第二話・「スーツとヒモと日常」
人間、風見鶏翔人の朝は早い。
「起きろーかなめー、朝だぞー」
「………………………おはよー」
起きたらまずベッドの隣で寝ている夕凪かなめを優しく、できるだけ優しく起こさなければならない。彼女を不機嫌にさせることは、世界の法則を著しく狂わせかねないからだ。
「……朝から回鍋肉ってどうなの?」
「いや、昨日の残り物があったからさ。もったいないだろ?」
「冷凍庫に入れるか、昼まで取っといたらいいじゃない。ま、いいけどね」
食事当番は交代制であるのが二人のルールだが、レパートリーの少ない翔人にとって、朝食は鬼門なのである。
「今日はハロワ行くのよね?」
「えっ……」
「いや、えっじゃないでしょ。こないだ行くって約束したじゃない」
「あ、ああ、うん。もちろん行くともさ」
疑いの眼差しと無言の圧力に耐える鋼の精神を翔人は半年に及ぶ特訓の末に身に付けていた。
「それじゃあ行ってくるけど……」
「おう、いってらっしゃい」
「また勝手にジム行くんじゃないわよ。お金かかるんだから」
「…………了解」
バタンと閉じられたドアを三秒ほど眺めてから、ようやく翔人は安堵のため息を漏らした。もそもそと食器の片付けを済ませ、ジャージに着替え、たっぷり一時間ストレッチを行う。
ここから長い長い一日が始まるのだ。
人間、風見鶏翔人にとって、日課のトレーニングはとても重要なものだ。
ランニング20キロを朝にこなし、馴染みのジム――への誘惑をどうにか断ち切り、腕立て伏せや腹筋背筋などのメニューをノルマ200回ずつ家で行う。適度な筋トレ、基礎トレを済ませた後、汗だくのジャージを一旦脱いで洗濯し、風呂で汗を流す。
果物やパンなどで軽めの食事を摂って一息吐く頃にはもう昼過ぎだ。ぼうっとしている意識の中で翔人は、一か月前の誕生日にかなめからもらったプレゼントのことを思い出す。
『はいコレ』
『なにコレ? ってああ、そういや俺誕生日か。ありがとう』
『開けてみてよ』
『ん…………えっ、何でスーツ?』
『お金がかからないことがあんたの良い所だけど、いい加減ゼロあるいは微マイナスからプラスになるような生活に憧れてきたわけよ』
『しゅ、就職ですか?』
『そ。で、そのスーツは面接用ね。来週からハロワ行ってきなさい』
寝ている間に寸法を測っていたあたり、柔らかな口調とは裏腹に重い意志が感じられる。そんな恋人に今でも翔人は少し引いているのであった。
ため息を深々と吐いてから、翔人は押し入れの奥からスーツを取り出し身に纏った。
「それじゃあ行きますかね」
向かう先はハローワーク――。
ではない。翔人がたどり着いたのは人気のない、そこら中に廃品の家電や廃タイヤが山となって積み重なる空き地だ。十年前に建設予定だったビルの計画が頓挫して、買い手もなかなか現れず、半ば放置された状態の土地である。一日中ほとんど誰も訪れることのないここは絶好のトレーニング場所だ。
着ているのもプレゼントされたスーツではない。漆黒の生地に肩当てと胸当てを取り付けたヒーロースーツだ。リュックから取り出したヘルメット――炎を象った赤い牙と雷を模したオレンジの角が飾り付けてある――を被れば、魔人ブレイブact.0は完成する。
装着品はほとんどお手製だが、そこらの地域限定ヒーローレベルには出来がいいと翔人は自負している。これを身に付けることで、殺陣のトレーニングにイメージが乗りやすいのだ。
「せいやっ! はっ!」
中段への突きの連打から回し蹴り、敵の反撃を想定して身をかわし、半歩引いてからの――
「ブレイブウェッジ!」
大振りのパンチ。決まった! イメージ通りのアクションに翔人は思わず拳を握り締めた。
「こうした毎日のトレーニングがコンディションを支えているんだよな。ハロワなんて行ってたらなまっちまうわけよ」
うんうんと頷きながら、翔人は誰にともなく言い訳する。
小休憩を挟みつつ繰り返されるトレーニングも夕暮れ時にはもうお開きだ。
「おし、じゃあ最後にブレイブスラッシュを……」
「せいゃー!」
「ぐわばっ!」
突然背中に走った衝撃に、翔人は思わずつんのめった。
「どーだ! オレのブレイブウェッジは!」
「ぎゃははは、だっせーブレイブ!」
なんとか体制を立て直して振り返ると、この空き地をアジトにする小さい怪人――近所の小学生四人組がバカ笑いしていた。
「…………不意打ちは正義失格だぞ、おまえら」
「オレたち怪人タテガミゴブリンはふいうちが得意技なのだ!」
「やられるブレイブがしっかくだぞー」
憎たらしい連中に対してどうにか怒りをこらえつつ、翔人は素早くポーズを決めてみせる。
「そうか。卑怯なりタテガミゴブリン! お前のその悪を正義が断つ!」
「にげろにげろ!」
いきなりの鬼ごっこ勃発。翔人はこれもトレーニングだと割り切って子供たちを追い掛け回す。
やがて日は落ち、子供たちを家に帰し、スーツを脱いで帰路に着く。
ただ汗をかき、身体を鍛え、何も考えない。単調でつまらないが、とても楽な、これが風見鶏翔人の日常の全てである。