リヴァイアサン
おれは、金田たちと別れて、帰宅路を歩いていた。
結局のところ、金田たちと話した内容は、ほとんどが頭に入っていなかった。すべてが、現実ではないような感覚になる。実は今日の出来事が、すべて夢で、明日から本当の二学期が始まるんじゃないのかと期待しているおれがいた。
さっきは金田にあきらめきれないと言ったが、おれはまだ悩んでいた。たぶん、金田も同じだろう。かっこいいことを言ったのに、踏ん切りがついていなかった。
「なんで、ここにいるんだよ、おれは」
帰るはずが、家とは別の道に来てしまった。おれは、図書館の前にいた。ここにいれば、もしかしたら彼女とまた会えるんではないかと甘い希望があった。ここで、おれたちは何度も、偶然に会っていたのだから……。今日も会える。そんな馬鹿げた妄想に陥っていた。
おれは、ほとんど無意識で図書館の入り口をくぐり、いつものアメリカ文学のコーナーで本を二冊選び、貸出手続きを済ませた後に、いつものイスに座る。ここで、『恋の空』を読んでいたとき、勉強していたとき、彼女と会うことができた。だから、今回も……。
おれは、いつもの作者の『偶然の音楽』という本を開く。内容はほとんど頭に入ってこなかった。しかし、時間だけは過ぎていく。
『図書館閉館まで、あと一〇分です。貸出手続きがまだの方は、お早めにカウンターへお越しください。明日は……』
図書館の閉館アナウンスが無情にも流れた。彼女は来なかった。来るわけがなかった。おれのバカな考えは無残にも崩れ去ったのだ。
図書館の外は、日が暮れていた。
「借りた本を、カバンに入れよう」
力なくおれはカバンを開いた。『偶然の音楽』ともう一冊をカバンに入れる。
「おかえり。遅かったな」
兄貴が台所に立っていた。どうやら、料理を作ってくれていたようだ。
「今日は早かったな、兄貴」
「おまえが遅かったんだよ、不良弟よ」
時計を見た。いつもより、一時間も帰宅が遅くなってしまった。
「ごめん」
「いいよ。焼きそばでいいだろう?」
「おう」
「弟よ、学校でなにかあったのか?」
焼きそばを食べていると兄貴が芝居がかった声でそう聞いてきた。
「なにも」
「嘘だっ!?」
オタクネタもいつもの調子だった。しかし、ツッコむ気力はなかった。
「ごちそうさま」
おれはそう言うと、自室に向かった。ベットで横になる。
カバンから、借りた本を取りだそうと手を伸ばした。
そこで、おれは気がついたのだった。
図書館で無意識におれが手に取った本が、佐藤さんと合宿で話をした『リヴァイアサン』という本だったということに……。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああ」
おれは、家から飛び出して無我夢中で走りだした。小雨が降りだした。おれは、近くの公園までひたすらに走った。
公園に着いた。もうほとんど人はいなかった。なおさら、好都合だった。おれは、人目を気にせず砂場に倒れ込む。小雨が顔を濡らした。口の中で砂を噛む。
すべてを飲み込む伝説の怪物“リヴァイアサン”。たぶん、彼女は、自分をその怪物に投影していたんだと思う。蒼井さんの気持ちも考えずに突っ走らなければいけない自分を。金田と蒼井さんの関係に一石を投じてしまう自分を。そして、おれたちの気持ちを知っている上で、いなくなってしまう自分を……。
おれたちは、完全に怪物に飲み込まれてしまったようだ。すべては、彼女のてのひらで動いていた。
「くそっ」
砂場で、大声で叫んだ。周囲の人がこちらを見ていた。
なんでだよ。
どうして、なんでなにも言わなかったんだよ。
どうして、金田の気持ちをちゃんと聞かないでいなくなったんだよ。
どうして、蒼井さんにはっぱをかけたのに、最後まで見届けようとしなかったんだよ。
どうして、おれたちの気持ちを知っていたのに、こんな終わり方しか用意できなかったんだよ。
どうして、おれたちは彼女の悩みに気がついてあげられなかったんだよ。
どうして、どうして、どうして……。
いくつもの気持ちがおれのこころを揺さぶった。
「ここにいたのか。この馬鹿が」
兄貴の声だった。
「兄貴?」
「まったく、突然、大声で出ていったから心配するだろうが。ご近所迷惑だろ」
「ごめん」
「金田くんからある程度は聞いてるぞ」
「知ってた」
さっきから兄貴の言動がずっと芝居がかってたからな。
「人生の先輩として言っておいてやる」
「うん」
「後悔しないように生きろ。それでも、後悔はできちまうからな」
「どういうことだよ」
いつものひょうきんな兄貴じゃなかった。
「会えるんだろ、会いたい人に。おれたちの父さんや母さんと違ってさ。なら、会いに行って来いよ。相手が迷惑なら、向こうから拒絶してくれるよ。自分で勝手に駄目だと決めつけるなよ」
「……」
「じゃあ、おれはそろそろ行くぞ。あんまり、遅くなるなよな」
兄貴は行ってしまう。おれがひとりだけ取り残された。
「ここで、終われるかよ」
おれは叫んだ。気持ちいっぱい叫んだ。
「絶対にもう一回会ってやる」
それが本心だった。もう一度、大好きなひとに会いたかった。ストーカーかよと自分で自嘲する。
ポケットからスマホを取りだした。
電話をかける。
あいつはすぐに電話に出た。
「おい、金田。会いに行くぞ、佐藤さんに」
おれは、そう宣言した。




