髪
朝。
風に揺られて騒音を立てる雨戸がぼくを叩き起こした。
何時だろう。薄暗い部屋の中では太陽の光によっておおまかな時間を推測することができない。枕元に置かれたスマートフォンで時間を確認する。七時三十分。一現の授業が始まるのが九時からで、マンションから大学までの距離は歩いて十分ほど。あと一時間は寝ていられる。乱れたタオルケットを体の上にかけなおし、枕に頭を深く沈めた瞬間、鋭い痛みがぼくの頭の中を駆け巡った。
幼いころからぼくは頭痛に悩まされていた。月に数回の頻度で頭痛に見舞われている。母は医者の元へと小学生のぼくを連れて行ったことがある。しかし、めがねをかけた小太りの医者は、ろくな診察もせず、頭痛薬の処方箋を出すことしかしてくれなかった。幸いにもその頭痛薬はよく効いた。それを飲み、一時間ほど大人しく横になっていれば痛みはひく。しかし、頭痛になりやすい体質であることは頭痛薬を飲んだところで改善されるわけではない。それからもぼくは数え切れないほどの回数、頭痛に悩まされた。その度に頭痛薬を服用しているため、いつからか頭痛がしたらすぐに頭痛薬を服用する習慣ができてしまった。
ベッドから這い出て、寝室と隣り合っているリビングへと向かった。
テーブルの上に置かれたガラス瓶の中から頭痛薬を一錠取り出し、一本のバナナで胃を起こしてから薬をのみこむ。灰色のため息をついてからぼくは寝室にもどった。
寝室の中には晩夏の不快な熱が篭っていた。部屋の中に響き渡る音は、二枚の雨戸が風に打たれて立てる音だけではないことに気が付いた。雨がコンクリートに打ちつけられる音がする。思い出した。昨日の天気予報によると、今日未明から夕方にかけて非常に勢力の大きい台風が日本列島を横断するとのことだった。
となると、交通機関が乱れて授業が中止になる可能性がある。いや、この際今日は自主休校にしてしまおう。頭痛があろうが無かろうが悪天候の中を歩いて学校に行く気にはならない。
タオルケットを払い、布団の上に片膝を乗せたとき、枕の上に一本の短い髪の毛があることに気が付いた。
ぼくはそれを手で払うと、布団に身体を預け、ゆっくりと目を閉じた。
雨戸と雨の音が更に強くなった。台風が通り過ぎるのはしばらく先のことになりそうだ。
部屋に一閃、淡い光が差し込んでいた。雨戸と雨戸の間にわずか数センチの隙間ができている。枕もとのスマートフォンに手を伸ばし、時刻を確認する。十七時。
頭の痛みは引いていたが、寝起きの余韻か、まどろみが頭の中を占領している。重い身体を起こして洗面所へと向かう。顔を洗おう。
洗面所の鏡に映る自分はひどく不健康な顔をしている。肌は青白く、無精ひげが生え、まだ瞼は完全に目覚めることなく眼球の上に鎮座している。
水道水で顔を洗い、手に残った水を使って髪の毛をとかす。だが後頭部の右側にできている寝癖はブラシを使わなければ直すことができない。髪質や髪の生え方、また寝ているときの頭の置き方などが原因だろうか、この箇所にはいつも同じ寝癖ができる。
髪の毛を整えたものの、特にこれから用事があるわけではないことを思い出し、思わず苦笑してしまう。ブラシを棚に戻し、洗面台に落ちた髪の毛を水で流した。五センチほどの黒い髪が排水溝へと流れていく。何本も何本も流れていく。
リビングの雨戸を開けると、窓の外には雲ひとつ無い橙色の世界が広がっていた。台風はすでに過ぎ去ったようだ。
リビングのソファーに腰を下ろし、タバコに火をつける。
これからどうしたものか。
今から外に出て、友人と酒を飲みに行くも悪くない。しかし、ぼくの頭痛はいったん治まったと思っても、時間が経つとぶり返すことが多々ある。そんな頭を抱えた状態でアルコールを摂取するとどうなるのか。試したことはないし、試そうとも思わない。
結局、ぼくはリビングに落ち着き、ただテレビを見るだけというある意味最も休日らしい休日を過ごした。
腹の虫も鳴り出したところで、夕飯の支度にいそしむ。といっても、男一人でできる料理なんてたかがしれている。いつもどおりのインスタント料理で舌と腹をごまかした。
シャワーをあびるため浴室に向かう。浴室に置かれた防水時計を見ると、時計の針は時刻が九時であることをぼくに教えてくれた。
針を目で追ってぼくの今日の睡眠時間を数える。昨日の晩から今日の夕方まで、ぼくは十六時間ぐらい眠り続けていたことになる。それだけ眠れば当然のことなのだが、今はやたらと目が覚めている。夜型の体内時計が完成する前に、少し無理をしてでもいつも通りの時間にベッドに入ってしまおう。
浴室から出て、ぼくはキッチンへと戻った。頭痛薬はリビングのテーブルに置かれたガラス瓶に入っているが、それ以外の薬は全てキッチンの食器棚の中に入れてある。ぼくはそこから睡眠薬を一錠取り出した。以前、病院に入院していたときに処方してもらったものだ。
この薬は、服用した瞬間意識を失うかのように眠りに落ちるというわけではない。効能は非常に弱く、眠りやすくなる程度のものだ。入院中、患者は身身体を動かすことが少なく、体力が余ってしまい、夜になっても眠れないということがよくある。こうした時に睡眠導入剤として服用するのがこの薬というわけだ。
寝室に戻りベッドに横たわった。十五分ほどで眠気がまぶたを訪れた。雨戸が一度、ガタンと音を立てる。台風一過でも少しは風が吹くんだな。そんなことを思いながらぼくは眠りについた。
翌朝
眠りすぎたせいか首のあたりの筋肉が張っている。左手で軽く揉みながら首を回す。身体を休めるはずの睡眠で身体を痛めるとはどういうことか。
朝食を食べ終え、部屋中の掃除を始める。布団からシーツを剥がそうと枕を持ち上げようとしたとき、ぼくは枕の上にあるものが落ちていることに気が付いた。
そこには一本の髪の毛が落ちていた。髪の毛が枕元に落ちていること自体は不自然なことではない。問題はその髪の長さだ。
髪は黒く細く、そして長かった。
髪を枕の上から払い落とす。そこにはもう一本、髪が落ちていた。昨日の朝、頭痛薬を飲み、眠る前に枕から払い落とした髪だった。その髪は、黒く細く、そして短い。
その短い髪こそ、紛れも無い、ぼくの髪だった。
ぼくしか使っていないベッドにぼく以外の誰かの髪が落ちている。ありえない話ではなかろう。整合性のある答えは少なくとも二つ考えられる。
このベッドをぼく以外の誰かが使用し、その際その何某の髪の毛が落ちたのだ。
もしくはぼく以外の誰かが、主たるぼくの断りなくこの寝室に入り、その際その何某の髪の毛が一本落ちたのだ。
だがこれらはありえ無い。まず一つ目の仮説について。単刀直入に言おう。ぼくはこの家に長髪の人物を挙げたことは一度も無い。
ではぼくの知らぬ間にこの髪の持ち主が部屋に侵入したのではないのか。あり得ない……とは言いきれないが、それも事実からは遠いような気がする。ぼくに気づかれないように部屋に忍び入るということは、おそらくその人物の目的はただ一つ、泥棒であろう。だが、調べてみたところ、特にこの部屋から貴重品が無くなった形跡はない。本棚の上にぽつんと置かれた緑色の貯金通帳さえ手をつけられていない。となると、侵入者=泥棒説もまたあり得ないことになる。いや、その侵入者Xがそもそも泥棒ではないとしたらどうか。なるほど、それなら整合性が保てそうだ。だが、そのXは窃盗以外の何の目的でこの部屋に侵入したのだろうか。
考えすぎだ。もっとシンプルな答えがあるじゃないか。
この髪はぼくが部屋に持ち込んだのだ。
もちろん意図してそうしたわけではない。たぶん、外出した際、この髪が衣服のどこかにくっついて、ぼくと一緒にこの部屋に入ってきたのだろう。
街を出歩けば、長髪の人なんていくらでもいるじゃないか。大学に行けば、長髪の知り合いもたくさんいる。誰かの髪が一本、ぼくのセーターにくっついてここまで運ばれた。ただそれだけだ。
ぼくの髪と見知らぬ誰かの髪、二本の髪をまとめてつまみ、ごみ箱に投げ入れた。
洗濯機のスイッチを入れ、掃除機をかけ始める。リビングの床に掃除機をかけているときに、スマートフォンが掃除機の音に負けじとけたたましく鳴り響いた。飲みの誘いの電話だった。ぼくは掃除を早めに切り上げ、洗濯物を素早く干してから外出の準備を始めた。
千鳥足で帰宅したぼくは上機嫌だった。
ぼくはあまり酒に強くない。だが酒の席の雰囲気は好きだ。酒という潤滑油が胃に供給されると、その人の本音がポロリポロリと卓上に吐き出される。多くの酒飲みは一晩経つとこのつまみの味を忘れてしまうらしい。だがぼくは違う。ぼくはしっかりとその味を覚えている。普段は語れないあいつの本音をぼくは知っている。そんなどうしようもない優越感を持つことにぼくは至極の喜びを感じていた。
寝室に入ると、衣服を脱ぎ捨て、下着一枚の姿でベッドに倒れんだ。いつもよりベッドが冷たい感じがしたが、酒を(少々)飲み、火照った体にはむしろ気持ちよかった。
今朝は明るい太陽の光が差し込んでいたこの部屋に、今は窓の外の冷たい街頭の光が差し込んでいる。青白い天井をみつめるぼくの視界は、ゆっくりとまどろみにおぼれていった。
翌朝。
部屋の中に灰色の雰囲気が漂っていた。寝ころんだまま窓を介して空を見上げると、まるで世界に蓋がされたかのように、一面にぶあつい雲が広がっていた。
あることに気がついた。ぼくが寝ていたベッドの上には、敷布団もシーツも無く、むき出しのマットレスが置いてあるだけだった。昨晩、ベッドが妙に冷たく感じられたのは直接マットレスに体を預けたせいだったのか。
ぼくは今の今まで昨日洗濯をしたことをすっかり忘れていた。家を出るとき『帰ってきてから取り込めばいい』なんてずぼらなことを考えていたせいだ。
服を着る。リビングのベランダから洗濯物を取りこむ。衣服はソファーの上に置き、敷布団やシーツ、枕カバーはベッドの上へと運んだ。
敷布団を敷くために枕をどかそうと思い、枕の方に目を向けた瞬間、体中の血が凍るような感覚がした。
枕の上に、黒く細く、長い髪の毛が落ちていた。一本ではない。何本もの髪が連なり、絡まり、枕の上に馬蹄の形を作っていた。その大きさは、成人男性の頭ほど。
口の端から短い悲鳴が漏れ出た。思わずのけぞり、床の上に尻餅をついてしまった。
嫌が応でも昨日の事例と比較してしまう。髪の毛の量が増えていることも恐ろしいが、何よりも恐ろしいのはそれが形を作っていることだ。馬蹄の形を作っている髪は、――それが置かれている場所が枕の上という環境的なものも関わっているのかもしれないが――まるで人間の頭のように見える。
昨日の今日でここまで量が増えているということは明日には……
バカなことを考えるんじゃない。
ぼくは立ち上がり、枕に近づいた。枕カバーの口の部分を外側に折り返し、裏返しにする要領で枕から取り外す。枕カバーの中を覗き込むと、そこにはしっかりと髪の束が入っていた。ぼくは枕カバーの口を締め、そのままゴミ箱に投げ入れた。
その日は午後から授業があった。大学に行き、一応は授業に出席はしたものの、教室の最後尾の机を陣取ると、目を閉じ、思案を始めた。
あの髪はどこから来たのだろうか。
初めてあの髪が枕の上に現れたとき、それは一本しかなかった。また、長髪の人物がぼくの部屋に入ったという可能性も排除された。そしてぼくは次の答えを導きだした。この髪はぼくの衣服に付着し、意図せずぼく自身が部屋の中に持ち込んでしまったのだ。ここまでで不合理なことはない。
問題は今朝の出来事だ。この仮説で今朝の出来事を説明するには無理がある。酩酊していたとはいえ、ぼくはあれだけの量の髪を気づかない内に室内に持ち込んだというのか。
では答えは決まりきっている。侵入者説で決まりだ。それ以外に何がある。
だが、何のためにこんなことをするのか。寝ているぼくの頭の後ろに髪を置いていくなんて。
ただのイタズラじゃないのか。もしくは嫌がらせとか。
そんなことされる覚えはない。適当なことを言うな。
声を張り上げないでくれよ。ぼくだってまじめに考えているんだから。ねぇ、ぼくは協力しているんだよ。それなのに怒るだなんて。
そんなつもりじゃ……そうだな、ぼくが悪かったよ。
いいんだ。それよりもさ。きみ、家の中にいる時も玄関の鍵はかけているのかい。
かけている。
窓は?
夜眠るときは必ず閉めているよ。エアコンをつけているし。
うーん、となると……分かった!きっと侵入者は堂々と玄関から入ってきたんだ。家の鍵のスペアを誰かに預けたりはしていない?
ぼくの家のスペアキーを持った誰かが夜中にぼくの部屋に侵入したってことか。残念ながらスペアは誰にも渡していないよ。今も部屋の机の中で眠っている。
誰かがこっそり合鍵を作ったってことは?
ありえない。ぼくのマンションの鍵は簡単にスペアを作れるものじゃないんだ。ほら、この鍵は集合玄関のオートロックを開ける役割も担った特別な鍵だからさ、スペアとか合鍵を作るときは管理会社を通して特別な業者に頼まないといけないんだ。
ふむ、となると、犯人は一人にしぼられたね。
誰さ。
きみだよ。
ぼくが犯人!何を言っているんだ。ぼくは被害者だぞ!
正確に言おう。きみは夢遊病を患っているんだ。きみはここ数日、眠りについた後に意識なく起き上がり、街に出歩き、夜道を行く女性の長髪を引きちぎっては家に持ち帰っている。そういうわけさ。
バカげている。
そうかな。今までで一番合理的な結論だと思うけど。表の自分と裏の自分。きみでありきみでないもう一人のきみが真犯人なのさ。
もう一人の自分だなんて……いや、待てよ。さっきからきみは何なんだ。きみは誰だ。今は授業中じゃないか。ぼくは一人で考えていたんだ。なんだ、さも当たり前のように会話なんてしやがって。人の頭の中に入り込んできて、きみは一体誰なんだ。
返事はない。ぼくの言葉がぼくの頭の中で虚しく響き渡る。
閉じていた目を開けると、静寂の教室の中で、ぼく以外には誰もいなかった。
授業はすでに終わっていた。
頭痛がする。
大学を出て家へと帰る途中に、頭が痛み始めた。かばんの中からピルケースを取り出し空けてみると、いつも常備しているはずの頭痛薬が一錠も入っていなかった。一週間ほど前に最後の一錠を飲んでから、補充し忘れていたのだ。
早く家に帰ろう。
家に帰れば、頭痛薬はいくらでもある。テーブルの上に置かれた小さなガラス瓶の中には頭痛薬が大量に詰め込まれている。次に薬を処方してもらうのはだいぶ先のことになるだろう。
マンションに着いたころには、痛みがより強くなっていた。集合玄関に設置されたポストの中をチェックすることなく自分の部屋へ向かう。
頭痛薬を飲み込んだ後、薬を飲む前に何も食べていなかったことに気がついた。薬を飲む前に軽く胃にものをつめることで、胃が働き始め、薬も早く消化される。その分薬の効き目も早くなる。ぼくの中では常識であり、習慣でもある。それなのに。
タオルケットに丸まっていても眠気は一向に訪れなかった。眠れない理由は分かっている。姿勢を変えようと身体を右にひねると、ゴミ箱に詰め込まれた枕カバーが目に入ってきた。すぐに目を強くつぶり、身体の向きを元に戻す。
眠ることが怖かった。どんなに心地よく眠れたところで、目覚め、自分がそれまで頭を預けていた枕を見れば、そこには純然たる恐怖がぼくを待っているに違いない。
眠りたくない。眠るのが怖い。朝が怖い。
心なしか頭痛がいっそう強くなった気がする。頭痛薬がうまく消化されていないのだろうか。早く眠ってしまいたい。眠ってしまえばこの痛みから開放される。まさか夢の中でも同じ痛みに悩まされることはないだろう。
相反する欲望がぼくの心の中、どこか深く過敏なところで競り合っている。眠りたい。眠りたくない。眠りたい。眠りたくない。
ベッドから降り、キッチンへと向かう。勝負あり、ぼくは薬棚から睡眠薬を取り出した。
考えてみれば、髪の毛の恐怖は気の持ちようで何とかなる。だがこの頭痛は、どんなに気持ちを整えたところで抑えることができるようなものではない。
食パンを一枚無理やり腹の中に詰めこむ。機能的な食事だ。味などどうでもよい。
コップに水道水を注ぎ、睡眠薬を一錠飲み込む。食パンを追うように睡眠薬は食道を滑り落ちていった。
寝室に戻り、タオルケットだけを手に取りリビングに戻る。ソファーに横になり、タオルケットを身体にかける。
もしかしたら、あのベッド以外の場所で眠れば、髪の毛なんて現れないかもしれない。試してみる価値はあるだろう。
確かに、試してみる価値はあった。だが、試したところで結局はぼくの恐怖が更に加速されただけだった。
朝起きると、ソファーの上には、黒く細く、そして長い髪が大量に落ちていた。
その量は以前にも増して増え、今や人間の上半身の形を作っていた。
気がつくとぼくは繁華街の中にいた。何故ぼくの足が無意識のうちにここにたどりついたのかは分からない。
フラリフラリと足を進ませているうちに、恐怖心が和らいできた。
ぼくではない誰かの髪。たしかに不気味ではあるものの、それがぼくを食って襲い掛かるわけではなかろう。こんなものに比べたらそこいらを歩いているチンピラの方が恐ろしい。
少しずつぼくの心は平穏を取り戻し始めた。
そうだ。ぼくは何に怯えているんだ。ただの髪、ただの髪じゃないか。そんなものにどうしてぼくがビクビクしなければいけないのか。まったく馬鹿げている。
腹が鳴った。腕時計を見ると時刻は午後の二時を数分回っていた。ズボンのポケットに財布が入っていることを確認してから、目に付いたファーストフードの店に入る。昼のピークは過ぎたのだろう。三つあるレジの内二つは閉じられていた。店内にいるぼく以外の客は、唯一稼動している一つのレジ前で注文している大学生風の男性と、その後ろにいる杖を突いたおじいさんだけだった。ぼくはおじいさんの後ろに立ち順番を待った。
その時、ぼくの右横に二階へと続く階段が設置されていることに気がついた。ちょうど人が二階から降りてきた。その人は女性だった。その女性の髪は、黒く細く、長かった。
目の前の世界がねじれ始めた。
平衡感覚が保てなくなり、両膝が床に着く。店内の照明が消えては点き、消えては点きと点滅を繰り返した。
暗い、明るい、
暗い、、明るい、、
暗い、、、明るい、、、
暗い、、、、暗い、、、、暗い、、、、
一面に暗闇が広がっていた。手を上げてみるが、その手が目の前には見えない。自分の身体さえ見えない、真の暗闇。
そんな暗闇の中で、両方の足首に冷たい感覚がまとわりついた。何かがぼくの足首を掴んでいる。手を伸ばし、ぼくの足首を締め付ける何かに触れようとするが、暗闇の中でぼくの手はその何かを見定めることができず、虚しく空を切る。
足首を掴む力が徐々に強くなってきた。それに付随して足首に痛みが走り始めた。
突然、体が後ろに傾き、掴まれている足首が宙に浮いた。ぼくの足首を掴む何かがぼくを持ち上げたのだ。
張り詰めんばかりの叫び声がぼくの口からあふれ出る。頭に血が上ってきた。全身の筋肉が不快に硬直している。足首を掴む何かに向かって両手をふりまわす。すると、その両手にも先ほどの足首と同じ冷たい感覚がまとわりついた。とっさに手を引くが、腕はキッチリと拘束されビクともしない。両手を掴む力も両足の時と同じように徐々に強くなり、痛みが走り始めた。
暗闇の中にぼくの叫び声が響き渡る。やがて叫びは嗚咽に変わった。ぼくの嗚咽の声に混じって、どこかからぼくの声とは別の音が聞こえる。ギリギリの所で締まり切っていない蛇口からポタポタと垂れる水のような音。聞こえている音はそれだけではない。何かを引きずるような音もする。それらの音が徐々に大きくなってきた。徐々に、徐々に、徐々に大きく。
「助かる」という言葉ではなく「逃げなければ」という言葉が頭を過ぎった。近づいてきている何かがぼくに危害を加えるものであることを、ぼくは本能的に察知した。
逃げなければ。だがどうやって?両手足は固く縛られている。ぼく一人の力でどうにかできる代物ではない。それに、仮にこの拘束が解かれたところで、ぼくは一体、この暗闇の中どこに向かえばいいのか。ゴールのないマラソンならば、自分でゴールを作ればいい。スタートラインから少しでも違うところまで走れば、それがゴールとなりうる。本人が納得するならそれでいい。だが、ぼくの場合はマラソンとは違う。どこまで行っても闇が続く。どこもかしこもスタートラインと変わらない。ぼくは一歩も走ることができない。どこまで走ってもそこはスタートラインとなんら変わらない。
何かを引きずる音は止んだ。しかし、水が滴り落ちる音は相変わらず聞こえている。今、その音はぼくの目の前から聞こえている。宙吊りのぼくの目の前は相変わらずの暗闇。だが、ぼくの目の前に何かが立っていることは察知できた。刺激臭が漂い始めた。人間の嫌悪感をかき立てる臭い。ぼくは耐え切れず咳き込み始めた。咳き込みは止まらない。のどが痛む。呼吸も上手くできない。苦しい。
その時、暗闇の中に黄金色の光が一つ輝いた。光ががぼくの方に向けられた。焦点が定まらないかのようにフラフラと揺れ動いている光。足、胴体、右腕、左腕。光がぼくの身体を舐め回すように動き回る。最後にぼくの頭を照らすと、光はその動きをはピタリと止めた。光量がよりいっそう強くなった。徐々に目が慣れていき、暗闇の中に自分の右手が現れた。だが、そこにあるのはぼくの両手だけではなかった。両手首にひも状の物体が巻きついていた。はじめ、それは黒いロープか何かかと思った。しかし、そうではなかった。よく見るとそれは一本の紐ではなく、細いひも状の物体が何本も重なり一本の巨大なひもを形成していた。
黒く細く、そして長い髪。
何本もの髪が束ねられ、ぼくの右手を締め付けていた。右手だけではない、左手も両足もまた同じように髪の束に拘束されている。髪の束はぼくの正面にある黄金色の灯りのほうに向かって伸びている。
両手足を掴む力が更に強くなり始めた。四肢に走る痛みが更に強くなった。ノドは咳のし過ぎでかれてきた。この異臭のせいだろう。鼻には粘膜が焼けるような感覚が走っている。
光が激しく点滅し始めた。そして、その点滅する光がゆっくりとぼくに近づいてきた。いや、そうではない。髪だ。髪がぼくの両手足を引っぱり、黄金色の光との距離を縮めているのだ。
徐々に光に近づいていく過程でぼくは二つの音を耳にした。一つは先とおなじ、水が滴り落ちるような音。そしてもう一つ、耳を澄まさないと聞こえないほど小さく、パチパチと静電気が発生したかのような音が繰り返し繰り返し聞こえる。どちらの音も光の方から聞こえている。だが、今のぼくにそれが何の音なのかを推察する余裕はない。
点滅する光が大きくなるにつれて、頭の中のパニックはより大きなものとなっていく。逃げ出そうと四肢をバタつかせるが、力強く拘束した髪の束がその力を緩める気配はまったくない。むしろ、自分が逃げられない立場にいることを再認識してしまい、混乱が更に加速した。
光が徐々に大きくなっていく。それに伴い暗闇はぼくの視界の淵に追いやられ、徐々にその面積は狭くなっていく、いや、消えた。今やぼくの視界は黄金色に染め上げられた。不思議と痛みはなくなっていた。異臭もしない。ノドの痛みもなくなっていた。それどころか、身体が軽く、気分が良い。つい先ほどまでの苦しみが嘘のように思えてきた。自分の意志で身体が動かせた。先ほどまで髪の束が絡みついていた自分の腕に視線を送ると、そこにぼくの腕は無く、ぼくの腕があるべき場所に、ぼくの腕ほどの太さの黒髪で作られた腕があった。腕だけではない。足があるべき場所にも胴体があるべき場所にも同じように黒髪が束ねられていた。
ぼくは自分の顔を触ろうと腕を挙げようとした。すると、ぼくの視界の右に置かれた腕ほどの太さ黒髪の束が、震えながら顔に近づいてきた。
口を開け、悲鳴を上げようとした。だが、悲鳴は出ない。変わりにのどの奥から空気の塊のようなものがポンッと漏れ出た。
ファーストフード店でぼくはほんの数分だけ気絶した。意識を取り戻し、始めに目に入ってきたのはぼくを見つめる四つの顔だった。
床の上に横臥するぼくに向かって四人の内誰かが声をかけてきた。ぼくは立ち上がり、つんのめるようにして店の出口に向かって駆け出した。後ろから声が聞こえた。いくつかの声はぼくの行動を咎めていた。そして、それらの間にまぎれた一つの声をぼくは確かに耳にした。
――おい、この髪はなんだ――
身体の震えが止まらない。
それもそのはずだ、僕は湯が貼られていない湯船の中に裸で座り込んでいた。
そうか、お湯を出さないと。
震える手で水道の蛇口をひねる。湯気を発するお湯を見ていると我慢ができなくなり、思わず両手を前に突き出す。鋭い痛みが走り、湯から手を離した。両手が赤く腫れている。だが、震えは止まった。それだけでこの行為には十分価値を与えることができた。
その後はおとなしく湯船の中に座り、お湯が溜まるのを待った。
ぼくは狂ってしまったのだろうか。
始まりは、一本の髪の毛だった。枕の上に落ちていた一本の髪の毛。講義中に行われた見知らぬ何者かとの会話。更に増える髪の毛。ファーストフード店での意識の喪失。そして、あの光。
お湯が肩の高さまで上ってきた。蛇口をひねり、お湯を止める。身体の震えが止まった。お湯の温かさが心地よい。緊張が解ける。全身の筋肉が弛緩する。疲労が湯に溶けていく。
狂ってなんかいない。
何故なら、ぼくは恐れているからだ。狂人は自分の行動を理性的な行動として捉える。ぼくらにとってはどんなに馬鹿げた行動であっても、狂人にとってそれは狂人の論理に従った全うな行動なのだ。
理性と狂気は相対的ということか。
その通り。絶対的に正しいということなんて誰にも言えないのさ。
それでも、きみは狂っているよ。
そうだね。ぼくは狂っている。でもそれは狂人にとってという意味だろ。ぼくにとって狂人の論理が狂気ならば、狂人にとってもぼくの論理は狂気ということになる。
きみは勘違いしているよ。
勘違い?
きみは自分を不変なものだと思っている。自分が常に自分という、一つの変わらないものだと信じきっている。そうじゃない。自分は可変なものだ。自分はいくつもある。こう言ってもいい。自分は多面的なものだ。一つのサイコロに六つの違う面があるように、一つの自分に複数の違う顔がある。顔は一本の丸い柱を取り囲むようにそれにかけられている。一陣の風が吹くと柱は好き勝手に回転を始める。右に回転するときもあれば、その逆もまた然り。とにかく、柱は好き勝手に動き、好き勝手に止まり、好き勝手に震える。顔はいくつもあるが、正面は一つだけだ。その顔が正面を向いているとき、その顔は世界に現れる。世間の目にさらされる。分かるだろう。きみのその顔は狂気に陥っていない。だが、きみであり、きみではない別の顔は、今きみの後ろで自分の出番を今か今かと待ち構えている別の顔は、正真正銘純粋に、完璧で絶対的で他の追随を許さない狂人だ。分かるだろう。
分からない。
うそだね。
本当だ。
強情だな。
事実だもの。
そうか。それなら仕方が無いな。身をもってぼくの哲学を学んでもらうしかないようだ。彼女はどこまで成長したんだい。ちょっと見せてくれよ。
おい、何しているんだ。くそ、なんだここは。真っ暗じゃないか。電気を消したな。ここはぼくの家だぞ。勝手なことをするな!
なるほど。他のやつに比べて少し成長が早いな。まぁいいだろう。予定開花時間は明日の朝六時だ。ぼくとしては是非ともきみに立ち会って欲しいんだが。まぁどうするかはきみの自由だ。好きにしなよ。
見開かれた目の中に、バスルームの白亜の天井が入ってきた。自分が風呂に入っていたことを思い出した。眠ってしまったのか。身体が暖かい。いや、熱い。先ほどまで熱を求めて震えていた身体が、今は冷ましてくれと懇願している。
風呂から出よう。湯船に沈んだ身体を持ち上げようと両腕を湯船の両端に置いたとき、ぼくの目の前にその光景が広がってきた。
湯船の水面が隙間なく黒に染まっていた。水が黒く濁っているのではない。水の上に何かが浮いているのだ。水面を覆い隠すほどに大量の黒い――
それ以上考えたくなかった。ぼくは浴槽から這い出るように逃げ出した。体中に黒い髪がまとわりついている。両手を使って、肉を削ぎ落とさんばかりの勢いで、まとわりついた髪の毛を剥がした。爪で傷をつけられた皮膚が赤く染まる。右腕からは血が吹き出始めた。体中にかゆみを感じる。自分の身体に激しい嫌悪を覚える。それが、まるで自分のものではないかのような、激しい嫌悪を。
朝を迎えた。朝を迎えてしまった。最後の朝がぼくのもとへと訪れた。
気分が良い。人生の最後に、気持ちよく眠ることができてよかった。ベッドの上には大量の髪が落ちている。それらの髪はベッドの上に、人の形を作っていた。
頭、肩、胴体、腰、両腕、両足。
常にぼくの後ろに隠れていた彼女。一本一本の髪に生が注ぎ込まれる。そして彼女が生まれた。ぼくの背後で常に自分の番を待っていた彼女が生まれた。
彼女は上半身だけを起こし、一度伸びをした後、ぼくの方を見た。
彼女がベッドから出て、立ち上がる。対照的にぼくの身体は力を失い、だらしなく床に尻餅をついた。
恐怖は無かった。すべて理解していた。
彼女の顔、顔があるべき場所に黄金色の光が輝き始めた。光は歓喜の音を立てていた。彼女は興奮している。表舞台に立てたことに感動し、涙を流している。
彼女が足を滑らせながらぼくに近づいてきた。何本もの髪で枠どられた足は、床を力強く踏みしめながらぼくに近づいてくる。
彼女の腕が僕に向かって伸び始めた。その腕は四つに別れ、ぼくの両手足を掴むと、そのまま宙に持ち上げた。腕が元の長さに戻っていく。ぼくの身体が彼女の顔に近づく。黄金色の光がよりいっそう激しく輝き始めた。
彼女はぼくを一口で飲み込んだ。ぼくは光に包まれた。黄金色の光は暖かく、やさしく、そして時にぼくを励ましてくれる。




