聖域の森
そろそろ歌のレパートリーが尽きて来た頃。
景色は相変わらず。晴れていてそよ風が吹き空気は澄んでいる。
しかし突然響き渡った獣の重い咆哮にビクリと体を震わせた。
急に重力が倍になったような、重圧感に狼狽えた。フウちゃんが消えた肩のあたりに手をやりながら引率役のエルフが言っていた言葉を思い出す。
この森には魔獣がいるのだと。
里の近くには結界があるから強いモノは近づくことができない。けどそれはつまり、その周りを彷徨くことはできるのだ。一定の範囲内へ侵入できないだけで。
その事実に気づいた瞬間から冷や汗が止まらない。自分は今、どこにいるのだろう。里からそんなに遠くはないとは思うが、歩いて来た方向が里と逆方向だったら?
気まぐれでフウちゃんが指し示した方角へ歩いて来たがこちらが安全だと確信はないのだ。
グッと歯の奥を噛み締めた。なにをやってるんだ私は。はやく思い出していたら何かしらの対策は練れたかもしれないのに。
フウちゃんに会えたことに浮かれて森の危険性に失念していたなんて。
……正直なことを言えば、実感がわかない。魔獣というのかどれくらいヤバいのか。前世でも森に入るのは稀で、入るとしても登山コースがしっかりと決められていてそのコースから外れるようなことはない、いわばお遊びの散歩しかしたことないのだ。
万が一、クマなどの人間にとって危険な野生動物に遭遇した場合の対処法はある。しかし、確実に安全ではないし、そもそも遭遇しないように鈴を持ったり危険な時期は立ち入らないなど事前に対策するもの。本当にクマと遭遇してしまった場合、知識があってもどうしようもならないことが多い。
私はせめて、自分がパニックにならず、相手を怒らせないように、刺激しないように去ってくれるのを願うばかりの対処法しか知らないしそれ以外にできる気もしない。
つまり、私は無力だった。戦う術のない弱者だ。
森に入るエルフたちは完全に武装していたのに私は身を守ることすらできないのだ。
怖い、どうしたらいい。
私1人ならここまでが命運かと諦めたかもしれない。
けど、フウちゃんがいるのだ。
子猫のフウちゃんを守らなければならない。
手足が震える。手足どころか体が震えてる。立ち竦んで一歩も歩けず思考もまとまらない。
先程まで意気揚々と脳天気に歩いていた自分を殴りたい。
武器になりそうな、近くに落ちているものといえば枝くらいだ。
弓矢や盾、剣を携えていたエルフたちの装備を思えば、杖にはなっても、こと戦闘となったらなんの役に立たないのは明白だ。
木に……登れるだろうか?
近くの木に近寄ってみるが登れはしてもクマのような大物に体当たりされたら折れそうだ。聞こえてきた咆哮からして、ウサギのような小さな魔獣と期待しない方がいいだろう。アレは大型の獣の声だった。
グルグルと悩んでいると先程より大きな咆哮が響いてきた。
……近づいてきてる。
その現実に凍りつきそうになる。時間は止まらない。一刻と事態は進んでいく。
どちらに逃げればいい。走って逃げられるものなのか。
クマは時速60キロで走れるそうだ。鋭い牙と爪を持ち、獰猛に襲いかかってきたら。
生きた心地がしないとはこのことだ。遭遇したら死を覚悟する。相手が空腹でないことを祈るしかない。
里では子供に、悪い子は里の外に放り出して魔獣に食べさせるぞと脅していた。
……よく子供たちに里の外に連れ出されそうになっていたな。その度に泣いて、震えて、命乞いをして。その様を笑ってきたあの悪ガキたち。
そんなことを思い出していたからだろうか。一際大きな木立ちの向こうから葉っぱや泥を沢山つけたあの悪ガキの筆頭が転がり出てきたのは。
そして、その後ろから黒い大きな獣が木々を薙ぎ倒しながら姿を現した。
それは正しくクマのようだった。ただし大きさは見上げるほど大きく、立ち上がれば5メートルはありそうな巨躯だ。
ゾワリと肌が粟立つ。
「助けてっ! 誰か、……助け、……っ?!」
必死に逃げる、泣きべそで顔をぐしゃぐしゃにしたアレクと呼ばれていた少年。私を認識したアレクはニヤリと強張る顔でわらった。
バッと嫌な予感がした私はアレクと魔獣の反対方向、つまり奴らが走ってるのと同じ方向へ走り出した。けど突然の恐怖に上手く動かない体はすぐにアレクに距離を縮められ、突き飛ばされて転んだ。
「死ね、ゴミ」
エルフの美しいはずの顔を醜く歪ませながらそう言い捨てアレクは走り去る。
囮にされた。
自分が助かるために私を犠牲にしようとした。
ビリビリと鼓膜を揺する咆哮に身を縮ませ地面にぶつかり痛む体を慌てて起こした。
もう、魔獣はそこまできていた。
(せめて、せめてフウちゃんは無事でいてほしい。フウちゃん、出てこなくていいからね。逃げて。自分を助けて、逃げ延びて。)
それだけを思った。私と一緒に死なないでね。でもせっかく会えたのにお別れなんてひどいや。
「……フウちゃん、いきて」
グワァと右腕を振り上げ凶悪そうな面をした、涎をダラダラと垂れ流す魔獣は腕を振り下ろすことなく事切れた。
「……え……ええ……?」
またごっそりとなにかが減った気がするがそんなことはどうでもいい。
眠りを妨げられた、不機嫌そうなにゃ〜お…が聞こえてきたと同時に風の刃が魔獣の首を刈り落としていた。
ブシャァと噴き上がる血糊に塗れながら、できるならもっとはやく殺って欲しかったなぁとぼんやり思った。首を失った魔獣の身体が傾いていき、薙ぎ倒された木々の向こうから武装したエルフの集団がやってくるのが見えた。