『時間』の概念のない世界
皆さんは、日曜日の夜は好きですか?私は大嫌いです。
「はあ、やっと平日も終わったか」
バーカウンターの前に座ったS氏は、ため息と共に呟いた。
今は金曜日の夜21時。この国の大部分の人々にとっては、この先2日間は仕事から解放されるという、1週間で最も晴れ晴れとした時間である。
会社員のS氏にとっても、今日は1週間の仕事終わりの日。ただ日々の金を稼ぐために行うだけの、退屈な労働から一時的に解放される日。
それなのに、会社を出てからずっと、彼の表情は冴えない。その顔は、たまに寄る自宅の近くのバーに入ってからも、晴れる事はなかった。それどころか、飲めば飲む程に、その顔付きは険しくなり、滲み出る疲労の色も濃くなっていくようであった。
飲み始めてから1時間ほど経っただろうか。頼んだ新しい酒がS氏の前に置かれた時、
「だいぶお疲れのようですね」
S氏は、左隣からの落ち着いた声に、冴えない顔を向けた。そこにはいつの間にか、ひとりの見知らぬ男が座っていた。
薄暗いバーの中だからか、全体としての顔付きは何となくぼんやりとしか分からない。しかし、その目だけは、やけにしっかりとこちらの目に写る。目尻に微笑みを湛えた、柔和で温かい目だ。
「何か、面白くない事でもあったのですか?それとも、明日からのお休みに面倒な予定でもあるのですか?」
「いえ、そういう訳では・・・」
S氏は答えた。
「おや、そうでしたか。とすると・・・ははあ、さては、明日は本当なら休日だというのに、仕事の関係で出勤しなければならないとか?」
「いえ、明日はお休みです。だいたい、私は今まで休日出勤した事がないし、今後も全くする気はないです」
「そうですか・・・いや、急にペラペラと話しかけてしまい、失礼しました。実は、あなたがこのバーに入った時からずっと暗い顔をしているのを見て、お節介ながら心配になりまして」
「いえ、失礼だなんて・・・心配してくださり、ありがとうございます」
実際の所、S氏はこうして話しかけられた事に対して、悪い気分はしていなかった。それは、S氏にとって、こうしたバーで見知らぬ人と話をするのが嫌いな事ではない、という理由もある。取引先、会社の同僚達、それに友人まで、様々な人間関係のしがらみに囚われた現代人にとっては、何の利害関係も後腐れもない、赤の他人との他愛のない話は心地良いものだ。
しかしそれよりも、S氏は相手の男の雰囲気、もっと言えば、その温かな目に魅せられていた。なぜだか分からないが、その目を見ていると、先ほどまでの冴えない表情も、徐々に和らいでいくようであった。こんな不思議な目を見たのは、生まれて初めてであった。
だから、相手の男から
「どうです?もしよければ、その胸の内を僕に話してみてはいかがですか?お力になれるかは分かりませんが、話す事で、気分が少しは楽になるかもしれませんよ」
と言われると、S氏はすぐに
「はあ、我ながら実に下らない話なのですが・・・」
と前置きして、話し始めた。
「実はここ最近、休日が来るのが苦痛なのです。と言いますのは、毎週日曜日の夜になるたびに、翌日からの仕事三昧の日々が頭に浮かんで、それが嫌で嫌で堪らないのです。それでも、働き始めた頃の金曜日の夜というのは、次の日からのつかの間の自由を喜ぶ心がありました。あったのですが、それから何度も休日というものが過ぎて、何度も日曜日の憂鬱に心を乱されるうちに、日曜日の夜が来るのが怖くなってしまったのです。それでここ最近は、土曜、いや、金曜の夜のうちから、こんな冴えない顔をしているのです」
そこまで一気に話してから、S氏は相手をちらりと見た。
ーこんなくだらない話をして、相手は馬鹿にしているのではなかろうか・・・ー
しかし、相手の男からは、そんな素振りは微塵も見受けられない。その不思議な目は、少しもこちらを馬鹿にするでもなく、ただ静かに、微笑みを浮かべていた。相手に口からは何も発せられなかったが、その目は、
ーそういうことでしたか。それでは、折角の休日でも心が休まることがない。さぞ、辛いことでしょうー
と、心から同情しているかのように、S氏は感じた。
そこで、S氏は勢いづいて、聞かれてもいないのにこう続けた。
「なので、私は最近こう思うのです。『時間という概念なんか無くなればいいのに』って」
「ほう、それはまた、何故ですか?」
相手の男は優しい目で聞いた。
「何故って、こんなふうに日曜日の夜を嫌がるのは、とどのつまり、1日は24時間、1週間はその24時間が7回の繰り返しで、そのうち休みは2回だけと決まっているからじゃないですか。もし『時間』などいうものがなければ、こちらは『ああ、もう日曜日の19時だ』なんて気分になったりしなくていい。ただ、太陽が昇ってから起きて、腹が減ったら食べ物を食べ、暗くなって眠くなったら寝る。ただその繰り返しで済むじゃないか」
酔いの回ったS氏は、鬱憤を晴らすかのように続ける。
「そうだ。1日24時間、1週間は7日なんて、そもそも誰が決めたことだ?所詮、人間が後から決めたことじゃないか。『時間』なんてものに縛られるなんて、本来の意味での人間の生活では無いじゃないか。どこの誰とも知らない奴の決めたことで、私がこんなに苦しめられるなんて、おかしいじゃないか!」
ーしまった、調子に乗りすぎたー
ここまで話してから、S氏は思った。
ーいくら、今までもこれからも縁がないであろうとはいえ、喋りすぎたかー
だがやはり、相手からは、こちらを蔑すんだり、
ー可哀想な奴だー
と悪い意味で哀れむ様子はない。それどころか、何やら真剣に考え込んでいるようだ。
「なるほど・・・よく分かりました。確かに、1日24時間、1週間は7日なんてものは、あなたが決めた事ではない。それに僕が決めたものでも・・・」
そう言った男は、S氏をじっと見つめてからこう言った。
「それでは、どうでしょう、『時間』というものを消してみましょうか?」
「・・・?『時間を消す』とは?」
「ですから、あなたが先ほど言った通り、『時間』という概念をこの世から無くすのですよ」
「はあ?」
S氏はそう答えるしかなかった。当然だ。「時間」という概念そのものを無くすなんて、いくら口では不平を垂れたって、人っこひとりの力では、どうしようもない。そんなことは、全知全能の神でない限り、到底無理な話だ。
ーこいつ、真剣そうな素振りをしておいて、結局俺のことをからかっているなー
S氏はそう思った。
ーとはいえ、ここまで話してしまっては、今さらこの話を切り上げるのもつまらん。ここは、適当にからかわれてやるかー
「どうでしょう?もちろん、無理にとは言いませんが」
相手の男は、なおも聞いてくる。
「ほうほう、そうですか。まさか、本当に『時間』を無かったことにしてくれる人がいるなんて、思いもしなかったなあ。それじゃ折角だし、お願いしようかな」
S氏はおどけてそう答えたが、相手の男は至って真剣な声音で、
「わかりました。ただし、1度無かったことにしたものは、2度と元には戻せませんよ。それでも、良いですね?」
と聞いてくる。
「ええ、承知しました。私も覚悟を決めましょう」
相変わらずS氏はふざけてそう答えた。
「よし、それでは・・・」
隣に座った男は、うつむき加減で、何やら自分の膝の辺りをじっと見つめていた。
ほんの数十秒ほど経った頃だろうか。
「これでよし・・・」
と呟いたかと思うと、男はいきなりS氏の前に置かれたグラスを引っ掴み、その中身を一気に飲み干してしまった。
「お望み通り、『時間』という概念をこの世から消しておきました。もちろん、何か見返りを求めてやったことではないのですが、何も受け取らなくてあなたが心苦しく思うといけないと思い、グラス1杯分のお酒だけ頂きました」
男は、優しさに満ちた目をして言う。
「それでは、僕の役目も済みましたので、帰ります。もう会う事は無いと思いますが、どうか、幸せな人生をお過ごしください。では・・・」
そう言って、男はスッと消えるように、店から出ていった。
S氏はしばらく呆然とその残像を眺めていたが、しばらくしてハッと我に返った。
ーなんだあいつは。人を馬鹿にするにもほどがあるー
そう思ったが、不思議と、怒りは湧かない。それよりも、あの優しい雰囲気、慈愛に満ちた目が、頭に浮かぶ。
ーいったい、あいつは何者なのだろう?『もう会う事は無い』と言っていたが、本当に、これが最初で最後の出会いになるのだろうか・・・ー
そう思いながら、S氏はグラスを傾け続けた。普段は2、3杯でやめるところが、その日は、不思議な体験に心を奪われたためだろうか、酒を飲む手が止まらない。
ーあの男は何者なのか。いったい、なにもの・・・・・・ー
ー・・客様?・・・お客様?ー
S氏は、店員に揺り動かされて気が付いた。どうやら飲み過ぎで、気が付かぬ間に寝てしまっていたようだ。
「ああ、しまった・・・すみません、どうやら飲み過ぎたようです」
重い頭をさすりつつ、S氏は謝った。
「いえ、大丈夫ですよ」
店員は苦笑しながらも言った。
「本当は、もっと早く起こそうかと思ったのですが、あまり気持ち良さそうに寝ていたものですから・・・ただ、私も今夜はもう眠くなってしまいましたので、声をかけさせていただきました」
ー・・・『眠くなってしまった』?ああ、もう閉店の時間ってことかー
酔っ払ったS氏には、それ以上考える余裕は無かった。彼はそそくさと会計を済ませ、家に帰り、ベッドの上に倒れ込んだ。いったい今が何時なのか、確かめもせずに・・・。
「・・・ん、うーん・・・ああちくしょう、気持ち悪い・・・」
翌朝、S氏は二日酔いの気持ち悪さと共に目覚めた。明らかに、昨晩は飲み過ぎたようだ。
「はあ、もう2度と酒は飲まん・・・今、何時だ?」
いつもベッド横のテーブルに置いている小さな時計に手を伸ばす・・・ん?
「あれ?」
目を向けると、いつもそこにあるはずの時計が無い。床を見ても、どこにも落ちていない。
「なんだよ全く、ただでさえ気持ち悪いってのに・・・今日が土曜日で良かったな」
そう呟いたS氏は、今度は、壁に掛けている時計を確認するために、斜め上を見上げた。
「・・・あ?」
常に時計が掛けてあるはずの壁は、一面白地の肌を見せるのみであった。床を見ても、部屋のどこを見ても、お目当ての時計は見当たらない。
「どういう事だ・・・?」
しばらくの間、S氏は混乱するばかりであった。ひとり暮らしのS氏には、勝手に部屋の時計を持っていくような家族もいない。それなのに、部屋中の時計が、忽然と姿を消した。
ーいやいや、何だよこれは・・・これじゃ、「時間」が分からないじゃないか・・・ん?「時間」?ー
S氏はハッと気が付いた。そうだ。昨日の、あの不思議な男。「『時間』という概念を消しておきました」とか言っていた、あの優しい目をした男。もはや、その顔付きはさっぱり思い出せないが、あの目と、あの発言は、まだまだ鮮明に覚えている。まさか、あの男の言っていたことは・・・。
「いやいや、そんな、まさか・・・」
思わず声に出して呟いたS氏は、スマホの電源をつけた。最初に表示される、パスワード入力を要求する画面の上部には、今日の日付と現在時刻を示す数字が・・・ない。
次に彼は、ある事を確認するために、テレビをつけた。どれかのチャンネルの左上には、必ず現在時刻の数字が・・・ない。全てのチャンネルを回したが、どのチャンネルにもない。
とうとうS氏は、自室から飛び出した。するとちょうど良い所に、アパートの隣部屋に住むサラリーマンが出かけるところだった。
挨拶もそこそこに、S氏は聞いた。
「あの、すみません。今は何時ですか?」
聞いていて、ふと恥ずかしい思いがした。案の定、相手のサラリーマンは、いかにも怪訝そうな顔をしている。
「・・・すみません、何て言いました?」
「あ、いや、おかしな事を聞いて申し訳ないです。ただ、今が何時なのか、ちょっと、分からなくて」
ーああ、なんて馬鹿な事を聞いてるんだろう・・・「自分の部屋にある時計を見ろ」って話だよなあ・・・ー
S氏はそう思った。現に、相手のサラリーマンは明らかに戸惑った様子をしていた。しかし・・・
「『ナンジ』?ナンジというのは、いったい何ですか?」
相手から返ってきたのは、予想外の返事だった。
S氏は、まじまじと相手を見つめた。ふざけている様子は無い。冗談を言ってこちらをからかっている素振りも無い。正真正銘、本気で「何時」という単語が分からないようだ。
「あ、いや、失礼しました。何でも無いです」
そう言うと、サラリーマンはまた怪訝そうに
「はあ」
と言いながら、去って行った。
次にS氏は、やはりちょうど近くを通りかかった、2つ隣の部屋に住む奥さんに同じ質問をした。しかし奥さんの反応は、先ほどのサラリーマンと全く同じものだった。その次に、3つ隣に住む女子高生に聞いた。やはり同じ反応だ。それどころか女子高生は、
ーやだ、訳の分からない事聞いてきて。もしかして、不審者かしら?ー
とでも言いたそうな顔をしながら去って行った。
しかし、今のS氏には、そんな事は気にならなかった。二日酔いの気持ち悪ささえ、忘れていた。自室に戻ったS氏は、ひとりこう呟いた。
「驚いた・・・これはもう、本当に『時間』という概念がこの世から消え去ったと見て間違いない。到底信じ難いが、こんな続けざまに証拠を見せられては、信じるしかない。」
呟くと共に、S氏の表情は晴れやかになっていった。
「・・・これで、もう日曜日の夜に怯えなくていい。『もう18時か・・・』なんて、憂鬱な気分にならなくていいんだ。ただ、朝陽と共に目覚めて、暗くなり疲れたら寝る。食事も、腹が減った時に、自由に食べればいい。シンプル極まりない生活。そうだ、これだ!人間の本来の生活が、戻ったんだ!」
思わずそう叫んだ時、
「ブー、ブー、ブー・・・」
スマホに電話が掛かってきた。見ると発信者の箇所に、会社の上司である課長の名前が表示されている。
ーちっ、なんだよ・・・こんな素晴らしい土曜日に、よりによって会社から電話なんて・・・ー
しかし、無視する訳にもいかない。わざわざ休日に電話してくるとは、よほどの事が起きたのだろう。そう思い、S氏は「応答」のボタンをタップした。
「もしもし、お疲れ様です。どうしましたか?」
「『どうしました』じゃないだろ!何で断りも無く会社に来ないんだ!」
「え?いや、断りもなにも、今日は休日じゃないですか・・・」
「・・・キュ、キュウジ?すまん、なんて言った?」
「ですから、今日は休日じゃないかって。働かなくて良い日じゃないかって言って・・・」
「働かなくて良い日だって!?」
課長は素っ頓狂な声をあげた。どうやらあまりの驚きに、先ほどまでの怒りも忘れてしまったようだ。
「なあ君、どうかしたのか?寝ぼけているのか?」
「いやいや、寝ぼけてなんかいませんよ。今日は、確かに土曜日なのだから、働かなくて良い休日じゃないですか」
「『ドヨウビ』?なんなんだそれは」
課長の無邪気な疑問の声を聞いたS氏は、一瞬にして青ざめた。
まさか・・・いやそんな、まさか・・・。
忘れていたはずの二日酔いがぶり返してきたS氏の耳に、課長の声が響いた。
「どうやら、本当に寝ぼけているようだな。ドヨウだかキュウジだか知らないが、とにかく、顔でも洗って落ち着いたら、会社に来なさい。『働かなくて良い日』なんて、おかしな事を言っちゃいかん。太陽が昇って目覚めたら働き、暗くなったら帰って寝る。これが本来の人間じゃないか」