第三話 鴨井観音の怪
龍が往く NAGA IS GOING 2
登場人物
安倍晴明 主人公。倶利伽羅龍王の化身。
池端芳恵 安倍の彼女。
伊藤敦志 安倍の親友。
永野裕子 伊藤の彼女。
矢野享 安倍、伊藤の悪友。驚くと女になる。
水野明子 安倍達の友人。10cmの小人になる。
佐藤明 安倍達の友人。
馬場昇 安倍達の悪友。不気味な男。
大道憲吾 安倍達の悪友。メカフェチ。
その他
やっぱり、欲求不満なのでしょうか(笑)。
第三話 鴨井観音の怪
【1】
人呼んで「自動翻訳機」(※1)の鶴田が、生徒を立たせたまま、どんどん自分で英文を訳しているのを聞き流しながら、安倍は、立てた教科書の陰で栗本薫の『グイン・サーガ』(※2)を読んでいた。五時間目であるから、ごくごく一部の真面目な生徒と、内職をしている生徒のほかは、まず睡眠中である。
鶴田が、次回の授業の予告を始めたところで、隣のクラスからどよめきが聞こえて来た。
「おい、伊藤さん。確か隣は、現社だいな?」
安倍は本から眼を離すと、すぐ横で内職をしている伊藤に声をかけた。
「ああ。あのどよめき方は、また寺田がらちもない事を言っただら」
伊藤が、大して関心を持たずに答えた。内職の手は休めない。
「まさか、またあれじゃねーだいなー」
安倍は、再び本に眼を戻しながら、呟いた。「あれ」とは、寺田が言い出した、社会見学と名付けて、近所の養鶏場(※3)を見学し、浜高の近所を歩いた事である。
ただでさえ、風向きが悪ければ、授業に身が入らないほどの悪臭を放っている養鶏場である。それを、その建物の中へ入ったのである。十人中九人までが吐き気を訴えた。しかもその後、よせばいいのに浜名湖道路まで降りていったのだ(※4)。浜高近辺は、浜名湖へ至るまで、はっきり言って、観る物など何もない。歩くだけ無駄なのである。
そんな事があって以来、寺田が何か言い出す度に、生徒全員から苦情が出た。
寺田のすごい所は、生徒の苦情を毛ほどにも感じていない、という所である。いくら苦情を言われても、自分の言った事を押し通してしまう。しかも、それが、授業内容にとってマイナスにしかならない、と生徒ですら判るような事でも、である。
チャイムが鳴って、五時間目が終わった。隣の17HRは、やけに騒がしくなっている。物好きな連中が、情報を仕入れに行ったので、安倍はその報告を待っているだけでよかった。本を読み続ける。伊藤も同じ考えだ。微動だにせずに、内職を続けている。
そこへ、物好きにかけてはナンバーワンの相曽和子が、隣から矢野ごと情報を引っ張って来た。
「安倍くん、伊藤くん。聞いて聞いて」
相曽は、異常に陽気でおしゃべりである。他愛もない事で喜べる特技を持っている。
「あのね、あのね」相曽は、勿体ぶっているつもりで、間を置いてから、言った。「あのね、寺田先生がね、17HR、18HRと一緒に、裁判を見に行くだって」
「裁判?」
安倍は、ちょっと興味を引かれて、言った。最近、何か大きな事件がなかったか、頭の中の記憶の新聞をめくる。
「ああ」と、今度は矢野が口を開いた。「来週の火曜日、五時間目をもらって、五、六時間ブチ抜きで行くんだとよ」
「お、そりゃいいや」
伊藤が、内職の手を止めて、顔を上げた。
「伊藤さん」と、安倍。「その日、フケようと思ってるら?」
「当然」
「俺は、それはちと甘いと思うな。寺田のことだ、絶対何かペナルティをつけてくるに」
「さすが安倍くん、鋭いやぁ」
相曽が、安倍の肩をたたいて言った。
「やっぱりそうだら?一敗でもつくの?」
「ハズレ。二敗つくだって」
「二敗ィ?」
安倍と伊藤は、ため息まじりのコーラスをした。
この一敗、二敗、というのは、寺田独特の採点法である。
寺田の採点法によると、まず、質問に答えられない、という程度のペナルティには『立っとれ攻撃』が加えられる。それが、課題(※5)を忘れた、教科書を忘れた、居眠りをしていた、という程度にまで上がると、『一敗』となる。この『一敗』で、テスト十点分のマイナスになる。そしてこれがたまって『五敗』になると、新聞から何か一つ記事を選んで、それの感想文を提出させられる。それからさらにたまって『十敗』になると、今度は日本国憲法全文を写させられる。
『立っとれ攻撃』は、教育的指導で、二回取られると、一敗になる。これには、頬杖や、あくびも対象になる。
もちろん、マイナスばかりではなく、『敗』を減らす『勝』もある課題をちゃんとやって来る、質問に適切な答えをする、などという事をすると、それは『一勝』となり、一勝するごとに一敗が消えて行き、消す『敗』がなくなると、『勝』はどんどんためられて行く。『勝』がたくさんたまっているため、少々『一敗』を食らっても、ビクともしない、という事もある。まあそれなりに面白いシステムである。
「やれやれ、うっとーしーやぁ」
伊藤が天井を見上げて呟いた。
「ところで矢野、お前何しに来ただい?」
安倍が、たった今気付いた、というような口振りで言った。
「まさか、今の事言うためだけに、18HRへ来たじゃねえだらな?」
「しょんねェら!相曽さんに有無を言わさず引っ張ってこられたんだでよお」
矢野はそう言うと、何かブツブツと言いながら、17HRへ帰っていった。相曽は、と見ると、彼女は既に自分の仕入れて来たニュースを、女子の群れの中で公表していた。
そんな相曽を見て、思わず安倍の顔がほころんだ。
「世の中、相曽さんみたいな人間ばっかだったら、平和でいいだにな」
「しかしなあ」と、伊藤。「相曽さんみたいな人間ばっかだったら、かなりさわがしいに」
「そりゃ言える」
安倍と伊藤がそんな事を話している間に、六時間目が始まり、寺田がやって来た。
時事問題、英字新聞(※6)もなんとかクリアーし、この授業もそろそろ終わる、という所で、寺田が切り出した。
「来週のこの日は、五時間目をもらって、裁判所へ見学に行くぞ。多分、見学する裁判は、交通関係と、麻薬関係だと思う。一時五十分が集合時間だ。もし来なかった者は、その場で二敗にする。それと、次の授業までに、感想文を書いて出すように。こいつを出さなかったら、さらに一敗だ。あさってもう一回授業があるから、その時にも言うが、忘れないように。以上」
チャイムがなる前だったが、寺田は授業を終えて、教室を出て行った。
その途端、教室はため息で満たされた。
「ほらほらほらほら、やっぱり言った通りでしょ!」
そんな中で、相曽が、何がうれしいのか、はしゃいでいた。
【2】
あっという間に一週間が経ち、裁判見学の日となった。
17HRと18HRとの合同である。安倍、伊藤、池端、永野、矢野、黒岩、相曽、佐藤、大道、大橋の大部隊が、浜高から自転車で、はるばる鴨井町にある、浜松地方裁判所へとやって来た。
一時四十分ちょうどに着いたが、まだ誰も来ていない。
「やっぱり、みんな来ねーらなー」
伊藤、矢野、大道が、口をそろえて言った。
「まあまあ」と、安倍。「どうせ流れ解散だでさあ、裁判が早く終われば、めっけもんってとこで、こらいときよ」
彼らがそう喋っている間に、ちらほらと他の生徒もやって来て、一番最後に来た寺田に導かれて、裁判所内へ入って行った。
「なんだか、病院の中かなんかみたい」
「ホント、暗い感じよねー」
池端と黒岩が、口々に呟いた。
「まったくだ。なんで公務員関係の建物ってのは、みんな同じように暗いだいね」
そう言った伊藤に、安倍が答えた。
「親方日の丸根性だからだよ」
そう言いながら安倍の目は寺田の背中を見ていた。
そうこうしているうちに、裁判が始まった。
一つ目の件は、飲酒運転の常習者の裁判だった。すでに二回ほど警告を受けており、さらに今回、やったらしいのだ。
その男は、反省しているのかどうなのか、裁判官の言う事全てに「はい、はい」と答えるだけであった。奥さんが、子供を抱いて現れ、「本人は、もうしない、と反省しておりますから、どうか実刑だけは…」と、涙ながらに訴えていた。しかし、常習者である。反省に全く信用がおけない。
結局この件は、「追って沙汰を待つように」で終わった。
二つ目の件は、麻薬常習者の件で、その男は、手錠はめられたまま入廷した。が、しかし、内容は大したものではなく、本人の自供と、物的証拠の食い違いなどを、検察側が強く訴えていたが、参考書類を持って来るのを忘れたとかで、結局今回は何の進展もないまま、お流れになってしまった。
そんな件を二つ見て、やっと、流れ解散となった。
「やれやれ、アホみたいな裁判だったな」
矢野が、伸びをしながら言った。
「ドむかつく。(※7)何でこんなつまらん裁判見に、わざわざ浜高から来なきゃならねーだよ」
伊藤が、特に怒るでもなく言う。
「でもよ、ここで流れ解散だら?だったら別にいいら。どうせゲーセンに来るつもりだっただし、かなり早く終わったしな」
と、大道。彼は最初から、それが狙いだったようだ。鴨井町から繁華街までは、目と鼻の先である。
「まあまあ、みんな、ちょっと待てよ」矢野が、みんなを制して言った。「どうせヒマなんだで、ちょっと鴨井観音(※9)へ寄ってきまい」
「えーっ、鴨井観音?」
池端、永野、佐藤が口をそろえて言った。「開かずの間」(※10)での一件を思い出してしまったのだ。
「お寺なんかに行くの?」
相曽が、頬をふくらませながら言った。彼女は「開かずの間」の事情は知らないが、ストレートに街へ出たかったのだ。
「まあまあ、せっかくすぐそこなんだでさ、見るだけでも、見ていきまいよ」
伊藤がそう言うと、すんなり話が決まってしまった。これまでにも、彼の発言が通らなかった、という事は少ない。
という訳で、安倍達は、裁判所から百メートル程の所にある、鴨井観音へとやって来た。ここは、駐車場がかなり広いが、今日は平日の昼間という事もあり、車は全く入っていない。そこで、安倍達は思い思いの場所に自転車を停めると、境内へと入って行った。
大きな朱塗りの仁王門をくぐると、左手に寺務所を兼ねた観音堂、そして正面に不動堂がある。
皆が好き勝手に見物して廻っているのを見ながら、安倍は門の真下に立っていた。ここは、最も鳩の集まる場所である。彼が呼ぶと、何十羽という鳩が周りに集まって来た。しかし、一羽も彼の体にとまろうとはしない。皆、彼を取り囲んで、首をかしげて見上げている。
そこへ永野や伊藤と一緒に境内を見物していた池端がやって来た。彼女が通ると、鳩の群れは一度割れて、またふさがった。
「ねえ、安倍さん」池端は、眉根を寄せながら、ささやくように言った。「何だか変な感じがしない?」
「よく判ったね。実は僕もね、さっきから嫌な予感がするんだ」
安倍はそう言うと、地上に群れている鳩を見回した。鳩は、まるで安倍の言葉に同意するかのように、うなずいた。
「嫌な予感って、この前みたいな物?」
「いや。石倉さんの(※11)とは全く違うんだ。ヘタをすると、もっとやっかいな物かもしれないよ」
安倍がそう言った時、相曽が、
「わーっ、鳩だー!」
と叫びながら、鳩の群れの中に走り込んで来た。鳩が驚いて一斉に飛び立つのを見て、今度は相曽が驚く。
「あー、鳩さん達、ごめーん、驚かいて。もうしないでさ、降りてきてよ」
そんな相曽を見て、安倍と池端の顔がほころんだ。
「やれやれ……。この予感が、杞憂で終わってくれればいいだけどな」
安倍は、小さな声で呟いた。
その頃矢野は、黒岩や佐藤、大道などを相手に、不動堂の前で解説を行っていた。
「―――で、唐で密教を学んだ空海が、日本に帰って来て開いたのが、真言宗なわけ」
「じゃあさ、このお不動さん、ていうのは、真言宗の仏様なの?」
矢野の解説が切れた所で、黒岩が質問した。
「そう。本当は、このお不動さんっていうのは、もともとインドのシバって神様だっただけど、それが真言宗――っていうより密教――に取り入れられて、仏さんの一人になったってわけさ」
「それじゃあ、あの――」黒岩はそう言うと、観音堂を指差して、続けた。「――あの中の仏様は何?」
「あの中はねぇ、多分、観音様だと思う」
「観音様も、真言宗の仏様なの?」
「そうだけんが、別に真言宗だけってわけじゃないに」
矢野がそこまで言った時、突然、不動堂の扉がガタン、と鳴った。別に風が吹いたとか、誰かが触ったとかいう事もない。全くの突然だった。
それと時を同じくして、観音堂の扉も、大きな音を立てた。
それを聞いた安倍の髪が、それこそ文字通り逆立った。
「やべえ、何か始まったぞ」
安倍はそう呟くと、今度は口に手をあてて、怒鳴った。
「おーい、みんな、こっちへ集まれー!」
安倍がそう怒鳴った時、不動堂の扉は、今にも壊れそうなほど振るえていた。
「おい矢野」と、大道。「晴明が何か言ってるに。行こまい」
「おう」
そう答えた矢野が、黒岩達をうながして不動堂を離れた直後、そこの扉のガラスが、全て砕け散った。
「キャッ!」
黒岩が、思わず悲鳴を上げた。
「みんな、早く門より外側に来い!」
安倍のそう叫ぶ声と、観音堂の扉の砕ける音が重なった。その砕けた扉のすき間から、灰色っぽい煙のような物が、一直線に安倍と池端の立っている位置に伸びた。
「キャッ」
池端は悲鳴を上げて飛び退いたが、その物は、安倍の十センチほど手前で、何かに跳ね返された。
その間に、全員が門の外に出て、一つ所に集まった。
観音堂の壊れた扉から、どす黒い煙のような物が、どくどくと辺りに立ち込め始めた。しかし、門より外へは、何物かに阻まれ、出て来る事が出来ない。
「おい晴明、何だいこれ!」
伊藤が、門の向こうに充満する煙に圧倒されながら、言った。
「俺にもよく判らんが、恐らくは濃い瘴気だろう」
安倍はそう答えると、煙の中を透かして見ようと、目を細めた。しかし当然、何も見えない。
「おい晴明、これ、この前の石倉の後続じゃねぇのか?」
そう言った矢野に、池端が答えた。
「これはね、この前のとは違うんだって」
「とにかく、良い物では、絶対ないわよね」
永野が、やれやれ、といった感じで言った。毎度のメンバーは、さすがに慣れている。このような異常現象を目の当たりにしていながら、完全に落ち着いている。
しかし、こういった現場に初めて立ち合った黒岩と相曽は、そう簡単に落ち着けるはずもない。
「ちょ……、ちょっと、何よこれ!」
たまらず、黒岩が叫んだ。相曽も、常に陽気でいる手前か、叫び出したりはしないものの、顔は青ざめ、言葉もない。
「まあまあ、安倍さんがいれば大丈夫だで、落ち着いて見学してて」
佐藤が、場の雰囲気にそぐわないほどののん気さで、そんな二人をなだめている。
そんな彼らに向かって、煙が押し寄せようともがいているが、何か見えない壁のような物に阻まれ、門より外には出て来られないでいる。
「おい晴明、どうなってるでえ、これ」
伊藤が、煙と門外との境を指差しながら、言った。
「さすがは真言宗のお寺、不動明王の結界がまだ効いているってところかな…。とすれば、しばらくはこのままでも大丈夫だ…」
安倍がそこまで言った時、煙の中から、しわがれた笑い声が聞こえて来た。
「こ…今度は何よ?」
恐る恐る、相曽が呟いた。しかし、安倍ですら、この問いには答えられなかった。
突然聞こえて来た笑い声は、やはり突然途切れ、今度は何事か呟く声が聞こえて来た。
〈来た。ついに来た。観音の力を持つ者が、ついに来た〉
【3】
「おい、何だい、今の」
矢野が、安倍と、目の前の煙(のような物)とを交互に見ながら言った。
「良く判らん。――伊藤さん、今の声、聞いたか?」
「ああ、聞いた」と、伊藤。「確か、『観音の力を持つ』なんとかって言ってたな」
「何のこった?」
「俺に聞かれても判らんよ」
伊藤がそう言った時、又、例の声が聞こえて来た。
〈観音の力を持つ者よ、わしにその力をよこせ〉
「おいこら!」安倍は、煙の中の“声”に向かって怒鳴った。「何、訳の判んねェ事、言ってるでぇや。所有格をはっきりさせないと、何の事だかさっぱり判んねえだろが!」
〈その力をよこさなければ、力づくでも奪い取る〉
“声”は、安倍の言葉を無視した。
「おい、晴明、俺達は先に逃げるぞ」
と、伊藤が、安倍の肩を叩いて言った。
「ああ、そうしてくれ。今ならまだ結界が生きてるから、何とか逃げられるだろう」
安倍がそう言った途端、“声”が笑い声を上げた。
〈わしから逃げられるとでも思っているのか!この程度の結界など、何程の事もないわ!〉
“声”がそう言った次の瞬間、煙と外界との接点の空間に、見る見る亀裂が入った。
「やばい!みんな逃げろ!」
安倍はそう叫ぶと、池端をかばいつつ、素早く伏せた。伊藤達も、慌ててそれにならう。
すぐに、空間に入った亀裂がはじけ、ボンッという音と共に煙の線が何本も走り、安倍達の自転車を、一台残らず壊してしまった。
「あ、くそっ、やられた!」
伊藤が叫んだ。
その声が終わらないうちに、さらに何本のも煙の線が、今度は安倍と池端に襲いかかった。
「キャッ!」
池端が悲鳴を上げた。安倍は反射的に、池端を後ろへかばった。
ドンドンドンッと音を立てて、安倍の体に煙の線が五、六本突き刺さった。背中から、鋭い先端が出ている。
「キャアッ!!」
「晴明!」
「大丈夫か!?」
池端の悲鳴、矢野と伊藤の叫びが同時に起こった。
「痛えな、この野郎!」
安倍はそう叫ぶと、ほとんど怒鳴り声で印呪を唱えた。
「唵薩羅薩羅縛日羅鉢羅迦羅吽発吒!」(※12)
その途端、四方が強い光に包まれた。地面から光が吹き出しているようにも、空から光を当てられているようにも見える。
その光がおさまった時、煙のような物は跡形もなくなっていた。
「あ…安倍さん、大丈夫!?」
池端が泣きそうな声で言いながら、安倍の体を見たが、彼の体には、かすり傷一つついていなかった。
「大丈夫だよ、池端さん。僕は、あんなつまらん物じゃ、ケガもしないよ」
安倍は、池端をなぐさめるようにそう言うと、今まで煙のあった空間をにらみつけた。
伊藤達も、安倍の視線を追いかけるが、何も見えない。壊れた観音堂があるだけだ。
「おい、晴明、お前、見えるのか?何だか知らんが…」
伊藤がそう言うと、安倍はゆっくりとうなずいて、言った。
「ああ、見える。奴は別に隠形に入ってる訳じゃないからな。自分の周りの光を屈折させて、見えないようにしているだけさ」
「どんな奴だ?」
「言ってみれば、観音像がそのまま動き出したって所なんだけど…」そこまで言って、安倍は少し言いよどんだ。「こいつの姿、女の子には見せたくねえやぁ」
〈晴明とやら、お前の後ろにいる娘をよこせ〉
突然、“声”が言った。池端は、それを聞いて身を堅くする。
「理由を言え」
と、安倍は言った。彼は、答えは返って来ないと思ったのだが、“声”は、答えた。
〈その娘は、観音菩薩の血を持っている。その娘こそ、観音菩薩の生まれ変わりなのだ〉
この答えに、その場にいた全員が驚いた。特に驚いたのは、当の池端本人である。
「……」
池端は、驚きのあまり声も出なかった。まさか自分が、安倍の同類だとは思ってもみなかったのだ。
「そうか、それで納得したぞ、伊藤さん」
安倍が、伊藤には振り返らずに、言った。
「何が?」
「ほら、この前のムジナの時…」
「あーあー、ムジナが弾き飛ばされた事か」
「そう。全ての害障を除去する、究極の菩薩、観世音の力を持っているんなら、雑魚妖怪なぞ、触れる事も出来ないはずだ」
「そんな呑気な事言って…」池端が、ポツリと言った。「私、少し傷ついてるんだから」
「ご免ね、池端さん。今度、31アイス(※14)おごるから、機嫌直してよ」
安倍は肩ごしに、池端を振り返ってそう言い、またすぐに“声”に向き直った。
「おい、観音さん、いつまでかくれんぼをする気だ?」
〈それほどまでにわしの姿を見たいのなら、見せてやろう〉
「変な奴だな」
“声”を聞いて、矢野が呟いた。
「永野さん」安倍は、前方に注意を払いながら、言った。「女の子だけでかたまってさ、なるべく離れててよ」
「判った」
永野はそう答えると、池端の手を引いて、相曽や黒岩、佐藤を一つ所へ集めた。
伊藤は、矢野達に合図を送り、女子をガードする位置につく。
「さて、観音さん」と、安倍。「お姿を見せて下さいよ」
〈よろしい〉
“声”がそう言った途端、安倍の十メートルほど前方の空気が揺らぎ、何かがその形を取った。
「ゲッ!!」
伊藤、矢野、大道、大橋の口から、思わず声がもれた。
「なに、あれ~っ?」
相曽と黒岩が、口をそろえて言った。池端、永野、佐藤の三人は、咄嗟に視線をはずした。
「やれやれ、こりゃまた、何ちゅーエグい格好をしてるで一や」
安倍が、ため息まじりに呟いた。
彼らの眼前に現れたのは、観音菩薩像そのものだった。ただ、その顔は、いやらしいニタニタ笑いに覆われ、さらには巨大な男根が、高々と衣を持ち上げていた。
〈さあ、その娘を渡してもらおう〉
観音はそう言うと、さらにニタニタと笑った。
【4】
「おい、お前、そのうっとーしい顔は、何とかならんのか?」
安倍が、そのおぞましい観音のニタニタ笑いをにらみつけながら、言った。
〈さあ、世話をやかせるな。娘をよこすのか、よこさぬのか?〉
観音が、安倍の言葉を無視して、言った。
「このスケベ野郎!デカい口叩くのもいい加減にしやがれ!」
ニタニタ笑いが癪に触った矢野が、彼には似合わないわめき声で言った。
安倍は、そんな矢野を無言で止めると、観音をねめつけた。
「お前の質問に答える前に、こちらから少々質問をさせてもらってもいいか?」
〈したければ、するがよい〉
「じゃあ聞くけどよ、なんで池端さんを狙うでえ?」
〈わしは、観音の分身だ。この寺にいたお陰で、坊主どもの強欲や、参拝者どもの利己主義などの濃い欲望を、常にこの身に浴びて来たのだ。そして、そのエネルギーが積もり積もって、この身に命を得たのだ。それからも、次々と強くなる欲望のエネルギーを吸収し、力を蓄えて来たが、やはり分身故に、どうしても本物の観音の力を得る事が出来なかった。
しかし、今ここに、観音の血を持つ者が現れた。その娘がそうだ〉
観音はそう言うと、ゆっくりと池端を指差した。池端は、気丈ににらみ返したものの、無意識に体を退いていた。
そんな彼女の姿をさえぎって、安倍は観音の前に立ちふさがった。
「つまり、彼女を自分の中に取り込んでしまえば、その力もお前の物になるって訳か」
〈そう言う事だ。その娘を犯す事によって、その力を我が物に出来るのだ〉
「だから、あんなスケベなカッコをしてるんだな」
大橋が、誰に言うでもなく、呟いた。
「もう一つ聞きたい」と、安倍。「なぜ、お前ごときに、不動明王の結界が破れたでえ?」
〈簡単な事だ。誰一人として、不動を真剣に参拝していなかったからな。わしの負のエネルギーの方が、奴のエネルギーをはるかに上回っていた、ただそれだけの事だ〉
「うーん、宗教の荒廃だな」
矢野が、したり顔で呟いた。
「お前に他人の事が言えるのかいや」
伊藤が、矢野の呟きに突っ込みを入れた。
「さすが伊藤さん達、余裕あるね」
永野が、かすかに声を震わせながら、言った。彼女に限らず、女子全員が、観音の持つ邪悪なエネルギーを感じ取り、恐怖していたのだ。
「俺達だって、本当は怖いだに。ただ虚勢を張ってるだけなんだ……」
大道が言った。顔が青ざめている。
〈さて、質問はこれだけかね?〉
そう言う観音に、安倍は無言でうなずいた。
〈では、先刻の答え、聞かせてもらおうか〉
「これが答えの代わりだ」
安倍はそう言うと、印呪を唱えた。
「唵薩縛怛他蘗多縛路吉多羯喚儜摩他羅々々(ラララ)吽弱莎訶!」(※15)
次の瞬間、観音の体に衝撃波が弾けた。しかし、その力は観音自身には届かず、四方八方に拡散してしまった。
あまりに強力な呪文だったために、周りの空気がイオン分解してしまった。しかし、観音は平然としている。
〈馬鹿め、聖観音真言など、このわしに効くはずもなかろうが〉
観音はそう言うと、素早く印呪を唱えた。
〈唵阿魯哩迦莎訶〉(※16)
次の瞬間、安倍が弾き飛ばされた。痛烈な衝撃波に、したたか叩きのめされたのだ。呪文の余波で、池端を除く全員が吹き飛ばされ、石燈籠が吹き倒された。
安倍は、十メートルほど地面を転がったが、すぐに立ち上がった。
「この野郎、痛えじゃねえか!」
冗談口調で言ってはみたものの、安倍の体は脳天からつま先まで痺れていた。呪文を受けた瞬間、全身を気で硬化させたお陰で、なんとか動けるが、もしまともに呪文を食らっていたら、立つことすら出来なかっただろう。
そんな安倍に、観音は再び印呪を放った。
今度は安倍にも用意が出来ていた。体のしびれを無視して飛び上がり、観音の真上にポジションを取る。
安倍の足元で、観音の呪文が炸裂するのと同時に、彼は印呪を観音に叩きつけた。
「倶利伽那迦囉惹銘伽扇儞曳莎縛訶!」
観音の全身に、炎の塊が炸裂した。その周りの地面が焦げ、輻射熱で立ち木に火がついた。
「あちち!晴明の野郎、下に俺達がいる事、忘れてるじゃねーだらなー」
熱風をまともに浴びた伊藤が、文句を言った。
「でも、今度のは効いたじゃねえか?」
矢野がそう言って、炎の塊と化した観音を見た。
「そうだといいんだが……」
そう小さな声で呟きながら、安倍が降り立った。
「安倍さん、そいつ、死んだの?」
永野が、恐る恐る安倍に訊いた。
「いや」安倍は、軽く首を振って答えた。「そう簡単にはくたばっちゃくれんら。みんな、ひとかたまりになって……」
安倍がそこまで言った時、突然炎が消えた。
〈はっはっは、たかが倶利伽羅竜王ごときの真言、このわしには効かぬわ〉
観音はそう言うと、余裕たっぷりに印を組んだ。
その印を見て、安倍の顔が引きつった。
「やばい!早くかたまれ!」
安倍は怒鳴ると、素早く印を組んだ。
〈南莫三慢多没駄南勃嚕唵〉
「唵縛曰羅儗伱鉢羅捻跛多耶沙縛賀!」
観音の一字金輪呪(※17)と、安倍の被甲護身真言(※18)が、同時に完結した。
次の瞬間、凄まじい爆発が起こった。安倍達全員が吹き飛ばされた。それでも、被甲真言がかなりの破壊エネルギーを食い止めていた。呪文の力がぶつかった場所は、二十メートルほどの溝が出来上がっていた。
「痛って~っ……」
伊藤達は、何とか立ち上がった。彼らは、爆風に吹き倒されただけですんだのだ。
「!」
池端が、声にならない悲鳴を上げた。安倍が、倒れたままピクリともしないのだ。
「あいつ、至近距離で食らったでなぁ……」
矢野がそう呟いた。
そんな彼らを、勝ち誇ったように観音が見て、言った。
〈ふふふ、これで邪魔者はいなくなったな。竜王の力なぞ、しょせんはこんな物よ。――さて、娘、お前の力をわしによこせ〉
「あ、あんたねェ、ふざけるのも大概にしなさいよ!」
勝気な黒岩が、思わず叫んだ。しかし、観音は全く取り合わない。一歩、また一歩、ゆっくりゆっくり、池端との距離をつめて来る。
「ちょっと、ど一すんのよ、これ」
相曽が、うろたえながら言った。
しかし、そう言われても、誰もどうする事も出来ない。
「絶体絶命だな、こりゃ」
大道がそう呟いた時、突然、佐藤が口を開いた。
「池端さん、真言を唱えるんだ」
「えっ!?」
その場にいた全員が驚いた。佐藤の声ではなかったからだ。
「お、お前、晴明か?」
伊藤が、佐藤に言ってみた。自分で自分の言っている事が信じられない、といった顔をしている。
「そうだ。ジャキさんの体は馮依しやすいでね、ちょっと借りただよ。――んな事言ってる場合じゃないで。いい、池端さん、よく聞いてよ。池端さんは、観音菩薩の生まれ変わりだ。つまり池端さんは、あの化け物なんかひねりつぶせるくらいの力を持ってるんだ」
「わ……私、そんな力、持ってないわよ」
池端は、気味悪そうな顔をして、言った。
「いや」と佐藤――安倍――は言った。「池端さんは、自分の力を知らないだけなんだ。
『唵阿魯哩迦莎訶』って唱えて!」
「そ…そんな、いきなり言われたって……」
池端がそう言った時、ついに観音が彼女らの目の前までやって来た。
「池端さん、早く!」安倍の声をした佐藤が言った。「照れたり、迷ったりするヒマはないんだ。みんなの命がかかっているだで。早く!」
観音が腕を振り上げたのを見て、池端は決心した。目を固く閉じ、胸の前で手を組む。
(お願い、みんなを守って!)
池端は、心の中でそう叫ぶと、真言を唱えた。
「お…、おん、あろりきゃ、そわか!」
【5】
池端の呪文が完結したのと同時に、観音が、彼女をつかもうと腕を振り降ろした。
その手が池端に届こうとする直前、大爆発が起こった。池端達には何も影響なかったのだが、観音の腕は、肘から先が消滅していた。青銅色の傷口から、赤黒い血が噴き出している。
「やったあ!!」
矢野と相曽が、同時に叫んだ。池端は、目を丸くして自分の手を見つめている。
「今の…私がやったの?」
池端が、呆然と呟いた。
「池端さん、よく出来ました」佐藤=安倍が言った。「今ので、みんなの周りには観音菩薩の結界が出来上がった。池端さんの周りにいる限り、スケベ観音は絶対に手を出せない。だから、絶対にその場を動くなよ!」
そう言い終わると、佐藤が正気に戻った。
「あ、ジャキさん、大丈夫?」
黒岩にそう言われて、佐藤は目を丸くした。
「えっ、何が?」
彼女は、安倍に憑依された前後の事は、何も覚えていなかった。今現在、何が起こっているのかさえ、満足に把握していない。
〈おのれっ!!〉
突然、観音は叫ぶと、消えた腕を振り上げた。傷口に、素人目に見てもそれと判るほどエネルギーが集中し、そこから、ズルリと手が生えて来た。
〈おのれ、倶利伽羅竜王め、よけいな口出しをしおって。まずはお前から血祭りに挙げて、我が成仏の生け贄としてくれるわ!〉
観音はそうわめくと、印呪を放った。
〈南莫三慢多没駄南勃嚕唵!〉
先ほどから地面に倒れたままの安倍は、全く動かない。その背中に、印呪が炸裂した。
凄まじい爆発が起こり、その爆風で半壊していた観音堂が吹き飛んだ。
「キャーッ!」
「安倍さん!」
池端の悲鳴と、永野の叫びは、爆風にかき消された。
爆風は、強力な結界にはね返され、池端達には何の被害も与えなかった。
「今のはやべえぞ。晴明、大丈夫なのかよ?」
矢野が呟いた。安倍が倒れていた場所は、爆発による煙とホコリで全く見えない。
「晴明ー!無事かーっ!」
思わず伊藤が叫んだその時、煙の中から、聞き慣れない声が聞こえて来た。低く、深く、威厳に満ちた声である。
〈唵摩訶囉誐縛曰路瑟抳莎縛曰羅薩怛縛弱吽鑁斛〉(※19)
その声が印呪を唱えると、煙や炎があっという間に消えた。
そこには、一人の巨人が立っていた。身の丈五メートル程で、全身真紅に染まり、腕は六本、そしてその顔には、凄まじい怒りの表情が刻み込まれている。
〈き…きさまは…!〉
今まで余裕たっぷりであった観音が、初めてうろたえた。
〈愛染明王来臨〉その巨人が、口を開いた。〈倶利伽羅竜王は、ただの竜族ではない。不動明王の化身なのだ。すなわち、明王の力を具現化する事も出来るのだ〉
〈おのれ愛染明王!きさまなどに、わしの成仏の邪魔はさせん!〉
観音はそうわめくと、印呪を唱えた。
〈唵阿魯哩迦莎訶!〉
愛染明王は、それを一組の腕で受け止めた。呪文の強大なエネルギー波を、両掌で握り込んだのだ。
〈わたしには、お前の力など豪ほどにも感じぬ〉
愛染明王はそう言うと、二組の手でそれぞれ違う印を組み、真言を唱えた。
〈吽吒枳吽惹〉(※20)
その途端、観音の体に炎が爆発した。
〈ギャッ!〉
初めて、観音が悲鳴を上げた。いかにもがいても、炎は全く消えない。
愛染明王は、最初の印を解きつつ、続けざまに真言を唱えた。
〈吽悉地〉(※21)
すると、印を組んでいなかった右手に、三鈷杵(※22)が現れた。剣の形をしている。
その剣を高々と振り上げると、炎の熱で溶け出した観音の両腕を、あっさりと斬り落とした。
〈ギャッ!お…おのれぇ…!この真言を受けてみよ!〉
観音が苦しげな声で叫ぶと、斬り落とされて地面に転がっていた腕が動き出し、印を組んだ。
〈怚儞也他唵阿曩灑阿曩灑尾舎娜尾舎娜…〉(※23)
観音が真言を唱え始めると、その体に強烈な気が集まり出した。空気が重く振動する。
「わーっ、ドやべえ!」
「こりゃ俺達、死ぬかもなー」
矢野と大道が、思わず呟いた。
〈…満駄満駄満駄儞満駄儞縛曰羅播尼泮吒吽勃嚕吽莎訶!〉
真言が完結すると、強大な衝激波が生まれ始めた。池端達を覆っている結界が、ビリビリと震動している。
〈発吒!!〉
突然、愛染明王が 六本の腕を拡げて、怒鳴った。その一撃で 、観音の唱えた真言は、 弾き飛ばされ、拡散・消滅してしまった。
〈お前ごときの力で、大佛頂大呪は使えぬ〉
「おおーっ、すげーっ!」
矢野と大道、大橋が拍手をしながら言った。
もはや、炎に包まれた観音には、言い返す力もない。
そんな観音に、愛染明王は印呪を唱えた。
〈唵摩訶囉誐縛曰路瑟抳莎縛曰羅薩怛縛弱吽鑁斛〉
そうしてから、腕を弓を引く形にすると、その手の中に、輝く 弓矢が現れた。
〈引導を渡してやろう…愛染降伏弓!〉(※24)
愛染明王はそう言うと、矢を放った。光の矢は、観音の胸板に深々と突き刺さった。
次の瞬間、観音の姿は大量の火花となって消滅した。それと同時に、愛染明王の姿も消えていた。
鴨井観音の境内に、再び静寂が訪れた。
しばらくは、伊藤達は言葉も出なかった。池端は声もなくその場に座り込んでしまった。
最初に口を開いたのは、伊藤だった。
「どうやら、助かったみたいだな」
「愛染明王と池端さんのお陰だな。ありがたや、ありがたや」
矢野が伊藤の言葉を受けて、手を合わせながら言った。
その時、座り込んでいた池端が、永野を見上げて、呟くように言った。
「ねえ、安倍さんは?」
「……!そうよ!安倍さんは?」
永野が、ハッとして叫んだ。
伊藤と大道が安倍を呼ぼうと大きく息を吸い込んだ時、観音堂であったガレキの山が、ガサリ、と音を立てて動いた。
「……!!」
伊藤と大道は、吸い込んだ息をそのまま呑み込んだ。永野も、池端が立ち上がるのに手を貸しながらも、目は観音堂から離せない。
黒岩と相曽などは、事の途中からほとんど呆然としている。
ガレキの山は、見る見る元の観音堂の形に戻り始めた。爆発で吹き飛んだ破片が、まるで銃弾のような速さで飛んで来て、壁の一部に溶け込む。
一同が息をのんで見つめる間に、観音堂は完全に復元した。そして、その扉が開いて、安倍が姿を現した。
「安倍さん…!」
「大丈夫だったのね!」
池端の叫びが途中で止まったのを、永野が引き継いだ。
「派手な再登場してんじゃねーよ」
矢野がそう言う間にも復元は続き、倒れた石燈籠は起き上がり、燃えた木は再生し、爆発で地面に空いた穴には、土が飛び込んで来た。
その間中ずっと、安倍は印を組んでいたが、壊された自転車が再生した所で、印を解いた。境内は、事が起こる前と、寸分違わない状態に戻った。
「おい晴明、こっちはがんこ心配しただぞ」
伊藤がそう言うと、安倍は苦笑いしながら言った。
「こっちも必死だっただよ」
「よかった」
池端は小さく呟くと、そっとため息をついた。安倍と伊藤、そして永野にはその声は聞こえたが、安倍は照れくささから、伊藤と永野は気を利かせて、それぞれ黙っていた。
「ところでよお、晴明」矢野が口をはさんだ。「あんだけド派手にドンパチをやってたのに、どうして警察や消防車が全く来なかっただいや?」
「そうだいなあ。言われてみれば、変だいなあ」
大道が、感心したような相づちを打つ。
「それはな…」
安倍が言いかけるのを、矢野が割って入った。
「お前が何かやっただろ」
「違うよ。俺じゃねえよ。俺にそんな余裕、あったと思うか?――これは、あの化け物観音のしわざだよ」
「何であいつが、そんな事すっだよ?」
「さあ。そこまでは判らんけどな。鴨井観音の周りには、強力な結界が張ってあって、この中の事は、外からでは全く見えないようになってるだよ」
「へえ~、どれどれ」
大道はそう呟くと、鴨井観音の敷地から出ると、振り向いてみた。すると、境内にいた九人の姿が、自転車もろとも消えていた。試しに敷地内に首だけ突っ込んでみたら、目の前に立っていた伊藤の肩に、鼻をぶつけた。
「それにしても、何であの化け物は、こんなめんど臭い事をやっただいな?」
伊藤が、結界の境で頭だけ外側に出して、言った。
「あ、そうか」
突然矢野が、手を叩いて言った。
「何だよ?」
そう言う安倍に、矢野は妙なニヤニヤ笑いをしながら、小声で言った。
「あいつさ、池端さんにHしようとしたもんで、他人に見られたくなかっただよ」
安倍はそれを聞くと、ほとんど聞き取れないほどの声で、
「弱吽鑁斛」(※25)
と唱えた。次の瞬間、矢野の体は金縛りにあったように動かなくなった。そこを安倍は無言でくすぐった。
「うわ~っ!!やめろ~!」
くすぐりに極端に弱い矢野は、逃げるに逃げられず、悲鳴を上げた。
誰も、矢野の言葉を聞いた者はいなかった。みんな、きょとんとした顔で、そんな安倍と、矢野の姿を見ていた。
【6】
二日後。
朝のS,H,Rが終わり、予鈴が鳴った。
「さてさて、一時間目は何だっけ?」
そう言いながら時間割りを見た伊藤の動きが止まった。
「どーした、伊藤さん」
「おい晴明、次、現社じゃねーか」
「で?」
「お前、丸っきり忘れてるな。宿題、あったろ」
そう言われて、やっと安倍も思い出した。
「ゲッ!ドやべー。全然やってねーよ」
「相曽さん!」伊藤は、教卓の真ン前にいる相曽に声を掛けた。「宿題、やった?」
「あたしも忘れてた!あれの後だもん!今やってるとこ!」
安倍は、相曽の答えをみなまで聞かず、教室を飛び出すと、17HRに飛び込んだ。
「矢野!お前、もちろん、現社の宿題、やってねーよな!」
「当たり前だ!」(※26)
矢野がそう答えた所に、伊藤もやって来た。
「永野さん…」
伊藤は言いかけて、やめた。永野は、黒岩と一緒に、佐藤のレポートを写していた。
「い・け・は・た・さん」
安倍は、不必要なほどニコニコしながら、言った。
「な・あ・に?」
池端も、わざとらしく笑いながら応える。
「お願いだからさ、宿題、かして」
「いいよ」
池端は、あっさりそう言うと、レポート用紙をさし出した。
「ラッキー!ありがと…」
安倍がそう言ってレポートを取ろうとすると、池端はそれを軽く引いた。安倍の手が空振りした。
「……?」
「31アイス」
「ダブル!」
「トリプル・アンド・トッピング♡」
「オッケー。トリプル・アンド・トッピング。それでいいに」
安倍がそう言った所で、チャイムが鳴った。17HRの横を、毎度の事ながら早い、寺田が通りかかった。
「やべっ、もう間に合わん」
伊藤はそう言うと、教室を飛び出した。
「池端さん、ダブル・アンド・トッピングに格下げ!」
安倍はそう言いながら、伊藤を追って教室を飛び出した。池端は、そんな安倍に向かって、可愛く舌を突き出した。
安倍と伊藤は、寺田より遅く教室に入った上に、宿題を忘れて来ていたので、一敗を食らった上で、時事問題をやらされた。
終わり
1989年作
本編註及び解説
第三話「鴨居観音の怪」
1、「自動翻訳機」 - 英語の鶴田先生は、生徒を指名しておきながら、生徒が訳につまると、すかさず自分で訳してしまう特徴を持っている。当てられてから座るまで、一カ所たりとも自分では訳さずに済んだ生徒もいる。
2、「グイン・サーガ」 - 栗本薫の、大長編小説。著者は「百巻出す!」と目標を立てているが、話の展開からすると、百巻など軽くオーバーしそうである。現在三十巻。外伝も七巻ほどある(1989年当時)。
3、養鶏場 - 湖東の近所には養鶏場があり、雨上がりは特にくさい。浜名湖高校の象徴とも言える代物だ。
4、浜名湖道路まで云々 - この時、十キロは歩かされた。浜名湖へ降りるには、とてつもない急坂を下りねばならないので、帰りは、当然それを登らなければならない。
5、課題 - 後に出て来る時事問題や英字新聞を含めた、宿題を指す。
6、時事問題、英字新聞 - 時事問題というのは、その日の新聞のトップ記事を読んで来て、それを皆の前で暗誦し、その感想を言うもの。英字新聞は、あらかじめくばられた英字読売の記事を訳して来て、それを発表し、その感想を言う事。いらん所に時間をとられるので、やっかい物以外の何物でもなかった。
7、ドむかつく - これは遠州弁である。“ド”というのは、あらゆる言葉に付属出来る強調冠詞。ドむかつく、はその語感の通り、ものすごく頭に来る、という意である。
8、ゲーセン - 「ゲーム・センター」の略。
9、鴨井観音 - 本当の名は、鴨江観音。高野山真言宗の別格本山で、真言宗内ではけっこう有名である。お家騒動のウワサを持つ。
10、「開かずの間」 - シリーズ第一話『浜高名物開かずの間』を参照のこと。
11、石倉さん - シリーズ第一話参照のこと。
12、『唵薩羅薩羅…』 - 四方結界真言といって、術者の周囲に呪文の結界を張り、結界内を清める力を持つ。
13、「ほら、この前のムジナの時…」云々 ー シリーズ第二話『痴漢鬼退治』を参照のこと。
14、31アイス ー アメリカ生まれの、おいしいと評判の店。なぜか女の子ばかりが行くので、男一人では、とても入れない雰囲気がある。
15、『唵薩縛…』 ー 聖観音真言。貪嗔痴の三毒を除去する、絶対的浄化の真言。
16、 『唵阿魯哩迦莎訶』 ー これも上と同じもの。ただ、こちらの方がポピュラーである。
17、一字金輪呪 ー ボロン、という種字が、あらゆる仏智をそなえている、といわれる、最強の呪文の一つ。
18、被甲護身真言 ー 仏の智恵で、修行者の心身をあらゆる魔から護る、強力な真言。
19、『唵摩訶囉誐…』 ー 愛染明王の通呪。煩悩即菩提の功徳がある。
20、吽吒枳吽惹 ー 同上の五字呪。功徳も同じ。
21、吽悉地 ー 同上の一字呪。一つの種子に、愛染明王の力がそなわっている、という。
22、三鈷杵 ー 煩悩を打ち砕くという法具。爪の数で、独鈷、三鈷、五鈷などがある。
23、怚儞也他唵阿曩灑… ー 大佛頂大呪。仏の威光そのものを仏格化した仏なので、その功徳、威力ははかり知れない。
24、愛染降伏弓 ー 愛染明王の武器のひとつ。煩悩を打ち砕く威カを持つ。ネーミングセンスがダサい(笑)。
25、弱吽鑁斛 ー 捕縛の真言。強く縛り付けて、動かないようにする。
26、「当たり前だ!」 ー 矢野は、「宿題はしない」というポリシーがあった。なので、自分でやりたい、と思った宿題以外は提出せず、よく教師と真っ向から対立していた。
全体を通して、文中の真言の漢字表記及び読み方は、伊藤古鑑著『真言陀羅尼の解説』を低本としました。
上記の本に無いものは、『密教大辞典』を参照しました。