雑踏の中にあるということ
アスファルトを打つ音が聞こえる。
一つは規則正しく。しかしそれが無数に集められれば、規則性をそこに見出すのは人間には難しくなる。
その中で頼りになるのは自らの音だ。
俺はそこに存在することを示すように、足音の一つを作り出す。
それは規則正しく、無数の音の波に呑まれようとも、しかし確かにそこに存在する。
俺は歩く。
交差点を行く人波を掻き分けるように、しかし実際は真っ直ぐとした足取りで、俺は歩いている。
雑踏は嫌いだ。
けれども雑踏の中にいることで、自分以外の他者の存在を感じることができる。
他者がいる限り、俺はそいつと何らかの形で関わらなくちゃいけない。
袖を擦るだけの関わり。
名前を知り、顔を知り、人格を知り、立場を知るという既知の関わり。
そして、頭を下げるという関わり。
いつからだろう。誰かと関わることで、自分がすり減らされている感覚を覚えるようになったのは。
それは思い出せない。
大人は皆そうだと、頭を下げなくてもいい雑踏の中の一人が言っていた。そうだなと俺は同意し、笑ったような気がする。
けれども思い出してみれば、それは子供の時にあったように思える。郊外の大型ショッピングセンターで、父と共に歩いていた。目の前に父よりも年上の雑踏を作る一人が現れて、俺は誰かは知らないけれど、父は頭を下げた。そして父の手が俺の頭を押さえて、俺も父と同じ格好をすることになった。
その時は無性に腹が立って、嫌な気分になった。誰だか知らない人に頭を下げなくちゃいけないなんて。でも今では俺は平気でそういうことをしている。今になってみれば、それはやらなくちゃいけないことなんだったと簡単にわかる。
俺は不満じゃなくなったわけじゃない。けれども、もやもやとした感情と引き換えに、俺は安心を得た。
安心だ。
安全だ。
俺は誰かを関わることができているという感覚。俺は一人じゃないという感覚。
それが俺の心の隙間に安らぎをもたらす。
子供の時は無性に嫌だった。それは家族の中で社会が完結していたからだ。
けれども俺は大人になって、自立して、俺が関わる社会を広い意味での社会と同じにした時、俺は一人じゃないという感覚を得た。
だから雑踏は――子供の頃の記憶が嫌いだって訴えるけど――今は安心する。
俺は社会の一員なんだって。はぐれないでいさせてくれるんだって。
ちなみにそれは嘘だ。
俺は雑踏の中にいない。
俺は一人で家の中に篭っている。会社にはもうずっと行っていない。辞めさせられたわけじゃない。いわゆる心のヤマイというヤツかもしれない。詳しくはわからん。
でも不安なのは本当だ。俺は社会の一員じゃなくなったんだから。
マズイ。マズイのはわかる。でも雑踏は嫌いだ。子供の頃の俺がそう言ってる。大人の俺もそう言ってる。頭を下げることを思い出すとそのまま気絶してしまいそうだ。
なんか嫌だ。という表現しかできない。
どうしよう。
寝る。