう」
四人は顔を見合わせた。マーカスの言葉には、何か大きな準備が整っていることを示唆する響きがあった。
◆◇◆
商人ギルドの地下へと続く階段は、思いのほか長かった。
石造りの壁には一定間隔で魔法の灯りが設置され、階段を明るく照らしている。下へ行くほど空気がひんやりとしてきたが、それは不快なものではなく、むしろ貴重品を保管するのに適した環境であることを示していた。
「商人ギルドの地下倉庫は、王都でも有数の規模を誇ります」
マーカスが先頭を歩きながら説明した。その声が石壁に反響し、不思議な重みを帯びる。
「温度と湿度は魔法で一定に保たれ、最高級の商品も劣化することなく保管できます。セキュリティも万全です」
確かに、要所要所に衛兵が配置されているのが見えた。彼らは訓練された動きで一礼すると、マーカスたちを通した。その際、カイトたちを見る目に、わずかな好奇心が混じっているのが分かった。
やがて、巨大な扉の前に到着した。
鉄で補強された樫の扉は、まるで城門のような重厚さだった。マーカスが懐から鍵を取り出すと、複雑な紋様が刻まれた鍵穴に差し込んだ。
重い音を立てて扉が開くと——
「これは......」
ハーゲンが息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、まるで地下都市のような光景だった。天井は驚くほど高く、整然と区画された空間に、様々な商品が山のように積まれている。しかし、マーカスが案内したのは、その一角に特別に設けられたスペースだった。
「技術開発用の特別区画です」
マーカスが誇らしげに言った。
「ここをご覧ください」
最初に目に入ったのは、材料の山だった。
上質な鉄鉱石が、まるで小山のように積み上げられている。その表面は銀色に輝き、不純物の少なさを物語っていた。北方の鉱山から直送されたという説明通り、最高級品であることは一目で分かる。
「触ってみてください」
マーカスの促しに、ハーゲンが恐る恐る手を伸ばした。
鉄鉱石を手に取った瞬間、老職人の表情が変わった。長年の経験で培われた感覚が、この素材の素晴らしさを即座に理解したのだ。重さ、質感、そして微かに感じる鉄の純粋な気配——すべてが一級品であることを示している。
「素晴らしい......」
ハーゲンの声は震えていた。まるで、長年追い求めていた理想の素材に、ついに出会えたかのような感動がそこにあった。
「これなら、今まで以上に精密な部品が作れる。強度も、耐久性も、格段に向上するはずじゃ」
「硬木もご覧ください」
マーカスが別の一角を示した。
そこには、見事な樫の木が整然と積まれていた。一本一本の年輪が密に詰まり、加工に最適な硬さと粘りを持っている。東方の原生林で百年以上かけて育った木々だという。
エドガーが一本を手に取り、その重さを確かめた。
「これは......王立工房でも、なかなか手に入らない品質だ」
商人としての彼には、この材料の市場価値が分かる。それは、小さな工房では到底購入できない高級品だった。
「量も十分です」
マーカスが胸を張った。
「千個どころか、その倍を作っても余裕があります。継続的な供給も保証しましょう」
しかし、材料だけではなかった。
「そして、こちらが新しい設備です」
マーカスが案内した別の区画には、真新しい工具と作業台が整然と並んでいた。
金床、万力、精密やすり、測定器具——どれも職人が夢見る最高級品だった。金床は純度の高い鋼鉄で作られ、叩いた時の音の響きが違う。万力は精密な螺子構造で、微細な調整が可能。やすりは様々な粗さが揃えられ、どんな細かい加工にも対応できる。
カイトが測定器具を手に取った。
それは、彼が設計で使っていた古い定規とは比べ物にならない精度を持っていた。目盛りは極めて細かく、わずかな誤差も許さない。これがあれば、設計図通りの部品を確実に作ることができる。
「作業台も特注品です」
マーカスが大きな作業台を撫でた。
頑丈な樫の木で作られたその台は、長時間の作業にも耐えられる設計になっている。高さは調節可能で、それぞれの職人の体格に合わせられる。表面は滑らかに研磨され、細かい作業にも適していた。
「これだけの設備があれば......」
リゼが感嘆の声を上げた。魔法使いである彼女にも、これらの道具の価値は理解できた。
◆◇◆
「ただし」
マーカスの声が、興奮していた四人を現実に引き戻した。
「設備と材料だけでは、千個は作れません。人が必要です」
確かにその通りだった。どんなに良い道具があっても、それを使いこなす職人がいなければ意味がない。
「でも、F級の職人を千個も作れるほど集めるのは......」
エドガーが現実的な問題を指摘した。
F級の職人は存在するが、多くは日雇いの単純作業に従事している。技術を持った職人となると、さらに数は限られる。
「その点も考えてあります」
マーカスが微笑んだ。それは、商人として最も得意とする部分に話が及んだ時の、自信に満ちた笑みだった。
「分業です」
「分業?」
カイトが聞き返した。
「そうです。一人が最初から最後まで作るのではなく、工程を分けるのです」
マーカスは羊皮紙を取り出し、簡単な図を描き始めた。
「材料の切り出し、粗加工、精密加工、組み立て、検査——それぞれを別の人が担当する。簡単な作業から始めて、徐々に技術を身につけてもらう」
なるほど、とカイトは頷いた。それは革新的な発想だった。
「つまり、高度な技術を持たない人でも、一部の工程なら担当できる」
「その通りです」
マーカスの目が輝いた。
「そして、ここで重要なのが、先ほど提案した技術学校です」
マーカスは立ち止まり、四人を真っ直ぐに見つめた。
「単なる労働力ではなく、技術を学び、成長する機会を提供する。それが、持続可能な生産体制を作る鍵です」
◆◇◆
「技術学校ですか」
カイトが慎重に言葉を選んだ。それは彼らも密かに夢見ていたことだったが、実現には多くの障害があることも理解していた。
「はい。商人ギルドの施設の一部を提供します」
マーカスは地下倉庫の別の区画を指差した。
「あの辺りを改装すれば、十分な教室と実習場が確保できます。商人ギルドは中立地帯ですから、魔導師団も直接的な干渉はできません」
リゼが懸念を示した。
「でも、生徒は集まるでしょうか?F級の人々は、希望を失っている人も多い......」
「最初は少人数でも構いません」
マーカスの声には、確信があった。
「私の息子も、必ず入学させます。商人ギルドの会長の息子が通うとなれば、他の商家の子供たちも興味を示すでしょう」
確かに、それは大きな影響力を持つだろう。商人たちの間で技術教育が認められれば、社会的な認知も広がっていく。
「カリキュラムは?」
ハーゲンが実務的な質問をした。
「それは、あなた方にお任せします」
マーカスは謙虚に頭を下げた。
「私は商売は分かりますが、技術教育については素人です。専門家であるあなた方が、最適なプログラムを作ってください」
カイトは仲間たちと顔を見合わせた。それぞれの表情に、期待と不安、そして決意が混じり合っている。
「基礎から始めましょう」
カイトが口を開いた。
「最初は、簡単な機構の原理を学ぶ。歯車がなぜ回るのか、滑車がどうやって力を増幅するのか。理論と実践を組み合わせて」
「実習は実際の製品作りと連動させる」
エドガーが提案した。
「学んだことをすぐに活かせれば、モチベーションも維持できる。そして、作った物が実際に売れて、誰かの役に立つところまで見せる」
「安全教育も重要じゃ」
ハーゲンが付け加えた。
「道具の正しい使い方、怪我をしない作業方法。技術者としての基本的な心構えも教えなければ」
「女性の生徒も歓迎したいわ」
リゼが提案した。
「精密な作業は、むしろ女性の方が向いている場合もある。F級の女性たちにも、新しい可能性を示したい」
議論は熱を帯びていった。
それぞれが持つ知識と経験を出し合い、理想の技術教育の形を描いていく。マーカスは満足そうにそれを聞いていた。
「素晴らしい」
マーカスが感嘆の声を上げた。
「これこそ、私が望んでいたことです。単なる職業訓練ではなく、人を育てる教育」
彼は懐から小さな袋を取り出した。中には金貨が詰まっている。
「開校準備資金です。教材の購入、設備の準備、何でも使ってください。授業料は無料とすることは、既にお伝えした通りです」
カイトはその袋を受け取りながら、責任の重さを感じた。これは単なる金ではない。マーカスの、そして多くのF級の人々の希望が詰まっている。
「必ず、期待に応えます」
カイトの声には、静かな決意が込められていた。
◆◇◆
「では、具体的な生産計画に戻りましょう」
マーカスが実務的な話題に戻した。商人としての顔が前面に出てきたが、それは信頼できるパートナーとしての表情だった。
「三ヶ月で千個。しかし、品質は絶対に落とさない。これが条件です」
「分業システムを使えば可能です」
カイトが自信を持って答えた。
「ただし、最終的な品質チェックは、必ず熟練者が行う。ハーゲンさんを中心に、品質管理体制を作ります」
「各工程の責任者も決めましょう」
エドガーが提案した。
「材料管理、加工工程、組み立て、検査——それぞれに責任者を置いて、全体を統括する」
「週次で進捗会議を」
リゼが付け加えた。
「問題があれば早期に発見して、対策を打つ。千個という数字に振り回されて、品質を犠牲にしては意味がない」
議論は具体的で建設的だった。
マーカスは時折質問を投げかけ、商人としての視点から助言を与えた。販売時期の調整、在庫管理の方法、輸送手段の確保——実務的な知識が、計画をより現実的なものにしていく。
「最初の一ヶ月が勝負です」
マーカスが締めくくった。
「生産体制を確立し、品質を安定させる。そこさえクリアすれば、後は軌道に乗るでしょう」
カイトたちは頷いた。
確かに大きな挑戦だが、不可能ではない。むしろ、これまでの小規模生産では見えなかった、新しい可能性が開けてきた気がした。
「一つ、お願いがあります」
マーカスが少し改まった口調で言った。
「私の息子に、個人的に技術を教えていただけませんか?学校が始まる前に、基礎だけでも」
その声には、父親としての切実な願いが込められていた。
「もちろんです」
カイトは即答した。
「明日にでも、工房に連れてきてください。一緒に、簡単な物から作ってみましょう」
マーカスの顔に、心からの笑顔が浮かんだ。それは商人の計算された笑みではなく、息子の未来に希望を見出した父親の表情だった。
◆◇◆
商人ギルドを後にする頃には、すっかり夕刻になっていた。
西の空が茜色に染まり、商業地区には仕事を終えた人々が行き交っている。しかし、カイトたちの足取りは重くなかった。むしろ、新しい挑戦への期待で、自然と歩調が速くなっていた。
「信じられない展開だな」
エドガーが感慨深げに言った。
「朝は脅されるかと思っていたのに、まさかこんな協力関係になるとは」
「人は見かけによらないものね」
リゼも同意した。
「マーカスさんも、きっと長い間、息子さんのことで悩んでいたのでしょう」
ハーゲンは新しい設備のことを考えていた。
「あの道具があれば、わしの技術ももっと発揮できる。若い者たちに、本物の技術を教えられる」
カイトは仲間たちの言葉を聞きながら、これからのことを考えていた。
千個の滑車——それは途方もない数字だが、同時に千個の希望でもある。それぞれの滑車が、誰かの仕事を楽にし、生活を豊かにする。そして、それを作る過程で、多くのF級の人々が技術を身につけ、自信を取り戻していく。
「明日から忙しくなるぞ」
カイトが言った。
「新しい設備の搬入、人員の募集、生産計画の詳細化、そして学校の準備も」
「でも、楽しみでもあるわ」
リゼが微笑んだ。
「こんなに大きな挑戦ができるなんて、少し前までは想像もできなかった」
その時、通りの向こうから、見慣れた赤いローブが現れた。
アレクサンダー・クリムゾンだった。
彼は遠くからカイトたちを睨みつけていたが、今日は何も言わずに立ち去っていった。しかし、その後ろ姿には、明らかな敵意が滲んでいた。
「気をつけないとな」
エドガーが警戒するように言った。
「商人ギルドとの提携は、魔導師団を確実に刺激した。これからは、もっと激しい妨害があるかもしれない」
確かに、今日の成功は同時に新たな対立も生み出した。しかし、カイトは恐れなかった。
「一歩ずつ進もう」
カイトは前を向いた。
「敵が増えても、味方も増えた。そして何より、俺たちには明確な目標がある」
工房に戻ると、すでに最初の設備が届き始めていた。
マーカスの手回しの良さに、改めて感心する。新しい金床が慎重に降ろされ、作業台が所定の位置に設置されていく。それは、新しい時代の始まりを告げる光景だった。
「さあ、準備を始めよう」
ハーゲンが袖をまくった。
「千個の約束を果たすために。そして、もっと多くの人々に希望を届けるために」
四人は顔を見合わせて頷いた。
大きな挑戦が始まる。しかし、それは同時に、大きな希望の始まりでもあった。
商人の天秤は、今日、新しい均衡を見出した。そして明日から、その均衡の上に、技術という名の未来が築かれていく。
千個の滑車は、千個の約束。
その一つ一つに、F級の人々の尊厳と希望が込められることになる。
千個の滑車を作る。
それは単なる生産目標ではありませんでした。
分業システムの導入、技術学校の設立、そして多くのF級の人々に新しい可能性を示すこと。
マーカスの息子、ロバートにも技術を教えることになりました。
F級の少年が、自分の手で何かを作り、誇りを取り戻す第一歩。
しかし、アレクサンダーの姿も。
新たな挑戦には、新たな困難も待ち受けているようです。
次回、技術学校が動き出します。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。