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女と無人の映画館に潜入し、座席にいた餓鬼の不気味な紫の眼を見た瞬間。俺は封じられていた全記憶を取り戻した。
―――いい?これからあなたは私の息子、シン・アンダースンとして生きるの。平和で穏やかな、極普通の子供として……。
あのババア!人を散々玩具にしておいて、よくもぬけぬけと巫山戯た発言を!!
―――もう、アダムってば。いっつもそうなんだから。
ああ、キュー……妖術のせいとは言え、愛するお前を忘れていた俺は最低の騎士だ。件の暗殺者のオツムを言えた義理ではない。俺こそ正真正銘の馬鹿だ。間抜けだ。手の施しようの無い阿呆だ。
マグマのような自責の念に沸騰しかけながらも、ジョシュアの先導で俺達は映画館の裏口へ。そして、
ブロロロッ!スー……。「久し振りだね、桜。アダムも無事で何よりだ」「お久し振りです、小父様」「まぁな。あれ位屁でもねえよ」
レンタカーの運転席から、朗らかに手を振るオッサン。羨ましい精神力だ。敬愛対象のDrが連行され、今もショックが残る筈なのに。
「取り敢えず全員乗りなさい。どうやら『ホーム』へ着くまで油断出来ない状況のようだからね」
保護者の忠告に従い“紫”は助手席、俺と桜は後部座席へ乗り込む。エンジンを掛けっ放しだったワゴンが即座に発進する。
「おい、オッサン!昨日のイカレ野郎、一体何者なんだよ?」
開口一番の問いに、その事なのだが、庇護者はバックミラー越しに眉を顰める。
「残念だが、例の爆弾魔に関しては私にも分からない。“銀狐”にも調査を依頼したが、警察も身柄を確保するどころか、逃走の足取りさえ追えなかったようだ」
「爆弾、って?―――道理で街のあちこちにお巡りさんが立っていた訳だわ。そんな悲惨な事件がつい昨日、しかも狙われたのがアダムだなんて……」
「気にするな、桜。ケッ、にしても無能な連中だぜ」
舌打ち。
「餓鬼共含め、民間人が何十人とブチ殺されたってのによ」
「ああ。君にとっては、さぞや辛い一日だっただろうね」
慰めの言葉に、は?俺は冷笑を返す。
「止してくれよ、オッサン。あんな四六時中馬鹿面晒す奴等なんざ、幾らくたばろうが知った事か」
我慢の限界だ。ジョシュアから着替えを引っ手繰り、窮屈極まりないユニフォームを脱ぐ。すると隣席にいた桜が、慌てて顔を窓へと背けた。ああ、しまった。幾ら家族とは言え、こいつも年頃の娘だったな。
「悪ぃ、忠告が遅れた」
「う、ううん……もう大丈夫?」
「ああ」
視線を元に戻した彼女の頬は林檎のように赤い。それにしても美人に育ったな。対人恐怖症と異能さえ無ければ、彼氏の二、三人いてもおかしくない面構えだ。
「にしても、昨日までのチームメイトに対して何て薄情な奴だろうね。ま、知ってたけど」
「えっ!?そんな、友達を……」
用意された服は、クリーム色のタートルネックと青いジーンズだ。こうして改めて見ると俺の身長、もうオッサンと殆ど変わらないな。昔は見上げていたってのに。
「あんな連中が友だと?一度目は赦してやるが、金輪際呼ぶな。所詮は偽りの生活の共犯者共だ」
嫌悪感をありありと浮かべながら、なぁ桜?鼻を鳴らす。
「お前も大方似たような環境だったんだろ。悪い事は言わねえ、とっとと忘れちまえ」
「……ええ」
そう忠告したものの俺自身、野球部の奴等には憎悪を抱けずにいた。とりわけ、俺を庇いやがったあの甘ちゃん野郎は。
(ああ、くそっ……!)
皆に気付かれないよう、溢れかけた女々しい物を袖で拭う。どうかしてるぞ、俺。きっと記憶が一気に戻ったせいだ。そうに違いない。
街一番の高さを誇る龍商会ビルを右折した辺りで、それはそうと二人共、桜が口を開く。
「私達と一緒に捕まったメアリーさんはともかく―――どうしてキューは迎えに来ていないの?」
質問の瞬間、車内の雰囲気が凍り付いた。空気の変化に、鋭敏な質問者も察知しておろおろ。
「あ、いえ。別に責めているとかではなくて、その……もしかして病状が悪化しているのかしら」
「安心しなよ。その心配は今の所無いから」
溜息を吐きつつ答えるジョシュア。
「但し現在『ホーム』に出入りしているのは、僕等とランファの三人だけだね。しかも僕を除く二人は、ラブレにある別宅へから通っている」
「??どう言う事だ?キューはいないのか?」
「二人共、どうか落ち着いて聞いておくれ。実は―――」
そう前置きの後語られた内容は、信じ難く恐ろしい真実だった。
共に囚われたDrは裁判に掛けられ、俺達の分の罪も一人で被り、懲役五百年の刑に処されていた。更に逮捕とほぼ同日。キューのホームステイ先だったレイテッド宅で殺人事件が発生し、夫妻は死亡。その際保護されたキューは俺達と同じ処置を受け、未だ監視の身と言う最悪の状況だった。
「唯一の救いと言えば、生前クローディアが助けた赤ん坊が、今日もすくすくと成長している事位さ」
「クローディアが?」
「ああ。どうやら研究所へ出向く直前に拾って来ていたらしくてね。行方不明届も出されていなかったし、恐らく捨て子だろう」
「そう、か……あいつらしいな」
拾い癖は理知的な親友の唯一の悪癖だった。俺に何度呆れられても、懲りもせず何処からかガラクタを銜えて帰って来るのだ。本当に何故、いい年の彼女はあんな子供みたいな真似をしていたのだろう。
「ただロウ、戸籍上は私とランファの養子と言う事にしてあるのだが、あの子に『ホーム』の件は一切伝えていない。勿論、拾いの親がライオンだと言う事もね」
「成程。私達が不在の間に、随分状況が変わったんですね」
顎に指をやり、納得の首肯を返す桜。
「帰って来て早々不便を掛けて済まない。だが安心しなさい。ランファは彼の夕食を作りに戻らなければならないが、私は仕事の予定を空けておいた。二、三日は『ホーム』に留まれるよ。それに……いや」
不安を振り払うように頭を横にし、もうすぐ船着場へ到着だ、降りる準備を、庇護者はそう告げた。