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すし屋 弁慶  作者: 軒の下のキノ
1/2

1.マグロとシャリ玉のラブソング

「ねぇ、駄目かな」

「もう……仕方ないわね……」

 

 そう迫る彼を拒めないのが常であるマグロはその身をさらに赤くさせて満更でもない顔で頷くのだった。それを見て彼、シャリ玉はマグロを労わるように撫でてからそっとマグロの端を少し持ち上げながら今一度その美しさにため息を漏らす。


「君の赤身の美しさはもとよりだけど、切れ味いい包丁で丁寧にスライスされたその体は本当にいつ見ても素敵だよ……。君の体を僕に乗せる度、実感するんだ」


 それも当然のはずだ。この店『すし屋 弁慶』にいる寿司ネタたちは厨房に立つニンゲンが毎日丹念に研いだ包丁で切られており、余分な筋も皮もその身には残さない。また鮮度を保つため厳重に温度管理された冷蔵庫で過ごす寿司ネタたちはどの店よりも寿命(使用期限)が長いとも言え、このマグロも昨日デートした時からその美しさはほとんど変わっていない。それに加え、閉店してニンゲンがいなくなった時間帯にこうして会うという背徳感、また薄暗い非常灯の灯りに照らされたマグロはシャリ玉にとってひどく魅力的に見えるのだ。二人寄り添うのは冷蔵庫から少し離れたステンレスが煌めく作業台の上でその体に伝わる冷たさは少々堪えるが、それも二人がこうして会えば気にならないほどの情熱が沸き上がるというもの。


「何よ、そんなに褒めたって何もでないわよ……?」


 色鮮やかな赤を見せつけながらもマグロは体をくねらせた。それに見ているこちらの方が恥ずかしくなったのかシャリ玉は頬を赤らめながらマグロの下にその体を滑り込ませる。最大の愛情表現『握り』の状態だ。


「あなただって……とても素敵なフォルムだわ。お米の弾力やその白さはいつまでも輝いているし、何より近づいたときに仄かに香る酸っぱい匂いがたまらないの」

「そんなの他のシャリ玉だって変わらないよ。ここのすし酢は代々伝わる酢と砂糖の配分が最高だからね」

「いいえ。だって私、あなたを一目見たときから好きになったんだもの。他と同じ、なんてことないのよ」


 マグロはシャリ玉の体を確かめるように上から撫でながら初めて会った時のことを思い出しては照れ臭そうに笑った。


 ***


 大型チェーン店でありながら多くの人に本格的なお寿司を提供したい、そんな想いで経営されているちょっとリッチな寿司屋チェーン店『すし屋 弁慶 浅草すしや通り店』はカウンター席が十席、座敷が二つほど、というこじんまりとした店構えでお客を招いていた。こじんまり、とはいうもののカウンター席から見えるオープンキッチンからの光景はさながら高級店のようで見る者を楽しませ、また手元に設置されたショーウィンドウの中にはカウンター席に座ったお客の心を擽るかのように寿司ネタが並んでいる。もちろん、冷蔵の温度設定はしっかりと管理されているため、二日三日ほどは寿司ネタを美しい状態で管理できる優れものだ。

まあもちろん、そこはチェーン店。従業員全員が寿司を握れるわけではないため洗練されたアルバイトが用意されたシャリ玉にネタを乗せてちょちょっと握り直しお客に出す、という高級店にはないお茶目な部分もある意味ご愛敬。それでもだし巻き玉子や天ぷらはその場で作られるのだから、高級店で舌が肥えた裕福層には物足りないかもしれないが庶民にとっては十分楽しめるお店なのだ。カウンター席ではそんな高級店にも劣らないパフォーマンスを披露しつつ、それとは別にある二つの座敷は掘り炬燵形式をとり、飲み会などで利用される個室として用意されている。簾で他の空間と隔離されたそこは知人水入らずの会に打ってつけだ、と評判であった。

そんな『すし屋 弁慶』では正しい研修を耐え抜いた店長が各店舗で魚を捌き、三日おきにシャリ玉を握る。本来ならば毎日新鮮な魚、新しいお米とすし酢で握られたシャリ玉が望ましいが、同じように店長を毎日出勤させると労働基準法に引っかかる、そのため保存用の高性能冷蔵庫を導入することによって、些か高級店よりも味は落ちるもののヒトの手で握られた寿司を提供することに成功していた。

 そんなこんなで二日前のことだ。

朝市で仕入れられた大きな(まぐろ)から最高の切れ味を持つ包丁で切り出されたマグロはお行儀よくまな板の上で仲間が次々と切り出されていくのを見ていた。そのうち寿司ネタの仕込みが終え、バッドに移されると客に見えるように設置された冷蔵ショーウィンドウに入れられた為、隣の仲間であるマグロの切り身たちと話に花を咲かせながらニンゲンの手つきを眺めていた。

 洗練された動きで酢と砂糖を計り混ぜ合わせると飯台(はんだい)(すし桶)に入れられた炊き立てのご飯に回し入れられ、しゃもじで切るように混ざっていく。もともと白く眩い光をしたご飯だったがすし酢が入ることによって艶が足され、ショーウィンドウ越しでもその匂いが伝わるようだった。切り出されたばかりのマグロは隣のバットで見慣れたようにすまし顔をしていたサーモンやイカに呆れられながらもじっとその様子を見つめて感嘆の息を漏らしていた。仕上げとばかりに赤い紙が貼られた大きなしゃもじのようなものでニンゲンが酢飯を扇ぐとその輝きは最高潮に達する。後に先輩からその大きなしゃもじが「うちわ」という古くから伝わる道具であることを教わったマグロだが、この時は酢飯をさらに美しくさせる得たいの知れない、けれども魅力的な魔法のステッキに見えたのだった。お伽噺の灰被り姫が王子様に見初められるお姫様になるように、私にもその魔法をかけてくれないかしら、とマグロは夢を見た。実際に扇がれてしまえばその身が乾いてすぐさまに捨てられてしまうのだが、とにかくそれだけマグロにとって魅力的な光景だったのだ。

 けれども本当の魔法のような出会いはここからである。


「あら、素敵な殿方」


 隣の仲間がそう言った時にはマグロはもう動けないでいた。

 ニンゲンの手から次々に握られていた楕円形の、しかしある程度の厚みを持ったシャリ玉たち。その体のお米は握られてもなお粒の丸みを残し照明にあたって艶を放ちながら行儀よく、まるでこちらにその美しさを魅せつけるマネキンのようにショーウィンドウ前に並んでいく。その中の一つにマグロは目が離せずにいた。

 シャリ玉の中でもひと際洗礼されたフォルムに艶、そして何よりお米の粒が控えめながらも主張している彼にマグロだけでなくショーウィンドウ中の寿司ネタたちが沸き立った。そんなことも露知らず、注目の的となっているシャリ玉は隣のシャリ玉仲間と談笑しておりその笑顔で心を鷲掴みにする、という天然キラーを披露していた。


「あれ」


 そんな中、マグロは彼と目が合った気がした。いや、確実に目が合ったのだ。アイドルのコンサートで数多のファンが錯覚するそれではなく、本当に、確実に目が合い何ならそのシャリ玉はあろうことかマグロの方に体を傾けたではないか。ショーウィンドウの中は羨ましさと妬みで阿鼻叫喚だったが幸い、ガラス越しの為か彼には聞こえていないようだ。

 見つめあうこと数秒、ニンゲンが何を思ったかショーウィンドウをガラリと開けると阿鼻叫喚はピタリと止んだ。寿司ネタたちだって生まれたての思春期、憧れの彼に醜い悲鳴を聞かせたくはないのだ。けれども、そんな寿司ネタたちに思いもよらない爆弾が投下されることになる。


「ずっと、僕のこと見ててくれたの?」


 マグロにようやく声が届くと理解したシャリ玉がそう声を掛けると、あまりの出来事に声が出ないマグロはなんとかコクコクと頷いた。


「ふふ、君。顔が真っ赤だよ」


 ただでさえ話しかけられてどうすればいいのか分からない状態のマグロは、そんな恥ずかしい指摘に赤い体をさらに赤くさせて何とか声を絞り出した。


「わ、私はマグロの赤身だもの! 赤くて当然なのよ!」


 苦し紛れの反論にシャリ玉はまるで愛しいものを見るように目を細めて笑い、ニンゲンがショーウィンドウを閉める直前に乙女が誰しも夢見る一言を言い放つ。


「それもそうかな? でもそうやって赤くなっている君、食べちゃいたいくらい可愛いよ」


 パタン。

 無常にも閉まったショーウィンドウの中は先ほどの比にならない悲鳴で埋め尽くされた。


 ***


「そんな風だったの?」

「知らなかったの? あの時のあなたの人気は凄まじかったんだから」


 そのためマグロはシャリ玉と付き合う時、相当周りからやっかみを受けた。一目惚れをしたその日のうちにシャリ玉から声を掛けられ電撃婚も驚くほどの速さで付き合うことになった二人。そこには短い寿命(使用期限)という不運な人生があるため、寿司の世界では珍しいことではないのだが。それにしたってあの時の周りの視線は恐ろしく、マグロは思い出して身震いをしてしまった。


「ふふ、けど僕だって大変だったんだよ。君に声を掛ける、って周りに言った時の嫉妬の嵐はすごかったなぁ」


 好きな寿司ネタランキングでは毎年一位に君臨する鮪。ランクインする部位は様々だが、いつだって「(まぐろ)」というブランドがマグロの切り身たちを輝かせた。もちろんサーモン、エビ、イクラだって廃ることのない人気を博しているが子供から大人まで愛される、寿司屋に来たら高級店だろうか回転寿司だろうが食べられるのがマグロ。そんなニンゲンから圧倒的な人気を誇るマグロに手を出す、と言った時の周りの反応は大変なもので。


「だから今が夢みたいだ」

「夢じゃ困るわ」


 せっかくこうしていられるのに。どこか不貞腐れたようなマグロの姿にシャリ玉は愛おしくて今にも海苔で包み込んでやりたくなった。


「ねぇ、明日にはきっと。私とあなたで握られるかしら?」


 マグロの脳裏を過ったのはお互いの寿命(使用期限)だった。シャリ玉は握られてから三日ほどが使用期限。マグロに至っては三日、という期日があるものの色が変わりやすく切り出した当初の赤身が少しでも陰ろうものなら『握り』として出されることはなくなってしまう。辿る道はマグロユッケとして甘辛ダレに浸されるか、使われることなく捨てられてしまうかの二択だった。全ての寿司ネタは『握り』になることを憧れ、常にバッドやショーウィンドウの中で自分がどれだけ新鮮かをアピールしながら日々を過ごしている。基本的に先輩から(使用期限が早い方からともいう)『握り』になるが、時には見初められた後輩が早々と選ばれて心躍る顔で『握り』になっていくのを見たこともあった。マグロだって早く『握り』になりたい、艶々と照り輝く酢の匂いが芳醇なシャリ玉と合わさって優しく包まれて暖かみのある白木木目の盛付台の上に乗りたい。それでもわざとバッドの端の方で『握り』になるのを避けていたのは、その夢を叶えるならばこの恋人であるシャリ玉と『握り』になりたかったからだ。

 明日はマグロもシャリ玉も『握り』にならなければ捨てられるか、マグロユッケになるしかない。念願の『握り』になることができるだろう、そんな夢のような近い未来を思い描いてマグロはうっとりとした表情になった。


「そうだね……。きっと君と僕なら最高の『握り』になること間違いなしだよ」


 シャリ玉は少しだけ寂しそうな顔をしていた。


 ***


 パチリ。

 ニンゲンが店内の灯りを付ける音がした。まだ眠気の取れない頭のままよく冷やされた冷蔵庫の中でまどろんでいると店内を準備する音がし、ついにはマグロのいる冷蔵庫に手を掛けられそのバッドが作業台の上に置かれる。その隣には既に握られたいくつものシャリ玉が立ち並び、今日の朝一番に年功序列で『握り』になることは明白だ。マグロは嬉しさのあまり飛び跳ねんとその体をくねらせ、恋人であるシャリ玉の近くまで寄るとそっと囁いた。


「やっと! やっと、私たち『握り』になれるわ!」


 楽しみで仕方ない、そんな期待に胸を膨らませていたマグロをシャリ玉は宥めながらも「僕も嬉しいよ」とそこらの寿司ネタが聞いたら卒倒しそうなほど甘い声で囁き返した。そうでしょう、私たち最後まで一緒なのよ。そう、言葉を続けようとしたマグロだったがふと目を向けたシャリ玉の様子がおかしいことに気付き、じっとその姿を見つめた。

 そこでようやく昨日のシャリ玉と今日のシャリ玉のどこが違うのかマグロは分かった。


「その脂……どうしたのよ……」


 本来シャリ玉というのは、湿らせた飯台の上に移された炊き立てのご飯に酢と砂糖、そしてほんの少しの塩を混ぜた酢飯を混ぜ合わせることによって艶と食欲をそそる酸っぱい匂いを身に着ける。さらに仕上げとしてうちわで熱を冷ますことにより、その輝きが増すのだ。けれども今のシャリ玉にはその艶とは別の、魚臭いぎっとりとした脂がついていた。よく見ればその脂は薄いオレンジ色をしており、マグロはある寿司ネタを思い出す。

 後味がすっきりとしたマグロとは正反対の、脂を乗せた照り輝く体と口に残る旨味が特徴的な寿司ネタ。サーモンである。

 どうして恋人であるシャリ玉の頭上辺りにサーモンの脂が乗っているのだろうか、そこから導かれる答えをマグロは俄かに信じがたかった。

「もしかして、あの後……。私を冷蔵庫に送った後に……サーモンと会ったの?」


 信じられない、という目で問いただすマグロにシャリ玉は何も答えることはしなかった。


「あまつさえ、昨日の私たちと同じように。『握り』になったというの……?」


 多くのシャリ玉と寿司ネタが憧れる『握り』。恋人同士の愛情表現として嗜むこともあるその行為だったが、行う際には必ず守らなければいけない事項もあるのだ。それはお互いの身を守るために必要なことで、寿司界に敷かれている『寿(ことぶき)法』にも定義づけられている。


第一条脂の乗った寿司ネタは来る日まで『握り』となってはいけない。


 どうしてか。理由は単純明快で真っ白なシャリ玉の上に脂の乗った寿司ネタが被さるとその脂で汚れてしまう、そしてそのシャリ玉は他の寿司ネタと『握り』になることができなくなるのだ。考えてほしい、サーモンのオレンジ色の脂が残るシャリ玉にマグロが乗せられた『握り』を。そんな『握り』は白木木目の盛付台に上がることなんてできない。花子の彼氏でありながら幸子のキスマークを付け、愛について大演説するようなものなのだ、それほどマグロの恋人であるシャリ玉がサーモンの脂を付けていることは信じがたい、重罪なのである。


「どう、して」

「あら、あなたまだ『握り』になってなかったの?」


 隣のバッドから顔を覗かせたのは同時期に切り出されたサーモンだ。その体からはサーモン特有の脂の匂いに隠れて、酸っぱい匂いがする。


「あなたね、彼と『握り』になったのは」


 サーモンも寿法第一条は知っているはずだろう、とマグロが詰め寄るもサーモンは飄々と笑った。


「ふふ、彼は貴方みたいなさっぱりとした寿司ネタよりも私みたいに脂の乗った寿司ネタがお好みだったみたいよ」

「ふざけないで。彼は数ある寿司ネタから私を選んでくれた、そんなわけない。サーモン、貴方が彼に何かしたんでしょ!?」


 昨日もあんなに愛を確かめあったのに、一体マグロの知らぬところで何があったというのか。嘘だと言ってほしい、そんな願いを込めてシャリ玉をもう一度見るがじっと下を向いている為か視線は合わない。その態度こそが「現実である」という肯定の証であり、マグロは愕然とした。


「私ばかり責めるけど……マグロ、貴方こそどうなの? 貴方は数あるシャリ玉から彼を一発で見抜けるほど、愛していると言えるのかしら?」

「当たり前、じゃない……」


 サーモンの言葉にマグロは咄嗟に言葉を返すも、そこに歯切れの良さはない。

 恋人であるシャリ玉のお米は時間が経ってもなお米の膨らみ、艶は失われておらず近くを通るだけで数多の寿司ネタを惑わすような芳醇な酢の匂いがする。シャリ玉の一番近くにいた恋人であるマグロは他と比べて見間違えるわけがない、そう自信があったはずなのに。同じ炊き立てご飯から握られたシャリ玉たちだって、彼と変わらないのではないか? そう疑問に思ってしまうほど、シャリ玉への想いが揺らいでいたのだ。


「それに貴方は気付いていないみたいね」


 一瞬、チラリとシャリ玉の方を見たサーモンはマグロに向き直るとその耳元で囁く。


「マグロの使用期限は、実際の数字よりももっと早いのよ」


 刹那。

 マグロの視界に肌色の大きな何かが近づいたと思うと、その体は宙を浮きみるみるうちにサーモンとシャリ玉が小さくなっていく。これは、ニンゲンの手だ、ニンゲンが自分を持ち上げているのだ、とマグロが気付いた時にはすべてが遅かった。サーモンに物申すことも、シャリ玉に助けを求めることもできない所まで連れていかれ、マグロは遠く離れたまな板の上へと置かれた。その拍子にショーウィンドウに薄っすらと映る自分の姿を見たマグロは乾いた笑いを出すことしかできなかった。


「なんだ、とっくに私の体。黒ずんでたんじゃない」


 切り出されたときの鮮やかな赤色は失われ、時間の経過と共に空気に触れていた体は赤黒い醜い姿へと変貌していた。サーモンが言っていたことも確かで、こんな姿ではどう足掻いても彼と『握り』になることなどできない。

 マグロが隣に目をやるとそこには銀色に光るボウルと皿がある。匂いを嗅ぐと甘辛いタレがボウルに入れられているのがわかり、自分はこれからユッケにされるのだと気付いた。


「仕方ないわ」


 こんな姿恥ずかしくて盛付台の上になんか乗れない、マグロ自身が一番理解した。

 けれど現実はそれ以上に残酷なのである。


「コレハ……ユッケ、ニモ使エナイナ」


 再びマグロはニンゲンの手によって持ち上げられまな板からも遠ざかっていく。向かう先は水色の大きな丸形バケツであるとマグロは気付いた。どんなに抵抗しようとも無常にもバケツは近づいていき、ついには閉じられていた蓋も開けられる。

 昔ながらのゴミ箱、業務用丸形バケツには大きな透明のビニール袋が掛けられておりそこには今日、廃棄とされて捨てられた食材が多く詰められている。米、寿司ネタ、稲荷用の油揚げ、ガリなど使用期限が過ぎて使い道がなくなったものの末路だ。


「嫌よ! 『握り』になれないだけじゃなくて、マグロユッケにもなれないで捨てられるなんて! あなたたちニンゲンが(まぐろ)から切り出したんじゃない!! 必要だと思って切り出したのに、捨てられるなんてあんまりよ!」


 そんなマグロの言葉も、蓋を閉めたゴミ箱の中に詰められた。



「これでよかったの?」


 無情にもゴミ箱に捨てられていくマグロを見ていたサーモンは、未だ喋らないシャリ玉に問いかけた。シャリ玉の瞳からは今にも涙が零れそうで、ままならない現実の辛さにサーモンは唇を噛み締める。

 このシャリ玉は分かっていたのだ、自分とマグロでは『握り』になることはできないということに。昨日の相瀬の時点で黒い影が見え始めていたマグロだ、今日になればその姿はさらに黒くなり『握り』どころかマグロユッケに使われることも難しくなる。そうなると彼女はゴミ箱に捨てられるしかなく、そんな姿をただ見ることなんてシャリ玉にはできなかった。


「私の脂を付けなければ。あなただけならその乾き始めた体でも稲荷寿司になることはできたでしょうに……」


 マグロだけじゃない、シャリ玉の体も酢の酸味と水分がなくなり始め、握られた当初の艶はなかった。

 『握り』になることが難しいシャリ玉の大半は油揚げに包まれ『稲荷寿司』として白木木目の盛付台に乗ることができる。そのためほとんど廃棄されることはないのだが、手違いで脂やワサビで汚れてしまったシャリ玉は使いどころもなく捨てられる、というのが常だった。

 だからシャリ玉はサーモンに頼んだのだ。その脂を自分の体に付けてほしい、と。どうか捨てられゆくマグロとどこまでも一緒にいれるよう、自分もマグロの後に捨てられるよう、汚してほしいと懇願したのだ。

 サーモンはそんなシャリ玉の最後の願いを叶えたに過ぎない。誰だって、あんなお似合いの恋人たちの仲を裂こうだなんて考えない。ただでさえシャリ玉と寿司ネタの寿命(使用期限)は短いのだ、その間だけでも幸せになりたいと想うのは当然なのである。


「君には、辛い役目をしてもらったね」

「……いいのよ、別に」


 力なく笑うシャリ玉にサーモンは同じように、力なく笑い返した。

 マグロをゴミ箱に捨て終えたニンゲンが戻ってくればこのシャリ玉ともお別れだろう、とサーモンは悟る。


「君はいい『握り』になれるよ」


 ふっ、と影が差したと思うとそんな言葉を最後にシャリ玉はニンゲンの手によって姿を消した。



「お前はいい『握り』になれよ」

 サーモンは少し前にそう言い残して自分の前から消えていったシャリ玉がいたことを思い出した。あの人はもう、ゴミ箱にすらいないだろう。きっとゴミ収集日の昨日、軽快な音楽を鳴らしたゴミ収集車によって施設に運ばれていった。


「ゴミ箱の中で、さっきの誤解が解けるといいわね」


 願わくは、その先で少しでも幸せな時間を過ごしてほしい。

 もう届かない言葉を手向けに、サーモンは元いたバッドへと帰っていった。




(了)


 最後まで読んで頂きありがとうございました。

 今後も連載小説としてお話を書いていこうと思っていますので、よろしくお願い致します。

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