魔獣脱走事件1
マグオウルは黒い大きなクマのような魔獣だ。凶暴性が高く力も強い。貴族の森の中では危険な魔獣。
その魔獣が今、ミーナに鋭い爪を振り下ろそうとしている。
「――――っ!」
危ないっ!
そう思って魔術具に手を伸ばすが・・・
魔術具は、今持っているのは私だけを守るカインの御守りか、武闘大会用にコロシアムの観客席を囲うように設定されている魔術具しかない。これではミーナを守れない。
どうしよう。
どうすればいい?!
――――カコン。
ドクンと心臓が大きく鳴ると、身体の中で何かが外れた音がした。
「?!」
身体中の血が沸騰するように熱くなる。熱くて熱くて視界もぼんやりとし始める。だけど、不思議な高揚感があった。
私がマグオウルを睨みつけると、爪を振り上げていたマグオウルの動きがビクッと止まった。
どうしてかはわからないけれど、このまま続ければ圧力をかけてマグオウルを倒せる気がした。
――――後ろからツバキに目を塞がれなければ。
「ティア、落ち着け!暴走させるな、抑えろ」
「ツバキ、離して!ミーナが・・・!」
ミーナが危ないのだ。離して欲しい。
私がツバキの手を外そうともがくと、ドォン!と何かが倒れる大きな音と、ツバキがギュッと後ろから私を抱きしめる衝撃が来るのとが同時だった。
「え・・・?」
「落ち着いたか・・・?」
ツバキが私を抱きしめたまま、そっと私の目を塞いでいた手を外した。
開けた視界に入ってきたのは、目を見開いたまま震えるミーナと・・・倒れたマグオウルだった。
「っ、ミーナ!怪我はない?!」
ミーナに駆け寄り肩を揺さぶる。
見たところ怪我はなさそうだが、とても怖かったのだろう。ミーナはブルブルと震えるばかりでまともな言葉は出てこない。
「あ、・・・今の、は・・・」
「ティア、とりあえず人を呼んで来よう。マグオウルは気絶させたからしばらくは起きないはずだ」
「うん。・・・ツバキ、顔色悪くない?」
ツバキの顔色はミーナのように真っ青ではなく、熱があるような感じで赤い。心做しか息も荒くなってきている気がする。
「あー、うん、そろそろ限界かも・・・」
くたっと私にもたれかかってくるツバキ。
「えっ、熱っ?!」
もたれかかってくるツバキの身体がとても熱い。
すごい熱が出ている。さっきまで元気だったはずなのに、いきなりどうしたのか。
そういえば、ツバキはマグオウルに触れてすらなかったのにどうやって気絶させたのか。
「・・・ティア、は、大丈夫か?」
私に寄りかかったまま、今にも眠ってしまいそうにトロンとした目をしたツバキは私を見上げる。
「私?は、なんともないよ」
そういえば、先程の急激な熱はツバキに抱きしめられた辺りからどこかへ行ってしまった。
「そっか、・・・よかった」
そう言って安心したように目を細めたツバキは、ふっと意識を手放した。
「えっ、ツバ・・・」
肩のツバキの重みが更に増した時、バタバタと何人かの足音が聞こえてきた。もしかしたら騒ぎを聞きつけて来てくれたのかもしれない。
「何だ、これは?」
倒れたマグオウルに、未だに震え続ける男爵令嬢、その背をさする平民に、その平民に寄りかかり意識を手放した隣国の王子という混濁した状況に、やって来た人達は眉を寄せる。
「マグオウルの意識を確認して檻に入れるぞ。手伝ってくれ」
「ツバキ王子を医務室に運んで側近に連絡を。・・・ティア、ミーナ様、大丈夫?何があったの?」
呆然と立ち尽くす人達に手早く指示を飛ばしたのはアーサーとカイン。
カインが私の元へ来て、ツバキを剥がして騎士学部の生徒に運んでもらう。
「ミーナがマグオウルと対峙しているのをツバキ王子と見つけて、ツバキ王子がマグオウルを気絶させてくれたの。・・・ミーナ、もう大丈夫だよ」
ミーナも人がたくさん来て少し落ち着いたようだ。まだ顔色は悪いけれど、私の声掛けに頷いてくれた。
「ありがとう、ティア。・・・わたくしは、学部棟に行く途中で、何か黒い物が動いた気がして、不思議に思ってここに来たら魔獣がいて、驚いてしまったの・・・その後、何かすごい威圧感と恐怖に襲われて・・・。ティアとツバキ王子がやって来てくれてホッとしたわ」
へにゃりと下手くそな笑顔を作るミーナ。
「・・・いつも泣き虫なのに、無理して笑わなくていいんだよ。怖かったよね。もう大丈夫だからね」
ぎゅっとミーナを抱きしめる。貴族令嬢として育ったミーナは魔獣と相見えるなんて初めてだっただろう。
「ティア・・・うぅ、怖かったわ・・・」
うぅぅと泣き始めたミーナが落ち着くまで、私はミーナの背中をさすって寄り添った。
「ティアは大丈夫?」
ミーナを馬車で帰らせると、カインが私を心配そうに覗き込んだ。
「私は大丈夫だよ。狩猟大会で魔獣もたくさん見たから慣れてるし、ミーナが無事でよかった」
マグオウルを初めて見るミーナは本当に怖かっただろう。ミーナに怪我もなくてよかったと思う。
そう言うと、カインは緩く首を振って両手で私の頬を挟んだ。
「そうじゃなくて、少し、熱があるような顔してる」
コツン、とおでこを当てて熱を測るカイン。カインの端正な顔が目の前に来る。
「へ・・・?」
「うん、やっぱり少し熱があるよ。送っていくから、今日はもう帰ろう?」
ね?と心配してくれるのは嬉しいんだけど・・・
めっちゃ人前なんだけども!
マグオウルの件で集まってきた生徒や先生達がたくさんいる中でのコレである。
アーサーとか「相変わらずだなー」とかいう生温かい目を向けてきてるよ!
熱を測るなら顔に手を当てただけでよかったよね!
「・・・カインのせいだと思う」
プシューと音がするように赤くなった顔を覆い隠す。私に熱があるのならカインがこんな事するせいだよ!
カインに送ってもらって家に帰ってきた私は祖母に体調を診てもらった。アタラード家の体調不良は祖母に診てもらうのだ。
「うーん・・・魔力の暴走を起こしかけたわね」
「魔力の暴走?」
一緒に聞いていたカインが眉間に皺を寄せる。
魔力の暴走。
そういえば、ツバキが言っていた事があったな。
魔術具なしで魔力を放出する、祖母も私が魔力枯渇で倒れた時はわざと暴走させて私の中に魔力を入れてくれたらしいけれど、暴走させた後は倒れるというやつか。
「魔術具なしで魔力を放出するのよ。それを直接受けた人には威圧感や恐怖を与える事ができるの。やろうと思えば直接手を触れずに殺す事だってできるのよ。ただ、暴走させた後は酷い高熱が出て倒れるわ」
「えっ・・・身体中の血が沸騰するように熱くなったけど、そんな感じ?」
「そうよ。でもよかったわ、ちゃんと止められたみたいで。初めて暴走してしまった時は止め方が分からなくて気絶するまで止まらない時があるから・・・」
何それ、怖っ!
受けた人を殺してしまう可能性があるのに、気絶するまで止められないとか怖すぎる。
私が思っていたよりも大変な状況だったのかもしれない。
「ツバキが止めてくれたの・・・あれ?じゃあツバキが倒れたのは私の暴走のせい?」
私の暴走させた魔力を受けてツバキが倒れてしまったんじゃ・・・と思い血の気が引く。
「いや。話を聞く限りでは、ツバキ王子が自分の魔力を暴走させたんじゃないかな?そしてマグオウルを気絶させた」
「わたくしもカインくんと同意見ね。ティアは完全に暴走させる前に踏みとどまっているわ。完全に暴走させていたら微熱で済むはずがないもの。ティアは誰も傷つけていないわよ」
「よかった・・・」
私がツバキを倒れさせたわけじゃないと聞き、胸を撫で下ろす。ツバキは私とミーナを守るために魔力を暴走させてマグオウルを気絶させてくれたのか。ツバキの熱が下がったら、ちゃんとお礼を言わないといけないな。
「お祖母さん、魔力を暴走させないようにするには、どうしたらいいのですか?僕はティアが誰かを傷つけるのも倒れるのも嫌なのです」
カインの言葉にハッとして私も祖母を見る。
ツバキは守るために暴走を利用したけれど、私は上手く制御出来るかどうかもわからないので、出来るなら暴走させたくはない。
「そうねぇ、暴走は意図的にする事がほとんどだから、ティアが暴走させようする切っ掛けと傾向が分かれば対策出来るわ。今回、ティアはどうして暴走させようとしたのかしら?」
「えっと・・・」
魔力の暴走は自分の意思で魔力を溢れさせるものらしい。普通は暴走させる術を知らなければならないらしい。私が今回暴走させかけたのは、咄嗟に魔獣に抵抗出来る手段がそれしかなかったからだと祖母は予想した。
「・・・暴走か」
祖母の予想を聞いたカインはポツリと呟いた。
「ごめんね、また迷惑かけて」
「迷惑なんて思ってないよ。・・・ただ、魔力が暴走すると、また魔力が枯渇してティアが倒れるんじゃないかって、心配なんだ」
カインは魔力を暴走させて止められなかった時に魔力が枯渇する事を懸念しているのだという。確かに暴走が止められなければその可能性もあるのだろう。
「だ、大丈夫だよ!今回は止められたし、私も暴走起こさないように意識するから!」
今回はツバキのおかげで私は暴走させずに済んだ。たぶん、意識を逸らして落ち着く事ができれば、暴走は止められるのだ。
「うん。今回ばかりはツバキ王子に感謝だね。ティアが倒れずに済んだ」
「そうだね・・・。ツバキが元気になったらお礼言わないとね」
「そうだね。その為にも、今日はゆっくりおやすみ」
カインがゆっくり頭を撫でてくれたので、そっとカインに身を預ける。
「あらあら、うふふ」
はっ!しまった。祖母もこの場にいたんだった!二人の世界に浸ってしまっていた。
祖母の楽しそうな笑い声で我に返った私とカインは慌てて離れる。
「あら、いいのよ。わたくし、ちょっと外を眺めたい気分だから。そう、無性にあと五分くらい外を眺めたい気分だから」
そう言って祖母が後ろを向いたので、私とカインは揃って顔を赤くするのだった。