多分
「あと一年です」
医者というのは どいつもこいつも 人の命をなんだと思っているのだろう。もし私が許されるならば こいつを殴ってやりたい。
「ご家族の方といらっしゃってください」
「家族?」
私の素っ頓狂な声に奴は 微塵の動揺も見せずにカルテに目を通している。慣れというのは恐ろしいものだ。
「患者の方に 医者は説明をする義務があります。同様に ご家族の方にも」
私は少し俯くと頭の中を整理した。幼児が描くような いびつな円が三つ連なっていて 矢印が繋いでいる。
私→死ぬ→家族
おかしなくらい 図式は簡単で 矢印が向きを変えることも、円が変わる事もない。
「私死ぬんですか?」
奴の言葉に合致しない言葉が口を衝いて出た。人は死の気配を感じた時 全てが嘘だと信じる気持ちと 全てを受け入れる心がおかしな均衡を保つ。多分どちらに傾いても心は壊れる。本当の恐怖を初めて知る。
「まだ確定したわけではありません。最近の医療は進歩しています。あくまで現段階の進行状況から見た見解です」
「でも 死ぬんですよね」
言いようのない焦燥感が 最悪の結果を促している。矛盾だ。私の嫌いな言葉。
「確定したわけではありません」
奴は急に声を和らげると 宥めるように言った。
「死ぬなら死ぬって言って」
心臓が苦しい。破裂してしまう。
「ご家族の方といらしてください」
世界が色を失うと言うが 正確には 色を色と認識出来なくなる。私の目はもう二度と正常に働かないだろう。
家族説明には 母と父が同行した。弟は 学校があるから行かないと言った。父は苦い顔をしたが 私は返って都合が良かった。情けなく涙を流す自分など 彼の記憶に残したくない。
「じゃあ 鍵頼んだよ」
J大学付属病院は 家から三時間かかる。私達が家を出たのは人通りもまばらな早朝だった。玄関で弟は腫れぼったい眼を擦りながら浅く頷くと、さっさと自室へ引き上げた。母は何か言いかけて止めた。多分何か言葉を求めたのだろう。
「あいつは何考えているんだかな」
白い息とともに父は不満をもらした。それから母と何事かひそひそと話しながら 駅へと歩き出した。
私は一度空を仰ぎ見てから 大きく息を吐きだした。私の体温は まだ空気よりも温かい。まだこの体には熱が残っている。
「熱量はj」
学生の頃のおぼろげな記憶がよみがえる。勉強は好きではなかったが 成績に傷をつけるのは嫌だった。 なりふり構わず ひたすら机に向かう日々を繰り返していた。そんな私を弟はいつも 可笑しそうに笑っていた。
「姉ちゃん 勉強楽しいかよ?」
「別に」
「きっと後悔するぜ」
「何を」
「今だよ。姉ちゃんには 姉ちゃんにしか出来ない事があるんじゃないの?」
眉間に皺を寄せて睨む私の顔を 少し首を傾げながら見つめ返す弟。
小さな世界で生きていた私の全て。
今 弟の予言は 的中した。
やりたい事がある。生きていたい。
言葉が深く深くねじ込んでくる。世界が私を押しつぶそうとしている。
「あ」
不意に家の二階の窓辺に立つ弟の姿が目に入った。
カーテンを開け 窓ガラスが息で白くなっている。彼は私の視線に気づいた。お互いに目を逸らすことは無かった。一 二分経ってから 弟はガラスに文字を書いた。
「ろたっい からだ」
反転された文字を慎重に 頭で整理した後 再び弟に視線を合わせた。しかし 弟は直ぐに 目を逸らすと 余ったスペースに 息を吹きかけ
「かば」
と書いた。
私がほほ笑むと 彼は睨めた後 カーテンを閉めた。
歩み始めた 私の顔に陽の光が当たる。一枚の葉がひらひらと舞い落ちる。
「紅葉。綺麗だな」
急ぎ足で二人の後を追った。
日常が日常でなくなる時。世界がどんなものであったのか。