蜂蜜
風俗街にだって朝が来る。それもとびきり綺麗な朝だ。夜のこの街を、朝日が浄化してくれてる。これがなくちゃ、僕はきっと生きていけてない。
朝帰りの母親からは、決まって蜂蜜みたいな甘ったるい匂いがする。その母が落ちかけの化粧のまま、どうしようもなく美味しいだし巻き卵を焼けたりするから、世の中は不思議なものだ。
「ほうら、早く食べちゃいな。」
母は、実子の僕が認めるくらい綺麗だ。だから風俗嬢の適期をすぎた今だって、少しばかり年齢を誤魔化して働けている。
「はーぁ。」
ため息じみた吐息をついて布団に倒れこんだまま、寝息をつきはじめた彼女を見て、僕はくだらないことを考える。この人のことを好きなんだろうかって。
蜂蜜の匂いが鼻をついて、口に入れた卵焼きに急に吐き気がした。なんとか麦茶で流し込んで、僕はまた考える。
僕は、この風俗嬢を嫌いなんだろうか。
何かを感じたのか母がうっすらと目をあけ、僕を見た。僕は繕うみたいに強張った笑顔を浮かべた。
「ほら、早く学校行きな。遅刻するよ。」
頷いて、体内に含んだ卵焼きの違和感を忘れようと、革靴をはく。母さんがひらひらと手を振った。
僕は手をふらなかった。
この街に学校はない。だからここから自転車をこいで30分の隣町にある中学校に通っている。
当然、僕以外にこんな教育上よろしくない街から登校する子供はいないから、朝はひとりぼっちだ。
ゴミ置き場を漁るカラスと目が合った。「カァ」と鳴いたそいつは、思い違いでなければなかなか僕に懐いているブチだ。ところどころ羽が落ちて斑点模様にみえるからブチ。
「行ってくるな、ブチ。」
またカァと鳴いたブチはしばらく僕の上を飛んでいたが、気付いたらいなくなっていた。
ほどほどに疲れる坂道を上って下って、それを3度繰り返した所で、学校に着いた。
「おはよう、ヒカル。」
友人の愛が、最後の上り坂でへばって自転車を押していた僕の背を叩いた。フッと胸にこみ上げる安堵感に、自分がどこか心細かったことに気が付いた。
「おはよう。」
少し伸びてきた前髪がゆらゆらと優雅に揺れて愛の綺麗な目を、隠したり、少しのぞかせたりした。
結構前から、前髪を切らないのかと聞きたかったのだけれど、それはきっと今日も何気ない会話の中に忘れてしまう。
「さぁ、行こう。」
愛がスカートをひるがえして僕を急かす。チラリと見えた白い太ももが焼き付いた。愛からもいつか蜂蜜の匂いがするのだろうか。
僕は胃の中の卵焼きが急に暴れ出したみたいな気がして、その場で吐いた。そこから蜂蜜の匂いはしなかった。