1st writer:飴栗鼠
朝日の差し込む静かな部屋に、キーボードを叩く音が響く。
その音に合わせて、パソコンの画面には文字列が刻まれていく。画面左下の文字数カウンターが、みるみる増えていく。
『 カナエが、静かに言う。
「こんなはずじゃ、なかったのに」
その言葉は誰にも届くことなく、虚空へと溶ける。そして、ついに彼女は、屋上の端から身を投げた。』
それは、物語の悲しい幕引きのような文章であった。
幸せだった少女らが、いつの間にか後戻り出来ない不幸へ身を沈めてしまう。そんな物語が、画面上に表現されていた。
しかし、その直後、一瞬の間を置いてから、文字数カウンターは逆回転し始めた。画面上の文字が次々に跡形もなく消えていく。
「はぁ……」
雪穂は、BackSpaceキーを長押ししながら、一つ深い溜め息を吐いた。
柊木 雪穂は、作家である。
2年前、『イチゴ味の銃声』という小説が大ヒットし、一躍時の人となった。その後も何冊か小説を出版し、ファンもそれなりに多い。
しかし、彼女は今、大変な問題に直面していた。
BackSpaceキーから指を離した雪穂は、キーボードの上に突っ伏す。彼女の腕がキーを押し込んでしまい、画面上には謎の文字列が表示され始めた。
雪穂は気にせず、そのまま目を閉じる。
そのとき、インターホンの音が鳴った。そして間を空けずに、玄関の扉を叩く音。
「先生ー! 柊木先生ー! いらっしゃいますよね!」
扉越しに、聞き慣れてしまった大きな声がする。そして扉を叩くドンドンという音も止まない。
「開けてくれるまでここで騒ぎますからね! ご近所迷惑ですから早く開けてくださーい!」
鳴り止まない音と大声に、雪穂は仕方なく、のろのろと玄関へと向かい鍵を開けた。
彼女が扉を開ける前に、扉が勢いよく開く。
「おはようございまーす! お邪魔しまーす!」
騒音の犯人は、悪びれる様子もなくずかずかと室内へ足を踏み入れる。
袴田 千代子。雪穂の担当編集者である。
雪穂のデビューの時からタッグを組んでいるので、もう3年程度の付き合いになる。
千代子は、どんなに偉大な作家相手でも歯に衣着せぬ態度を取るために、何度かトラブルを起こしているという噂もある。
ただ、雪穂にとっては、彼女が強気に引っ張っていってくれることが、逆に有難いのだ。
「で、どれくらい進みましたー?」
千代子は勝手に部屋の奥へと入ると、一目散にパソコンの画面を見に行く。
そこには、雪穂の腕が入力した謎の文字列のみが並んでいて、千代子は大きく溜め息を吐いた。
「もー……先生! 納期いつだか知ってます!? 先月ですよ!?」
「ごめん……」
「これじゃ待ちぼうけじゃないですかー!!」
わんわん騒ぐ千代子に、雪穂は何も言い返すことができない。彼女の言う通り今書いている作品の納期は先月で、とっくに過ぎてしまっているのだ。
「あたしもかなり編集長から圧かけられてるんですから! これ以上待てないですよ!」
何とかしてくださいよー!と雪穂の肩を掴み揺らす千代子。何も抵抗しない雪穂にすぐに飽きてしまい、千代子は手を離すと、そのまま人の家のベッドにダイブする。
「それにしても……何で急に書けなくなっちゃったんですか」
拗ねたように千代子は呟く。
今までは納期よりめちゃめちゃ早く完成させてましたよね、と寝転んだまま雪穂の方を見る千代子。
「それは……」
雪穂はそのまま口を噤んだ。
そう、確かに雪穂は、これまで数々の作品をかなりのスピードで書き上げてきた。
千代子が納期の一ヶ月前に様子を見に来る時には、いつも既に小説は完成していた。今回のようなことは、今までになかったのである。
しかし、これには雪穂なりの理由があった。
雪穂は、幸せな物語が書けない作家だったのである。
これまで、彼女の作品はいつも残酷な程のバッドエンドだった。途中の幸せな時間は全てバッドエンドに向けた布石で、救いなど微塵もない。
しかし、今回は違った。
とある企業とのタイアップで制作する今回の小説は、企業側の意向でハッピーエンドにしなければならない。
そのため、雪穂は書いては消してを繰り返し、幸せな物語を描こうとしていた。しかし、いつの間にか、物語は不幸のどん底へと沈んでしまうのである。
雪穂には、ハッピーエンドが書けない。
そんなことは露知らず、千代子はベッドの上でうだうだとしている。
雪穂は苦笑いを浮かべるだけで、何も言えずにいた。
「あ。そうだ、これ、ファンの方から」
そのとき、突然、千代子がベッドから起き上がると、ふと思い出したかのように自らの鞄を漁る。そして一つの黒い封筒を取り出し、雪穂に渡した。
「いつもの人じゃないですか?ほら、"ジョーカー"って書いてあるし」
「あー……ありがとう」
千代子が裏面を指差す。そこには確かに"ジョーカー"と書かれていた。
雪穂がその封筒を受け取って眺めている間に、千代子はそそくさと帰り支度を始める。そして家主を尻目に、玄関の方へ向かうと、またもや勝手に扉を開けて外へと出て行く。
「じゃ、また明日来ますんで! ほんっっとに頑張ってくださいね先生!」
雪穂が返事をする前に、勢いよく扉は閉められた。
しかし千代子はこの家の鍵を持っていないため、結局雪穂が施錠しに行くことになる。それなら帰る前に声をかけて一緒に玄関まで行けばいいのに……なんてツッコミは、もう二人にとっては今更すぎるようだ。
鍵をかけてから部屋に戻ってきた雪穂は、おもむろに封筒を開封し始める。
黒い封筒のファンレター。
雪穂がこれを受け取るのは、初めてのことではない。
送り主"ジョーカー"からのファンレターは、定期的に届いていた。いつも決まって、真っ黒な封筒。
少し怪しく見えたのは最初だけで、中身はいつも丁寧な感想と応援の言葉が並んでいた。
雪穂は手紙を取り出し、読み始める。そこにはこう書かれていた。
『親愛なる柊木先生
お元気ですか?
先日、『イチゴ味の銃声』を何となく読みたくなって、読み返していました。やはりあの救いのないエンディングは、どこかクセになってしまうような、そんな感じがあります。
先生の作品は、何度読み返しても最高ですね。』
丁寧な書き出しと、過去に出版した本の感想。この送り主は、相当雪穂のファンらしい。
手紙はまだ続いていた。
『 次回作も期待しています……と言いたいところですが、聞くところによると今度の作品はハッピーエンドだそうですね。先生のハッピーエンド作品を読んだことがありませんので、一読者としては期待と不安が半々くらいです。
先生のことですから、書いては消してを繰り返しているのではありませんか?幸せな話を考えても、指が勝手に悲しい話を書いてしまう……そんな光景が目に浮かび、とても心配です。
恐らく先生は、どう頑張ってもハッピーエンドの物語を書くことはできないと思います。でも、引き受けてしまった以上は、完成させないといけないのですよね。
大変お困りであろうと思います。』
雪穂は少し驚いた。
次回作の情報は、現時点では公表されていなかったはずである。何故"ジョーカー"はそんな情報を知っているのだろうか?
そして、自分の現状を正確に当てられて、雪穂は少し不気味ささえ感じていた。
手紙は更に続く。
『 そこで、考えました。
そういうときは、物語を外側から描こうとするのではなく、内側からやるのが一番です。流石の先生もきっと、内側からならバッドエンドにはしないでしょうから。
外側、内側と言っても、中々分かりにくいかもしれませんが、それは大した問題ではありません。
柊木先生のため、私が内側への扉を開いておきました。先生は何もする必要はありません。
それでは、先生が上手く内側からハッピーエンドを完成させて下さることを、密かに願っております。
ジョーカー』
手紙はそこで終わっていた。
(う、内側から……?)
雪穂は手紙の内容に首を傾げる。
今まで"ジョーカー"からのファンレターを読んだことは数あれど、このような意味不明な文が書かれているのは初めてのことだった。いつだってこの送り主は、雪穂や雪穂の作品への愛だけを書き記して来るのだ。
それが急に、何故このような怪文になってしまったのか、雪穂には分からなかった。
手紙を机の上に置き、雪穂は先程まで千代子が居たベッドに寝転ぶ。
パソコンの画面は、もう真っ黒になってしまっていた。だが、今の彼女に再びパソコンに向かう気力は残っていない。
「……はぁ」
小さく溜め息を吐いた。
幸せな物語を描くには、どうすれば良いのだろう。
そもそもハッピーエンドとは、何をもって定義されるものなのか。
答えが見つからないまま、雪穂は思考の渦へと飲み込まれていく。
「……」
そしてもはや考えることすら放棄して、雪穂は静かに目を閉じた。
目を閉じる間際、机の上で何かが光った気がしたが、きっと気のせいだろう。
*
「……い、」
真っ白な世界の中、誰かの声がする。まるで自分に呼びかけているような……
「おーい、聞こえてる~?」
徐々にぼやけた視界が明瞭になる。目の前には、ピンク色の髪をした少女がいる。
「あ、目開いた。大丈夫そ?」
少し心配そうな顔をして、こちらの顔を覗き込んでいる。
奇抜なカラーの髪、目は大きくくりくりとしていて、まるで少女漫画の登場人物のようだ。前髪には緑色のピンが着いている。
「……え!?」
そこでユキホはようやく目が冴えた。勢いよく起き上がる。
「うわびっくりした……」
ユキホは、目の前にいる驚いた顔をしている少女をまじまじと見つめる。
ピンク色のショートボブ。大きな目。そして、前髪にはクローバーのピン留め。
間違いない。
目の前にいる少女は、雪穂の書きかけの物語に登場する『モモコ』だった。