いちご牛乳
思ってたより抵抗がない。
グサリともつかない、微妙な効果音がついていそうだ。
それでも手元を見ると、自分の手にしたナイフがしっかりと相手の身体に食い込んでいた。だんだんと赤く染みていくものが血だと、どこか他人行儀のように悟った。
やはり意外なことに噴出したりはせず、静かに侵食していく様を見ながらナイフから手を放した。
もうどうにでもなってしまえ、と、ゆっくり目を閉じかけたときだ。
「・・・甘いもの、お好きですか」
目の前の存在がそうたずねる。
辺りには誰もいない。この見ず知らずの標的と、自分だけ。
それなのに尋ねられたのは自分だと気付くのに数秒かかってしまった。
目をしばたたかせながら確かにナイフを刺したはずの、人物を見た。
年は十代後半だろうか。
中肉中背の、いかにもフツーといった人相で、髪は少し長めの女。手にはビニール袋をぶら下げていた。
「甘い、もの?」
「ええ、コンビニで飲み物をなんとなく二つ買ったので、一ついかがかと」
警察を呼ぶまでの時間稼ぎかとも思ったが、彼女の手には袋のみで、ポケットには携帯端末も入ってなさそうだった。
無言でいるとそれを肯定と取ったのか静かに歩き出した。それだけを見ると極ふつうの、夜中に出かける女だったが、背中に突き刺さるナイフの柄と赤く染まり始めた服が異様さを物語っている。
彼女についていき、目の前の階段を上がった。
こんなすぐ傍に神社があったとは気付かなかった。電車で数駅とはいえ、身近な土地ではないからかどこになにがあるといった把握はしていない。
彼女は気にした様子もなく、少し痛そうに体を捻って一段一段と上がっていく。
神様に突き出そうということだろうか。
そうも考えて、思考を止めた。どうだっていい、誰かを刺した時点で・・・それよりも前に、自分の人生は終わっているのだから。
彼女はとある場所で足を止めた。
そこはここら一体を見渡せる場所で、ベンチが二つ、連ねておいてある。景色は深夜だというのに建物の光が瞬いているものの、都会と違ってギラつきはない。
「どうぞ」
ベンチの一つに座って、彼女は袋から紙パックを取り出した。
赤とピンクでデザインされたパッケージで、いちご牛乳、と書かれていた。
「私甘いもの得意じゃなくて。でもなんとなく買っちゃったんですよね、よかったら、どうぞ」
それを受け取ると、彼女は袋からもう一つ、今度はペットボトルに入ったキツめの炭酸飲料を取り出した。
「・・おれは、炭酸が苦手だ」
「そうなんですか、じゃあちょうどいいですね」
そもそもが彼女の買ったものなのにちょうどいいっていうのは少しおかしい気がする。そう思ったが唾と共に言葉を飲み込んだ。
さも当たり前のようにベンチに座り、炭酸飲料を口にした彼女を見て疑問を抱く。同時に、恐怖を感じた。
背中にはナイフが今も突き刺さっており、赤の面積を広げ続けている。にも関わらず、この女は顔色一つ変えずに夜景をぼうっと見つめているだけだ。
「痛く、ないのか」
小さく、問いかけた。
まるで返事を聞きたくないかのような小声で、自分の声ながら少し苦笑してしまう。
「妙な質問ですね」
「・・・というと?」
「んん、いちご牛乳飲んでる人に対して甘くないのか、と問いかけてるみたいな」
たとえがいまいち伝わってこない。
それにこんなのは甘くないと答える奴もいるんじゃないのか。そう再び聞くと女は小さく笑って、私には十分甘いです、と言った。
女の笑顔はやけに楽しそうで、先ほどまでの恐怖が胸のうちからスッと消えていくのを感じた。
「つまり、痛いです。すっごく」
「・・悪い」
「謝るなら最初からしないでくださいよ」
女はくすくすと笑って再び炭酸飲料を口にする。
少し寒いのか腕をさすっていた。
今は五月の初旬。温暖化も相まって気温が高いとはいえ、夜はまだ肌寒いのかもしれない。
血が抜けている、という考えなど思い浮かばず、そっと着ていたジャケットをかけてやった。
女はそれに気付くと、目をぱちくりさせてこっちを見た。
「ありがとう、ございます」
照れたように微笑んで、下を向いた。
微かに見える口元は緩んでいて嬉しいんだと悟る。それを見ていて自分もなんだか嬉しくなる。
「・・それ、一口頂いていいですか?」
いちご牛乳を指差して言った。
飲んでいいとは言われたものの、未開封だったそれに手を伸ばした。
「甘いもの、苦手なんじゃないのか」
「得意じゃ、ないんです」
そう言って口をあけた。ストローがないのか、そのまま口をつける。
それ、おれにくれたんじゃないのか。
「甘い、ですね」
「そうか、痛いか」
「はい・・でも、おいしい」
もっと飲んでおけばよかった、と初めて女の口から後悔の言葉が漏れた。
飲めばいいのにと思いながらも再び手渡されたそれに口をつけた。
あまい。それでもほのかに感じるそれは不快感を与えずに、ただなんともいえぬ安心感を与えた。
久しぶりに飲んだが、確かにうまい。
「一人暮らしか」
そう聞くと、少しためらった後、首を横にふった。
「いえ、父親と二人で」
哀しそうにそういう彼女に、何か踏んではいけないものがあると悟る。
誰にでも、触れてほしくない話というのはあるものだ。
「お兄さん、モテないでしょう」
「はあ?」
「そこはどうしてとか、なにかあったのって、聞くとこですよ」
彼女はそうは思ってなかったようで、それでもさほど気にしたそぶりもなく笑った。
めんどくさいな。そう思ったものの、彼女にはその思考すらも見通せているのかただ静かに黙って返事を待っていた。
「じゃあ、どうして」
「ちょっと色々ありまして」
それだけ言うと、彼女は話は終わったとばかりに夜景を見た。
なんだそれ、と少し拍子抜けしてしまう。
「ねえ、お兄さんお兄さん」
少し間が空いたかと思うと、突然左の手のひらを差し出される。
「このなかから、一つ指を引っ張ってください」
また突拍子もないことだとため息をついた。
適当に目に付いた指を少しだけ、引っ張った。
「あー、やっぱりそうですよね」
「なんだよ」
「心理テスト、です」
そう言って、彼女は一つ一つ指の説明をしていった。
親指は尊敬、人差し指は友人、中指は無感情、薬指は恋慕、小指は格下。
おれが引っ張ったのは中指だった。
正直だからなんだという話だが、それでも彼女は小さく文句を言っていた。
普通の女、と浮かんできた単語を消した。こいつは普通ではない。・・異常でも、ないかもしれないが。
「お兄さん、お兄さんはどうして私を刺したんですか?知り合いでしたっけ」
「・・女なら誰でも良かった」
小さく呟いたが、それでも彼女は拾ったようで、それまたどうして、と掘り下げていく。
少し居心地の悪さを感じたが、あえて口には出さず理由を述べた。
「婚約者が、二股してて」
「あら、よく話してくれましたね」
「誰かに聞いてほしかった、のかも」
ぼそ、と言うと、女は何を思ったのか一際大きな声で笑った。
あはは、と少し苦しそうに、けれどおかしそうに口角をあげていた。
「めんどくさいですね、お兄さん」
おれも、案外人のことをいえないかもしれない。
それからしばらく無言で、互いを気遣うでもなく夜景を見続ける。
一つの建物がチカチカと明かりを減らしていった。
今までついていたものが次々と消えていく。命さえ切らすかのようなその動きに、たまらず横を見る。
彼女は何を考えているのか分からないような表情で、それをじっと見つめていた。
「おにいさん」
「・・ん」
「いたいよ」
何も返せずにじっと彼女を見た。
顔は青白く見えたが、それは夜だからと言い切れないのは彼女の悲痛を訴える息だろうか。喘ぎ始めたそれをじっと聞いて、ひたすら次の言葉を待つ。
彼女の手は震えていたが、恐怖なのか自然とそうなっているのかはわからない。
「わたしねえ、さみしかったけど、おにいさんのせいで、もうさみしくないね」
その言葉に喉が詰まる。
おれのせいで。寂しくないと言い換えて、彼女は小さく笑った。
「どうして、夜に外をほっつき歩いたりなんかしたんだよ・・そうしなきゃ、お前、おれは・・・」
「おにいさん、ほっつき歩かなきゃ、あえなかったよ」
バサリとジャケットが地面に落ちる。
抑えられなくなったのか、手だけでなく全身が震えていた。
「今度は、婚約者をころすの?」
「ころさない、よ」
「ふうん・・そっか」
彼女は優しく目元を歪ませたまま、溶けたようにおれを責めた。
ふいに左肩が重くなる。
少ししてから、彼女の髪がはらりと膝に落ち、思ったよりもその頭からの衝撃は少なくあっけにとられる。
傍らに置いてあった紙パックを手に取る。
開け口ごしに直接ピンク色の液体を口に含んだ。
それはさっきよりも、ほんの少しだけ甘い気がした。