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Cafe Shelly

Cafe Shelly 曇りのち晴れ

作者: 日向ひなた

 五月病。新入社員や新入生がゴールデンウィーク明けにかかる病気。新しい生活に期待をして楽しいはずなんだけど、なんとなく憂鬱になる。その結果、体調不良ややる気が出なくなるといった症状が現れる。五月病は病気としての病名ではない。医学的には適応障害、あるいやうつ病と診断される。

「だそうだ。で、お前はその五月病にかかっちゃったというわけか?」

「あぁ、おそらく。なんか元気が出なくてなぁ」

「おいおい、あの就職戦線をイチ早く勝ち抜いて悠々自適な大学四年生の生活を送ってきたお前が、そんな贅沢な病気にかかりやがって」

「かかりやがってって、こっちの気持ちも考えてくれよ」

 オレはふぅっとため息。電話の相手は大学時代親友である大悟。大悟は最後の最後まで就職が決まらず、ようやく小さな鉄鋼会社に就職できた。

「信一、いいか、それはお前の気持ちがたるんでいるからだぞ。お前が務めているオリエンタルコーポレーションは部品業界じゃかなりの大手だぞ。給料待遇もいいし、福利厚生だって充実している。それにフレックスタイム制を導入しているじゃないか。そんないい会社にいて、どうしてそんな気分になれるんだ。オレだったらルンルン気分だぞ」

「どうしてって言われても…」

 オレはそれ以上答えることはできなかった。確かに入社したときには、希望に燃えて気持ちも高揚していた。それからすぐに一週間の集合研修。会社の制度の紹介や、部署の紹介などがあり工場研修へ。ゴールデンウィーク前に一通りの研修が終り、いよいよ五月には配属先が決まる。そして今日はゴールデンウィークの最終日。明日には自分の行き先が決まる。

 オレが希望しているのは設計部門。というか、そのためにこの会社に就職したと言っても過言ではない。が、近年の不況のせいで専門知識を持った営業職を望んでいるという話しも聞く。特に今年はその部門へ配属される人が多いという噂が流れている。営業なんて頭にはまったくなかった。この噂も五月病の原因の一つ。もし営業なんてところに回されたら…考えたくもない。もしそんなことがあったら、会社を辞めてしまうかもしれない。そこまで悩んでしまって、今回思わず大悟に電話したというわけだ。

「だからぁ、お前はホント贅沢なんだって。オレなんて実習でしかやったことのない溶接をやらされているんだから。大卒だからって、現場に出れば高卒の連中とそんなに変わらねぇ扱いなんだぞ」

 大悟はオレの悩みを聞いてくれるどころか、オレに対して不満を抱き始めたようだ。そんなにオレの悩みは贅沢なのだろうか。この気持ち、そうなった人間にしかわからないのだろうな。結局この日はモヤモヤした気持ちを抱いたまま電話を切った。明日は配属日だというのに。なんとなく眠れない時間を、ベッドでゴロゴロしながら過ごした。眠ろうと思っても心の奥から何かが湧き出てくる。得体の知れない怪物に襲われているような感じだ。

 時計を見ると午前三時半。この時間になると逆に目が冴えてしまう。仕方なく、パソコンの電源をつけてインターネットを開く。特に目的があるわけではない。適当にサイトを開く。こうしていると少しは眠たくなるかもしれないと期待したが、結果的に朝の六時を迎えてしまった。完全に寝不足。

「会社に行かなきゃ…」

 身支度をして、朝食もそこそこに家を出た。今は会社の寮に住んでいる。寮、といってもアパートを会社が借り上げているだけのところ。まかないがいるわけではない。会社までは歩いて五分。会社自体が工場を抱えているため、住宅街から離れたところにある。そのため、当然住んでいるところも街からは遠い。一言で言えば田舎だ。実は一見するとのどかなこの環境も、オレの気持ちを沈ませている原因の一つである。

 学生時代、就職がイチ早く決まったおかげで夜な夜な遊びに出るクセがついてしまった。自分で言うのもなんなのだが、オレはかっこいい部類に入る。毎日ではないが、結構街でナンパをしては女の子と遊んでいた。が、今ではそれができない。いや、やろうと思えばやれるのだろうが。わざわざタクシーを飛ばして街まで出て行く、なんて資金もないし。それに先月までは朝早くから工場実習があったので、平日はクタクタになって出かける気力もなかった。休日になると先輩社員からお誘いがあり、ナンパどころじゃない時間を過ごすことになっていた。おかげでストレス解消ができないまま今日を迎えた。ちょっとダラダラとした足取りで会社に到着。

「よぉ、君原。今日はいよいよ配属先決定だな。お互い、希望の部署になれるといいな」

 会社について会議室へと向かう途中、後ろから声をかけてきた男がいる。同期入社の松井だ。彼はひとなつっこい性格の持ち主で、誰にでも気軽に声を掛けるやつ。実はオレはこの松井をライバル視している。なぜなら、希望配属先が同じだから。お互いに狭き門を狙っている。

 そしていよいよ配属先発表の時間がやってきた。総務部長から一人ひとり名前を呼ばれ、辞令が渡される。そこに部署名が書かれているのだ。

「君原信一くん」

 そしてオレの名前が呼ばれた。この瞬間だけはさすがにドキドキした。

「はいっ」

 席を立ち、総務部長のところへと足を運ぶ。そして辞令が手渡される。そこに書いてある文字を目にする。その瞬間、体の力が抜けてしまった。

「営業部営業技術課」

 一番きてほしくないパターンだ。まさか、オレが営業職だなんて…。足取りも重く席に戻る。頭の中は真っ白、何も考えたくない。ふと目をやると、ニコニコ顔の松井が目に入る。あいつ、どうやら希望の技術部に入れたようだな。今度は松井に対してちくしょうという感情が湧いてきた。明らかな嫉妬。けれどこれに対してはどうしようもない。決まったものは仕方ない。

 その後、配属先の課長が迎えに来てそれぞれの部署へと散っていく。松井はオレに親指を立ててにこやかな顔で部屋を出て行った。オレの配属部署、営業部営業技術課には今年オレともう一人が配属。他は一人ずつだから、よほどここに力を入ているのがわかる。が、どうしてオレなんだよ。ハズレくじを引いた気分だ。

 課長は前々から厳しいと噂されている飯森さん。前に部署の紹介があったときに目にしたが、顔がいかつくてギロリとにらんだ目が怖い印象が強かった。飯森さんはあまり口数の多い人ではなさそうだ。今回も会議室にオレたちを迎えに来てくれたのはいいが

「じゃぁ案内するからついてこい」

と言っただけで、あとはずっと無口であった。

 オレと一緒に配属されたのは木村くん。メガネをかけてひょろっと背の高いやつ。今までほとんどしゃべったことはない。というのも、木村くんは自他共に認めるアニメおたく。そんなやつと一緒に見られたくないというのが本音だ。そんな課長や同僚とこの先過ごさなきゃいけないのか。オレの気持ちはさらに落ち込んだ。

 部署について早々、オレたちは自己紹介をして指導をしてくれる先輩社員を一人ずつつけてくれた。この会社は配属されて一年間は「指導員」と言われる人の下で働くことになる。指導員は主任クラスの人がなることがほとんどで、今回オレの指導員になってくれたのは高橋主任。爽やかな人でちょっとイケメン。なんとなく気は合いそうだ。これだけが今回オレの気持ちを軽くしてくれた。

「君原くん、よろしく頼むよ」

「はい、お願いします」

「でさ、ぶっちゃけ聞くけど、この部署を希望して来たわけじゃないだろう?」

 高橋主任にいきなりそう言われてドキッとした。

「い、いえ、そんなことは…」

「ははは、無理しなくてもいいよ。ここにいる連中は、ほとんどが設計希望だったやつだから。まさか工学部を出て、営業をやらされるなんて思いもしなかっただろう?」

「えぇ、まぁ」

「それに君原くんの顔を見てればわかるよ。普通配属先が決まれば、期待で胸いっぱいになるところだけど。イマイチ浮かない顔してるからなぁ」

 やばい、そんな顔してたのか。

「はぁ」

 オレはそんな返事しかできなかった。高橋主任から指摘されたことはすべて正解。まだ仕事にやる気が起こらないし、期待感も湧いてこない。

 そのあと、木村くんも交えてこの部署の仕事について詳しいオリエンテーションが始まった。営業技術課は我社の商品の技術点をアピールすることと、客先商品のメンテナンスが主な仕事。また、客先の設計と技術的な話をして我社の設計部門に情報を与えることも仕事の一つである。従来は営業課がその仕事をやっていたのだが、やはり餅は餅屋。文系の人間に技術的なことを言ってもチンプンカンプンで困る場面が多かったらしい。

「ということで、君たちにはとても期待をしているからね。まずはボクたち指導員と一緒に同行営業という形をとる。服装だが、上はカッターシャツにネクタイ、そして我社の制服。下はスラックスだが靴は動きやすいものを用意してくれ。といってもあからさまなスニーカーは印象が良くないので、色の濃いウォーキングシューズみたいなのがいいな。ほら、ボクが履いているようなやつだ」

 高橋主任はオレたちに丁寧に説明をしてくれた。が、ここでもまた気落ち。ビジネス用のカッターシャツなんて二枚くらいしか持っていない。服はたくさん持っているが、ファッショナブルな遊び着ばかりだし。ネクタイもビジネスに使えそうなのは二本くらいしかないし。それにあんな靴なんて持っていない。今度の休みに買いに行かなきゃいけねぇのかよ。めんどくさいし金もかかるし。それに比べて技術職は楽だ。制服の下は自由、靴もスニーカーでいいし。なんでオレがこんな貧乏くじを引いてしまうんだ。

 はぁっと大きくため息。高橋主任、そんなオレをしっかりと見ていたようだ。

「君原くん、なんか気持ちが乗らないようだね」

「え、あ、はい、服とか靴を買いに行かなきゃいけないと思って…」

「そっか、仕事用の服って最初は揃っていないことが多いからね。そうだ、よかったら今度の土曜日にボクと一緒に行かないか? 君原くんのことももう少し知りたいからね」

 オレは悩んでしまった。正直、今の気持ちじゃ先輩と買い物なんて行こうとは思わない。が、会社員としてこの先うまくやっていくにはこのくらいの付き合いも必要だろう。

「ご迷惑じゃ…?」

「いや、どうせ暇してるし。それにね、ちょっと面白いところも紹介したいしね」

「はぁ、ありがとうございます」

と口では言ってみたものの、半分はありがた迷惑ではあったが。で、結局は土曜日に高橋主任と買い物に出ることにした。

 なんだか気乗りのしないまま、気がつけば土曜日。オレはまだ街まで移動する足が無いので、高橋主任が寮まで車で迎えに来ることに。主任が乗っているのは黒いスポーツカー。結構いい車だ。

「高橋主任、この車いいっすねぇ」

 これはお世辞ではない。社会人になったらオレもこんな車で女の子をナンパしようと考えていた。

「まぁ、ちょいと見栄もあるけどな」

 そういう高橋主任のスタイルもなかなか決まっている。オレとなんとなく好みが一緒かも。早速高橋主任の勧める洋服屋へと足を運んだ。連れていってもらった洋服屋、そんじょそこらの紳士服チェーン店とは異なり、なかなかいいものが揃っている。おまけに値段もそれほど高くない。

「君原くんならこういうの好きだろうと思ったんだよ」

 高橋主任の言葉はズバリだった。オレは徐々にこの高橋主任がただ者ではないと感じ始めた。必要なものを購入すると、時間はもうお昼。

「よし、じゃぁ次は飯を食いに行こう。この先にちょっとかわいい娘がいる喫茶店があるんだ。ボクのお気に入りでね」

 かわいい娘と聞いて心がピクリと動いた。久々にナンパ魂が蘇ってきたようだ。そうだよ、この気持ちなんだよ。この前まで何も打ち込むことができず、腑抜けになっていたオレに足りなかったのは。でも今日は高橋主任の手前、ナンパなんてできっこない。そう思うとまた気持ちが萎えてしまった。

「この先にあるんだ」

 案内されたのは小さな通り。道幅は車一台が通る程度。道の両端にはレンガで作られた花壇があり、それが歩道をつくっている。通りはパステル色のレンガになっていて、明るい雰囲気をかもし出している。通りの両側には雑貨屋やブティック、飲食店などがある。よく見ると歯医者なんてのもある。こんな通りがあったんだ。

「ここの二階だ」

 高橋主任が先導して小さなビルの二階に上がっていく。階段を上がり、ドアを開くと心地よいカウベルの音。と同時に、かわいらしい女性の声で

「いらっしゃいませ」

 さらにクッキーの甘い香りがオレを包み込んだ。

「マイちゃん、こんにちは。今日は会社の後輩を連れてきたよ」

「高橋さん、ありがとうございます。今日はカウンターでいいですか?」

 カウンターに通されて、オレは店を見回す。とても小さな喫茶店だ。大きな窓に半円型のテーブル。そこには四人がけの席が。店の中央には丸テーブルがあり、そこは三人がけ。そしてカウンター席が四人。十人も入れば満席か。ちょうどお昼時ということもあってか、カウンターに二席余っている以外は全部埋まっている。

「高橋さん、いらっしゃい」

 カウンターの向こう側にはしぶい中年の男性が忙しそうに振舞っている。

「ここのマスターだよ。マスター、こちらボクの後輩の君原くん」

「よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく。注文はランチでいいかな? といっても、この時間食べるものはこれしか出してないけど」

「えぇ、よろしく。この店は純喫茶で食べ物はあまり置いていないんだ。でもコーヒーは格別うまいぜ」

「はぁ」

 オレは気のない返事をした。高橋主任が誘うくらいだから、結構おいしいところに連れて行ってもらえるのかと思ったが。ちょっと期待はずれだ。けれど一つだけ期待通りの収穫はあった。さっき店に入ったときに高橋主任が挨拶を交わしたマイさんだ。確かに、彼女は極上。ナンパ師としても食指が動く。だから、つい目線がマイさんを追ってしまう。

「な、かわいいだろう」

 オレの目線に気づいたのか、高橋主任はそう語りかけてくる。けれど次の一言でオレは落胆してしまった。

「彼女、このマスターの奥さんなんだよ」

 この言葉にはびっくり。マイさんはどうみても二十代といったところ。けれどマスターは四十代半ばの中年。年の差は二十はあるんじゃないかな。

「ははは、ちょっと驚かれましたか。マイと私は年の差カップルでね。私が以前高校の教員をやっていた時の教え子でね」

 笑いながらマスターはコーヒーを入れている。オレはてっきり高橋主任がこのマイさんを狙ってこの店に来ているのだと思ったのだが。なんだか高橋主任にもガッカリだ。一体何が狙いでこの店にオレを連れてきたのだろう?

「はい、今日のランチはカツサンドです。それと今日のコーヒーです」

 出てきたのはボリュームのあるカツサンド。だが正直なところ食欲が湧かない。今だけの話ではない、五月病だと自覚をしてからあまり食事をとっていない。以前なら喜んで食べていたところなのだが。ふぅっとため息。それが高橋主任に聞こえてしまったようだ。

「君原くん、元気がないね」

「えっ、は、はぁ」

「まぁこんな男と一緒に行動してもつまらないか」

「いえ、そんなことは…」

「ははは、でもあながち間違いじゃないだろう。君原くん、見たところ五月病みたいだし」

 それを指摘されてドキッとした。やはりこういうのは周りの目から見てもわかるのかな。

「実は…この数日間どうしても元気が出なくて…」

「そうだろうなぁ。設計に行きたかった人間が営業に配属されたんだから。それだけでもショックだよね」

「いえ、そんなことは…」

 口では否定をしたが、それは事実である。しかしそれ以前から元気が無い。

「マイさん、今日のコーヒーって何?」

 高橋主任の話題が突然変わった。どういう意図があるのだ?

「通常のランチだと、レギュラーブレンドなんですけど。今日はサービスしてシェリー・ブレンドにしましたよ」

「ありがとう。君原くん、まずはコーヒーを一口飲んでみないか?」

「コーヒーを、ですか?」

 高橋主任が何を意図しているのかはわからない。とにかく言われたとおりにコーヒーに口を付ける。うん、結構おいしいじゃないか。その瞬間、オレの頭の中で学生時代の栄光の時代が蘇ってきた。

 ナンパをして女の子と遊ぶ。クラブではかっこいいと騒がれる。そして女の子から憧れの的となる。就職が決まってからしばらくは本当にそんな時期があった。が、今はそれをやりたくても満足にできない。それがストレスになっている。今度は気づいたら仕事をバリバリこなしている自分が見えてきた。カッコよく、スマートになにかわからないが仕事をこなしている。その姿を女子社員が憧れのまなざしで見ている。そうだよ、これがオレの生きがいなんだよ。

「どうだい、何か感じたかな?」

「えっ!?」

 高橋主任の声で我に返った。あれ、今のはなんだったんだ?

「どうやらシェリー・ブレンドの魔法にかかったようだね。君原くん、もしよかったら今感じたことを話してくれないか?」

「あ、えっとですね…」

 さすがにナンパ師であったことを正直に話すわけにはいかない。ここはちょっと言葉を濁すことにしよう。

「勢力的に仕事と遊びをこなしている自分が見えましたよ」

「なるほど、勢力的にね。ってことは、今はやはり本気じゃないって感じか」

 言われてドキリとした。けれど決してサボっているわけではない。どうしてもやる気が出てこないのだから仕方ない。

「そんな顔するなよ。君原くんを責めているわけじゃない。やっぱ、五月病だろ?」

 そこまでお見通しなのか。

「はい、実はそうなんです。連休が明けてから、どうしてもやる気が出なくて。それに…」

「それに、希望じゃない部署への配属。これでさらにやる気も失われただろうな」

 否定はできない。下を向いて黙っているしかなかった。

「だからここに連れてきたんだよ。君原くん、今コーヒーを飲んで感じたものがあっただろう。それが本来の自分の姿なんだよ」

「それ、どういうことですか?」

「マスター、説明してもらってもいいかな?」

 マスターはお昼のピークを過ぎて、ちょっと一息ついているところだった。どうやらオレと高橋主任の会話に耳を傾けていたようだった。

「高橋さん、いつもながらすぐムチャぶりするんだからなぁ」

 そう言いながらも笑顔で応えるマスター。

「このシェリー・ブレンドは飲んだ人が望む味がするんだよ」

「望む味?」

「そう、その人の願望が味に出るんだ」

 そんなバカな。と一瞬思ったが、さっきコーヒーを飲んだときに見た光景。あれは本来の自分の姿であり、また望む自分の姿でもある。それができない、だから気分が乗らない。それが五月病の原因だとわかっている。

「じゃぁ、その願望はどうやったら実現できるんですか?」

ついそんなことを口走ってしまった。が、それについて高橋主任が逆にこんな質問で返してくれた。

「君原くん、学生時代に何か目標を持っていたかな?」

「目標、ですか? そうですね、やはり大きな目標は就職でした。でも運のいいことに、早々に決まりましたから」

「だから、遊びまくった。そうじゃないかな?」

「えっ、ま、まぁそうですね」

 確かに、他の学生が就職で必死になっているときには遊びまくっていた。

「じゃぁ、高校のときの目標は?」

「これも大学進学でしたね。高校は進学校でしたから、勉強漬けの毎日でした」

「で、大学に合格したらしばらくは遊びまくった。そうじゃないかな?」

「まぁ…その通りです」

 これも否定できなかった。実はその頃に仲間と遊び半分で始めたナンパが上手くいったものだから、味を締めてしまったというのが実情だ。

「で、君原くんは何がやりたくて大学に行ったのかな?」

「何がやりたくて…」

 言葉に詰まってしまった。オレは何がやりたくて大学に行ったんだろう。さらに追い打ちをかけるように高橋主任はオレに質問をかぶせた。

「もうひとつ聞くよ。君原くんはなにがやりたくて会社に就職をしたのかな?」

 これも言葉が出ない。黙っているオレを救うようにマスターが言葉をかけてくれた。

「高橋さん、後輩が困っているじゃないですか。もうちょっとお手柔らかにしてあげましょうよ。それに、この前までの高橋さんが同じ状態だったのに」

 同じ状態って、どういうことだ?

「ははは、君原くん、ごめんね。別に君を責めているわけじゃないんだよ。ただマスターが言った通り、この前までボクも君原くんと同じような状況に陥ってね。さっき君原くんにかけた言葉は、半分は自分に言い聞かせているようなものだったから。ちょっと言葉がきつくなったね」

「あ、いえ、それは構わないんですけど。オレと同じだったって、どういうことですか?」

 オレはそっちの方に興味を持った。

「なんか自分でいうのは恥ずかしいなぁ。マスター、話してもらってもいいかな?」

「ははは、まったく高橋さんも人使いが荒いなぁ」

 そう言いながらもマスターは笑顔で応えている。

「高橋さん、つい先月まで半分うつの状態だったんですよ」

 オレはあらためて高橋主任を見た。今は笑顔を絶やさない、とてもスマートでかっこいい人なのだが。この人がうつの状態だったとは信じられない。

「何かあったんですか?」

「それが、何もないからそうなったんだよ」

 高橋主任の答え、意味がわからない。何もないからってどういうことだ?

「ははは、高橋さん、それじゃなぞかけ問答みたいですよ。ほら、後輩さん意味がわからずにポカンとしてるじゃないですか」

「そうだね、もうちょっと詳しく説明するか。実はオレは三年前まで設計にいたんだ。けれど人事異動で今の部署に移ってね。まぁこれはサラリーマンである以上仕方ないことだとは思った。で、やってみると意外にもおもしろかったんだけど…」

 高橋主任はここでカツサンドをがぶりとかじり、コーヒーを口にした。そして何かを確認するように目を閉じ、こくりとうなずいてから再び話を始めた。

「でも、気がついたらただ仕事をこなすだけの毎日に虚しさを感じてね。そうしたらだんだんと気力がなくなって。そんなとき、このカフェ・シェリーを知ったんだ」

「知ったって、誰かに連れてきてもらったんですか?」

「これが不思議なものでね。お客さんと話していたら、おもしろい喫茶店があるよって紹介されて。場所を聞いてここに来てみたんだよ。あのとき、ボクはよほど暗い顔をしていたんだろうね。マイさんがすぐに声をかけてきてくれて」

 ちょうどそのときにマイさんが横で話を聞いていた。

「そうなんですよ。高橋さん、なんだか疲れた顔をしてて。そこで窓際の席に案内して、しばらくリラックスしてもらったんです。あの席はアロマの香りがする席で、うたた寝するには最適なんですよ」

「そうそう、あのとき気がついたらうたた寝してたな。でも、とても気持ちよかったのを思い出したよ。でね、その後にシェリー・ブレンドを飲んだんだ。そしたら…」

「そしたら?」

「すごい衝撃を受けたな。自分が何をやりたかったのか、どうしてこの会社に入りたかったのか。それを思い出したんだ」

「それってどういうことなんですか?」

「ボクはね、カッコよく見られたかったんだ。だからネームバリューが欲しかった。いい会社でカッコよく技術の仕事をしている自分。それを目指してたんだ」

 意外な答え。もっと技術的な何かを目指していると思っていたのに。

「ボクの答え、びっくりしたかな?」

「え、えぇ、ちょっとびっくりです。でもなんだか逆に安心しました。こういう人もいるんだなって」

「ははは、まぁこういう変わり者が一人くらいいてもいいだろう。おかげで仕事にも身が入るようになってね。それにここだけの話だけど、今三人とつきあってるんだぜ」

 最後は小声で教えてくれた。高橋主任ってプレイボーイだったんだ。

「で、君原くんはどうしてこの会社に入ろうと思ったんだい?」

 再び話をオレに振られて、その返答に困ってしまった。その理由が言えないのではない。その理由がないのだ。

「どうしてって…どうしてだろう。オレ、なんで大学に入って、なんで就職したんだろう。そうするのが当然のように思っていたけれど。理由がみつからないです…」

「目標と目的を一緒にしてしまったパターンだね」

 マスターの言葉、どういうことだろう? その思いでマスターを見つめた。するとマスターはにっこり笑ってこんな質問を。

「君原さん、目標と目的って違いはわかりますか?」

「えっ、えっと…」

 オレは答えられなかった。今まで目標と目的って同じものだと思っていたから。そこに違いがあるなんて考えてもみなかった。

「ギブアップです。どんな違いがあるんですか?」

 マスターはまたニコリとしてその違いを話してくれた。

「目的って一言で言えば行動理由のことです。つまり、なぜそれをやるのか。目標はその理由を達成させるためにどこまで行けばよいのか、その到達点のことです」

 なんとなくわかったような気がする。

「ほら、ボクで言えば目的はカッコよく見られること。目標はそのために地元でも一流といわれる企業に就職すること。他にも目標があったんだよ。今日乗ってきた車、あれを買うのも目標の一つだったんだ」

 なるほど、そういうことか。高橋主任の例でわかった。

「つまり、オレは大学に行くこと、就職することは目標にしなければいけなかったんですね。けれど自分の中じゃそこに行くことが目的になっていた。これが目標と目的を一緒にしてしまったという意味なんですね」

「その通りです。そしてそういう人は五月病に陥りやすいんですよ」

「マスター、それどうしてですか?」

「目的は基本的にどこまで追い求めてもたどりつかないものなんです。高橋さんの場合、カッコ良さは年齢に応じて変化するし、果てがないですよね。だからずっと追い求められる。その都度、目標も変化します」

 なるほど、その通りだ。

「でも君原さんの場合…」

 オレの場合、どうなんだ? マスターの次の言葉が出るまでのほんの一瞬の間に考えた。そうか、オレは目的というものを持っていなかった。だから目標を達成してしまうと、次に何をすればよいのかがわからなくなった。大学入学の時には、次の目標である就職というのが頭の片隅にあった。だから三年生の時なんか、バリバリ活動をしていた。けれど今は就職をしてしまって、その先の目標が無くなった。

 そうか、だからか。

「君原さんの場合はですね…」

「マスター、今はっきりわかりましたよ。オレの場合、目的と目標が一緒になっていたから、目標を達成してしまうと次に何をやればいいのかがわからなくなった。だからやる気が起きなくなって五月病になった。そうじゃないですか?」

「おぉ、君原くんするどいなぁ。自分でそこまで気づくなんてさすがだな」

 高橋主任の言葉はお世辞には聞こえなかった。それが正解であり、それに気づかせるために主任は今日オレをここに連れてきたんだ。

「はい、その通りです。やる気を失う原因の多くは、なんのためにそれをやるのか、という目的を見失った時なのです。もしくはそれがわからずに目標だけを追い求めているとき。息切れしちゃうんですね」

 マスターの言葉に納得。

「ええ、言われた通りでした。オレはこの会社に入社してしまった段階で、一つの終りを迎えてしまったんですよね。さらに、設計に行きたかったのに行けなかった。たぶん設計に行っていたら、別の目標も立てられたかもしれないけど。今は目標を立てられないからやる気が出ないんだ」

「君原くん、大事なのは目標よりも目的だよ。まずはそちらを明確にしておかないとね」

 高橋主任の言うとおりだ。

「でも、オレの目的って一体何だろう?」

「それは愚問だよ。君原くん、さっきシェリー・ブレンドを飲んでそれを感じただろう? 勢力的に仕事と遊びをこなしている自分。これでいいんだよ、これで」

 高橋主任は笑いながら最後のカツサンドの一切れを口に入れた。そういえばオレ、まだカツサンド食べてなかったな。高橋主任の言葉に安心したのかな。急にお腹が空いてきた。オレもカツサンドをほおばる。

「うまいっ!」

 その言葉を思わず口にしてしまった。そしてコーヒーを口に含む。すると今度は不思議な味がした。さわやかさとすっきり感、そして温かさ。そんなのがミックスされたような味だ。例えていうならば海の見えるホテルで女の子と一緒に飲む夜明けのコーヒー。

「どうだ、何か目的となるものが見えてきたかな?」

「えっ、あ、はい。なんとなくですけど…カッコよく恋愛をしている自分が」

 つい口走ってしまった。

「そうか、やっぱりそうだったか。君原くん、きっとボクと同じ人種だと思っていたよ」

「同じ人種って?」

「いや、実はボクは君原くんの事を知っていたんだ」

「えっ、ど、どこでですか?」

「ははは、ボクがカッコ良さに目覚めてから、ナンパするようになってね。そしたら凄腕の大学生がいるって噂で聞いて。それが君原くんだったんだよ」

「あっちゃー、そんな噂が立ってただなんて」

「でも入社してきた君はなんだか冴えなくて。こりゃ何かあるなと思っていたら、五月病だったとはね。で、思いついてここに連れてきたんだ」

 ここまでオレのことを知っていたのなら、高橋主任に隠すことはない。逆にホッとした気分だ。この人なら安心して何でも話せそうだな。

「で、君原くんのナンパの目的って何なんだい?」

「オレの目的ですか。それは…」

 一瞬言葉に詰まった。あまりそんなことを考えたこともなかったから。けれどそれはすぐに思い浮かんだ。

「やっぱカッコ良さ、ですかね。年をとってもカッコ良く生きていきたいです」

「それならボクと一緒だ。うん、課長にお願いをして君原くんの指導員にさせてもらって正解だったな」

「えっ、そうだったんですか?」

「ハハハ、実はそうなんだよ。配属の日の朝礼で、新人が二人来るって紹介があって。そのときに写真を見てピンときたんだ。こいつ、ナンパのライバルだって。でね、どうせならライバルじゃなくて手を組んだ方が効率が良くなるだろうと思ったんだよ。だから君原くんの指導員に立候補したんだ」

 なんと、オレの知らないところでそんなことがあっただなんて。けれどうれしい。高橋主任にオレという存在を認めてもらった感じがする。

「さて、君原くんの目的も見つかったことだし。そろそろ行こうか?」

「行くって?」

「決まってるじゃないか。もちろん、ナ・ン・パ!」

 微笑みながらそう言う高橋主任。それを見て気持ちも軽くなった。

「てなことでマスター、ちょいと出かけてくるわ。いい娘と出会えたら、また連れてくるね」

「高橋さん、期待してお待ちしていますよ」

 マスターも笑いながらそう答える。なんだかこの店、居心地がいいな。こうやって笑顔がすぐに出てくる。オレはマスターとマイさんにお礼を言って、高橋主任について店を出た。


「で、それからどうしたんだよ?」

 電話の相手は、大学時代の親友の大悟。

「それがさぁ、高橋主任ってすっげぇ大胆に攻めるんだよ。いい女見たら、オレよりも先に足が動くタイプでね。オレはどちらかと言えば、相手を観察して攻め方を考えてから動くタイプなんだけど」

 話の内容は、先日高橋主任と行ったナンパのこと。それにしても高橋主任は見た目以上に積極的だった。で、結果的に女性二人組をゲット。ゲットしたのはオレ。女の子と飲みに行って、カラオケに行って。とにかく久々に楽しい、そしてオレらしい時間を過ごすことができた。その模様を大悟に電話で伝えたのだ。

「ちっくしょう、信一、お前ばっかいい思いしやがってよぉ。でも、なんかお前らしい感じに戻ったな。いや、その高橋主任とやらの存在で、前よりもパワーアップしたかもしれねぇ」

 確かに大悟の言うとおりだ。高橋主任という、同じ志を持つ者が存在のおかげで、とても気が楽になった。

「それで、五月病はすっかり良くなったのか?」

「あ、そういやそんな感じだったな」

「おいおい、ったく信一はホント自分勝手だなぁ。この男のどこがモテるんだか、ホント不思議でたまらねぇや」

 笑いながら大悟がそう言う。確かに、ほんの数日前までは病人みたいな青い顔をしていたとは、自分でも思えないほど今は元気だ。これも高橋主任のおかげ。そして高橋主任に紹介をしてもらったカフェ・シェリーのおかげでもある。

「ところでよ、今度はこっちがちょっと相談があるんだが…」

 めずらしく大悟の方がオレに相談を持ちかけてきた。

「なんだよ、女でもできたのか?」

 軽く冗談で言ってみた。が、大悟の声が詰まった。

「おい、まさかそうなのか?」

「まさかなんて言うなよ。ってか、まだ付き合ってもないし、相手の気持ちもまだ確認してないし…」

 ははーん、どうやら大悟は恋わずらいのようだな。あの勢いのある大悟が、借りてきた猫のように急におとなしくなった。

「で、相手はどんな女性なんだ?」

「それがさ、年齢は一つ下なんだが、会社では先輩になるんだよ。現場もバリバリこなす女の子でね、高卒なんだけどこっちの方が指導させられっぱなしで。最初は大して何も思っていなかったけど、最近ちょっと気になりだしてね…」

 ここで大悟はふぅっと大きなため息をついた。

「おいおい、今度は立場逆転かよ。しゃーねーな」

 ここで一つの案が浮かんだ。

「大悟、お前今度の日曜日は何してる?」

「よし、じゃぁオレに付き合え。いいところに連れて行くからよ」

「いいところ?」

「あぁ、オレを五月病から救ってくれたところだ」

「お前の五月病とオレに悩みと、どう関係があるんだよ?」

「いいから、一度そこに行けばわかるよ」

 強引に大悟を誘ってみた。大悟はしぶしぶながらもオレの言葉を受け入れたようだ。よし、これでカフェ・シェリーにも恩返しができるぞ。

 そして翌日、会社に行く時に同期の松井を見かけた。後ろ姿から見ると、どうも松井の足取りが重たい。

「おはよう。松井、なんかお前具合悪そうだけどどうしたんだ?」

「おぉ、君原か。ふぅ…なんか会社に行くの、気が重たいよ…」

「どうした、いつもの軽いお前らしくないな」

「それそれ、それが災いしたんだよ…はぁ、まいったなぁ…」

 松井の口からはため息ばかり。

「何かあったのか? 話てみろよ」

「こんなこと、話して解決する問題じゃないだろうけど…。オレさ、設計に配属されただろう。一日も早く先輩たちに追いつこうと思って、積極的にいろんな人に声をかけまくったんだよ。そしたら…」

「そしたら?」

「昨日、指導員の先輩から注意されたんだよ。自分を差し置いて他の人に指導を受けるのかって」

「なるほど、そりゃ指導員の先輩も怒るわな。せっかく松井にいろいろと教えようとしているのに、無視された形になってるんだからなぁ」

「そんな、無視してるわけじゃねぇよ。ただ、早く仕事を覚えたいから…」

 ここでオレはひらめいた。

「松井、一つ聞くけど、お前はなんのために早く仕事を覚えたいと思っているんだ?」

「何のためって、そりゃ早く仕事を覚えれば、それだけ会社にも貢献できるじゃないか」

「じゃぁ、何のために会社に貢献したいんだ?」

「何のためって…それが会社員たるものの心構えだからじゃないのか?」

「お前、それが本心か?」

「本心かって言われると…うぅん、正直建て前かもしれないな…」

「じゃぁ、本当はどうして仕事を早く覚えたいんだ?」

「どうしてって…それが当然だから…じゃないんだろうなぁ」

 やはり、ここにも一人迷っているヤツがいたか」

「松井、今度の日曜日は暇か?」

「えっ、まぁ暇といえば暇だけど…」

「ちょいと連れて行きたいところがあるんだ。オレが同じ課の高橋主任に連れていってもらったところなんだけどな。きっと今のお前のためになるぞ」

「なんだよ、いかがわしいところじゃねぇだろうな?」

「バァカ、そんなんじゃねぇよ」

 よし、これでカフェ・シェリー行きが二人になった。そして出社すると、また一人迷える子羊を発見。

「あれっ、木村くん。なんか元気なさそうだけど?」

 なんと、アニメおたくでヒョロッとした木村くんが頭を抱えてつらそうな顔をしている。一体どうしたんだ?

「あ、君原くん、おはよう。ふぅ…」

 やたらとため息をつく木村くん。

「おい、何かあったのか? 元気ないけど」

「こんな悩み、君原くんに言ってもわかんないだろうなぁ。あぁっ、どうしてあのときすぐに決断しなかったんだろうなぁ」

「決断って、どうしたんだ?」

 なんだか事態は深刻そうだ。

「あの限定品、ほんのちょっと迷ったから手に入らなくなっただなんて。はぁ…」

 限定品? 一体何のことだ?

「おい、力になれるかどうかわからないけど、話してみろよ」

「笑わないって約束してくれる?」

「あ、あぁ、約束する」

「実は、休みを使って東京まで行ってきたんだ。そしてお目当てのアニメショップに行ったら、なんと幻の限定フィギュアを見つけて。でも高くてさ。そしてほんのちょっと迷っていたスキに…」

「先を越されたのか?」

 こっくりとうなずく木村くん。なんと、そんなことで落ち込んでいるとは。ちょっとびっくりだ。ここでまたひらめいた。

「木村くん、一つ聞いてもいいかな?」

「えっ、何?」

「そのフィギュア、何のために欲しいと思ったの?」

「何のためにって…欲しいからに決まってるじゃないか」

「どうしてそれが欲しいのかな?」

「どうしてって…それがファンの心理だから…」

 やはり、ここにも同じような人間がいたか。

「木村くん、今度の休みの日、ちょっとオレにつきあわないか? 今の木村くんの気持ちを軽くしてくれるところに案内するよ?」

「えっ、それってアニメショップ?」

「いや、違うけど、アニメショップよりも今の木村くんには大事なところかもしれないよ」

「こんなボクを誘ってくれるの?」

 どうやら木村くんは入社してから友達という友達がいなかったようだ。

「あぁ、もちろん。同僚が悩んでいるんだから。力になるよ」

「ありがとう、君原くん、ありがとう」

 木村くんは立ち上がってオレに両手で握手をしてきた。そこまで感激されるとは、ちょっと驚きだが。しかしこれでわかった。世の中の多くの人は、何のためにという目的を持たずに生きているんだな。それさえわかれば、どれだけの人の気持ちが軽くなることか。

 さぁ、今度の日曜日のカフェ・シェリーはにぎやかになるぞ。



<曇りのち晴れ 完>

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