金星の君、水星の盗人
*宵の明星*
星が、音を奏でているかのように美しい夜のこと。
すっかりと日の暮れた神殿に、ある一人の少女が訪れていた。
彼女の持つ黄金の髪と瞳は自ら光を放っているかのよう。きりり、と結ばれた唇は紅く、凛とした気位の高さを表している。豊かな髪をなびかせて歩く彼女は、女王としてこの国を治めていた。そして、その輝きからある名で呼ばれていた。「金星の君」と。
古より続く神殿は、白く美しい石でつくられていた。しかし、その白ささえかすんでしまう程、少女の肌は滑らかで純白だ。
ふと、足音が止まる。
少女は目の前にある噴水を見上げていた。冷たい水飛沫が顔へとかかるのも厭わず、静かに噴水へと近づいていく。ゆっくりと、目を閉じる。閉じた瞳から、雫が頬を伝い落ちる。
「我が片割れの親愛なる梟よ。今こそ仮初めの姿、互いに戻せん」
そっと呟かれたはずの呪文は朗々と神殿に響きわたり、たちまちに効果を表した。
もうそこには、先程の気の強そうな少女の姿はなかった。代わりにあるのは二つの人影。夜空に溶け消えてしまいそうな水色の少女と、金星の君によく似た黄金の青年だ。二人の顔つきはなぜかそっくりであった。そして、金星の君と瓜二つ。
「あぁ、お兄様。お久しぶり」
少女が青年に微笑みながら声をかける。ほのかに色づいた唇から紡がれた言葉は、恍惚感に満ちたとても柔らかなものであった。
「久しぶりだね、我が金星の君。元気だった?」
どこか軽薄にも聞こえる声を持つ青年は、少女――金星の君――に近付いた。彼女の、透明に近い水色の髪を弄ぶ。
「我が元気かどうか、なんてご存知でしょうに? 大怪盗の、水星の盗人さん」
少女の声は彼女の容姿と同じくらい、消えてしまいそうに儚い。その淡い淡い清流の瞳は、金色の少年をじっと見つめていた。
「もちろん、大切な双子の妹だからね。今日は、……どんな心無いうわさに傷つけられてきたのかな?」
青年――水星の盗人――は、とても信用できないと感じてしまう程の軽い声を持っていた。けれど、彼の仕草や雰囲気には不思議な優しさがにじんでいた。
「今日も……皆が我を責めて。口にこそ出さぬが我もそのくらい分かるのだ。我の悪しき運命がこの国を転落させるのだ、って」
「馬鹿な。何て言ったってこの僕の妹だよ? 君なら、悪しき運命なんて楽々とはねのけられるだろうに」
青年は少女の頭を撫でながら憤る。そんな彼の様子に、少女は嬉しそうに目を細めた。
この国の主、金星の君とこの国に名を轟かす大怪盗、水星の盗人の会話だとは全く想像できない。
「ありがとう、お兄様。けれど、我には王なんて向いていない。不可能だ、だって……我にはどうするべきなのか全く分からないのだから」
金星の君の水色の瞳はわずかに潤んでいた。
「だから、そういう時には僕が助けるって――」
「それでは駄目。あぁ、お兄様。我は、そなたみたいに、賢くない。人付き合いも上手くない。お兄様がいなくては、我はただの木偶の坊なのだから!」
とうとう、澄んだ空の色をした瞳から一粒の涙が零れ落ちる。彼女の感情の高ぶりと共に、その美しい声もだんだん大きくなっていた。最後の叫びは、煌びやかな宝石や硝子が砕けてしまったかのように痛々しい。
「我が君、そう心配することはないよ。君は全能なる女王だろ、違うか?」
かがみこんだ青年が少女の瞳の奥をじっと見つめた。
「そう、でも――いや、何でもない」
青年は、少女が何かを言いかけたことに気づかないふりをしてそっと立ち上がる。
少女は少しの間視線を彷徨わせた後、背を向けて歩き始めている水星の盗人を追いかけた。
「もう夜も更けてきたことだし、僕は一度帰るよ。おやすみ」
「待って、お兄様」
囁かれた言葉にかぶせるように、力強く呼びかける。
「お兄様……わ、私は、お兄様を心の底から愛している。こんな世界に生きるのなら、お兄様と永遠にどこか他の場所で過ごしたい。けれど、それは叶わないから、せめて明までここにいて。また今日の明には来るのでしょう?」
そっと背中にすがる。
「君のそれはただの憧れ、勘違いだって。ほら、またすぐに会えるんだからさ」
水星の盗人は優しく諭し、彼の金髪が闇に消えた。
「そう、おやすみなさい。私の盗人さん」
どうしていつもつれないの、と少女は心の中で呟いた。
暗く、切ない声で。
月明かりの下、星は巡る。
*明の明星*
月が輝きを失い始めた頃、漆黒の空が白み始めた頃。闇は光に薄められ、世界は明を迎える。
神殿では、物の判別がつくくらいには明るくなっていた。そして、そこには少女が幸せそうに微睡んでいた。彼女は一晩中神殿の中にいたようだ。
雨風を防ぐようなものがない神殿であったが、春の暖かな風に彼女は守られていた。
風の唸り声に、金星の君は目を覚ます。
「もう明!? 儀式をしなくては」
慌てて立ち上がり噴水へ近付こうとした彼女に、一つの声が届いた。
「その必要はないよ。僕の可愛いお姫様」
その甘い声と共に現れたのは水星の盗人。黄金の髪を朝日に輝かせる彼の声は、いつもよりも昏い。
「お兄様、儀式をしなくては、どうなるのか分からないのでしょう?」
いつもの仮初めの姿から本来の姿になるとき、そしてまた仮初めの姿へ戻るとき、儀式は欠かしてはいけないものだった。それが彼ら双子に定められた誓約で、それを破れば二人とも命の保証さえない。
金星の君の淡い瞳は、疑問を孕みつつも真っ直ぐに水星の盗人を見つめていた。その空色の瞳から逃げるように、金色の瞳はあらぬ方向を見る。
「君を救いに来たんだ。君を苦しめるこの世界から、救い出しに」
けれどそれは一瞬のことで、青年は少女の眼をを覗き込むようにかがんだ。少女の顔が喜びに輝くのを確認した後、彼はそっと目を伏せる。
甘い花の香りが、そっと二人を包み込む。
「本当? 私を盗みに来た、とでも?」
気持ちを抑え平静を装って訊ねる彼女の声は、やはりいつもよりはやや高い。
「あぁ。この世界から君を盗み出すのさ」
「……嘘じゃなくて?」
「勿論」
水星の盗人は懐に手を伸ばしながらにこり、と柔らかい笑みを見せた。とろけるような笑顔は彼の金色の美貌に良く似合う。間近で見てしまえば卒倒しかねない色気さえ。爽やかにも思える色気は、どこか悪魔じみていた。
「嘘」
対する少女は、拗ねて頬を膨らませていた。まだあどけない顔立ちと色彩があいまって、天使が現れたかのよう。
「嘘じゃないって。ほら、目を瞑って?」
催眠術にかけられたように、少女は大人しく目を閉じた。そして――
冷たい光が朝の闇にきらめく。
「ごめん、でもこれが一番なんだ」
申し訳なさそうな声は、金星の君の心を鋭く突き立てる。
彼女の口から漏れ出た吐息は、苦痛の呻きではなく安堵の溜息だった。
「お兄様?」
少女の瞳は大きく開かれた後、だんだんと細められていった。
太陽の光が差し込み始めた神殿を、一人の少年がゆっくりと歩む。彼の髪は麗しく輝き、まるでどこかの王子の様であった。しかし、その瞳には暗黒しか見えていないようでもあった。
「僕の、可愛い妹。金星の君、我が愛しきお姫様」
彼は、すっかり冷たくなってしまった少女の体を腕に抱えていた。そして、ひたすらに彼女を呼び続ける。
「最期ぐらい、君に本当のことを言えばよかったね。でも君は、勘違いしているだけなんだ」
どうせ、とつぶやきながら愛おしそうに見つめ、頭をやさしく撫でる。
「心から愛しているのは、君じゃなくて僕だよ。僕は、君を守るためにどんな罪だって犯す、そんな気でいたんだ。君をすべてのものから守るってね。その為に、君から世界を盗まなくてはいけなかったなんて」
心底つらそうな溜息をつく。
「でも、君を苦しめるような世界なんて君に相応しくない。こんな世界、要らないよね? 大丈夫、僕がこの世界をつくり直すから。
だから、僕の愛しき片割れ、もう少しだけ待っていて?」
双子の禁忌の愛は狂愛へと移りゆく。
水星の盗人と金星の君は、共に安らかな微笑みをうかべていた。
太陽を背に、少年は涙を浮かべながら笑う。輝くその涙を一粒受けた、空色の少女も笑う。
「愛してる……」