3rd writer:夕空
この怪奇現象に驚くほど早く順応してしまったのは、これが自身の手掛けた書きかけの物語だからだろうか。
『内側からハッピーエンドを完成させる』
キーワードめいたこの言葉を雪穂は適当に手に取ったノートに薄い文字で書いた。作家としての癖か生来の性格か、雪穂は頭に浮かぶことをノートに書き綴る癖があった。罫線に沿って一行一行、とかそんな几帳面なものではないが。紙の上には雪穂にしか読めない文字が次々と乱雑に散らばる。一心不乱に思考を文字にする。そして、初めに書いた『ハッピーエンド』を手のスピードを緩めながらゆっくりと何度かなぞった。いつの間にか『内側からハッピーエンドを完成させる』の一節は何周もする円に囲まれ、下線が引かれ、特にハッピーエンドの文字だけが黒く黒く目立つようになっていた。
「やっぱり、これだよなあ……」
手にしていたシャープペンシルをことん、と机に寝かせて嘆息を漏らす。寝かされたままのシャープペンシルが返事をするようにくらりと揺れた。
「何、してるのですか?」
「うわっ」
雪穂は反射的に勢いよくノートを閉じる。
この物語において不可欠な人物の一人、クララがユキホの顔を覗き込んできていた。クララはしゃがむ姿勢で、机の下から顔を出していた。突然、自分のキャラクターに話しかけられたことにも困惑したが、しかし今はクララがどうとかハッピーエンドがどうとかではない。ユキホの頭の中はノートの中身を見られたか見られてないか、その二択でいっぱいである。
「み、見た……?」
「んー……見えましたが、読めなかったです」
ユキホは胸をなでおろした。ノートの中身――雪穂がこの舞台で巻き起こる物語の作者であることや、モモコ、カナエ、クララは雪穂が考えたキャラクターであること、物語をハッピーエンドで締めくくるべく雪穂が物語の世界に入ってしまったことなどはキャラクターたちに知られるべきではないだろうと雪穂は何とはなしに思っていた。ノートを隠したのはもちろんそういった理由もあるが、それはそれとして自分の思考の溜まり場であるノートを他人に見られるのは雪穂にとっては恥ずかしいことこの上なかった。
読めなかったのだとしたら、二重の意味で安心である。
クララはユキホのノートに言及することもなく、すくっと立ち上がった。雪穂は彼女が自分に一体何の用かと疑問に思う。
「お昼ごはん、一緒に食べませんか」
突然の誘いにユキホは戸惑いの表情を見せた。クララは自分から誰かを誘うキャラクターではなかったはずだ。カナエとモモコとの出会いも、確かそうだった気がする。
「……モモコが、昨日の帰りにユキホちゃんのことずっと心配していました。そしたらカナエが、『明日お昼ご飯誘ってみたら』って」
ああ、なるほど。ユキホは合点がいって強張った身体の力を抜いた。キャラクターの性格は雪穂が設定したものがきちんと反映されている。
「そういうことなら一緒に食べようかな」
そう言ってユキホはクララを見上げた。クララは穏やかな笑みを浮かべる。
「お昼休み、短いので早く行きましょう」
ドアを開けた瞬間明るくなる視界に思わず目を伏せる。風は何にも遮られることなくのびのびと辺りを駆け抜けていく。今まで学校では味わったことのない解放感を感じてユキホは一回大きく深呼吸をした。
「屋上日和ー!」
モモコは一番に太陽の下へ駆け出して行く。ユキホはモモコの後を追いかけるカナエの背中を眺めていた。次いでクララもカナエの隣を目指して歩いていく。
この三人は、晴れた日の昼休みにこうやって屋上に行く設定があった。仲の良い友人どうしで学校の屋上に集合する――執筆時に雪穂が思い描いた青春のワンシーンであった。雪穂自身、シチュエーションが定番すぎたかなとは思っている。
しかし、こうして実際に屋上に出てみるとユキホの気持ちも少なからず高ぶった。現実で学校の屋上に出たことは一度もない。照りつける太陽がいつもはうっとおしかったが、今日ばかりは心地よい。
「ユキホちゃんも早くおいで!」
カナエが笑顔で手招きする。
ユキホは我に返って「すぐ行く」とカナエに返した。モモコ、カナエ、クララが一人分の場所を空けて円形に座っている。ユキホはその空いた場所に着席した。
三人はユキホが座ったことを確認してから昼食を食べ始めた。ユキホも遅れをとらないよう「いただきます」と弁当箱の蓋を開ける。
穏やかな昼休みの風景だ。冷えた白米をほおばりながらユキホは三人を順に眺めた。
モモコは今日も購買で購入したパンが昼食のようだ。自身の顔半分を占めそうな大きさのメロンパンを器用に食べている。
昨日の一件で分かる通り、モモコは三人の中で突出して世話好きで他人を放っておけない性質である。クララが言っていたように昼時だけでなく下校時もユキホの心配をしていたとなると、随分設定に忠実である。雪穂は作者ながらに心の中で感心した。
「モモコ、今日はメロンパンですか」
「そ! 午前の授業で頭使ったから糖分補給ってね」
クララと会話するモモコにカナエが静かに寄っていく。傍目から見れば相当距離を詰めているが、モモコは全く動じない。彼女たちにとっては日常茶飯事なのだろう。
「んね、少し頂戴」
カナエはモモコのメロンパンを見つめている。
「いいよー。どのくらい食べる?」
「ひとつまみ。中のふわふわ部分だけほしい」
「メロンパンの中身だけほしがる人って珍しいですね……」
ユキホはクララと同意見だった。当のカナエはモモコからメロンパンの中身をもらって満足気である。
「カリカリ外身の内側にあるふわふわからしか得られないふわふわがあるんだよ!」
もらったパンを食べ終えたカナエは少々早口で熱を込めてこう言っていた。
カナエは普段から溌剌としていて、言動ひとつひとつに迷いが見えないようなキャラクターである。友人やクラスメイトからの信頼も厚く、他人から相談を受けることも多い。
「ところで、今日の調子はどう?」
急にカナエから話題を振られたユキホは「え」と間の抜けた声を出してしまった。いつも通りの三人を観察するのに夢中だったユキホは自分がこの空間の一部であることを半分くらい忘れていたのである。
咄嗟のことに頭が働かないユキホの横でモモコは昨日と同じ心配そうな表情を浮かべる。
「そうそう、急に誘っちゃったけど大丈夫だった? 昨日、あんな感じだったから……」
「……あ、ああ、うん。それは大丈夫。なんともない」
心配かけてごめん、気遣いありがとう、などの言葉も頭に浮かんだがユキホが精いっぱい口に出せたのはそれだけだった。
しかしこの物足りない返事だけでも三人は「よかった」と笑みをこぼした。誰一人としてまったく作り笑いではない、本物の笑顔である。ハッピーエンドを迎えるにふさわしい、心根の優しい主人公たち。それは、雪穂が誰より一番知っていることである。
雪穂はまた考え込んでしまった。今後の自分の身の振る舞いはどうすべきか、どんな行動を起こすべきなのか。雪穂が物語にかかわることで本当に『あのエンディング』を回避することができるのか。モモコ、カナエ、クララが一人も欠けることなく幸福を迎える結末とは一体……。
「……キホちゃん……ユキホちゃん!」
ハッと我に返る。いけない、つい考え込んでしまう。
ユキホが見回すと三人は顔を曇らせていた。楽しげな空気から一転してしまったこの場をなんとかしようとユキホは笑顔をつくる。
「あー、ごめんね。大丈夫。寝不足みたいでさ」
寝不足は嘘ではない。昨晩は布団に潜ってもうまく寝付けなかった。ユキホは視線が自分に集中している状況に耐えられそうになく、どうにかやり過ごそうとした。しかし、作り笑いを続けても一向に訝しげな表情は解けない。
「やっぱり何かあるんじゃない……?」
「悩みとかあるなら聞くよ」
「い、いや何もないって。本当に」
モモコとカナエに首を振って返事をする。
あと少ししのげば別の話題に移るだろうと考え、二人に押されながらも「大丈夫」の一点張りを続けた。それともこちらから話題を持ち出したほうが早いか。雪穂は笑顔の後ろでぐるぐると頭を回転させた。
「でもさっきも、教室で考え事しながら何か書いてましたよね」
余計なことを言うな。クララのひと押しはモモコの世話焼きに火をつけるには十分すぎたようだった。
「ほら、ほらやっぱり何かある! 学校のこと? 友達関係とか? それともメロンパン食べたかった?」
「ええと……メロンパンは別にいいんだけど」
ぐいぐいと勢いを増してユキホに近づくモモコをの肩にカナエがそっと手を置いて制止する。
「他人には話しづらいことかもしれない。プライベートなこととかさ」
カナエに諭されたモモコは「そっか……」と後ろに下がる。あの勢いはどこへやら、しゅんと縮こまってしまった。モモコの気まずそうな表情の向こうにある心理を雪穂は知っている。「またやってしまった」と他人に関わりすぎてしまう癖を反省しているのだ。
「ごめんね、しつこかったかも……」
私的な悩みといえばそうなのだが、雪穂としてはその悩みが心の傷だとかそういうわけではない。気まずそうにされてしまうとかえってユキホの方が申し訳なくなってしまう。
「謝らないで、大丈夫だから。その、学校とか友人とかには全然悩んでなくて……すごく個人的なことで……」
だから気にしないで、とユキホは締めくくろうとしたが、言っている途中でしまったと思った。
「しゃべりにくいこと?」
すかさずカナエがユキホに尋ねる。
「ま、まあ……多少……」
多少というか大分だが。ユキホは目線を手元に逸らし、小さな声で答える。
「いつから悩んでるのですか?」
これまでほとんど会話を聞くに徹していたクララもここぞとばかりに質問をする。
「二……か月くらい?」
ユキホは弁当箱の空いたスペースだけをずっと見つめていた。とてもじゃないが、今この三人と目を合わせられない。合わせたくない。
「なるほど、二か月間ずっと一人で悩んでると。ふむふむ」
カナエはわざとらしく真面目な顔をして頷く。
「悩みが解決しそうな兆しは?」
「今のところ…………ない、ですかね」
ユキホはカナエとクララの勢いに気圧される。作者だから分かる、これは「ユキホの悩みを解決しよう」モードだ。モモコへのフォローとして「すごく個人的な」悩みがあることをつい口走ってしまったのが悪手だった。こうなっては誰も止められない。
「教室でもずっと眉間に皺寄せてましたもんね」
「だってさ、モモコ」
しゅんとしていたモモコはいつの間にやら元気を取り戻していた。幾分か生き生きして見えるのはユキホの気のせいだろうか。
「よし、それじゃあユキホちゃんの悩み、私たちで一緒に考えよう! 一人より四人だよ!」
モモコの掛け声にカナエとクララも「おー」と応えた。ユキホに口をはさむ暇などなく決定されていく。ここできっぱりと断ることができればよいのだが、雪穂にはそれが出来ない。結局、非常に消極的な形で悩みを相談することになってしまった。
下校時刻、帰路につきながらユキホは今日の出来事を思い出していた。
急展開で、にぎやかな昼休みだった。あれ以降の午後の授業のことはあまり覚えていない。
悩みについては結局、ユキホが「すぐには言葉にできないから時間がほしい」と言って先送りにした。ユキホの要望を三人はすんなりと了承した。
「どうするのが正解なのかな……」
雪穂が抱えている悩みを本当に打ち明けるか、否か。打ち明けるとして内容をどれくらいぼかして伝えるか。『ハッピーエンドを内側から』といっても、雪穂の力で何が出来るのか。この物語は一体どこへ向かっているのか。
「わっかんないよ……」
雪穂は独り言ちて、助けを求めるように空を仰いだ。この世界に神様がいるのなら、いきなり一人でここに放り込まれた私を助けてほしい。行くべき道も分からず頼れるものもない心細さから雪穂は少し泣きそうな気持になった。
街の向こうに沈みかけている夕日はこれ以上ないほど赤く、赤く揺らいでいる。その赤が、鮮烈な血を連想させるので雪穂は不吉な感じがして速足で家を目指した。