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ランフォ衝撃小劇場VOL.5 あと何日

作者: 蘭芳琳楠

人類滅亡へのカウントダウン!

小惑星が刻々と迫る中、市井の人々の変わらぬ日常があった。



 あと30日


「現地時間20時になりました。えー、それでは、現地から同時通訳でお伝えいたします」

 衛星中継を映すモニターに視線が集まる。

「……国連事務総長のジーノ・モリナーリです。ニューヨークの国連本部から全世界の皆様へお知らせいたします。この一年間、国連は世界各国とともにこの困難な問題の……、解決に向けて努力を積み重ねて参りました。……しかしながら、ここで皆様に大変残念なお知らせをしなくてはなりません。……合衆国主導によるルシファーAに対する核ミサイルの使用も、事前に予測されていた通り、大きな成果を得ることができませんでした。ここに私はこの辛い事実をお伝えしなくてはなりません。『エンジェルドロップ計画』は失敗に終りました」

 イタリア人の国連事務総長はハンカチで流れる涙をぬぐった。

「繰り返します。失敗に終わったのです。ルシファーAの軌道は今もって変わらず、我らの母なる大地である、この地球への衝突コースからは外れていません。人類の英知を結集して行われたありとあらゆる方策もつき、もはや我々の科学力では対応の術がないのです。地球人類を宇宙船に乗せて脱出する計画も頓挫し、遺伝子をファイルに取って宇宙へ放つ『ノア計画』は実行に移されたものの、それが人類の存続に直接関わるものとは言えません。人類と地球上のありとあらゆる生命は最後の時間を静かに待つ以外とるべき態度がありません。どうか皆さん、残された時間を静かにお過ごしいただき、安寧とやすらぎを隣人と分かち合うようにしましょう」


 オフィスの食堂に沈黙が降りた。

 朝から集合した従業員たちを統べる()()部長は腕組みしたままだ。

「これって私たちみんな死んじゃうの、確定ってことだよね」

 若い女性の社員がひそひそと言った。別の女子社員がすすり泣きを始めた。

「そ、そんな。映画みたいに奇跡的に回避できるんじゃないのかよ」

 須崎琢磨(すざきたくま)は隣でショックのあまり放心する同僚の小垣の横顔を見守るしかない。

「きょ、今日の午後の営業は中止する。みんな帰宅してくれたまえ。明日以降の対応については、追って連絡することにする」

 木瀬部長の命に従って、皆ぞろぞろと食堂を後にした。

 がしゃんと大きな音がして、厨房の森さんがその場にしゃがみ込むのが見えた。さっきまで昼食の準備を中断して一緒に国連事務総長の演説を聞いていたはずだった。

「森さん」

 心配した部長が駆け寄ったが、森さんは割れたお皿と共に床に崩れておろおろと泣いていた。

「あと一ヵ月だろ。あと一ヵ月でこの世界がなくなっちゃうんだぜ。そんな馬鹿なことってあるかよ」

 森さんが泣きながら言った。

 木瀬部長は森さんの背中を擦りながら、言葉なくうつむいた。大学時代は柔道部の主将で、アメリカンフットボール部に助っ人に行っていたと言う体格の持ち主だが、彼すらも弱々しく見える。

琢磨はどうしていいかわからず、自分の机があるオフィスに向かうと、とりあえず必要なものをカバンに押し込んでタイムカード押した。

 誰に言うともなくお先ですと口にして、すぐに日中の街に出た。

 普段はオフィスに篭りきりの時間だ。午前の空気は澄んで、街路樹の新緑が目に眩しい。

 ポケットの中のスマホに何度も何度もニュースが届く。しかし、見る価値などは無い。この世界が終わってしまうのだ。人類の英知を尽くした最後の賭けも失敗に終わり、人類は静かに小惑星の衝突を待つしかないのだ。

 世界は終わる。琢磨も、この街も、世界そのものが消えてなくなるのだ。

 あと30日。まだ実感のないこの現実に、琢磨は街並みを見守る以外にない。

 そうだ。葉子に電話してみようか。

 彼女はまだオフィスだろうか。

「あ、葉ちゃん。今日休みになったんだ。今から会えないかな?」

 彼女は勤務中にもかかわらず、普通に電話に出た。今日は許可が出ているのだろうか。

「こっちは金融機関だから、午後も営業だよ。それに早退を申し出た人が何人かいて、私は5時までは居残りになりそう。ごめんね」

「そうか、そうだよね。じゃあちょっと時間つぶしてるから、晩めし外で食べようか?」

「そだね」

 葉子はいつも通りで、一縷の望みを託して予定していた結婚式が実現できないことに動揺していないようだった。だがしかし、それは彼女なりの優しさで、あえて気にしていない素振りに見せかけているようでもあった。


 のちにルシファーAと呼ばれることになる小惑星が彗星と衝突したことによって、地球衝突軌道に乗ったというニュースが知らされたころ、自暴自棄になって暴れる人や他者に危害を加えるような人が多数現れると予測されたが、意外なことにそんな振る舞いをする人は少なかった。

そして、ついに人類の滅亡が決定的となった今も、同じように暴れたり破壊行動をするような人はいないようだ。


 株式市場は崩壊し、産業は終焉を迎えた。人々は生きる目標を失い、絶望と迫る死の恐怖に慄いたが、達観したからなのか、わが国ではさしたる暴動も起こらず、自殺者は急増したものの、比較的平穏は保たれていた。

 治安出動している自衛隊員の迷彩服が目立つほかは、何の変哲もないいつもの街の様子を見ながら、琢磨は初夏の午前の風を向けて歩み続けた。


 異国では大規模な暴動が起こり、治安維持のために出動した兵士が武器を持って暴動に加わるなどしたため、空軍が首都に爆撃を加えるなどといった事態も発生しているという。

 しかし、その国民性からか、わが国ではどの街もみな平穏が保たれていた。

 最後の最後にはやはり無茶苦茶をするヒトもでるだろうか。

 それとも、皆、愛する誰かのそばによりそって、最期の時を待つだろうか。

 赤信号が青に変わる。

 治安を維持する目的で、インフラに関する制度維持は図られており、琢磨の勤める空調設備会社も設備の維持管理のみを国から要請されて続けていたため、こうして出勤しているが、多くの会社は既に休業、     いや、廃業している。

 海外資本の大手ファーストフード店に入り、アイスコーヒーを注文した。

 アルバイト店員はおらず、一度はここで働いてみたかったという変わり者のボランティアが何人かいて、未熟なオペレーションに取り組んでいた。

 ここでも人々は冷静であり、そんな未熟な対応に文句ひとつ言わず、コーヒーや食事のトレイを待っていた。

 琢磨はオープンエアのテラスで街ゆく人々の様子を見ながら、コーヒーを飲んだ。着ぐるみを着て行進するヒトの集団が通り過ぎて、ミニスカートをはいた背の高い男性老人が闊歩していく姿を見とめる。

自転車を止めた若者がフードデリバリーの注文を取るために店に入って来た。

 皆それぞれに残りの時間を過ごしている。

 あと一ヵ月。6月27日の日本時間午後5時27分、世界は終わる。あと何回、コーヒーを飲めるのだろうか。琢磨は燦燦と輝く太陽を求めて空を見た。

店のガラス張りの窓から見つけたのは、今や月より大きく見えるようになった、小惑星の姿だった。


「あ、葉ちゃん、お疲れー」

 意図的に呑気な口調を装う。遠くで宗教団体の街宣車が神の元へ行きましょうとがなり立てている。

「待った?」

 彼女がとびきりの笑顔でいう。

「うん。8時間ほど」

 琢磨の冗談に肩を竦めて見せた。

「今日はなんにする?」

「アレに決まりでしょ」

ふたりは手をつないで横断歩道を渡る。宗教団体のスピーカーが静かに、しかし、大音量でつぶやいた。

「審判の時がやってきたのです」


 何度か足を運んだ焼肉屋さんで、ニ人は見つめ合った。白いさらしに、店主が描いた焼肉無料の殴り書きを背景に、ニ人は並んで写真を撮った。

「ね、この写真も」

「うん」

 写真など意味がない。あと一ヵ月でニ人も写真も跡形も残らなくなるのだ。

 しかしそれでも琢磨は言った。

「記念だから。ほら、食べ放題で無料なんだぜ」

 人類終焉の記念ではない。食べ放題が無料なことを記念しての一枚なのだ。

「そだね」

 ここでもアルバイト店員はおらず、店主と奧さんだろうか、女性が死ぬ前にもう一度焼肉をと思った客の間を行き来していた。

 しばらくとりとめのないお話をしていたら、店主が皿に盛り付けた肉を持ってやってきた。

「お客さん、よく来ていただいてますよね。これ希少部位なんですけど、食べてもらえますか」

 喜んで受け入れると、店主は身の上話をしだし、今日で店を閉めることと、飛行機が運行しているうちに故郷の徳島に帰ることを伝えてきた。

「あっちに戻ったら、先祖の墓をきれいにして、後は妻とニ人でゆっくりと過ごします」

と語った。

 すると葉子が右手を差し出した。握手したその手を離さない。

「素敵なご夫婦でいらっしゃいますね。私たちもそうなる予定だったんです。でも、そうなれなくて」

葉子は決して悲しみを言葉に込めなかった。

「あの星が落ちてくる日、ちょうど結婚式を予定していたんです。ジューンブライドで。でも実現できなくなっちゃった。ざーんねんっ」

 戯けてみせる葉子の声を聞いて、店主の後ろにいた妻と思しき女性が、目頭を押さえた。

と、無言だった店主が唐突に手に持っていた皿を掲げると、周囲に向かって大声を張り上げた。

「今日お集まりの皆さま、お耳を拝借いたします。こちらのお二人は結婚式を挙げる予定でしたが、あの 忌々しいヤツのせいで」

 そこまで言うと店主は嗚咽した。

 気を取り直して、言い直す。

「失礼しやした。そんでってのもナンですが、ここにお集まりのみなさんのお力を拝借して、ささやかながら、披露宴のマネごとをしたく存じます」

 突然の提案だったが、いくつかのテーブルから拍手が湧き起こった。

「よっしゃ! 牧師さんやったるわ」

 頭髪の薄い男が声をあげた。

「ええと。汝、いま、何時?」

 関西人らしいボケをかました後、畏まって、琢磨と葉子の手をとると、店の中央まで二人を誘った。

 すると、別のテーブルの若者たちが、スマホで動画共有プラットフォームから結婚行進曲を再生してくれた。

「きみ、名前や。なんていうの? 彼女さんは?」

 小声で問われ、琢磨も小声で答えた。

「おほん。新郎タクマくん。あなたはヨウコさんを妻とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」

やけに本格的なソクセキ牧師の言葉に、琢磨が真摯に答える。つづいて葉子にも同様の問いかけがあり、 彼女は目を潤ませながら答えた。

 拍手が湧き起こる。指笛が鳴り、店主の妻が用意したタマネギの芯に近い部分をくり抜いた急造りのエンゲージリングが葉子の指にはめられると、披露宴のはずの結婚式は最高潮を迎えた。


「なんか、とっても幸せだね」

 帰り道で葉子が言った。

「そうだね」

 見上げる夜空には月より明るく輝くルシファーAがあった。

「俺さ。会社辞めるわ」

 葉子が歩みを止めた。

「だ、だめだよ」

 意外な言葉だった。

「タクちゃんの仕事がなかったら、涼しく過ごせないヒトがでちゃうでしょ。六月はもう蒸し蒸しなんだよ」

 あと一カ月で人類は絶滅する。些細な幸せをも奪われ、残る選択は二人きりでいることくらいしかないはずだ。

 しかし、葉子は続けた。

「あたしなんて銀行員だから、もう仕事には何の価値も意味もないよ。でもね。でも、今日もマチダのおばあちゃんが来てね、千円預けてくれるんだ。毎日ね。毎日だよ。世界が終わるってわかってからも毎日、千円ずつ、アメリカに住んでるお孫さんのために、貯金をね。貯金をしてくれるんだ」

葉子の頬を涙が伝った。

「あたしもね。タクちゃんのそばにずっといたいよ。でもね。でも」

「そうだ、そのとおりだ」

 義務など伴わない。しかし、なぜか、二人は通常の日々をつづけることを選んだ。

琢磨が葉子を抱きしめる。

 月明かりとルシファーAからの光が、二人の二重の影をアスファルトに映していた。



 あと21日


「あと21日となり、政府は国民のみなさまに苦痛なく旅立っていただくための措置として、安楽死薬の配布を決定しました」

 政府特別放送はテレビ、ラジオ、インターネットを通じて全局同時に行われた。

 内閣総理大臣の長い演説に続いて、天皇陛下のお言葉のあと、官房長官からの発表だった。

「なお、薬剤の使用は前日、もしくは当日のみとしてください。ご遺体の処理が追いついていない現状を鑑み、ご配慮いただきますようお願い申しあげます」

 琢磨と葉子は放送を二人きりの部屋で見ていた。

 今日は日曜日。出勤義務のなくなった葉子は、それでも銀行の窓口で笑顔を振りまいていたが、今日は琢磨と二人きりの時間を満喫していた。

 テレビの中の官房長官が言う。

「電力会社や放送局に勤める方々の尽力により、こうして国民の皆様にお伝えできることに謝意を表し、今後配布を実施するにあたって、関係省庁、自治体、自衛隊の方々にも貴重な時間を割いていただくことに、衷心よりお礼申し上げます。また、その他のインフラ関係者、医療従事者、エッセンシャルワーカーの皆様、感謝に絶えません。本当にありがとうございます」

開け放しの窓から、梅雨を前にした重い風が吹きこんだ。

「めずらしいね。政治家さんのほんとの感謝の言葉は」

「そうだね。こんな事がなけりゃ、聞けなかったな、本音の感謝なんてさ」

「みんな、優しくなってるよね。普段からこうだとよかったけど」

 琢磨がリモコンを操作して、地域別の自殺薬の配布日時の案内は見ずに、動画共有プラットフォームをサーフィンする。

 葉子の好きな映画の紹介チャンネルを観るつもりだった。

「ちょっと待って」

 葉子が言うので、スクロールをやめる。

「今のチャンネル」

 彼女が画面を指差した。

「これ?」

「ちがう。も一個うえかな」

 画面には「まだ間に合う!人類滅亡回避の可能性を信じろ!!」の文字が踊っていた。

 世界中の天文学者も、スーパーコンピューターの解析も、衝突不可避と結論づけているのに、まだこんな戯言を言っている似非科学者がいるのかと、琢磨は呆れた。

 チャンネル名は『町天文学者ソラとウミのアイダの天文学解説TV』だった。

「こんなの……」

 否定しようとした琢磨からリモコンを奪うと、葉子が目で同意を求めてきた。

「ま、まあ、観てみるよ」


「こんにちは。町の天文学者、ソラとウミのアイダこと、相田原太郎です。今日はわが国の政府が、国民総自殺を決定したことを受けて、あらためて自説であるルシファーA衝突回避説を詳しく説明したいと思います」

 動画作成上の演出なのか、それとも本当にこういうヒトなのかはわからなかったが、ソラとウミのアイダこと、相田原太郎と名乗る男はヨレヨレの白衣に、手入れのまるでなさそうな頭髪と無精髭の、いかにもな似非科学者風だった。

「当チャンネルをご登録いただいている方はよくご存知だと思いますが……」

 琢磨は表示の端にあるチャンネル登録者数を見た。4,356人。

「ルシファーAは地球衝突の直前に四つに分解されます」

 すでに専門家により否定されている説だ。琢磨はそう感じた。

「ご覧のように……」

 表示されたのはCGではなく、画用紙にマジックインキで書かれたイラストだった。

「ルシファーAは積層構造を持っています。これはこの小惑星が少なくとも四つの小天体が衝突して形成されたからであり、各層の間には氷が存在していることもわかっています。この氷は、それ自体が天体であったのか、あるいは各小天体を構成していた、いわゆる水分であったのかは推測の域をでません。ただ、この氷の層は脆弱であり、月の引力を受けて、地球に向かって90度の方向にずれる可能性があるのです。つまり、ルシファーAは、四つに分解し、うまく地球との衝突コースから外れる可能性があるのです」

 琢磨は見識の低い、科学者もどきの戯言だと感じた。しかし、彼の腕の中にいた葉子は違った。

「これって」

「ないよ。もう否定されてる説だよ」

「でも」

 彼女の瞳に明るい炎が湧き立っているのを見た。

「可能性はゼロじゃないんじゃないの?」

 世界中の天文学者が、そしてありとあらゆる専門家が検討し、その結果として現実には起こりえないと判断したのだ。

 それならば、もはや結果は火を見るより明らかだ。

「でもね」

「タクちゃんは、この賭けに乗ってみないの?」

 そう言われて、琢磨は逡巡した。

 事前に命を断っておかなければ、地球崩壊の激しい天変地異に巻き込まれ、その恐怖と言ったら想像もつかない。

 そんな恐ろしい目に、葉子を遭わせてよいのか。

 しかし、たとえ百万分の一の確率でも、その奇跡が起こるのであれば可能性に賭けてみるのも悪くはない。

「その瞬間って、怖いかな」

 猛烈な勢いの小惑星が地球に衝突したその瞬間、大気が宇宙に蒸発するらしい。その恐ろしい勢いに、か弱い生命は一瞬で吹き飛ぶというのが、大方の見立てだ。

「怖いけど」

 琢磨は言った。

「葉ちゃんといっしょなら」

 葉子も微笑みながら頷いた。



 あと12日


 革命も戦争も起こらず、略奪や騒擾がわずかに起こる程度で、世界は平和そのものといってよかった。

多少の混乱は人類にとっては平常運転なのだ。

 悲観による自殺者は後を絶たず、政府は『最後の日』に薬剤を服用することで安寧なる死が手に入るからと、早期の自殺を止めるキャンペーンを打ちだした。

 死者を荼毘にふすなどする人員が不足していたからだ。

 インフラ保全の努力は続いていたが、それでも役人や自衛官を含めて離脱者があいついだ。

 しかし、そのことを責める者もなく、判断は個人のものとなった以上、すべてのヒトが自分の信念にしたがって行動した。

 琢磨と葉子は親兄弟や友人との別れをすでに済まし、二人きりで最後の時を迎える決断をした。

郊外の古びたマンションだったが、ここからは晴れた日に東京スカイツリーが見えた。

 ふたりは残りの日を過ごすための食料品を無料開放されたスーパーでそろえ、派手などんちゃん騒ぎや、人気ロック歌手の無料コンサートにも行かず、静かにその瞬間を待つことにした。

 しかし、例の配信主の情報だけは毎日チェックしていた。

「残された時間は確かにあと12日です。しかし、もう一度言います。わたしの計算ではルシファーAは 月の引力によって四枚の皿にように分かれます」

 彼の手には重ねた四枚の皿があった。

 それを勢いよく空中に放り投げる。

 重なりはいとも簡単に破綻し、四枚の皿は放物線を描いて、順に床に落ちて割れた。

「ごらんのように四枚の皿には『つなぎ』がないので、遠心力によって、いとも簡単にそれぞれが離れます。実際のルシファーAには氷の層があるので、それが強固な『つなぎ』となって接合しているため、月の引力による遠心力では分離は起こりえないとするのが主流の説です」

 スーパーコンピューターもそう結論づけているのを琢磨も知っていた。

「しかし、みなさん、よく聞いてください。氷の層が不純物、つまり、砂や岩の欠片を含んだH2Oの凍ったものだとしての計算は繰り返し行われてきましたが、肝心な点を見逃してくる可能性があるのです」

 また手書きの画用紙が画面に大写しになった。

「気泡がある可能性が高いのです。氷の層は水と不純物で構成されたものではなく、酸素あるいは窒素と  わたしは推定しているのですが、非常に多くの気泡を含んでいる可能性が高いのです」

 琢磨はソファに預けていた上半身を起こして画面に見入った。

 自分に天文学や天体物理学の知識があるわけではない。しかし、この数年間、ルシファーAの存在が人類の存亡にかかわる問題であると知らされてからは、それなりに情報に接してきたつもりだった。

 そんな琢磨が知る限りでは、この男が言う説はすでに否定されていた。

 スーパーコンピューターが気泡の存在を無視して計算したのかどうかについては正直いって情報がない。

 しかし、合衆国が実行した核ミサイルによる破壊工作であるエンジェルドロップ計画がまさに、この氷の層に向かって放たれたものだったのだ。

「みなさんは『エンジェルドロップ計画』がすでに失敗に終わっているじゃないかとお考えなのではないでしょうか。しかし、あの核ミサイルによる攻撃で与えられる熱量は月の引力による遠心力に比べれば、ごくごく微量の効果しか発揮できないのです」

「この話、どうして政府とかは信じないのかな」

 葉子が言った。

「彼より権威のある連中がはじき出した答が重視されたんだよ。おそらく、彼は学会でも無名の存在なんじゃないかな」

「お願いです。可能性がゼロではない以上、死という手段をとってはなりません。最後の最後まで見守ろうではありませんか」

 この男が似非科学者だとしても、こうまで強硬に自分の主張をするからには、やはり何らかの根拠があるからだ。

 それがこの説というわけだ。

 嘘やデタラメからここまでの熱量で語るとは思えない気がしてきて、琢磨はスマホを取り出すと、検索をはじめた。

 しかし、この人物に関する情報はわずかだった。彼のチャンネルがヒットした以外は、詳しい経歴や所属する研究機関などの情報を得ることはできなかった。

 つぎにコメント欄を見るが、批判と同意が半分ずつだということが分かった以外に情報はなかった。

「でも、見守ろうっていうのは、ほんとかもよ」

 葉子の目にはすでに強い決意があった。

「天変地異なんてレベルじゃない大崩壊なんだよ」

 琢磨は何を否定したくてそう言ったのか、わからないままに続けた。

「大気が激しく宇宙空間に放出されてマッハのスピードで身体がバラバラになるか、運良く大地にとどまれたとしても、その後の巨大津波や、予測不能の地殻変動で即死だよ」

「即死なら!」

 葉子が琢磨の腕に絡めていた右手に力を入れた。

「即死ならいいじゃん。苦しかったり、痛かったりしても、ほんの数秒でしょ。だったらいいよ、あたし」

 カウチに預けていた上体を起こすと、葉子は琢磨に向きなおった。

「世界のおわりに、タクちゃんの顔を見ながらなんてサイコーじゃん」

 戯けてみせる葉子の表情から笑みが消える。

「あー、でも、なんか大竜巻に巻き上げられて、タクちゃんの前で胴体が引きちぎれて、内臓ぶちまけるのはヤだな」

「お、おい、グロいこと言うなよ」



 あと7日


「牛岡さん、どうしました?」

 電話にでた琢磨が言った。すでに会社は形式上解散しており、琢磨は自宅で葉子とのんびりしていた。

 このまま出かけたりせず、ふたりきりでゆっくりと過ごすつもりだった。

「スザキちゃん、あと7日だってのに、すまないねぇ。ちょっと頼まれてくれないかな」

 技術部の牛岡さんは自分の営業エリアとは関係のない持ち場のヒトだった。

「実はさ。困ったことがあってさ」

 牛岡さんが言うには東京都内の特別養護老人ホームで空調設備の不具合が起こり、修理の必要が出たとのころだった。しかし会社にはもう誰もおらず、場場職の牛岡さんには社内ネットワーク内での、当該施設の顧客情報にアクセスする権限がなかった。

「あ、わかりました。パソコンのパスワードお伝えしますね」

 コンプライアンス上問題のある行為だが、今ならこれを責められたりはしないだろう。

「ごめんよ。スザキちゃんの担当じゃないのにさ」

 牛岡さんが嬉しそうに言う。

「いえ。小垣の担当エリアですけど、あいつ、連絡取れなかったんですか」

 電話口の牛岡さんが一瞬、沈黙した。

「お、小垣のヤツ、もう逝っちまったんだよ」

「え?」

 悲観したうえにその瞬間への恐怖から自死を選ぶヒトは多い。しかし、営業成績でいつも上位を競っていたあの小垣が、その選択肢を選んだことに、琢磨は動揺した。

「オレもさ。性分なのかな。最後にやり残したことがあって会社に行ったら、たまたま電話が鳴ってさ。それで受付の女の子もいないから思わず出ちまったんだよね。そしたらさ。故障だっていうんで、放っておけなくてさ」

 自嘲気味に言う牛岡さんの心持ちが理解できた琢磨は、動揺を振り払うかのように明るく答えた。

「何か、ボクにお手伝いできることはありませんか?」

「心配なく。電話の話じゃあ、基盤だと思うんだよね。型番見なきゃわからんけど、取り換えならオレでもできるしさ」

 電話を切ると、葉子がお茶をもってリビングに入って来た。

「あら、お仕事の電話?」

 牛岡さんとのやりとりをひと通り話すと、葉子もその心持ちが理解できたようで、必要ならお手伝いをと言ってくれた。

 アイスのハーブティーを口に運ぶ。琢磨は小垣のことは葉子に伝えなかった。


「ホント、済まない」

 牛岡さんの二度目の電話はその日の午後遅くにあった。

「とりあえず、現着したんだけど、基盤のトラブルだけじゃなくてさ。どうやら、老朽化したキュービクルごと交換が必要みたいなんだよ。完全に止まっちまってるから、さっさと交換しないとじいさん、ばあさんが暑くてかなわんだろ」

 キュービクルとは変電設備のことだ。高圧の電気を低圧に変換するためのものだが、これを交換するとなると発注から作業まで大掛かりな手配が必要になる。それに現状を考えれば、機材を調達できたとして、搬入から取り付け作業まで、協力会社に依頼する項目が多岐におよび、今から手配してすぐに用意ができるとは思えない。

 琢磨の会社はその筋の素早さをウリにしており、これまでも急手配に実績があったが、それは協力会社あってのこと。

 すでに多くの建設会社や運送会社が廃業、解散している中、それらを手配することが困難なことは明らかだった。

「牛岡さん、ボク、心当たりに声掛けしてみます。会社に行けばリストもありますから」

 琢磨はすぐにステテコの上からズボンを履いた。

「葉ちゃん、ごめん。ちょっと会社行ってくる」

「うん」

 もう一週間しか二人の時間はなかった。しかし葉子はその貴重すぎる時間をどこかのだれかのために使うことを許してくれた。

「ねえ、タクちゃん」

 上着を羽織った琢磨に葉子が言う。

「晩ごはんはスパゲッティアラビアータだよ」


 セキュリティーコードを入力しようとすると。会社の入口が解放されていることに気づいた。

 オフィスに人影があった。

「部長」

 木瀬部長だった。

「なんだ、スザキくん。キミもかい」

 日焼けした顔に屈託のない笑み。

「部長も牛岡さんからですか」

 二人は笑いあった。すでに夜の帳が降り、オフィスも暗いが、ここだけは別だった。活気のある空間がたった二人の男によって取り戻される。

「井上電業さん、電話つながりません」

「キュービクルの在庫はミツデンさんにあるらしい。もちろん無償提供してくれるとさ」

「もしもし。あー、お世話にあってます。MLコーポレーションの須崎です。折り返しご連絡ありがとうございます。あ、はい。ご相談がございまして……」

「運車が見つからんな」

「それならボクに妙案があります」



 あと6日


「しっかし、よくもこれだけ」

 現場たたき上げの牛岡も驚く光景が広がっていた。

「みんな、あと6日の命だってのに」

 木瀬部長が微笑みながら言う。

 特別養護老人ホーム『はっぴー』の中庭には大型トラックが着けられており、ユニックが新品のキュービクルを吊り下げていた。

 ボランティアの作業員たちはなじみの顔とともに、琢磨がSNSなどを通じて募った、これまでに直接取引のなかった職人たちもいた。

 ここまで運んできた運転手は経験豊富だったが、所属していた運送会社の車両が使えず、別の運送会社オーナーの厚意で手配されたトラックを使用して運搬してくれた。

 作業も当社の現場の監督経験者とは連絡がつかず、競合他社の社員が協力してくれたおかげでとんとん拍子に進んだ。

 大手建設会社の作業着を着た者や、仲間同士お揃いが自慢の作業着を着たグループや、観たことのないロゴの作業着も多数そろって、現場は活気にあふれた。

 普段はおなじ現場に入ることがないような顔ぶれが一堂に会しての作業のおかげで目的はわずか一日で達成された。


「ありがとうございます」

 その作業の様子を見守っていた施設の責任者が感涙して感謝の意を表すと、誰ともなく拍手が沸き起こり、それが施設の入居書である老人たちにも広がり、作業ボランティアの中のお調子者が声を上げると、万歳三唱が施設全体で起こった。

 復旧した空調からは涼しい風が、職人や関係者の熱い心意気とともに届けられた。


「だいいま」

「アラビアータ、作るわ。24時間遅れ」



あと3日


「時刻はまもなく午後9時です。ご覧いただきありがとうございます。東京テレビジョンは明日以降も放送を続けます。ですが、人工知能による政府広報と最新情報を中心とした反復放送となり、人員、スタッフとともにお届けする放送はこの時間が最後となります」

 局で一番人気の男性アナウンサーが粛々と語りかけている。

「思えば、五年前、天体ショーとして観測された彗星と小惑星の衝突が、よもや人類とこの母なる大地、地球の終焉につながるとはだれが考えたでしょうか。その後、人類の英知を結集しての様々な試みがなされましたが、残念なことに効果はなく、今日にいたるわけです」

 琢磨と葉子もぼんやりと画面に視線を投げていた。開け放した窓の外には、白く輝く巨大なルシファーAが見える。

「テレビの前にみなさま。人類は明後日、その終焉を迎えます。宇宙船地球号の航海はここで終わります。しかし。しかし、我々人類と、地球生命はこれで終焉ではない。私はそう信じたいのです。い、いえ、確信しています。人類と地球生命の遺伝子情報を保存したノア計画も成功しています。播種船となった人工衛星は合計12方向に放たれました。いつか、どこかの知的生命体によって、再生がなされ、我々は復活するでしょう。仮に。仮にそれすらかなわずとも、この地球の破片に残った遺伝情報や、あるいは単細胞生物が再び進化の道を歩みだし、遠い遠い未来に、我々の歩みの続きを始めてくれることに、私は疑いの余地を挟みえないのです」

 最後は泣きながら手を振ってのエンディングとなり、テレビ局が放送を終えた。

 午後九時を告げる時報が鳴った。

「なんだかな」

 琢磨は率直に感想を口にした。

「宇宙人が遺伝子から再生したとしても、破片に残った単細胞生物が再び進化の過程を歩みだしても」

「それはあたしたちとは関係ないもんね」

 葉子は苦笑いする。

 琢磨も同じ表情を浮かべる。

 ふたりは甘い口づけを交わす。

 カーテンが揺れる。巨大な小惑星が太陽の光を反射して、窓の外は昼間のように明るかった。

「ねえ」

 葉子が琢磨の腕の中で頬を摺り寄せてくる。

「ベランダ見てみて」

「ベランダ?」

 葉子に急かされてソファを立ち上がると、狭いベランダにプランターが並んでいるのを見つけた。

「なにこれ?」

「タクちゃんが留守の間に駅前のホームセンターに行ったらね。野菜の種を見つけたの。もちろん、無料。ついでにプランターも土も無料だし、如雨露も無料。だからね」

「だから?」

「生き残ったあと、食べものがないと困るでしょ」

 葉子が屈託のない笑みを浮かべる。

「はは、なるほど」


 部屋用のスリッパのまま葉子がベランダに出る。彼女の着ているワンピースの裾を風が攫う。

 しゃがんでプランターのひとつを愛おしそうに見つめて言った。

「ほんとはね。種のまま、死んじゃうなんてかわいそうかなと思って。あと3日しかないけど、太陽の光を浴びさせてあげたいなって」



あと0日


 衝突予測日となった。

 遠くで煙が上がっている。

 テロなのか、暴動なのか、それとも天変地異の最初の様相なのかはわからない。

 世界は滅びても、あなたは救われると言ってまわる宗教団体の街宣車が通り過ぎる。

 葉子の携帯が鳴って、父母から最後の別れの会話があった。今から薬を飲むと言う両親に、葉子は可能性があるからとは言わなかった。

 彼女も本当は信じていないのだと、この時気づいた。

 琢磨は自分の両親にはしっかり別れを伝えていたので、連絡は来ないだろうと思っていたが、父と母からは別々に短いメッセージが届いた。やはり、これから薬を飲むのだという。

 ほかに職場の同僚や牛岡さんからもメッセージがあり、古い友人や、すっかり忘れていたような取引先のヒトからも惜別のメッセージが届いた。

 みんな、感傷的になっているのか。

 しかし木瀬部長からは一風変わったメッセージが届いた。

「あと0日ってわけだが、明日は最初の一日だ。また連絡するよ」

 丁寧なお礼の言葉とともに、また連絡するという部長は、もしかするとあの妄言を信じる楽観主義者なのだろうか。意外な一面を見た気がしたが、残りの時間を考えると、そのことにこれ以上執着することもない。

 琢磨はこれといって誰にもメッセージを送るわけでもなく、ただ、静かに腕の中の葉子の体温を感じていた。

「もうじきだね」

 窓の外には歪な小惑星もない。この時間にはまだ見えないから、いつも通りの、何年も何万年も繰り返されてきたこの季節、六月の午後だった。

 小規模の地震が立て続けに起こる。空から隕石だろうか。落下物が幾重にも白い筋を空に引いている。

しかし幸いにして電気はまだ通っていた。

 先日自分が経験したことのようなことが至るところで繰り返され、そしてこのようなインフラの維持が図られているのだ。

 琢磨は最後にあの仕事ができてよかったと、感傷に浸った。

 その隙にテレビをつけた葉子が例のチャンネルを点けた。『町天文学者ソラとウミのアイダの天文学解説TV』だ。

サイドテーブルには自殺薬が二人分置かれている。

「ご覧ください!」

NASA提供とテロップの入った画面に独自の音声を付けているようだ。

「あきらかに月の引力による崩壊が起こっています。画面の周辺に見えるのはすべて引力によって引きはがされた破片です」

 月の引力による崩壊が起こるならもうとっくに起こっているだろう。しかし今日にいたってもその兆候すら現れないのだ。

破片とはいえ、小さな石ころにすぎず、予言されていた四つに分解するとした姿は見えない。

 琢磨はサイドテーブルの薬に視線を遣った。

「あっ!」

 超望遠の映像には大きな天体の表面が映っていたが映像がゆがんだ。

 これといった感慨もなく見つめていた琢磨と葉子だったが、その声とともに、身を乗り出した。

 そして、揺れが襲う。マンション全体が激しく揺れた。

 地震だ。

 いよいよか。葉子に服用を提案しようかとしたその瞬間、ソラとウミのアイダが叫んだ。

「ご覧ください! 明らかに崩壊が起こっている!」

 NASA提供の映像では大写しになりすぎていてよくわからなかったが、画面の中の小惑星が激しく揺れているように見えた。

 その画像からは彼のいう崩壊は確認できない。

「タクちゃん、怖いよ」

 葉子が初めてか弱い声をあげた。

「うん」

 地震のためにサイドテーブルの上の薬がどこかに落ちたようだ。探そうとすると再び大きな揺れがあった。

「く、薬!」

 今度の揺れは大きすぎて、建物が耐えられないほどのものだった。

 ガシャンとガラスが割れる音がした。

 防災頭巾や、靴の着用もないままに最後の時を迎えようとしていた二人はその予想外の揺れにたじろいだ。

 とっさに腕時計を見た琢磨は地球崩壊の時刻まであと二時間だと確認した。

「葉ちゃん」

 激しい揺れが収まり、崩落した壁の部材や倒れた家具の中で二人は抱き合った。

「薬、どっかいっちゃったよ」

 停電してソラとウミのアイダのその後の中継はわからない。

 琢磨はスマートフォンを取り出し、映像プラットフォームのアプリを呼び出した。

「これは。これは私の予想とは若干違いますが、崩壊は起こりました。崩壊が起こったのです。小惑星ルシファーAは月と地球の引力により崩壊したのです」

 遠くでけたたましい音がした。

「ベランダに出ると危ないよ!」

 外の様子を見ようとした葉子を引き留めた琢磨は、青空から降り注ぐ隕石が引く幾筋のも白い雲を見た。

 そのはるか上空。

 この時間にこの場所では見ることがなかった小惑星のようなものが青空に見えた。

 しかしそれは見慣れていた形とは違い、半月形のお皿のように見えた。

 琢磨はチャンネルで観た四枚の皿を投げるパフォーマンスを思い出した。

「ほ、崩壊が起こったんだ」

 近くに隕石が落下した。

 激しい振動で天井の部材が落下したりしたが、リビングの空間は確保できている。

「現在確認できているのは崩壊が起こったという事実だけです。地球に四分割されたルシファーのどれか一つが落下するかもしれません。その時の影響は計り知れませんが、地球が瞬時に消滅するような事態は避けられたとみて間違いありません」

 轟音が鳴り響き、それがどんな現象によるものかはわからなかったが、空からの隕石はさらに勢いを増している。

 琢磨は玄関までたどり着くと二人のスニーカーを取り、自分はそれを履いて、リビングに戻った。葉子にスニーカーを履くように勧め、防災グッズの入ったリュックサックをリビングに降り注いだ建築部材の中から見つけ出した。

 防災頭巾を手渡した葉子の胸でスマホがまだ放送を続けていた。

「どんな気象現象や天変地異が発生するかはわかりません。しかし。しかし、地球の大地が保全されているのは事実です。みなさん、どうか、身の安全をはかってください!」



 夕闇にはまだ早く、隕石の落下は続いている。小規模な地震が繰り返され、時折大きな揺れもある。

 恐ろしく冷たい風が吹いたかと思うと、次にジェット気流のような強風が吹いて建物を揺らした。

「ねえ、ソラとウミのアイダさんのチャンネル、中断しちゃったよ」

 スマホからラジオを点けたが、この後の小惑星衝突時間を自動音声で繰り返すだけで、最新情報は得られなかった。

「そうだ」

 琢磨はスマホでSNSに接続してみた。

「あれ?」

「衝突時間だけど、まだ生きてるオレ」

「ちょちょい。空に浮かんでたアレ、小さくなってね?」

 恐る恐るベランダに出てみる。

 風が恐ろしい勢いで冷たい空気を運んでいたが、マッハの気流に吸い出されるようなことはなく、隕石の落下が続き、地震が続いているものの、大きな地割れや破局的な崩壊は、目に見える範囲にはないように思えた。

「ねえねえ!」

 ベランダでしゃがんでいた葉子が手招きした。

「?」

「見てみて!」

「何?」

 手すりから外の様子を伺っていた琢磨が、崩壊したベランダの天井部材を片付けだした葉子の元に進んだ。

「芽が! 芽が出てるよ! これ、大根!」



 世界は崩壊しなかった。

 隕石の落下や局地的な地震や津波で破局的な損害が出て、経済活動もいったんは見切りをつけられていたから壊滅的な状態での再出発をすることになった。

 世界の崩壊を信じて生命を絶った者も数知れず、生き残った者に課せられた課題はあまりにも大きかった。

 しかし。

 しかし世界は崩壊することなく、人類は再始動を始めた。





 あと何日


「部長!」

「だから、その呼び名は使うなよ」

 木瀬部長、いや、木瀬さんとともにこの場で農業を始めて三年がたった。混乱が続き、旧来の国家やシステムがそのまま再生するかどうかはまだ未知数だ。  

 しかし、人間は営みをつづける。

 木瀬と琢磨の二人でようやく作業を終える。ようやく養鶏場と呼べるものが形になった。

「ねえ、タクちゃん、見て」

 様子を見に来た葉子の軍手をした手には収穫したばかりの人参が土を付けたままで握られていた。

「おおー、やったなあ」

「これで、またおいしいパスタが作れるよ」

「そうだな」

「ちょうどいい。休憩してきな」

 木瀬さんに言われて、二人は土手に腰を下ろして空を見上げた。青い空に白い雲がたなびき、あの日にできた土星の環のようなルシファーAの残骸でできた地球の環が見える。

「ね、タクちゃん」

「ん?」

 化粧品はなく、日焼け止めも手に入らないし、これまでの艱難辛苦が葉子の顔にくすんだものを浮かび上がらせているかもしれない。

 だが、琢磨はそんな葉子の横顔がとてつもなく美しいと思えた。

「あたし、昨日さ、体調が悪いって言ってたでしょ。あのね」

「もう大丈夫なん?」

「村の診療所で診てもらったんよ」

「うん、どうだった?」

「えへへー」

 葉子がもったいつける。

「なになに?」

「あたしねー」

「どっか悪いん?」

「あたしねー。妊娠したみたい」

「な、……、なんだって」

「あたしね」

 葉子が立ち上がった。

「タクちゃんといっしょでよかったよ」

 笑顔がはじけた。

「う、うん」

 汚れた作業ズボンに男物の長靴。よれよれの長そでシャツと首元には日焼け止めのタオルと麦わら帽子の葉子が太陽を背にして眩しかった。

 地球と月はルシファーAの影響でバランスを欠いたせいで、今までの暦や経験則的な知識は何ひとつ使えなくなっている。

 だから農業も手探りでやるしかなく、飢餓の恐怖は依然として去ってはいなかった。

 しかし、琢磨には確証があった。

 人類はこれからだ。木瀬さんのバイタリティや優しさや、自分の小さな力や、葉子の明るさは人類を必ず、以前より強くするだろう。

 しかも今度は前のような失敗をしない。悲しいヒトや孤独なヒトを作らないぞ。琢磨の胸の中でなんの根拠もない自信が赤々と燃えさかった。

「ねえ」

「ん?」

「あと何日生きていけるかわかんないけどさ。またおいしいもの食べようね。今度は三人だよ」

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