17
おまえの二の腕が蜂に刺されたことが、始まりだった。
腫れだした腕を見て、『馬に乗せている荷物の中に薬があるから、取ってくる。』と抱いていたおまえを、下におろそうとしたのだが…蜂に刺されたことで、パニックになったおまえは、泣いて俺から離れず、俺はそのまま、また抱きあげナタリーに
『ここから動くな、すぐ戻る。』と言って、ナタリーをひとりにしてしまった。
そう言って、プリシラの頭を撫でていた手を手を止め、その手を握り締めると、苦しそうな声で
「だが、戻ったときには…ナタリーの姿は、そこにはなかった。」と搾り出した。
不安を感じながらも…、その不安を認めたくなかった俺はナタリーの名前を呼び、森の奥へと入っていったんだ。
不安…
それは…ナタリーのここ数ヶ月の様子が俺を不安にさせていた。
一度は愛する人の、子供を生むという気持ちが、ナタリーに生きる目的を持たせたが…三年と言う月日が経っても、現状は何一つ変わらない事が、ナタリーの心のどこかあった希望が、あきらめにも似た寂しさに変わり、心に影を作っていったように思えていたんだ。それをはっきり感じたのは、一ヶ月前にこの森で会った時だ。サザーランド国に放っていた密偵から、アルフォンス王が動き出したと言う情報が入った。その事を、ナタリーに告げたときだった。
あの時…ナタリーは…
『そう…』
それは本当に嬉しそうに微笑み、俺は思わず声を荒げてしまった。
『なに…笑ってんだよ。あいつはおまえを殺しに来るつもりだぞ!!』
『そうね…でも、会えるのは…嬉しいって…ここが…』と言って胸を押さえて、また笑みを浮かべたんだ。
俺は…ナタリーが消えていくような気がして、引きとめようと思わず抱きしめ
『何言ってだ!!殺されるつもりか!!チビはどうすんだよ!!』と叫んだよ。
そんな俺の叫びに、ナタリーは…
『…フレデリック…ごめんなさい。』としか言ってはくれず、ナタリーはただ黙ってに俺の腕の中にいた。プリシラ…覚えているか?おまえはあの時、黒い瞳を大きく見開き、ただポロポロと涙を零したことを…俺の大声に驚いたんだとは思う…だがあの時、俺はまるで……好きな人をあきらめることができないナタリーの心が、おまえに伝わったような気がした。子供の泣き方じゃなかった…それは心に秘めた思いを、誰にも…気づかせたくないと静かに泣く女の泣き方だったからだ。
今思えば、ナタリーの心は…大きく揺れていたんだろうなぁ…。
愛する男と娘と三人で、暮らしたい。でも…信じてくれるだろうか…プリシラと親子だと…今更言って、信じてくれるだろうか。もし…信じてくれなければ…自分だけじゃない、プリシラも殺される…
そんなナタリーの揺れる心を…決めさせたのは…あの時言った俺の言葉だったかもしれない。
『3年と言う月日を掛けて、おまえを追い詰めるあいつは…狂ってる。会ったら危険だ。』
ナタリーは『そうよね…』と呟くように言うと、おまえに駆け寄り抱きしめ…言ったんだ。
『ほどけないほど絡まった糸は…切るしかないのね。』と…
森の奥に進みながら、あの言葉を何度も思い出した。
【ほどけないほど絡まった糸は…切るしかないのね。】
それは…俺の勘違いでなければ…アルフォン王に撒きついた糸は自分だと…自分さえいなければ、アルフォンス王が正気に戻るのではないか…と思ったのではないかと。確かに…アルフォンス王が聞く耳を持てば、プリシラが生まれた月日から…娘だと気づくかも知れん。だが…ナタリーは肝心な事をわかっていなかった。アルフォンス王が正気を失ったように、ナタリーを追い詰めるのは…それほどナタリーを愛していると言うことを…絡まった糸はナタリーへの愛を紡いだ糸だと…わかっていなかった。
『まだだ…。まだ、あいつはここに来ているはずはない。』
そう口にしたのは…不安を打ち消すためだった。
まだ…そうまだだ。サザーランド国の軍はまだトルティ国には入っていない。軍の中にアルフォンスがいたことを確認したと知らせが来ている。きっと…森の奥で、鉢に刺され、泣いていたプリシアの為に、プリシラが大好きな花でも摘んでいるんだ…と…そう自分に言い聞かせながら森の中へ進んだ。
だが…不安は的中した。
それは‥‥プリシラのひとことだった。
『お母さまはなにをしてるの?』と指差した先には
透き通るような湖にナタリーが…赤い線のように見える血を、黒く長い髪に巻きつけ…
そして……浮かんでいた。
とっさにプリシラを胸の中囲い込んだ、『くそっ!』と口から言葉が零れ落ち…琥珀色の眼から涙が零れ落ちてゆくのがわかった。
『…ナタリー…。これが…おまえたちの恋だというのか…』
と掠れた声で、湖に向かって呟くと、この悲惨なことを気づかれないように、無理やり微かな笑みを浮かべ、震える声と体を堪えて、プリシラを抱きしめたが…だが、幼いプリシアに、俺の思いなど伝わるはずもなく。
プリシラは小首を傾げながら
『ねぇ…お母様は、なにをしているの?』またそう言って尋ねた。
『…ナタリーは…』と言って、俺はプリシラに…その先の言葉を言えなかった。
(おまえの父親は、馬鹿だ。愛する女を追い詰め…死と言う形でしか、自分の恋は成就出来ないと本当に思っていたとは…信じたくなかった。チビ…おまえはこうなるなよ。両親のような。縛られた世界で見つけた辛い恋だったとしたとしても…死と言う形で恋の成就を願ってくれるな。)
キラキラと木々の間から、木漏れ日が俺の背中で見えているのだろうか…プリシラが眩しさに少し目を細めながら、ナタリーと同じ黒い瞳で自分を見る姿に…心の中で思ったその言葉は言えなかった。
ただ…
「チビ……いいか、どんなことがあっても死ぬなよ。」としか言えなかったんだ。




