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龍が往く NAGA IS GOING  作者: 宝蔵院 胤舜
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第二話 痴漢鬼退治

この話を書いた時、かなり欲求不満だったようです(笑)。

第二話 痴漢鬼退治


【1】


五月も半ばに入ると、浜松はそうとう暖かくなる。しかし、海沿い、という事もあり、この街は風が強く、体感温度はかなり低い。

この風というのが曲者で、浜名湖高校より南側に住んでいる者はまだ良いのだが、東、北側に住んでいる者にとっては、風は厄介者以外の何者でもない。なにしろ、登校の時は海風が真正面から吹き付け、下校の時は陸風が真正面から吹き付ける。自転車通学者にとって、向かい風、というのは拷問に等しい。

その向かい風の中を、28HRの吉田涼子が自転車を漕いでいた。テニス部である彼女は、練習が長引き、帰るのはいつも午後七時近い。まだ五月は夜が早い。七時ともなればあたりは暗くなる。

彼女は、突然ペダルが重くなったので、自転車を停めた。

「何だろ?」

そう呟いて、後ろを振り返ってみるが、荷台には、当然何も乗っかっていない。

「気のせいかやぁ?」

彼女はそう思い直して、再びペダルを足を掛けようとした。

と、突然、彼女は後ろから何者かに抱きすくめられた。

「キャッ!」

思わず悲鳴を上げて、相手を振りほどこうとしたが、手足をがっちり絡められているので、ビクともしない。

彼女は、何とかその縛めから脱しようと懸命になっていたが、彼女の努力を物ともせず、その相手の掌が彼女の胸をまさぐった。相手の意図を察して、吉田涼子は更にもがいた。しかし、相手は吸いついたように離れず、彼女の両の乳房を揉みしだいた。

慌てて自転車から降りた彼女だが、急に両足の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。自分では認めたくなかったが、相手の愛撫に「感じて」しまったのだ。恐るべき巧みさで、その掌は彼女の体を隅々まで撫で回した。彼女は、いつの間にか自分の口から溜め息が漏れているのにも気付かなかった。

翌日、早くもその噂は浜高の一部に広まっていた。

「ちょっとちょっと、千代ちゃん、聞いた?」

「涼子の事?聞いた聞いた。あのコ、痴漢に襲われただって?」

「何でも浜高の近所(※1)らしいだけど……。あのコね、『イッちゃった』んだって!」

「痴漢に触られてぇ?」

「うん。すっごいテクニシャンなんだって、その痴漢」

「やだあ、加奈ったらぁ」

上級生の女の子どもの、結構あけすけな話を、ピロティー(※2)でブラブラしていた安倍、伊藤、矢野が聞いていた。

「すげ……。高校生の女子って、平気であんな話すんだなあ」

安倍が、本当に感心して呟いた。

「それにしても、アブねー話だいなぁ。『イッちゃった』なんてよ」

と、伊藤。この男も、驚きを隠せないでいる。

「女なんて、そんなもんだら」

矢野が、興味なさそうに呟いた。しかし、それがただ単に見栄を張っているだけで、実は結構ショックを受けている、という事は、安倍ならずとも判る。矢野は、見栄を張る割には感情を隠すのがヘタなのだ。

「それにしても」と、安倍。「痴漢っつーのは、意外と嫌われてはいないんだな(※3)」

「そりゃ、痴漢の種類にもよるけどな。ヘタな痴漢は嫌われる。しかし、今の話のように、上手い痴漢は結構歓迎されるだよ」

伊藤がそう言うと、安倍は思わず目を見開いて、言った。

「へーえ、そんなもんなんかねぇ」

「ああ。女の子は、痴漢に襲われた回数を、自分達の魅力のバロメーターにしてんだぜ――もちろん、全ての女の子がそうだってんじゃないけどな」

伊藤は話しながら、無意識に永野を庇っている。

「彼女らは、バスの中やら何やらで痴漢に遭うと、心中『やった』なんて思うらしいに。そいでしかもその痴漢が上手い奴だったら、気持良い分得した、と考えるらしいに」

「本当かいや、それ。じゃあさ、テクニックさえあれば、痴漢ほど楽しい事はねぇな」 と、安倍。

「なんで?」

「女の子を触りまくって、それで女の子には感謝される訳だら?おいしい役どころだら」

「何下品な話、してんのよ」

突然背後でそう言われて、安倍と伊藤は飛び上がった。慌てて振り返ると、永野と池端、佐藤、黒岩桂が立っていた。

「あー、ビックリした。何事かと思った」

安倍が、目を丸くして言った。

「矢野くんて、やらしーんだぁー」

黒岩が、矢野を横目で見ながら言った。どういう訳か、この黒岩、矢野にだけは当たりがキツい。

「何で俺だけ、そんな事言われにゃいかんよ」

ムキになって反論する矢野を見て、思わず全員が吹き出してしまった。

笑いが収まってから、安倍が口を開いた。

「しかしやぁ、その痴漢っての、浜高の近所に出るだら?こりゃ他人事じゃねぇら」

「そおよお」永野が相槌を打った。「あたしたちだって危ないんですからね」

「へえー、永野さんらなんかに手を出す、物好きな痴漢なんかいるだかいねぇ」

矢野が間髪を入れずに言った。矢野はやたらと、特に女の事に関しては、見栄を張る。そこで、すぐこういった憎まれ口を叩くのだが、矢野のそれは、いつでも行き過ぎている。

「悪かったわね!」

永野と黒岩がコーラスをして、矢野の背中を思い切り叩いた。

「痛てえ!」

永野も黒岩も、本気で叩いたのだ。相当痛かったのだろう、矢野は飛び上がって叩かれた方向に走って行ってしまった。

伊藤は、やれやれ、というようにそんな矢野を見送ると、安倍に向き直った。

「とにかくやぁ、もし、俺たちのいる前でその痴漢野郎が出てきたら、ぶっさらってやろまい」

「バカいい考えだ」安倍が答えた。「そんなど羨ましい事、いつまでもやらせておいてたまるかっつうでぇや」

「まだそんなこと言ってる。あきれた」

池端はそう言うと、プイとそっぽを向いた。


【2】


『帰りのSHR(ショートホームルーム)』(※4)の時間に、忠内が切り出した。

「あのな、もうみんな知ってるかもしれんが、最近、陽気が良くなって来たせいか、浜高の周辺に痴漢が出没するようになった。だから、クラブ活動などで帰りの遅くなる女の子は気を付けるように。なにせ、浜高は可愛い娘が多いからな」

生徒がドッと受けた。笑いが収まってから、忠内は再度口を開いた。

「では、今日はこれまで。女の子たちはくれぐれも気を付けなさいよ」

「先生、男は気を付けなくてもいいだかよ?」

誰かが茶々を入れた。忠内は、それを見事に切り返した。

「あ、そうそう、男子諸君。『送り狼』にならぬよう、十分気を付けたまえ」

生徒が帰り始めた時、忠内は安倍と伊藤を呼び止めた。

「なあ、安倍、伊藤、お前らさあ、一応気を付けといてくれんか?」

「痴漢?」

「そう。安倍たちの事だで、見つけたら一発ぶっさらってやらまい、ぐらいの事は考えてるだろうけどな」

「うん。気ィかけとくわ」

安倍はそう答えながら、内心忠内の察しの良さに舌をまいていた。忠内は、人の考えている事をズバリと言い当てる特技を持っている。自分の心の中を見透かされるようで、少々気味が悪い。

「恋人には、特に気を配っとけよ」

忠内にそうダメ押しされて、安倍と伊藤は『お手上げ』のゼスチャーをした。

毎度の如く地学室へ行くと、やはり毎度の如く、いつもの顔が揃っていた。

安倍は、池端の隣に座ると『軽井沢シンドローム』(※5)を手に取って、そこでふと気付いた。

「あれ、池端さん、水野は?」

いつもなら、真っ先に地学室に乗り込んでマンガを読んでいる水野の姿が見当らない。

「え?水野さん、いない?」

池端も不思議そうな顔をして、周りを見回した。十数名もの人間が毎日同じ部屋で顔をつき合わせていると、その中のー人がいなくても、ちゃんと確認をとらない限り、すぐには判らないものである。

「水野さんねー、今日は用事があるから、早く帰るって」

教室の奥で『スカイ・ウォーチャー』(※6)を読んでいた佐藤が、のんびりと教えてくれた。

「ヘ一、用事ねえ」

安倍は、特に興味なさそうに呟いた。

「なに?」

「水野が早く帰った?」

伊藤と矢野が同時に口を開いた。

「水野が早く帰った、という事は、恐らく南高の生徒会長(※7)とのデートだら」

伊藤がそう言うと、そのすぐ後を矢野が続けた。

「それか、一人で帰って痴漢に襲われようとしてるか」

「あ、それ有り得る」

伊藤が相槌を打った。

「やめなさいよ二人とも」

水野の話で盛り上がって来た二人を、永野が止めた。

「なにつまんない事で盛り上がってんの」

「でもさ、永野さん」と、伊藤。「矢野のはともかく、俺の話はまんざらあり得ない話でもないら?」

「別に水野さんの私生活にくちばしを突っ込まなくたっていいでしょ」

「はいはい」

伊藤はそう言うと、首をすくめて見せた。

当の水野は、大人見町の畑の間の道を、ゆっくりと自転車で走っていた。彼女には、矢野の予想通り、痴漢に襲われてみよう、という下心があった。とは言うものの、水野もただ襲われようと思っていた訳ではない。痴漢の正体を確かめてやろう、という好奇心もあったのだ。

折しも自転車は、浜高付近で最も人通りの少ない辺りに差し掛かった。周りはみかん畑で、この時期、畑で作業している人もない、ほぼ無人に近い場所だ。

水野は、そこで自転車を停めると、スタンドを立てて、荷台に腰を下ろした。

足をブラブラさせながら、それとなく周りに目を配ってみるが、

どうもそれらしい人影は見えない。

「こっちの方には出ないだかいや」

多少がっかりして、諦めかけた水野が時計を覗き込んだ時、彼女の座っている自転車が、ほんの少し揺れた。

「あれ?」

水野は呟くと、自分の周りを見渡してみた。何もない。それにしても、今の自転車の揺れ方は妙だった。前輪がちょっと沈んだような揺れ方だったのだ。彼女が荷台で足を揺すっている状態では、決してあり得ない揺れ方である。

水野がそう考えた時、彼女の体に何かがしがみついた。

「キャッ!?」

突然来られて、水野は思わず悲鳴を上げた。しかし、相手はそれに構わず、制服のブレザーの上から胸を触って来る。

強くなく、弱くなく、何とも絶妙なタッチである。

「あン……」

水野の口から、甘い溜め息が漏れた。

これなら、今日聞いた話、まんざらウソでもないみたい……。被害者のコが「イッちゃった」っていうの……。

水野がそんな事を考えている間に、手がブレザーとブラウスの襟口から中に入り、ブラジャーの上から胸をゆっくりと回すようにこね始めた。しかも、腰にからめられた、足とおぼしきものは、彼女の太腿の付け根を軽く触れて来る。

言い様のない快感が水野の体を疾った。

「あ、いい……」

思わず声が漏れた。腰が抜けたように両足の力が抜け、水野は自転車の荷台から滑り落ちて、そのまま道路に座り込んだ。膝がアスファルトに当たって、固い音を立てたが、水野はその痛みにさえ気付かなかった。

次の瞬間、水野の体が十センチほどに縮小してしまい、痴漢の腕から抜けてしまった。水野は、体に強い衝撃を受けると、小人になってしまう、という特異体質の持ち主なのだ。

「あん、せっかくイイトコロだったのにぃ」

水野は思わず呟いて、今まで自分の体をなで回していた相手を見上げた。

自分が小さくなっているのではっきりとは判らなかったが、どうやらそいつは背が低い。横の自転車のハンドルの高さに足りないくらいだ。それに比べて、腕が異常に長く、掌がやけに大きい。そして全身毛だらけである。猿のような感じである。

そこまで見た時、その痴漢は素早くみかん畑の中に飛び込んで、消えてしまった。水野が小さくなって見失ってしまってから、しばらくキョロキョロとしていたが、諦めたのだろう。音も立てずにどこかへ行ってしまった。

水野は、痴漢が行ってしまうと、脛で巨大な自転車のスタンドを蹴っ飛ばした。

「いったいっ!」

悲鳴を上げながらも、水野の体は元通りの大きさになった。

「残念、顔を見れなかった……」

彼女は言いかけたが、途中で甘い溜め息混じりの声に変わった。

「でも……、ヨカッタ♥」


【3】


その翌日。

朝の八時から、職員室では職員会議が開かれるのが常であった。今日の議題は、当然の事ながら、最近出没する痴漢の事であった。水野の件の後で、別に二人が被害に遭ったのだ。

「と、言う訳で……」 一年生の学年主任である鶴田が、話を締め括った。「皆さんの担任の生徒達に、くれぐれも一人で帰らないように言い聞かせておいて下さい。それと、暫くの間、クラブ活動は午後六時以後はさせないように。以上」

鶴田の話が終わると、一年生担当の教師達は、それぞれの担当の教室へと散って行ったが、忠内だけは座ったまま、動かずにいた。

「どうもなぁ、犯人が人間臭く無いんだよなぁ。自転車に乗っている女の子に襲い掛かるなんてのは、猿かなんかの芸当だいなぁ……」

そこまで呟いて、忠内ははたと手を打った。

「お、どうやら安倍たちが、何かを掴んだようだぞ」

突然、そんな事を思い付いた。全く根拠も証拠もない思い付きだが、何故か確信があった。

「よし、SHRが終わったら、ちょっと聞いてみるか」

忠内はそう呟くと素早く立ち上がり、職員室を出ていった。

ところが……。

「えっ?何にも知らないのか?」

SHRが終わってすぐに安倍と伊藤を捕まえた忠内だったが、彼らの返事は期待外れだった。

「うん。まだなんも知らん」

安倍はそう言うと、大きく首を左右に振って見せた。

「何で忠ちゃんはそんな事を考えた訳?」

という伊藤の問いに、忠内はいかにも納得がいかない、という顔をして答えた。

「いや、別に理由は無いだよ。勘だよ、勘」

「得意の勘も、今日ばかりは空振りだったようだな」

安倍がニヤニヤしながら言った。いつでも異常に察しの良い忠内の思い違い、というのが安倍には 訳もなく嬉しいようだ。

「別にそんなに喜ばなくたっていいだろう」

忠内は文句を言ったが、安倍は構わずニヤニヤしている。

忠内が何か言い返そうとしたところでチャイムが鳴った。

「―――ま、いいや。お前らさあ、何か判ったら、すぐ俺にも知らせてくれよ」

忠内はそう言うと、廊下を奥に向かって歩き出した。

「人間誰でも、失敗はありますよ」

伊藤が、からかい口調で忠内の背中に向かって言った。

安倍が居眠りをしている間に四時間目も終わった。珍しく教室で昼飯を食べた安倍と伊藤は、弁当箱を片付けると、二階の地学室へと足を運んだ。

安倍と伊藤が中に入ると、毎度の連中がやけに盛り上がっていた。

「永野さん、永野さん、どうしたでぇ、そんなに盛り上がって」

伊藤の問いに、永野が声をひそめて答えた。

「あのね、大きな声じゃ言えんけんど、水野さん、昨日痴漢に襲われただって!」

『えっ!?』

安倍と伊藤は思わず驚きのコーラスをした。

「マジ?それ」

伊藤は思わず水野に聞き直した。水野が「うんっ♥」と答えたのを見て、安倍と顔を見合わせた。

「どうやら、忠ちゃんの勘は、それなりに当たってたようだな」

安倍が呟いた。伊藤は声もなく頷いた。

「伊藤さん、俺の言った通りだっただら?」と矢野が得意気に言った。「俺の勝ちだ。さ、百円」

「何だいや、その百円ってのは?」

「俺の勝ちだら?」

「いつそんな事賭けたっつーよ!」

「うるさい。早く百円よこせ!」

「バカヤロー。何でお前に百円やらなきゃならねーだよ」

「よし、じゃあ『チンチロリン』で決めるで。俺が勝ったら百円もらう。伊藤さんが勝ったらチャラ」

「何がチャラでぇや。そんな不公平な『チンチロリン』なんか聞いた事ねぇや!」

言い争いを始めた二人を放っておいて、安倍は水野たちが座っている机の前に腰を下ろした。

「ところで水野。どんな様子だった訳?襲われた時の状況」

安倍の問いに、水野は得意気に答えた。

「あのね、実はね、痴漢とやらの正体を見破ろうと思って、ケッター(自転車)を停めて待ってた訳」

「どこで?」

「ほら、あの、雄踏街道に出る手前の坂、あるら。あの上の辺り。――でね、そこで荷台に座って待ってたら、全然気付かないうちに、後ろから抱きつかれてた」

「背後から音もなく忍び寄ったってやつか?」

「ううん。一応それとなく周りを見回したんだけど、全く人影は無かったの。姿を消してた――そんな感じだったな」

「姿を消してた?」

安倍は思わず身を乗り出して聞き直した。

「うん。そんな感じ。それで、あたしに抱きつくと、そいつがさ、色んなトコロ触ってきてさ、あたし、荷台から落ちちゃって、道路に膝をぶつけた拍子にちっちゃくなっちゃって、それで痴漢の手から逃れたの」

「途中で止められて、残念だったら?」

「うん♥……だって、すっごく上手いんだもん。もっと……って、何言わせんのよ!」

思わず言わずもがなの事を口走ってしまい、水野はうろたえた。

「安倍さんがそんな事言うとは思わなかった」

「そうよ。見かけによらないっていうか」

池畑と永野にそう言われて、安倍は素早く話を変えた。

「ところでさ、水野、見ただら、犯人を」

「うん。見た見た」

話を変えられて、やはりホッとしたのだろう、水野が口早に答えた。

「どんな奴だったでぇ?」

「それがね、背の高さは一メートル弱。腕が異常に長くて、掌もやけに大きいの。でね、全身毛だらけ。ほら、毛深いおっさんっているでしょ、あんな感じ」

「大橋くらい?」

「もっとすごいの」

「何が俺くらいだって?」

 横で話しをそれとなく聞いていた大橋由隆おおはしよしたかが文句を言った。

「あ、いたのかヨッちゃんイカ(※8)」

「誰がヨッちゃんイカだ」

「それにしても、大橋はいつでも存在感が薄いな。いるかいないか全然判らん」

「俺の勝手だろ」

 大橋はそう言うと、読みかけの『軽井沢シンドローム』を再び読み始めた。するとたちまち存在感が消えてしまった。マンガか何かを読んでいる時の大橋は、存在感が無に等しい。

「あれ?えーっと、どこまで話してたっけ?」

「毛深かった、ってところまでよ」と池端。

「あー、そうそう。でさ、水野、相手の顔は見たかい?」

「ううん、見えなかった。その時、あたし小さくなってたからさ、顔まで見えなかったんだ」

「ふーん…」

 安倍は溜め息をつくと、腕を組んで、ちょっと考え込んだ。

「何者なんだいな、そいつは」

「判んない。でも、一つだけ確かな事があるわよ」

 水野は自信たっぷりにそう言った。

「何が?」

「相手が人間じゃないってこと」

「それは確かにそうみたいね」

 永野が相槌を打った。

「うん。犯人が人間じゃなかったら、こりゃ俺の領域だな」

 安倍はそう言うと、伊藤を振り返った。

「伊藤さん、聞いてたか?」

 伊藤は矢野とまだ何か言い合いながら『チンチロリン』をやっていた。

「ああ。だんだん面白くなって来たじゃないか」

 伊藤はそう言うと、手に持っていたサイコロを振った。サイコロは、三つとも一だった。

「よっしゃあ!一のゾロ目ぇ。俺の勝ちは決定だな。六倍づけだぞ、矢野」

「判ってるよ。俺もゾロ目を出せば、七倍づけだァ!」

 伊藤と矢野は、『チンチロリン』に熱中していて、取りつく島が無い。

「やれやれ、勝手にしてちょうだい」

 安倍は、溜め息まじりに言った。そんな安倍の袖を、池端がチョイチョイと引っ張った。

「何?」

「犯人、捕まえてよ。みんな迷惑してるし」

「まあ、まかしといて。人間じゃないんだったら、こっちの本領だからね」

 安倍はそう言うと、今度は『チンチロリン』をやっている伊藤に向かって言った。

「伊藤さん、今日は張り込みするぞ」

「そう来ると思った」

 伊藤はそう言うと、ニヤリと笑って見せた。


【4】


 その日の放課後。安倍と伊藤は、一人の少女を尾行していた。毎日のように被害者が出ているにも関わらず、女の子達は痴漢を恐れずに、一人で帰ろうとしたがる。

 もう七時近くで、周りは夕闇が迫って来ている。痴漢の被害が最も出ている時間帯だ。

「他に一人で帰ろうとしていたコもいなかったしな、あのコを尾行てれば、上手く行けば痴漢に逢えるに」

 安倍が、倒れない程度のギリギリのスローペースで自転車を漕ぎながら言った。

「でもよぉ」と伊藤。「今日は出ないって事も有り得るわけだいなぁ」

「それを言っちゃあお終いだに」

 二人でそんな事を言い合っているうちに、少女は、昨日水野が痴漢に襲われた場所までやって来た。

「さて、出るとすれば先ずはこの辺りだに」

 伊藤が声を潜めて呟いた。

 しかし、彼女は何事も無くそこを通過してしまった。

「ありゃ、今日は本当にダメかな?伊藤さん」

「しかしなぁ、俺達が尾行るのをやめた途端に出たっつーのも悔しいしなあ」

「よし、もうちょい行ってみるか」

 安倍と伊藤はそう言い合うと、更に女の子の後をついて行った。

「おい、伊藤さん、もう浜名湖大橋だぜ」

「もうちょっと、もうちょっと行ってみまい」

 伊藤にそう言われて、安倍も反論はせず、尾行を続行した……。

「さて、と」

 安倍が、自転車を停めて呟いた。

「あのコ、無事に家に帰っちゃったな」

「そうみたいだな」

 伊藤は、やれやれといった口調で答えた。

「伊藤さん、ここ、どこだか知ってるか?」

「知ってるよ。舞阪だろ?」

「今、何時だ?」

「えーっと」伊藤は、時計を覗き込んだ。「八時半だ」

「おいおい、マジかいや?」と安倍。「今から突っ走って帰ったって、和地山まで四十分は掛かるで(※9)」

「俺なんか萩丘だぜ。もっと掛かる」

 伊藤が、地平線に近いオリオン座を睨み付けながら言った。ちなみに、和地山も萩丘も、舞阪の隣町である浜松市内であり、確実に二十キロはある。

「やれやれ、俺たち、ただのアホみたいだな」

 伊藤がぼやいた。

「“みたい”じゃないよ。本当のアホだ」

 安倍がそう言い返した。

 二人は苦笑いをすると、自転車を漕ぎ出した。

 その翌日。18HRのSHR。

 忠内は、礼をすると、早速切り出した。

「えー、皆さん。昨日はうちの学校からは被害は出なかったんだが、一般の女性が痴漢に襲われたらしい。そこで、しばらくの間、浜高の付近は特別警戒区域として、パトカーが巡回する事になった。で、この事件が落ち着くまで、クラブ活動も中止だそうだ。皆さん、特に女の子は気を付けるように。以上」

 安倍と伊藤は、思わず顔を見合わせた。

「一般の女性かいや……」

「盲点だったな」

 安倍と伊藤が呟き合っているうちに、SHRが終わった。

「お、終わったか」

 伊藤がそう言ってロッカーに教科書を取りに行こうと立ち上がった時、忠内が声を掛けた。

「安倍、伊藤、ちょっと」

「はいはい」

 二人が教卓の前まで来ると、忠内が低い声で言った。

「お前ら、昨日は散々だったようだな」

 二人は、思わずゲッ!となった。

「何で忠ちゃんがそんな事知ってっだよ」と伊藤。

「ただの勘だよ、勘」

 忠内はそう言うと、ニヤリとして見せた。それを見て、安倍は苦笑しながら言った。

「で、用は?別にイヤミを言うために呼んだ訳じゃないだら?」

「ああ。でもな、ここじゃあ何だから、昼休みにでも、英研に来ないか?」

「どうせならさ」と伊藤。「地学室に来なよ。実は、痴漢の目撃者がいるからさ」

「ほー、そりゃ本当か」

 忠内は、それだけを言った。勿論、彼の察しの良さを以てすれば、その目撃者が水野である、という事ぐらい、気が付くのは雑作もないことだ。しかし、そう言う事をこの場で軽々しく言う程、忠内は若くない。

「じゃあ、忠ちゃん、昼休みに地学室ね」

 伊藤がそう言ったのを合図に、忠内は何事も無かったような顔をして教室を出て行き、安倍と伊藤はそれぞれの席に戻った。

 その後すぐに一時間目の授業の教師が来た。伊藤はそこで、忠内と話しをしているうちに、教科書をロッカーに取りに行くのを忘れていた事に気付いた。

 しかも、間の悪いことに、この時間は現社であった。この授業の教師・寺田は、そういった事に関してはうるさい事で有名だ。

「伊藤、教科書はどうした?」

 案の定、目ざとく寺田はそれを見つけた。

「すいません。ロッカーの中です」

「バカヤロウ。教科書も無しに俺の授業を受けようってのか。立っとれ」

 寺田の『立っとれ攻撃』が、伊藤を直撃した。立たされた伊藤を見て、安倍は小さく吹き出し、そんな彼を、伊藤は横目で睨み付けた。

 そんな一時間目から四時間目までが、あっという間に過ぎ去り、安倍と伊藤は地学室へ向かった。

 二人が地学室へ入ると、件のメンバーは既にあらかた揃っていた。大橋が一人で黙々と貧民パン(※10)を食べているのを横目で見ながら、安倍は池端の隣に座る。

 弁当を開き始めた安倍の肩を、池端が軽くつついた。

「安倍さん」

「ん?」

「昨日、あれからどうしたの?私達が先に帰った後」

 それを聞いて、安倍と、その向かいに座った伊藤の動きが一瞬止まった。

「いや、実はねぇ……そのぉ……」

 安倍が言葉を濁そうとしたその時、教室のドアが開いて、忠内が入って来た。

「昨日は、女の子を尾行て舞阪まで行っちまっただよな」

 忠内にそう図星を突かれて、安倍と伊藤は椅子から転げ落ちた。

「えーっ!」

「ウッソーッ!」

 池端と永野が、目を丸くして輪唱した。安倍も伊藤も、ずっこけた状態から立ち直るのにかなりの時間を要した。

「あのなー、何でそんな具体的な事まで判っちまうだよ」

「いくら察しが良いからってなー」

 やっと立ち直った安倍と伊藤が口々に言ったが、忠内は澄ましてこう言った。

「あれ、本当にそうだったのか?俺、勘で言ってみただけなんだがな」

 安倍も伊藤も、完全に撃沈された。

 そんな二人を放っておいて、忠内は水野から話しを聞いた。

「――なるほどね」

 忠内はそう呟くと、顎を掻きながら立ち上がった。

「そいつは貴重な情報だね――安倍たちにとっては。でもね、水野さん、あんまり無茶をすると、今に痛い目を見るから気を付けた方がいいよ」

 水野が、はぁい、と答えたのを見て、忠内は教室のドアを開けたが、出て行く間際にこう言った。

「お前ら、“本当のアホ”だな」

 やっと立ち直りかけた安倍と伊藤は、とどめの一撃を喰らって、床に伸びてしまった。

 二人が立ち直ったのは、放課後になってからだった。

 毎日毎日、七時近くまで学校に居座って駄弁っている安倍たちも、今日は早く学校を出た。早く、といっても六時直前である。

 この連中、早く帰る事に意味のない罪悪感を持っているのだ。

 安倍と伊藤は、車の話で盛り上がっていた。安倍は断片的にしか車の事は知らない。対する伊藤は驚くほどに車について良く知っている。安倍は文芸部、という関係上、小説などを書いているのだが、その中に車の描写があり、車について良く知らない安倍は、詳しく書くことが出来ない。それを、伊藤に尋ねているのである。

 その少し後ろを、池端と永野が並んでついていた。永野は、自転車のハンドルの上で腕を組み、その上にあごを乗っけて、前を行く二台のロードマンを見ながら呟いた。

「何が面白いのかねー、あんな話ばっかして」

「そんな寂しそうな顔しないでよ、裕子」

 池端が、ちょっと永野の顔を覗き込んで、言った。

「べっ別に寂しがってはいないだけどさ。車の事なんかされたって、わたし、話に入っていけないじゃない」

「星座の話ならいいの?でもさ、安倍さん、あんまり星座の事知らないからさ、しょうがないじゃない」

 流石に池端は、“興味のあるものは、他を犠牲にしてでも調べるが、興味のないものは、よほどでない限り見向きもしない”という安倍の性格を熟知している。

「裕子、スキーの話ならいいんでしょ?二人とも上手いっていうし」

「スキーならね。わたしもやったことあるし(※11)」

「実はね、私、スキーやったこと無いの」

「えーっ、石川県生まれなのにィ?」

 永野が目を丸くして言った。池端は、中学二年生の前半まで、石川県津幡町に住んでいたのだ。だから驚いたのである。

「そんなに驚く事ないでしょ。意外とね、雪の降る地方の人は、全然スキーが出来ないって言う事、結構あるのよ(※12)」

「へぇー、そんなもんなの」

 そう言った永野の自転車が急に揺れた。永野が、おかしいと思う間もなく、猿のような「もの」が、彼女に抱きついた。

「キャッ!」

 永野が悲鳴を上げて、自転車から転げ落ちた。だが、そのお陰で「もの」を下敷きにする形となり、そいつは、ギェッという声を立てると、ポンと飛び上がった。そうとう高く飛び上がったその着地先は、どうやら池端のようだ。

 そこまで判っていながら、池端は身動きも取れない。怖さに身がすくんでしまったのだ。

 永野の悲鳴と自転車の倒れる音に気が付いた安倍と伊藤が振り向いた時、「もの」が今まさに池端に襲い掛からんとしているところだった。

「あっ!!」

 伊藤はそれだけを叫ぶと、安倍と同時に自転車をスピンさせた。伊藤はすぐにペダルを踏み込んだが、永野や池端を守るとするには距離がありすぎた。

 「もの」が池端の肩に触れたその途端、「もの」は強烈に弾き飛ばされた。安倍の目には、池端の全身が一瞬光ったように見えた。

 次の瞬間、安倍はありったけの怒りを掌に集めて、印呪を唱えた。

発吒ハッタ!」

 それと同時に掌を突き出すと、「もの」が空中で更に弾き飛ばされた。「もの」はそのまま草っ原の中に落っこちて、見えなくなった。

伊藤は永野の所までやって来ると、自転車をおっぽり出して彼女を助け起こした。

「永野さん、大丈夫だった?怪我せんかった?」

「う、うん……。何とか大丈夫みたい」

それを聞いて、やっと伊藤は人心地がついた。

そこへ、安倍がやって来た。

「永野さんも池端さんも無事だった?」

「うん。私は何ともないわ」と池端。

「ところでよお」と、伊藤が永野を気にしつつ、言った。「あれが池端さんに触ろうとした時、急に弾き飛ばされただろ。あれ、お前がやったじゃあ無いよな?」

「ああ。俺にはそんな余裕は無かったでなあ」

安倍はそう言うと、池端の方を見た。池端は、ゆっくり首を振った。

「ま、いいさ」と安倍。「その事は、またいつか判るだろ。とりあえずはあの『もののけ』だ」

「晴明、あれの姿、見たか?」

「ああ、見た。はっきりとな」

水野の話の通り、身長は一メートル弱、全身毛だらけで、腕が異様に長かった。問題は、その顔だ。エラが張っていて、額が突き出し、その額からはまごう事なき二本の角。

「ありゃ、"鬼"だ」

安倍と伊藤は同時に呟いた。


【5】


その翌日。

安倍と伊藤は、昨日からの怒りを持続させていた。

朝、二人が顔を合わせた時には、どちらも"頭に来たな"という程度で済んでいたのだが、二人で話している間に、徐々に昨日の怒りがぶり返して来たのだ。

放課後には、二人の怒りは頂点に達していた。

「矢野ーっ!!」

地学室の戸を壊さんばかりの勢いで、安倍と伊藤の二人が飛び込んで来た。二人同時に矢野の名前を叫ぶ。

「なっ何だ!?」

驚いて叫び返した矢野に向かって、安倍は印呪を唱えた。

南莫(ノウマク)三満多(サンマンダ)没駄南(ボダナン)訖利訶(キリカ)莎訶(ソワカ)

途端、矢野の顔面が真っ青になった。震えてさえいる。

矢野は、言い様のない恐怖に取り憑かれていた。何が怖いのか判らないが、とにかく怖いのだ。

その、とにかく怖いものが、突然目の前に飛び出して来た。。

「うわあっ!!」

矢野は絶叫を上げて飛び上がった。その途端、恐怖は来た時と同じく、突然消えてしまった。落ち着いて良く見ると、目の前に来たのは、安倍の右手であった。

「清明、俺に何しやがった!?」

「すまんな、矢野」と安倍は、ニコニコしながら言った。「実はな、荼吉尼法(※13)でお前に恐怖を植え付けたんだよ。――女になって貰うために」

「うっ……」

矢野は言葉に詰まって、自分の体を見下ろした。安倍の言葉通り、矢野は女になっていた。矢野は、緊張、恐怖、驚きなどを極度に経験すると、女になってしまう特異体質なのである。

「何だってこんな事すんだよ!」

そう言う矢野に、伊藤が答えた。

「痴漢野郎を取っ捕まえるエサにするためだよ」

「おい、お前ら、まさか……」

矢野は、嫌な予感を覚えつつ、言いかけた。

「もちろん、女装してオトリになってもらう」

安倍が矢野の言葉を引ったくって、結論を出した。

「――!馬鹿野郎!女装なんかしてたまるかっ!」

「だめだ!やれっ!」

伊藤が詰め寄る。安倍などは無言で拳を固めている。

伊藤はまだしも、安倍は何をやってくるか判らない。矢野は、とりあえず妥協する事にした。

「判った。女装してやる(※14)」

「よし。判ってくれたか」

そう言う安倍に、矢野はニヤリと笑いながら言った。

「池端さんの服を貸してくれるなら、やってやる」

「ダメだ!!」

安倍は即座に否定した。

「何でだよ?」

「ダメなもんはダメだ!」

「じゃあ、俺もダメだ」

矢野はそう言い放つと、サイズの違ってしまったズボンを押さえつつ、椅子に座った。

安倍は完全に後手に回ってしまった。

「水野のじゃダメなのかよ!」

そう言う安倍に、矢野は勝ち誇ったように首を振って見せた。

「水野のじゃサイズが大きすぎる」

「悪かったわねっ!」

教室の奥の方で、水野が叫んだ。

「ねー、池端さん」伊藤が、ゆっくりと池端の方に向きながら、言った。「ダメ?」

「私だってイヤよ」池端は、自分の胸を抱くようにして言った。「いくら女の子になってるって言っても、矢野さんはやっぱり男なんだから。イヤ」

「安倍晴明君」と、矢野。「まだ言いたい事はあるかね?」

「……」

安倍は、仕方なしに折れた。

結局、矢野は自分のジャージを着込んで、永野の自転車に乗る事になった。

伊藤が、とりあえず矢野と一緒に行動する事にする。

「伊藤さん、お似合いのカップルだね」

「矢野、伊藤さんに襲われないよう気を付けな」

水野と馬場が、無茶苦茶な事を言って茶化す。

「馬鹿野郎!そんな気持ち悪い事、してたまるか!」

「馬鹿野郎!そんな気持ち悪い事、されてたまるか!」

伊藤と矢野は、同じ事を同時に、能動態と受動態に分かれて言った。

「じゃあ、伊藤さん。昨日と同じポジションで頼むぜ。俺は隠れて尾行るから」

安倍はそう言うと、隠形印を組んで、真言を唱えた。

(オン)摩利支曳(マリシエイ)莎訶(ソワカ)」(※15)

その途端、安倍の姿は宙に透け込んでしまった。

「おっ、消えた!」

その場に居た全員が驚きの声を上げた。思わず目を剥く伊藤と矢野に、空中から安倍の声が言った。

「ほら、伊藤さん、矢野、早くしろよ」

と言うわけで、伊藤、十メートルほど離れて矢野、そして隠形に入った安倍が、自転車を連ねて出発した。

伊藤は、いつ敵が現れるか、気になって仕方がない。振り返って後ろを見たいのだが、そんな事をして、鬼が警戒して出て来なくなっては困るので、見るに見られない。

矢野は矢野で、いい気分な訳はない。女の姿の時に襲われるというのは、彼が最も忌むべき事だからだ。

姿を消している安倍にしても、心配事はあった。標的が予想通りに出るか、と言う事だ。これで出なければ、精神力の無駄遣いだ。隠形に入り続けるには、強烈な精神統一の続行が必要なのだ。

伊藤、矢野、そして安倍にとって、百年とも思える数分が過ぎた。三人の我慢が限界に達しかけた時、遂に状況が変わった。

鬼が現れたのだ。

気がついたのは、安倍だけだ。安倍のように姿を消しているが、どうやら隠形に入っている訳ではないようだ。その気配がはっきりと判る。姿を消す、という事だけにかなりの力を注いでいるようだ。

鬼は自転車の荷台で一度足を着き、矢野の背中に飛びついた。

「うひゃあっ!」

矢野が悲鳴を上げると同時に、鬼は姿を現した。

「おっと、出たな!」

待ちかねていた伊藤が、そうわめきながら自転車を停めた。

矢野は素早く自転車を停めると、鬼の腕を掴みながら自転車を降りた。

鬼は焦って逃げようともがくが、その見かけによらず力はそう強くなく、矢野の片手すら振りほどけない。

「この野郎」矢野は、掴んでいる手に力を込めながら言った。「よくも、こんな気持ち悪い事させてくれたな。これでも食らえ!」

そう言うと、矢野は鬼の腕を両手で掴み、腰を捻りながら脇に引っ張り込んだ。変形の一本背負いだ。

鬼の体がきれいな半円を描き、アスファルトに叩きつけられた。矢野はその見かけによらず、柔道は黒帯級(※16)である。その彼(?)に投げられたのだ。鬼の口から、カエルが踏み潰された時のような声が出た。

投げられた拍子に腕が自由になった鬼が逃げようとすると、その目の前に、隠形を解いた安倍が姿を現した。

「絶対逃がさねーぞ、この野郎」

安倍はそう呟くと、鬼に印呪を叩きつけた。

(オン)因陀羅耶(インダラヤ)莎訶(ソワカ)!」

鬼は逃げる暇もなく、呪文を食らった。雷ほどの威力を持つ雷撃だ。

「ギャッ!!」

鬼は舌を硬直させて突き出すと、道路に転がった。

それを、まだ気持ち悪そうな顔をしている矢野と、今向こうから戻って来た伊藤と、いつでも印呪を放てるように身構えたままの安倍が見下ろした。どこから見ても、絵本に出て来るような鬼の姿そのものだ。

鬼は、気を失ったのか、ピクリとも動かない。伊藤が試しに爪先で小突いてみたが、反応がない。

「なんだ、こりゃ」と伊藤。「完全に気絶してるぜ」

「見かけ倒しもいいとこだ」

矢野が、腕組みをしながら言った。

「どうもクサイな……」

安倍が眉をしかめながら呟いた。

「えっ?お、俺じゃないぜ」

「何の話をしてんだよ、矢野」

「おい、晴明」と、伊藤。「クサイって、何がだ?」

「どうも、この鬼、魚臭いんだ」

「魚臭い?」

そうコーラスをした伊藤と矢野に頷いて見せると、安倍は印呪を、鬼に向けて放った。

(オン)阿擬曩曳(アギャノエイ)莎訶(ソワカ)」(※17)

その途端、鬼の周りに火が燃え上がった。その熱で鬼は目を覚まし、悲鳴を上げた。

「やい、鬼、焼き肉になりたくなかったら、正体を現せ!」

安倍がそう怒鳴ると、鬼の姿がパッと消えた。

いや、消えた訳ではなかった。鬼の代わりに、一匹の動物がそこには居た。

「なんだ、こりゃ」と、矢野。

「狸か?」と、伊藤。

安倍はその動物を見て、目を丸くした。

「なんとまあ、こいつがまだ日本にいたとはな」

「おい晴明、何だよこりゃ?」

そう言う矢野に、安倍は笑いながら言った。

「ムジナだよムジナ(※18)。俺はてっきりカワウソかと思ったんだが……」

「ムジナ?」伊藤が眉根を寄せて言った。「ムジナが何で鬼に化けて、痴漢を働くわけ?」

そう言われて、安倍は肩をすくめた。

「判らん。こいつに事情を訊いてみないことにはな」

安倍はそう言うと、火を納め、ムジナを睨み付けた。

「おい、ムジナ。洗いざらい喋ってもらうぞ」

そう言った安倍の言葉に、ムジナは何度も頷いた。


【6】


「ムジナ?」

翌日、安倍たちから話を聞いていた地学部連中は、全員揃って驚きのコーラスをした。

「ムジナって"A Mujina Lives There."(※19)のムジナか?」

そう言う馬場に、安倍が頷いた。

「そう。そのムジナ」

「何でムジナが痴漢するわけェ?」

水野がそう言うと、その場に居た全員が頷いた。皆、同じ疑問を持ったのだろう。

「それがなぁ」と、伊藤。「ムジナの奴が言うには、最初は、ただ飛び付いて驚かそうとしただけなんだとよ。ところが、いざ飛び付いてみたら、それが女で、触り心地が柔らかかったってんで、病み付きになったんだって」

「いやだあ、それじゃあ、丸っきりスケベなおっさんと変わんないじゃないの」

永野が、顔をしかめてそう言った。

「まあ、キツく叱っておいたから、もう何もせんと思うよ」

安倍はそう言うと、思い出し笑いをした。

「何?何をしたの?」と、水野。

「いやね、矢野をくすぐってやったんだ」

「えっ?」

「ムジナの見てる前で、矢野を男に戻したらさ、やっこさん、驚いてすっ飛んで逃げちゃったよ」

「へえー、ムジナも怖がる矢野享か」

「悪かったな!」

矢野が水野に怒鳴るのを見て、安倍たちは吹き出した。

その一週間後、警察から、浜高へ連絡があった。痴漢は姿を消したようなので、ご安心下さい、と言うような内容だ。

「と、言うことなので、今日からクラブ活動を再開してもいいそうだ。しかし、いくら痴漢が出なくなったといっても、やはり女の子は気を付けるように。ウチの男子生徒が狙ってるぞ」

忠内はそう言って、朝のSHRの連絡を終わると、安倍と伊藤を廊下に呼び出した。

「おい、お前ら、何で早く俺に教えてくれなかったでえ、ムジナを

捕まえたって言う事を」

忠内にそう言われて、毎度の事ながら安倍と伊藤は驚いた。ムジナの話は、地学部連中以外、誰も知らない事なのだ。

「何でムジナの事知ってんだよ?」

伊藤が食って掛かったが、忠内は澄ましたものだ。

「ただの勘だよ」

「勘で"ムジナ"が出てくるもんか」

そう言う安倍の言葉を無視して、忠内が言った。

「一週間前、お前らが矢野をエサにしてムジナを捕まえた時、いつ俺に報告に来るかと、待ち構えてたんだがな」

「いやね」と安倍。「どうせさ、忠ちゃんだったら、何も言わなくても全部判ってるだろうと思ってさ、別に言わなかっただよ。やっぱり判ってたじゃない」

「それは結果論だろ。――まあいいや。でもこれからは、俺もちゃんとお前らのする事にまぜてくれよ。お前らのやる事は面白いから」

「はいはい。それにしても、忠ちゃんも物好きだやあ」

「お互い様だよ」

忠内がそう言った時、予鈴が鳴った。

四時間目が終わり、昼飯を食べ終わった安倍、伊藤、矢野がピロティーに出て来ると、丁度いつぞやの上級生の女の子二人が、もう一人女の子を加えて立ち話をしているのを見かけた。

「ねぇ、加奈、あの痴漢、もう出なくなっちゃったんだってね」

「そうらしいね。ねぇ、千代ちゃん。あんたも結局無事だった訳?」

「うん。残念だったなー。いっぺんで良いから襲われてみたかったのに……。どう思う、涼子?」

「わたし、もういっぺん襲われたかった。だって、すっごくよかったんだもん♥」

「やっぱり!!」

それを立ち聞きした格好になった安倍たちは、言葉を失った。口あんぐり、といった体だ。

何とか最初に口を開いたのは、伊藤だった。

「やっぱり、今時のジョシコーセーってのは、アブネーよなぁ」

「俺、何だか女性不信に陥りそうだ」

安倍は、額に手を当てながら呟いた。

「なあ、晴明、伊藤、池端さんや永野さんも、そんな事考えるのかいねぇ」

矢野が言った。安倍と伊藤にとって、今一番言われたくなかった言葉である。

「このバカヤノ!(※20) よりによってこんな時にそういう事を言うじゃねぇ!」

安倍と伊藤がそう怒鳴った時、池端、永野、水野、黒岩がやって来た。

「わたしたちが何を考えるって?」

永野にそう言われて、安倍と伊藤は慌てた。

「いや、あの、その、別に……」

「矢野くん、あんたまた、やらしい事言ったんでしょう」

黒岩が、矢野に向かって言った。

「何で黒岩さん、俺にばっかりそんな事言うよ!何か恨みでもあんの?」

そう言う矢野に向かって、安倍と伊藤がわめいた。

「そうだ。全ては矢野が悪い!」

「何だよ、それ!?」

「うるせー!大体お前が、つまらん事を言うからいかんのだ」

伊藤はそう言うと、矢野を羽交い締めにした。安倍がくすぐり出す。矢野は、くすぐられる事に極端に弱い。

「やっやめろ!やめろっての!」

矢野が悲鳴に近い声で叫んだ。

突然うろたえ出した三人を見て、池端と永野は顔を向かい合わせて笑った。



終わり


1989年作

2016年11月30日改


本編註及び解説


1、浜高の近所で云々 ― 浜高(湖東高校)の近所は、春先になると必ず痴漢が出るので有名(?)。


2、ピロティー ― 柱だけで支えられた上層階の事で、れっきとした建築用語なのだが、浜高(湖東高校)の生徒は、ピロティーと聞くと、つい笑ってしまう。しかし他に言いようがないので、仕方なくそう言う。中には「ベランダ」と言っている奴らもいる。


3、「痴漢っつーのは云々」 ― 本当かどうかは知らない。ヨタ雑誌で読んだ事だから、あてには出来ない。


4、『帰りのS,H,R』 ― ようするに、ご連絡の時間。前作に出ていた『L,H,R』は、ロング・ホーム・ルームと言い、クラス会のこと。


5、『軽井沢シンドローム』 ― たがみよしひさの、等身大と二等身のキャラが(それぞれ同じキャラが、である)入り乱れるワケの判らないマンガ。五回に一回はセックスシーンが出し来る。


6、『スカイ・ウォッチャー』 ― 天文雑誌。地学部が部費で買っている。真面目な本。


7、南高の生徒会長 ― 事実。作者が、水野本人と呑みにいった際に聞いた話。


8、ヨッちゃんイカ ― 三十数年前の佃煮風菓子。駄菓子の見本のようなもので、はっきり言って塩からくて、大してうまくない。三十円だったと記憶している。つい最近まではあった。※補追 : 今もある。


9、四十分 ― そんな事はない。一時間はかかる。実際かなり遠いのだ。


10、貧民パン ― 食パンにマーガリン、あるいはジャムが塗ってあるだけの、七十円のパン。浜高(湖東高校)の売店で最も安いパンだったため、こう呼ばれる。実はこれ、 浜高(湖東高校)のみで使われる用語だと思ったら、なんと北高などでも使われていたのだそうな。考える事は皆同じだ。


11、「スキーならね、云々」 ― 実在の伊藤、永野、そして作者にとっての、最大の共通項である。当然の事ながら、作者はスキーが大好きである。


12、「意外とね、云々」 ― これ、事実。作者が北海道に住んでいた頃、冬になると毎週日曜日は、家族でスキーに出かけた。すると、近所の人に「やっぱ、内地(本州)の人だなや」と言われたものだ。


13、荼吉尼法 ― 本当は、こんなものではなく、本格的な呪咀法である。そうとうヤバイ法なのだ、これが。


14、「女装してやる」 ― 本人は、何だかんだと文句を言いながら、女装して喜んでいた、という事実がある。


15、「唵摩利支曳莎訶」 ― これは摩利支天隠形法といって、あらゆる難障を除く、といわれる。


16、柔道は黒帯級 ― 事実。こいつは早生まれ(3月)だったため、昇段審査が受けられず、黒帯になれなかった、哀れな男なのである。


17、唵阿擬曩曳莎訶 ― 火天真言という。火天、言ってしまえば火の神。荒神と共に台所の神様として祀られる事が多い。


18、ムジナ ― 狸の亜種とも言われるが、現在生棲は確認されていない。明治時代には、狸かムジナかを判断する裁判が開かれた事もある、という。それほど狸とムジナはそっくりで、なおかつ人をだますと言われていた。


19、"A Mujina Lives There." ― 中学生の英語テキスト"New PIince"の中の教材の一つだった、小泉八雲の"Mujina"の冒頭に出て来る、セリフの一節である。"New PIince"を使っていた連中の間では「エレンとタロウ、ロイの三角関係」とならび、けっこう話題になっていたセリフである。


20、バカヤノ ― 矢野はどうも皆から非難をあびる事が多く、仮にだれかがバカな事をやっても、「矢野みたいな事をやるな」と言われた。バカヤノ、というのは、かなり強い悪口であった。


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