2. サーモンの回顧録
サーモンたちがひしめき合うバットは遠目で見てもその脂の輝きがわかり、特に冷蔵ショーウィンドウに入れられているものは照明によって鮮やかなオレンジ色で通りがかる寿司ネタたちを魅了した。ネタたちは彼女たちを見る度に口々に言う。
「羨ましい、あんな脂に包まれたい」
「なんて美しく、美味しそうなんだ」
そんな囁きを聞いた一切れのサーモンは眉間に皺を寄せてため息を吐いた。
確かにこの身を包む程よい脂は食べる者の舌を喜ばせ、いつまでも続く旨味の余韻となるだろう。しかしこれは諸刃の剣、一度他のシャリ玉や寿司ネタに触れてしまえばその綺麗な体を汚し、『握り』にもなれなくなってしまう。その為「サーモン」として生まれた寿司ネタは誰にも触れられず、触れてもらうこともできないのだ。友人と小突きあうことも、恋人と愛を確かめ合うことも。
羨ましいものか、あげられるものならこの脂をあげたい。そんな未来永劫に無理なことを吐いた息に込めたサーモンは、のそのそとバットを抜け出して恋人であるシャリ玉の元へ向かった。
いつもと同じ待ち合わせ場所にいたシャリ玉をサーモンはすぐに見つけ、駆け寄ろうとするも一度立ち止まった。横にあるガラスの器に写った自分を見て、今日も変わらない脂か、オレンジ色かを確かめて笑顔を作る。
大丈夫、今日の私も。
来る寿命(使用期限)を頭の片隅で考えながらそう言い聞かせたのだ。
「お待たせ」
「いや、そんな待ってない」
遠目からも目立つ白くふっくらとしたお米で丁寧に握られたであろうシャリ玉のフォルム、その楕円の美しさにサーモンは今一度見惚れていた。サーモンがもしマグロやタコのようなさっぱりとした寿司ネタであれば彼の上に乗って『握り』になれたのかもしれない、けれどもそれができないサーモンとシャリ玉は触れるか触れないかの数ミリの距離で語り合う。今日は何が切り出され寿司ネタとなった、新しいシャリ玉は少しだけ握り方が甘い、手巻き寿司用の海苔の風味が良い、そんなありふれた会話。他の恋人たちはじゃれ合ったり、時には最大の愛情表現『握り』になったりする中、サーモンとシャリ玉のこの相瀬はおままごとのように見えるかもしれない。けれどもサーモンにとってはこの時間が何よりも幸せだった。
それでも、どうしてもサーモンは考えてしまう。この数ミリの距離を詰めてしまいたい、仄かに香る甘酸っぱいシャリ玉の匂いを全身で感じて抱きしめてほしい。そんなことをしてしまえばシャリ玉は『握り』になることも『いなり寿司』になることもできなくなってしまうのだが、そう焦がれてしまうのだ。近くて遠いこの数ミリが幸せな時間に影を差す。
「何考えてんだよ」
シャリ玉はサーモンの顔が少しだけ強張っているのに気づき、その視線を辿る。空いた数ミリの空間、そこに注がれた視線にシャリ玉も少しだけ悲しい顔になりながらもいつもの茶化すような声色になった。
「そんなに気にするならいっそ、『握り』にでもなるか?」
「馬鹿言わないで。そんなことしたら……」
その先をサーモンは言えなかった。
茶化すような声色でもシャリ玉の顔は真面目で、馬鹿なことを言っているつもりはなかったのだ。その真剣な顔に何も言えなくなったサーモンは彼から顔を逸らすことしかできず、言う予定のなかった言葉が口から出てきてしまう。
「不安なの。このたった数ミリの距離がいつか私とあなたを切り離してしまう程になるんじゃないかって」
サーモンはその脂ゆえに『握り』となれるのは一生に一度だけ。その姿は他の握りたちと比べて脂が程よく照り、白木木目の盛付台ではそれはそれは美味しく輝くのだが、サーモンらにとっては最初で最後の晴れ舞台となる。愛し合ったものと『握り』になれる可能性は高くない、盛付台でしとしとと涙を流す先輩サーモンを何切れも見てきたこのサーモンにとっては耐えられない業だった。きっと自分もこのシャリ玉と『握り』になれず、彼が他のネタと『握り』になっているのを外野で見ているのだろう。もしかしたら自分も会ったこともないシャリ玉と『握り』になって彼と一緒に盛付台にいるのかもしれない、そんなことになった暁にはサーモンは身を切る想いをするだろう。
「俺さ、お前と付き合うことになったとき。親友のシャリ玉に言われたよ、『他にいい寿司ネタはたくさんいる。脂のある寿司ネタは身を滅ぼすぞ』って」
シャリ玉の言葉に顔をくしゃりと歪ませたサーモンは目から零れ落ちる涙を堪えるのに必死で返事をすることができなかった。そんなサーモンを蕩けるような目でシャリ玉は見つめ、心底「恋人になれてよかった」と思ったのだった。
「でも俺は後悔してない」
親友の言うように一度触れてしまえば自分の運命は真っ暗だ。『握り』になれないどころか『いなり寿司』にもなれない、ただの生ゴミへとなり下がってしまう。だから誰もが脂のある寿司ネタのことを羨ましがる一方で遠巻きに見つめ、高嶺の花のような扱いをしていた。同じ空間にいるはずなのに、さながらテレビの向こう側にいる芸能人の扱いであった。
シャリ玉とて最初は「綺麗だな」という月並みの表現でサーモンを見つめていたが、ふいに彼女を見た時に自身の胸が高鳴ったのを感じてしまったのだ。皆が口々に賛美する中、物憂げに作業台の端を歩く彼女は「美しい」と形容するには失礼なほど、どこが芸術的なものを感じ、気づけば声を掛けていた。
唐突なことに当時はサーモンも訝しみ、親友にも「やめておけ」と言われるほどだったが、今でもシャリ玉はあの時声を掛けたことを、こうして恋人になっていることを後悔したことは一度もなかった。
「確かに他の奴らと違って触れ合うことはできないけど。もし、お前の最初で最後の『握り』に俺が選ばれたらそれは運命だろ?」
「そんなの、どれくらいの確率かも分からないのに……」
「その少ない確率で選ばれたら、ってことだよ。今まで触れられなかった分、俺たちは盛付台の上でどんな『握り』よりも愛を確かめ合った姿でいられる」
それってどんなことよりも素敵なことだろ? そう優しくも意地の悪そうな顔で笑うシャリ玉にサーモンはさっきまで悩んでいたことが馬鹿らしくなったのか、つられて声を上げて笑ってしまった。
彼と一緒にいれば、この数ミリの距離も好きになれそうだった。
* * *
「な? 悪い話じゃないだろ?」
「お断りよ」
サーモンは目の前の手巻きご飯に辟易していた。
最近の日課である作業台の散歩からバットへ帰る途中、目の前に大きな影が差したかと思うとすぐそこには真四角の海苔に酢飯を広げられた手巻きご飯がいたのだ。まだ手巻きご飯になって時間が経っていないのか海苔はパリパリとし、磯の匂いがサーモンの鼻を擽る。広げられた酢飯も程よい厚みで包まれるには丁度いい、見る人が見れば魅力的な手巻きご飯だろう。
そんな周りが放っておかないだろう手巻きご飯が一体自分に何の用なのか。サーモンが身構えると手巻きご飯はこんな提案をしたのだ。
俺と一緒に『手巻き寿司』にならないか、と。
「実はもう、ツナとサニーレタスには声を掛けてあるんだ。あとは君が了承してくれれば、俺たちは誰もが唸る『ツナサーモンレタス(手巻き)』になれる。どうかな?」
まるでこれ以上ない提案だ、と言わんばかりの顔をした手巻きご飯は全員で『手巻き寿司』になった姿を想像し、顔がにやけるのを我慢するのに必死だった。
磯の香ばしい匂いに酢飯、そこにまた一枚サニーレタスが挟まることにより、種類の違うパリッとした二層の触感を味わうことができ、その先で漸く到達するのは脂がよく乗ったサーモンとツナ。ツナだけではパサつきが出てしまうのでマヨネーズも適量加えられ、さながら寿司を食べているようでサラダを食べている錯覚を起こす、新感覚『手巻き寿司』が完成されるのだ。そんな『手巻き寿司』になれるなんて至上の幸福だろう、そんな顔をした手巻きご飯にサーモンは平手打ちの如く突き放す。
「私には恋人がいるの。だから他を当たって頂戴」
寿司ネタには何通りかの将来がある。
『握り』の他にも『手巻き寿司』『ちらし寿司』『巻きずし』など、多種多様である。中でも『握り』はありのままの姿でいられるため多くの寿司ネタが憧れているのだ。淡いベージュ色の白木木目の上で真っ白なシャリ玉に被さる寿司ネタ、その姿は色味に関わらず見る者を魅了する美しさがある。
次に人気があるのが『手巻き寿司』だった。子供から楽しめるお手軽さ、また他の変わり種と一緒に食されるため寿司ネタ本来の味だけでなく未知の領域へと味覚を誘う、魔法のような寿司。
けれどサーモンにとっては恋人であるシャリ玉がいる、というだけでそのどれもがどうでもよかった。
「なんだよ、つれないな」
手巻きご飯は少し面を食らったが、却下されたことが気に食わなかったのかサーモンへと一歩詰め寄る。サーモンはこの身が手巻きご飯に触れてはいけない、と思い詰め寄られた分後ろに下がる、そんなことをしているうちにサーモンの後ろは壁となってしまった。
「やめてよ、あなたにはもっといいサーモンがいるわ」
「あなたには私よりもっといい人がいるわ」そんな月9で何万回と聞いた台詞で手巻きご飯が引き下がるわけもなく、サーモンはより一層目の前のご飯から甘酸っぱい匂いを感じた。
いい加減にしてくれ、とサーモンは足元に転がる爪楊枝を足ではじくと、具合よく手巻きご飯の海苔に引っかかり、その表面積の大きさゆえにバランスを後ろに崩した手巻きご飯はたたらを踏んだ。
「しつこい手巻きは上手く巻かれずに具材がはみ出るわよ」
誰がお前なんかに巻かれてたまるか、とサーモンが睨みつけると同時に恋焦がれて仕方のないシャリ玉の声が聞こえた。
「人の寿司ネタにナンパとは、いい度胸だな」
サーモンを手巻きご飯から隠すようにシャリ玉は立つ。
どうしてここに、とサーモンが彼を見るとそのさらに先には親友であるイカが息を切らしながらも心配そうな顔でこちらを見ていた。どうやら彼女がシャリ玉を呼んできてくれたらしい、今度お礼をしなくてはいけない。
「量産型のシャリ玉がしゃしゃり出てくるなよ」
「お前だって、台紙の海苔がなけりゃ何もできないだろうが」
忌々し気に近づく手巻きご飯に負けじとシャリ玉が前にでる。一触即発の雰囲気に近くにいた寿司ネタたちも何事かと遠巻きに見ていた。
「表面積ばっかでかい奴が、俺のサーモンに触るな」
その一言に手巻きご飯は顔を赤くして大きな体をひねり上げるも、シャリ玉はなんなく避ける。けれども手巻きご飯の海苔が湿気ってきたのだろう、もう一発と体制を立て直そうとした手巻きご飯の体はバランスを保てずに大きく仰け反ったと思うと避けたシャリ玉へ覆いかぶさろうとするではないか。これにはシャリ玉も避けきることが出来ず、後ろに大きく転がりサーモンにぶつかったところで漸く止まった。
その瞬間に野次馬の如く群がっていた寿司ネタたちは息を飲み、手巻きご飯でさえも目を見開いてその場を動くことができなかった。
「あっ……」
誰も、一言も喋らない。痛いほどの静寂が辺りを包んだ。
「ごめ、んなさい。私の、私のせいで……」
あんなにもシャリ玉の前では泣くまいと堪えていた涙はボロボロと止めどもなく溢れ、その身の脂さえも流れ落とさん勢いだった。一体どこからこれほどの水が出てくるのか、サーモンにも分からなかったが、止めることはできなかった。
「サーモンのせいじゃないだろ。泣き止んでくれよ」
そういうシャリ玉の体にはぶつかった拍子についてしまったサーモンの脂がある。光に当たって照るオレンジ色の脂を目にする度にサーモンの心に申し訳なさと後悔、絶望が広がった。この体とぶつかったばかりに、シャリ玉は『握り』になれないどころか『いなり寿司』になることもできずに、ただ捨てられてしまうばかり。
今はもう誰もいなくなった作業台の上で二人は最後の時間が来るのを静かに待っていた。
「なぁサーモン」
自分のために泣いてくれるサーモンがシャリ玉には堪らなく愛しく、どうにかしてその涙を止めることはできないだろうか、せめて最後にしてやれることが自分にはないだろうか、そう考えてもう一度サーモンに触れた。
「俺の上に乗ってくれよ」
もうシャリ玉はゴミとして捨てられる運命なのだ、最後にニンゲンの与り知らぬところで『握り』になったって文句は言わないだろう、否言わせない。一世一代の出会いをしたともいえる恋人が自分を責めてこんなにも涙を流しているのだから。
キラキラと輝くその涙を拭いながら「でも」と渋るサーモンをシャリ玉は勢いよく掴んで自身の上に乗せる。今まで感じたことのない寿司ネタの重み、被さっているという温もり、そのどれもが新しくも愛おしいばかりだった。他の恋人たちがこぞって『握り』ごっこをしたり、なりたがるわけだ。こんなにもパートナーを近くに、そして体温を感じることができるなんて思ってもいなかった。
「ねぇ、私。きっとこの日この瞬間のことを一生忘れないわ」
サーモンとて同じだった。
夢にも見た世界が眼前に広がり、先ほどまで目から流れていた涙はピタリと止まっていた。体全体に感じるシャリ玉の米粒と体温、何より高くなった視界は今まで見ていた世界がどれだけ狭かったかを思い知らされる。少しだけシャリ玉からはみ出たネタの端が地に着くのだって、ニンゲンでいうハイヒールを履いているような感覚だ。踵を上に上げてふくらはぎを引き締め背筋を伸ばす、そうするとこんなにも世界が美しいことを知った。
まな板のなんと大きなことか、遠くにある研がれたばかりの包丁の美しさ、冷蔵ショーウィンドウから薄っすらと見える座敷の入り口。自分の生きている世界は思っている以上に広く綺麗で、知らないことに溢れていた。
「俺だって、絶対に忘れない」
名残惜しくもサーモンを地面に下してシャリ玉はもう一度その手を握った。もうぶつかった所だけではない、握った手だけではない、体全部にサーモンの脂がついている。その姿にもう本当にシャリ玉は何にもなれない、と目の当たりにしたサーモンはまたも目を潤ませた。けれど、もう泣くことはしない。
今日見た光景がサーモンとシャリ玉を繋げる何にも代えがたい思い出となったからだ。
「お前はいい『握り』になれよ」
暗い影がシャリ玉に落ちたと思うと、その一言を残してシャリ玉はいなくなってしまった。
* * *
「君に、お願いがあるんだ」
あの日の光景にサーモンが思いを馳せつつ冷蔵ショーウィンドウの中にいると、そんな声が聞こえた。見れば最近巷を騒がせているアイドル的シャリ玉だが、その顔はどこか強張り緊張しているようにも見える。
「あなたみたいな人気者、サーモンが集うバットに来るものじゃないわよ」
何より、彼は最近一切れのマグロと歩いているのを見かける。こんな場面がマグロに見られてしまえば無駄な誤解が生まれてしまうだろう。
それでもシャリ玉はその場を離れずに、意思を固めた顔をしてまた一歩。バットに近づいた。
「勝手なことだと思ってる。でも、どうか僕の願いを聞いてほしい」
その真剣な瞳がいつかのシャリ玉と重なり、サーモンの柔らかい心に突き刺さった。
(了)
最後まで読んで頂きありがとうございました。