第16話 商人の誇り
商人ギルド本部、特別応接室。
ゴールドファング商会の総帥、マーカス・ゴールドファングとの直接対面が始まります。
商業界の頂点に立つ男は、一体何を提案してくるのか?
独占契約という甘い罠、そして商人の威圧。
小さな工房の技術者たちは、巨大商会を前にどんな選択をするのでしょうか。
受付は扉を入ってすぐの場所にあった。
大理石のカウンターは一枚岩から削り出されたらしく、継ぎ目一つない滑らかな表面が、天井からの魔法照明を柔らかく反射している。その向こうには、きっちりとした身なりの受付係が座っていた。紺色の制服は一分の隙もなく整えられ、胸元には商人ギルドの紋章が金糸で刺繍されている。
「いらっしゃいませ」
受付係の声は訓練された職業的な響きを持っていたが、その目は訪問者を素早く値踏みしていた。服装、持ち物、立ち振る舞い——瞬時に相手の経済的価値を判断する、商人ギルドの門番。
「カイトと申します。マーカス・ゴールドファング様からご招待をいただきまして」
カイトが招待状を差し出すと、受付係の態度が一変した。
形式的だった微笑みが、本物の敬意を含んだものに変わる。背筋を伸ばし、両手で恭しく招待状を受け取った。封蝋の紋章を確認する指先が、わずかに震えているのが見て取れた。
「確認いたしました。ゴールドファング様は既にお待ちです」
受付係は立ち上がり、カウンターの横から出てきた。その動作一つ一つに、VIP対応の訓練が表れている。
「こちらへどうぞ。ご案内いたします」
長い廊下を歩き始めた。
両側の壁には、商人ギルドの歴史を物語る絵画が飾られている。初代ギルド長が王から特許状を受け取る場面、大陸間貿易の開始を記念する調印式、そして近年の経済発展を象徴する市場の風景——それぞれの絵画は、単なる装飾ではなく、商人たちの誇りと実績の証だった。
廊下は驚くほど静かだった。厚い絨毯が足音を吸収し、魔法による防音結界が外の喧騒を完全に遮断している。まるで、別世界に迷い込んだかのような感覚。
「失礼ですが」
案内人が歩きながら口を開いた。その声は慎重で、言葉を選んでいるのが分かる。
「技術、というものを拝見する機会はありますでしょうか。ギルド内でも大変な話題になっておりまして」
リゼが答えようとしたが、カイトが軽く首を振った。ここで不用意に情報を漏らすべきではない。
「機会があれば、ぜひ」
カイトの曖昧な返答に、案内人は賢明にもそれ以上追及しなかった。
やがて、一際大きな扉の前で立ち止まった。
黒檀で作られた重厚な扉には、金と銀で商人ギルドの紋章が象嵌されている。天秤の片方には金貨が、もう片方には羽根が乗っている意匠が、この扉では特に精緻に表現されていた。
「こちらが特別応接室でございます」
案内人が扉をノックした。三回、一定のリズムで。暗号のような規則正しさだった。
「どうぞ」
中から低い声が響いた。
扉が開かれると、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
◆◇◆
応接室というより、小さな宮殿のような空間だった。
天井は通常の二倍はあろうかという高さで、そこから下がる水晶のシャンデリアが虹色の光を放っている。床は市松模様の大理石で、白と黒のコントラストが幾何学的な美しさを生み出していた。
部屋の中央には巨大な円卓があり、その表面は一枚の巨木から切り出されたものだった。木目の美しさは芸術品の域に達しており、何百年もの歳月を経た古木であることが一目で分かる。
壁には世界各地から集められた品々が飾られている。南国の珊瑚で作られた彫刻、北方の毛皮を使った壁掛け、東方の精緻な陶磁器、西方の宝石をちりばめた装飾品——それぞれが、ゴールドファング商会の商圏の広さを無言で誇示していた。
そして、窓際の革張りの椅子に、一人の男が座っていた。
「ようこそ、技術の開拓者たち」
低く、よく通る声が部屋に響いた。それは威厳と親しみやすさを絶妙に混ぜ合わせた、計算された声音だった。
マーカス・ゴールドファング。
五十代半ばと思われるその男は、立ち上がると優雅に一礼した。
白髪混じりの髪は完璧に整えられ、一本の乱れもない。口髭も丁寧に手入れされ、銀色に輝いている。身に纏った深紅の絹の上着は、おそらく職人が数ヶ月かけて仕立てたもので、体に吸い付くように完璧にフィットしていた。
指には宝石が散りばめられた指輪がいくつも光っている。しかし、それらは成金趣味的な派手さではなく、一つ一つが由緒ある品であることを静かに主張していた。おそらく、それぞれに商談の成功や重要な契約の記念といった物語があるのだろう。
しかし、何より印象的だったのは、その目だった。
温和な笑みを浮かべた顔に、鋭い観察眼が宿っている。まるで、一瞬で相手の価値を見抜く天秤を、瞳の奥に持っているかのようだった。柔和さと鋭さ、親しみやすさと計算高さ——相反する要素が奇妙に調和している。
「お待ちしておりました。私がマーカス・ゴールドファングです」
男は歩み寄ると、まずカイトに向かって手を差し出した。その動作は自然でありながら、相手を値踏みする時間を作る計算も感じられた。
カイトが握手に応じると、マーカスの手は予想に反して硬かった。商人の手というより、実務をこなしてきた者の手。
「お忙しい中、お越しいただき感謝します」
マーカスは一人一人と握手を交わしていく。その際、それぞれの目を真っ直ぐ見つめ、相手の性格や考えを読み取ろうとしているのが分かった。
「どうぞ、お座りください」
マーカスが円卓を示した。既に飲み物と軽食が用意されており、銀の器に盛られた果物が宝石のように輝いている。
四人が着席すると、マーカスも対面の席についた。その位置は、窓からの光を背にして、表情を読みにくくする効果があった。さすがは百戦錬磨の商人、細部まで計算されている。
「さて」
マーカスが指を組んだ。その動作で、部屋の空気が変わった。社交的な雰囲気から、ビジネスの緊張感へ。
「まずは自己紹介から始めましょうか。私のことは既にご存知かもしれませんが」
マーカスは薄く微笑んだ。
「三十年前、父から小さな雑貨店を継ぎました。正直、最初は商売など向いていないと思っていましたよ。数字を扱うのは得意でしたが、人と話すのは苦手でしてね」
エドガーが身を乗り出した。同じ商人として、この成功者の話に興味を引かれたようだ。
「それが今では、王国有数の商会に。その変化の秘訣は?」
「簡単なことです」
マーカスの目が鋭く光った。
「価値を見抜く目を養うこと。そして、その価値を最大化する方法を考え続けること」
マーカスは立ち上がり、壁に飾られた古い絵画を指差した。
「あの絵をご覧ください。一見、ただの風景画に見えるでしょう?」
確かに、特に目立つところのない田園風景を描いた絵だった。
「しかし、これは二百年前の巨匠が描いた作品です。当時は評価されませんでしたが、私は違う価値を見出した。今では、購入時の百倍の値がついています」
マーカスは振り返ると、意味深な笑みを浮かべた。
「技術も同じだと思いませんか?今は理解されていないが、いずれ計り知れない価値を生む。違いますか?」
カイトは慎重に答えた。相手の真意を測りかねている。
「価値は、人々の役に立ってこそ生まれると考えています」
「素晴らしい」
マーカスが手を叩いた。しかし、その目は笑っていない。
「では、本題に入りましょう」
◆◇◆
マーカスは懐から羊皮紙を取り出した。
その動作は流れるように滑らかで、長年の商談で磨かれた所作だった。羊皮紙を広げる手つきにも、相手の注意を引きつける演出が含まれている。
「単刀直入に申し上げましょう」
羊皮紙の表面には、びっしりと数字が並んでいた。生産計画、販売予測、利益見込み——すべてが緻密に計算され、インクの一滴まで無駄がない。
「年間一万個」
マーカスが中央の数字を指差した。その指に嵌められた巨大なルビーの指輪が、血のような赤い光を放つ。
「まずは運搬用滑車システムを、この数量で独占契約したい」
リゼが息を呑む音が聞こえた。
一万個——現在の工房の生産能力では、到底不可能な数字。一日せいぜい5個が限界の現状で、年間一万個となると、実に20倍以上の生産体制が必要になる。
エドガーの顔色が変わった。商人として、この数字の持つ意味を即座に理解したのだ。それは、小さな工房が一夜にして大工場に変貌するような、途方もない飛躍を意味していた。
「もちろん」
マーカスは相手の動揺を見逃さなかった。すかさず続ける。
「生産設備の拡張費用は我々が全額負担します。新しい工房の建設、最新の工具の調達、すべてゴールドファング商会の投資として」
マーカスは別の書類を取り出した。そこには、詳細な投資計画が記されている。
「必要な職人も手配しましょう。王都だけでなく、地方からも腕の良い職人を集めます。宿舎も用意し、適正な賃金を保証する。原材料の調達ルートも既に確保済みです」
マーカスは部屋の片隅に置かれた箱を示した。
「サンプルをご覧ください」
ハーゲンが立ち上がり、箱を開けた。中には、最高級の鉄鉱石と硬木が収められている。老職人の目が輝いた。素材の質の高さが、一目で分かったのだ。
「北方の鉱山から直送される最高純度の鉄鉱石。東方の原生林で百年以上育った硬木。すべて独自のルートで安定供給できます」
エドガーが身を乗り出した。商人としての本能が、この提案の巨大さを肌で感じている。
「それで、条件は?」
声には緊張が滲んでいた。これほどの好条件には、必ず相応の対価がある。
「簡単なことです」
マーカスの笑みが深まった。それは、獲物を確実に仕留めたと確信した捕食者の笑みだった。
「向こう五年間、すべての技術製品はゴールドファング商会を通じてのみ販売する。価格設定も我々に一任していただく」
そして、決定的な一言が続いた。
「つまり、完全な独占契約です」
重い沈黙が部屋を支配した。
水晶のシャンデリアから漏れる光さえも、その重さに押し潰されそうに見える。マーカスの提案の意味を、全員が理解していた。
これを受ければ、技術は一気に王国全土に広がるだろう。資金も、人材も、販路も、すべてが整う。しかし同時に、技術の運命はゴールドファング商会の手に委ねられることになる。
ハーゲンが最初に口を開いた。老職人の顔には、抑えきれない憤りが浮かんでいる。
「つまり、わしらの技術を、あんたらが独占すると」
声には、50年の職人人生で培った誇りが込められていた。
「独占という言葉は適切ではありません」
マーカスが即座に訂正した。その反応の速さは、この反論を完全に予期していたことを示している。
「我々は単に、効率的な流通を提案しているだけです。考えてもみてください」
マーカスは立ち上がり、壁に掛けられた巨大な地図を指し示した。
大陸全土を描いたその地図には、赤い線が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。ゴールドファング商会の商業ネットワークだ。主要都市はもちろん、辺境の村々まで、その触手は伸びている。
「この販売網を使えば、技術は瞬く間に広がります。王国全土どころか、隣国まで。あなた方が個人で販売していては、百年かかっても到達できない規模です」
確かに魅力的な提案だった。地図上の赤い線は、技術が広がる未来を予感させる。一つの商会の力で、世界が変わる可能性。
しかし——
「断ります」
カイトの声が、静かに響いた。
それは怒鳴るような大声ではなかったが、鋼のような強さを持っていた。揺るぎない信念の重さが、その短い言葉に込められている。
マーカスの完璧な笑みが、一瞬凍りついた。
商人生活三十年、数え切れないほどの商談をこなしてきた彼にとっても、これほど即座に、そして明確に巨額の提案を拒否されたことは稀だった。
◆◇◆
マーカスの眉が、わずかに動いた。
それは一瞬の変化だったが、カイトたちは見逃さなかった。計算され尽くした商人の仮面に、初めて生じた亀裂。
「ほう」
マーカスは首を傾げた。その動作には、予想外の展開を楽しむような色が混じっている。まるで、退屈なゲームに突然現れた強敵を歓迎するかのように。
「理由をお聞きしても?」
声には genuine な興味が含まれていた。形式的な質問ではなく、本当に理由を知りたがっている。
カイトは真っ直ぐにマーカスを見つめた。その瞳には、恐れも迷いもなかった。
「技術は、特定の誰かのものじゃない」
カイトの声は静かだったが、その言葉の一つ一つに信念の重みがあった。
「独占されれば、必要な人に届かなくなる。価格は吊り上げられ、貧しい人々は技術の恩恵を受けられない。それでは、技術を生み出した意味がない」
カイトは続けた。
「俺たちが技術を作るのは、金儲けのためじゃない。F級の人々に、魔法に頼らない新しい可能性を示すため。すべての人が、自分の力で価値を生み出せることを証明するためだ」
「理想論ですな」
マーカスが肩をすくめた。その動作には、若者の甘い考えを聞いて呆れた大人の態度が表れていた。
「ビジネスの世界では、理想だけでは生き残れません。現実を見なければ」
商人は窓辺に歩み寄った。そこから見える商業地区の喧騒を、まるで自分の領地を見下ろすように眺める。
「では、現実をお見せしましょう」
マーカスが振り返った時、その顔からは柔和な商人の表情が消えていた。代わりに現れたのは、冷徹なビジネスマンの顔。
「あそこに見える建物、すべて商人ギルドの影響下にあります」
窓の外を指差す。商業地区の建物群が、午後の陽光を受けて輝いている。
「材料を仕入れる商店、道具を売る店、運送を請け負う業者——すべてです。我々が一声かければ、彼らはあなた方との取引を停止するでしょう」
マーカスの声が、部屋の温度を下げたかのように冷たく響いた。
「ゴールドファング商会を敵に回して、商売を続けられると思いますか?誰も、我々に睨まれてまで、あなた方と取引しようとは思わない」
エドガーの顔が青ざめた。
商人として、その脅しが単なる脅しではないことを理解していた。商業界における力関係は、時として魔法以上に残酷だ。
リゼも不安そうな表情を浮かべている。確かに、材料が手に入らなければ、技術の発展は止まってしまう。
しかし——
「それでも」
カイトは屈しなかった。その表情に、わずかな動揺も見せない。
「俺たちは自分たちのやり方で進みます。たとえ困難でも、信念を曲げるつもりはない」
カイトは立ち上がった。
「技術は希望だ。その希望を、金の力で縛ることはできない」
緊張が極限まで高まった。
マーカスの目に、危険な光が宿る。商人の、いや、権力者の怒りが表面化しようとしている。
その時だった。
「素晴らしい」
突然、マーカスが拍手を始めた。
パン、パン、パン。
ゆっくりとした、しかし力強い拍手が部屋に響く。その音は、先ほどまでの緊張を切り裂くように明るかった。
四人は困惑した。つい今しがた脅しをかけていた男が、なぜ拍手を?
「実に素晴らしい」
マーカスの顔に、今度は本物の笑顔が浮かんだ。それは計算された商人の笑みではなく、心からの賞賛を含んだ表情だった。
「これほど明確に利益を拒否し、信念を貫く若者は久しぶりです。いや、初めてかもしれません」
マーカスは席に戻ると、深いため息をついた。
その姿は、先ほどまでの威圧的な大商人ではなく、疲れた一人の中年男性のように見えた。完璧だった姿勢が少し崩れ、肩の力が抜けている。
「実はですね」
マーカスが顔を上げた時、その表情は一変していた。商人の仮面が完全に剥がれ、別の顔が現れている。
「これは試験だったのです」
「試験?」
リゼが思わず聞き返した。
「そうです」
マーカスは机の引き出しから、別の書類を取り出した。先ほどの契約書とは明らかに違う、より簡素な形式のもの。
「商人にとって、取引相手の人格は極めて重要です。金に目がくらむ者とは、長期的な関係は築けません」
マーカスは最初の羊皮紙を無造作に丸めて、ゴミ箱に投げ入れた。あれほど重要そうに扱っていた書類を、まるで価値のない紙切れのように。
「最初から、独占契約など考えていませんでした。あれは、あなた方の本質を見極めるための演技です」
エドガーが呆然とした声で言った。
「では、あの脅しも?」
「申し訳ありません」
マーカスが頭を下げた。大商人が、小さな工房の者たちに頭を下げる——その光景の異常さに、四人は言葉を失った。
「しかし、必要なことでした。窮地に立たされた時、人は本性を現す。あなた方は見事に試験に合格しました」
◆◇◆
「改めて、提案させていただきます」
マーカスが新しい羊皮紙を広げた。そこに記された内容は、先ほどとは全く違っていた。
「非独占契約。価格は市場価格に準拠。ただし、品質保証された製品のみを、ゴールドファング商会の信用で販売させていただく」
エドガーが身を乗り出して内容を確認した。商人としての目が、素早く条件を読み取っていく。
契約期間は一年更新。価格は双方の協議により決定。技術の改良や新製品の開発は完全に自由。他の商会との取引も制限なし。
「これは......」
エドガーが顔を上げた。驚きと感嘆が入り混じった表情。
「極めて公正な条件です。むしろ、我々に有利すぎるくらいに」
「なぜ、このような条件を?」
ハーゲンが尋ねた。老職人の目には、まだ警戒の色が残っている。
マーカスは窓の外を見つめた。商業地区の向こうに、住宅街が広がっている。そこには、普通の人々の暮らしがある。
「簡単なことです」
マーカスがゆっくりと振り返った。
「真に革新的な技術は、独占するより普及させた方が、長期的には大きな利益を生む。歴史がそれを証明しています」
マーカスは部屋の壁に掛けられた古い絵画を指差した。商人たちの集会を描いたもので、中央には印刷機が置かれている。
「二百年前、印刷技術が発明された時のことです」
マーカスが語り始めた。その声には、歴史の教訓を胸に刻んだ者の重みがあった。
「ある商人が、その技術を独占しようとしました。特許を取り、他者の使用を禁じ、高額な使用料を要求した。最初は莫大な利益を上げました」
マーカスは絵画に近づき、細部を指差した。
「しかし、どうなったと思います?別の商人が類似技術を開発し、より安価に提供し始めた。独占していた商人は競争に敗れ、没落しました」
「一方で」
マーカスは別の絵画を示した。そこには、本を運ぶ商人たちが描かれている。
「技術を広めることを選んだ商人たちは、印刷物の流通で富を築いた。本の需要が爆発的に増え、運送、販売、すべての段階で利益が生まれた。独占の百倍の富を、より持続的に得たのです」
なるほど、とエドガーが頷いた。商人としての視点から、その理論の正しさを理解している。
「そして何より——」
マーカスの声が変わった。商人の理論を語る声から、もっと個人的な、感情のこもった声に。
「私にも、F級の息子がいるのです」
◆◇◆
空気が変わった。
張り詰めていた商談の緊張が解け、人間的な温もりが部屋に満ちる。マーカスの表情から、商人の仮面が完全に剥がれ落ちた。
「十五歳になる息子は、生まれつき魔力がありません」
マーカスは席に座り直した。その姿勢は、もはや交渉相手を威圧するものではなく、悩みを打ち明ける一人の父親のそれだった。
「ロバートという名前です。頭は良い子で、計算なら私以上かもしれません。商才もある。将来は立派な商人になれるでしょう」
マーカスの声に、親としての誇りが滲む。しかし、すぐにその声は曇った。
「しかし、この社会では......」
マーカスは言葉を切った。その沈黙が、すべてを物語っている。
リゼが静かに言った。
「差別を受けているのですね」
「ええ」
マーカスは頷いた。その目に、痛みが宿っている。
「どんなに勉強ができても、どんなに商才があっても、『魔法が使えない欠陥品』と陰で囁かれる。学校でも、F級というだけで見下される」
マーカスの拳が、机の上で握りしめられた。
「金で解決しようとしました。最高の家庭教師を雇い、護衛をつけ、あらゆる手を尽くした。しかし、金では買えないものがある。それは......尊厳です」
ハーゲンが深く頷いた。老職人の目に、共感の光が宿る。
「わかります。わしも若い頃、同じ思いをしました」
ハーゲンの声は静かだったが、そこには深い理解があった。
「技術を身につけるまで、自分には価値がないと思っていた。でも、初めて完璧な部品を作れた時、自分にも誇れるものがあると知った」
「そうなのです」
マーカスが身を乗り出した。
「先日、息子が私に言いました。『父上、僕は価値のない人間なのでしょうか』と」
マーカスの声が震えた。商談で決して見せない、父親としての脆さが表面化している。
「その時、私は何も答えられなかった。莫大な富を持ち、商業界に影響力を持つ私が、息子一人を救えない。その無力感は......」
マーカスは言葉を切り、深呼吸をした。
「そんな時、あなた方の技術の噂を聞きました。F級の若者が、魔法に頼らない新しい力を生み出したと」
マーカスはカイトを真っ直ぐに見つめた。
「正直に言います。最初は半信半疑でした。しかし、実際に滑車システムを見て、確信しました。これは単なる道具ではない。希望だと」
マーカスは立ち上がり、机の引き出しから小さな額縁を取り出した。そこには、利発そうな少年の肖像画が収められている。
「これが息子のロバートです」
少年は確かに賢そうな顔立ちをしていた。しかし、その瞳には、年齢に似合わない陰りがある。F級として生きることの重さが、既にその young な肩にのしかかっているのが見て取れた。
「この子に、胸を張って生きる道を示したい。魔法が使えなくても、価値ある人間だと証明したい。それが、父親としての私の願いです」
マーカスは額縁を大切そうに机に置いた。
「だからこそ、技術を正しく普及させたい。金儲けの道具としてではなく、人々の尊厳を守るものとして。商人の誇りにかけて」
四人は顔を見合わせた。
マーカスの告白は、予想外のものだった。冷徹な商人と思われた男の中に、これほど深い父親の愛があったとは。
カイトが口を開いた。
「マーカスさん、一つ聞かせてください」
「なんでしょう」
「息子さんに、技術を学ばせるつもりはありますか?」
マーカスの目が輝いた。
「もちろんです!いや、それこそが私の望みです。息子が自分の手で何かを作り、それに誇りを持てるなら......」
カイトは仲間たちと目を合わせた。リゼは優しく頷き、エドガーは親指を立て、ハーゲンは温かい笑みを浮かべている。全員の意見は一致していた。
「わかりました」
カイトが立ち上がり、手を差し出した。
「一緒に、技術を広めていきましょう。すべての人が、自分の価値を見出せる世界のために」
マーカスがその手を握った。
今度の握手は、先ほどとは違っていた。ビジネスの形式的なものではなく、同じ目標を持つ者同士の、心からの握手だった。
「ありがとう」
マーカスの声には、心からの感謝が込められていた。
「息子に、希望を与えてくれて」
握手を終えると、マーカスの表情に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。商人の顔が少し戻ってきたが、それは以前の計算高いものではなく、人間味のある表情だった。
「ところで」
マーカスが言った。
「最初の提案を断られた時の私の顔、見ものだったでしょう?商人ギルドの歴史でも、あれほど巨額の提案を一瞬で断る若者は初めてです」
「正直、少し怖かったです」
リゼが笑いながら言った。
「本気で潰されるかと思いました」
「演技とはいえ、申し訳ない」
マーカスも笑った。
「でも、おかげで本物の協力者を得ることができました。形だけの契約より、はるかに価値がある」
部屋に温かな笑い声が満ちた。それは、利害を超えた人と人との繋がりが生まれた瞬間だった。
商人の天秤は、今日、新しい均衡を見出した。
金と理想、利益と尊厳、ビジネスと人間性——それらは対立するものではなく、正しいバランスで共存できるのだと。
そして、その均衡点に立つ者たちが、新しい時代を切り開いていく。
技術という希望を携えて。
商人の天秤——それは単に利益を量るものではありませんでした。
金と理想、ビジネスと人間性。
相反するように見えるものが、実は同じ天秤の上で均衡を保てること。
マーカスが見せた本当の顔は、一人の父親としての願いでした。
F級の息子に誇りを持たせたい。
その想いが、技術を正しく広める道を開きました。
次回、新たな協力関係が動き出します。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。