侍女アンナの下町講座
シアルーンと侍女アンナが10年近く前に初めて出会った頃の話です。
貴族令嬢が行く当ても無い夜の街でどうすれば良いか?
下町育ちのアンナは、しっかり教えていました。
一字一句忘れずに覚えていたシアルーンも凄いです。
アンナが9才になるシアルーン付きの侍女になって半月が経った。
アンナの出身は平民である。
この国の公爵家の使用人には3種類あって、令嬢や夫人など当主の家族には、男爵や子爵など低位貴族の家の親族が行儀見習いで来る事が多い。
低位とはいえ、読み書きなどの一般教養が教育されているので、手紙の清書や令嬢の入浴や着替えの世話など、身体に触れる仕事は、この侍女と呼ばれる上級使用人が行なっている。
それとは別に、部屋の清掃やシーツの交換、お茶の用意をする中級メイドは、平民でも大きな商店のようなお金持ちで豊かな生活をしている家の娘が職に就く事が多かった。
あとは、執事や洗濯メイドや料理人、馬丁や園丁などの身分はそれぞれである。
ほんの10年前まで小さな商店だったアンナの実家だが、ここ数年で扱っていた商品が当たり、大店と呼ばれるようになった。
豊かになった父親の手配で、アンナは公爵家に行儀見習いに行けるようになったのだった。
公爵家で数年仕えると、上級の家のしきたりが学べて、より条件の良い家の花嫁に望まれるので、とても人気がある。
中級メイドとして入ったアンナは、仕事が丁寧な上、手先が器用で令嬢のシアルーンが侍女に欲しいと望んで専属の侍女に格上げされたのだった。
子供の頃は下町の小さな商店の娘だったアンナなので、下町の様子をシアルーンに話したのだが、その話を気に入ったシアルーンがせがんで、今日も下町講座が始まった。
「良いですか?お嬢様。
下町に行く時には、今着ておられるようなドレスを着て行ってはいけませんよ。
絹の豪華なドレスを着ていると、誘拐してくれって言っているようなものです。
下町では皆木綿や麻などの膝下丈のワンピースを着ているものなのですよ」
「ふーん、そうなの。じゃあ、下町に御用があってドレスをワンピースに変えたい時はどうするの?」
「そんな時は、古着屋を利用するのです。そこでドレスを買い取ってもらって安い服を買うのですが、そこでは注意しなければならない事があります」
「なあに?」
「古着屋には良い店と悪い店があって、悪い店に行くと、世間知らずなお嬢様方は売り飛ばされる事があるのですよ。
私か知っているだけでも年に数回、男に騙されて駆け落ちした令嬢が、ドレスを売りに行ってそのまま売り飛ばされた話を聞きました」
「売り飛ばされてどこに行くの?」
「そ…それはお嬢様には、まだお分かりいただけないでしょうから簡単に言いますが、売り飛ばされたら痛くて辛いお仕事をさせられるのですよ」
「じゃあ、悪い古着屋に入ってしまったら、どうすれば良いの?」
「そんな時は、世間知らずなお嬢様じゃ無いとわからせる為に、下町言葉で値切るのです」
「下町言葉?」
「はい、下町では自分の事を「ワタクシ」とは言いません。「ワタシ」、もしくは「アタシ」。
もっと下品な言葉になると「アタイ」になります。
早くして欲しい時は「いつまでグズグズしてんだよ!」
自分の身体に触られた場合は、「あたいにちょっかいかけて、ただで済むと思っているのかい!」
やめて欲しい時は「大概にしておくれ!ただでおかないよ!」
だいたいこの言葉を組み合わせて使ったら良いでしょう。
最後に「このすっとこどっこい!」を付ければ完璧です。
「あたいにちょっかいかけて、ただで済むと思っているのかい!
大概にしておくれ!ただでおかないよ!この、すっとこどっこい!」
って言えば良いのね?
うん、覚えたわ!」
それから10年近く経って、城から放り出されたシアルーンが古着屋でドレスを売る事になるとは、この時、誰も知らない。
そして運悪く悪い古着屋に入ってしまったシアルーンだったが、美しくて世間知らずに見える令嬢が、アンナに習った通りの言葉を発して、誘拐の危機を無事乗り切った事は、後日明らかになったのだった。