あなたの代わりに七年、頭を下げてきました。――その義理は伯爵家にではなく、わたしに積まれております
喪服の襟を留めているところに、婚約者が入ってきた。
ルイス・レンハルトはわたしの黒い装いを上から下まで眺めて、少し困ったような顔をした。
「アイリス。今日はいい」
「……水路番のマルテさんのお弔いですが」
「ミレーユが行く」
鏡の中で、襟を押さえていた自分の指が止まった。
「ミレーユ様が」
「あの子もそろそろ、領のことを覚えないとな」
ルイスは窓辺の椅子に腰を下ろした。七年、この部屋でわたしを待たせたことは数え切れないほどあるけれど、腰を下ろしたのは片手で足りる。
「それと、婚約のことだが」
ああ、と思った。順番が逆だ。弔いより先に、そちらを言うべきだった。
「解消しようと思う。父上にはもう話してある。……そんな顔をするな、君を悪く言うつもりはないんだ。七年だぞ。ずっと僕の代わりに人の家を回って、君だってうんざりしていただろう」
「うんざりは、しておりません」
「強がらなくていい」
彼は本当に、わたしを労っているつもりの顔をしていた。それが一番こたえた。
「代理なんて誰にでもできる。頭を下げて、座って、茶を飲んで帰ってくるだけだろう。ミレーユにもできる。君はもう自由にしていい。……七年、悪かったと思っているんだ、これでも」
窓の下では、馬車がもう回してある。喪服の白い襟が見えた。ミレーユ様は、わたしが降りてくる前に出発するつもりなのだろう。それは彼女の気遣いだ。
わたしは襟の留め具を、最後まで留めた。
「承知いたしました」
ルイスが目を丸くした。泣くか、すがるか、少なくとも理由を訊くと思っていたのだろう。
「ずいぶんあっさりだな」
「あなたが決めたことですから」
そう。あなたが決めた。七年前も、今朝も。
「ただ、ひとつだけ」
わたしは鏡から離れ、黒い手袋を取った。
「今日の弔いには、わたしも参ります。レンハルト伯爵家の代理としてではなく、アイリス・ヴェルナンとして」
「……なんだそれは。もう関係ないだろう」
「ええ。もう関係ありません」
だからこそ行くのだ、とは言わなかった。言っても、たぶん通じない。
◆
この地方には〈参会帳〉というものがある。
長老会が代々持っている、ただの分厚い帳面だ。領内で人が死んだ、生まれた、嫁いだ、堤が切れた、井戸を替えた──そういう日に誰が顔を出したかを、記録役が一行ずつ書きつける。
書き方に古い決まりがある。当主の代理として出た者も、家名ではなく、その者自身の名で書かれる。「レンハルト伯爵家代理・アイリス・ヴェルナン」ではない。「アイリス・ヴェルナン(レンハルト伯爵家代理)」と、名が先に来る。
頭を下げたのは体ひとつの人間だから、というのが理由だそうだ。
そして人を呼ぶとき、この地方の者は参会帳をめくる。堤を直すのに人手がいる、祝言に人を立てたい、揉め事を仲裁してほしい──そういうとき、帳面をめくって、名前がよく出てくる者に声をかける。
長老会の席次も、参会帳の厚みで決まる。
七年前、婚約が整った日に、わたしはそれを教わった。教えてくれたのはレンハルト家の家令だった。ルイスは同じ席にいたけれど、半分も聞かないうちに退屈して庭に出た。
あのとき彼が最後まで座っていたら、今日は違っていただろうか。
たぶん、違わない。
七年前、この婚約は「格が釣り合わない」と言われた。男爵家の娘が伯爵家に入るのだから当然だ。だからわたしは、釣り合いを取ろうとした。取り方を、参会帳で教わったのだと思っていた。
実際には、取れていなかったのだろう。取れていたら、今朝の話はもっと違う形で来たはずだ。
◆
マルテさんの家は、水路のいちばん上にある。
着いたときにはもう人が集まっていて、狭い庭にまで人が溢れていた。四十年、この領の水を分けてきた人だ。上の畑と下の畑が水で殴り合いをしかけるたび、間に立ってきた人でもある。
戸口でハンナさんが客を迎えていた。マルテさんの奥さんだ。わたしを見つけると、皺だらけの手でわたしの手首を掴んだ。
「アイリス様。来てくださった」
「……はい」
「上がって。爺さんの隣に」
それは遺族の席だ。断ろうとして、口が動かなかった。
三年前の冬、この水路が凍って割れた。氷が張ると、下の四軒に水が行かなくなる。ルイスは王都にいた。冬の王都は舞踏会の季節だ。
わたしは代理で立ち会って、マルテさんと二晩、氷を割った。
一晩目、この人は「令嬢に何ができる」と言った。木槌を持たせてもらえず、わたしは灯りだけ持って立っていた。二晩目の明け方、氷が割れて水が下に落ちていく音を聞きながら、マルテさんはわたしの手のひらを見た。灯りの柄を握りしめすぎて、豆が潰れていた。
この人は何も言わずに、自分の手袋をよこした。
その手袋は、今もわたしの箪笥にある。
わたしは、上がった。
遺族の席に座ると、ハンナさんが隣に来て、小さな声で言った。
「爺さんね、あの冬から、あんたのことを『あの子』って呼ぶようになったのよ」
「……令嬢、ではなく」
「うちの人は、名前を覚えない人でね。呼び方が変わるのが、覚えたって印なの」
わたしは膝の上で手を組んだ。組まないと、みっともないことになりそうだった。
弔いが半分ほど進んだころ、外がざわついた。
ミレーユ・オルベール子爵令嬢が、真新しい喪服で立っていた。悪い人ではない。むしろ、こういう場に自分の足で来る度胸があるだけ、ルイスよりずっとましだ。
彼女は戸口で、行き場を探すように庭を見回した。
誰も席を空けなかった。
意地悪ではない。ただ、この家の誰も彼女を知らないのだ。どこに座らせればいいのか分からないから、誰も動けない。座る場所というのは、そういうふうにしか生まれない。
わたしは立ち上がって、庭の隅の縁台に彼女を案内した。
「ここでよろしいですか」
「……あの、わたし」
「大丈夫です。今日は、お顔とお名前を覚えて帰るだけで十分ですから」
ミレーユ様は膝の上で手を握りしめて、小さく頷いた。
帰り際、戸口の脇で若い男が膝に帳面を広げていた。テオドル・グレイ。隣領ハーグ辺境伯家の三男で、二十歳のときから長老会の記録役をしている。祝言でも葬式でも、いつも隅にいて、いつも同じ姿勢で書いている。
彼は羽根ペンを持ったまま、わたしを見上げた。
「今日は、なんと書きましょう」
いつもなら訊かない。七年間、彼は一度も訊かずに書いてきた。
「アイリス・ヴェルナン、と」
「代理は」
「ございません」
テオドルは少しだけ笑って、書いた。羽根が紙を擦る音が、やけに長く続いた。
◆
伯爵邸を引き払うのに、三日かかった。
荷物が多かったからではない。返すものを数えるのに時間がかかった。
夜会用の衣装が九着。宝飾が十二点。すべて伯爵家が誂えたものだから、置いていく。馬車は当然、伯爵家のものだ。部屋の家具も、寝台も、鏡も。
自分の持ち物として持ち出したのは、行李ひとつと、手控え帳が七冊だった。
手控え帳には、日付と名前と用件だけが書いてある。三の月十四日、ケルナー家、次男の祝言、贈り物は毛布。五の月二日、下の堰、板の交換、上三軒と下四軒で費用は六対四。九の月、レーヴェ婆さんの見舞い、目が悪くなっているので大声で話すこと。
誰が何を嫌がるか。誰と誰が口をきかないか。どこの家の犬が噛むか。
七年ぶんの、そういう帳面だ。
家令が部屋に来て、行李を見て、それから手控え帳を見た。
「……そちらは」
「わたしの字ですので、持ってまいります。写しが必要でしたら、お作りしますが」
家令はしばらく黙っていた。この人は、わたしに参会帳のことを教えてくれた人だ。
「アイリス様。写しがあっても、意味はございません」
「そんなことは」
「レーヴェ様に大声で話すことは、写せます。あの方が、なぜ耳の遠いことを他人に知られたくないのかは、写せません」
わたしは帳面を行李に入れた。
玄関でルイスとすれ違った。彼は「馬車を出そうか」と言い、わたしは断った。
「歩けます」
「意地を張るなよ」
「丘ひとつです」
本当に、丘ひとつだった。七年間、伯爵邸とヴェルナン男爵家の間には、丘がひとつあるだけだった。
◆
実家に戻って半月ほどで、わたしは自分がとくに困っていないことに気がついた。
ヴェルナン男爵家は小さい。持っているのは丘ひとつと羊が少しで、部屋数も伯爵邸の四分の一もない。父は「戻ってきたか」とだけ言って、それきり何も訊かなかった。
それでも朝には人が訪ねてくる。
三日目にヨナスが来た。水車小屋の男で、マルテさんの弔いでは庭の隅に立っていた。「堰の板を替えるんですが、上の三軒とまた揉めてまして」と、帽子を握り潰しながら言った。
「わたしはもう、伯爵家の者ではありませんよ」
「知ってます。だから来ました」
ヨナスは真顔だった。
「揉め事の仲裁に伯爵家の名前で来られたら、みんな黙るしかないでしょう。黙らせても、来年また同じことで揉めるんです。それじゃ意味がねえんですよ」
わたしは外套を取った。
その日から、来る用は断らなかった。
堰の板の割合は、六対四から五対五に直った。上の三軒が去年、下の畑の稲刈りを手伝っていたからだ。それを覚えていたのはわたしだけで、当人たちはもう忘れていた。
字の読めない老人が、証文を持ってきたこともある。畑を担保にした借用書で、利息の書き方が汚かった。わたしは声に出して三度読んだ。三度目で老人が「そりゃおかしい」と言った。おかしいと気づいたのは老人自身だ。わたしはただ、読んだだけだった。
祝言の立会人も二度務めた。伯爵家の代理としてではないから、上座には座らない。末席で酒を注いで、新婦の母親が泣き出したのを外に連れ出して、二人で暗いところに立っていた。
権威は何もない。ただ座って、聞いて、頭を下げる。
伯爵家にいたころとやっていることは、何ひとつ変わらなかった。
変わったのは、頼みに来る人がわたしの名前を呼ぶことだ。
◆
ルイスが丘を上がってきたのは、ひと月半ほど経った頃だった。
馬から降りた彼は、羊小屋の匂いに一瞬だけ顔をしかめて、それを隠した。隠したのが分かる程度には、わたしはこの人を長く見ている。
「話がある」
「どうぞ」
庭の縁台しかなかったので、そこに座らせた。彼は茶碗を持ったまま、しばらく丘の下を見ていた。
「ミレーユが、うまくやれていない」
最初の一言がそれだった。
「先週の祝言に出したんだが、誰も彼女に話しかけなかったそうだ。ケルナーの家では茶も出されたし、失礼なことも言われなかった。それなのに、用は何も頼まれずに帰ってきた。……あの子は泣いていたよ」
「そうですか」
「君なら、こんなことにはならなかった」
わたしは黙っていた。
「アイリス。戻ってきてくれ」
彼は縁台に茶碗を置いて、まっすぐこちらを見た。彼なりに真剣なのだと思う。
「婚約のことは、僕が浅はかだった。父上にも叱られた。……もう一度、前のとおりにやってくれないか。ミレーユのことは、きちんと片をつける」
前のとおりに。
その言葉が、なぜか一番はっきり聞こえた。
「ルイス様。ひとつ伺ってよろしいですか」
「なんだ」
「三年前の冬、水路が凍った晩、あなたは王都のどちらにいらっしゃいましたか」
ルイスは眉を寄せた。
「……覚えていない。三年前だぞ」
「わたしは覚えております。氷を割ったのはマルテさんとわたしで、二晩かかりました。マルテさんは去年の秋にも堰を直しています。その次の年に、あの人は死にました」
彼は答えなかった。
「あなたは、わたしに謝りにいらしたのではありませんね。困ったから、戻れとおっしゃっている」
「同じことだろう」
「違います」
わたしは立ち上がった。
「あなたが困っているかどうかは、あの人たちには関係のないことです」
ルイスは長いこと黙っていた。それから、思い出したように言った。
「……君は、変わったな」
「いいえ」
わたしは茶碗を下げた。
「七年、同じことをしております。変わったのは、あなたがそれを見るようになったことです」
彼は馬に乗って、丘を下りていった。振り返らなかったのは、たぶん優しさではない。振り返る習慣がないだけだ。
◆
秋の初めに、長老会の会合があった。年に二度の、席次を確かめる会だ。
わたしは呼ばれた。ヴェルナン男爵家の名代としてではなく、参会帳に名のある者として。
広間に入ると、上座から三つ目にわたしの席があった。ヴェルナン男爵家の格なら、本来は末から数えたほうが早い。
そして扉のいちばん近く、いちばん下座に、レンハルト伯爵家の札が置かれていた。
ルイスは、その札を見て動かなくなった。
「……これは、何かの間違いだろう」
長老たちは誰も答えなかった。答えるのは記録役の仕事だからだ。
テオドルが立ち上がって、帳面を開いた。
「席次は参会帳によります。この七年、レンハルト伯爵家として参会帳に載った回数は、二百十一回。うち、伯爵閣下ご自身が四十八回。ルイス様は──」
彼は指を止めた。
「三回です」
広間が静かになった。
「残る百六十回は、アイリス・ヴェルナン様のお名前で記録されております」
「代理だろう」
「代理でも、名は本人のもので書きます。この地方の決まりですので」
ルイスは笑った。悪い笑い方ではなかった。彼は本気で、これを事務の手違いだと思っていた。
「では書き換えてくれ。あれは僕の家の義理として果たしたものだ。彼女は僕の代わりに行っただけで、馬車も贈り物も、金を出したのはうちだ」
誰かが息を呑む音がした。
テオドルは帳面を閉じなかった。
「馬車をお出しになったのは伯爵家です。頭をお下げになったのは、アイリス様です」
「同じことだろう」
「違います。参会帳は、誰が金を出したかを記す帳面ではありません。誰が来たかを記す帳面です」
ルイスは、まだ分からない顔をしていた。
だから彼は、言ってしまった。
「くだらない。──水路番の爺さんの葬式が二百回あったところで、それが伯爵家の何になる」
わたしは、彼を見た。
彼の斜め後ろに、ヨナスが立っていた。長老会の下働きとして、水差しを持って。ハンナさんの、甥だ。
ルイスは気づいていない。彼にとって、水差しを持っている人間は部屋にいないのと同じだからだ。
七年、わたしが代わりに頭を下げてきたのは、この人たちにだった。
長老の一人が、ゆっくりと顔を上げた。この地方でいちばん古い家の当主で、耳が遠い。だから彼は、ほとんど何も言わない。
「記録役」
「はい」
「今の、書いておきなさい」
「……よろしいのですか」
「参会帳は、来た者を書く帳面だ。来なかった理由も、たまには書いておいたほうがいい」
羽根ペンが動く音がした。誰も止めなかった。ルイスも止めなかった。彼はまだ、自分が何を言ったのか分かっていなかったからだ。
「ルイス様」
わたしは立ち上がった。
「あなたの代わりに、七年、頭を下げてまいりました」
彼が振り向いた。
「その義理は、伯爵家にではなく、わたしに積まれております。──あなたが、そう決めたからです」
「僕が決めた?」
「面倒だから行かない、と。三年前の冬も、去年の秋も、あの朝も。全部あなたがお決めになりました。わたしは一度も、代わりに行けとは言われておりません。行かない、と聞いただけです」
ルイスの唇が動いて、止まった。
「……君が、行きたがっているのだと思っていた」
たぶん、本当にそう思っていたのだろう。そのほうが楽だから。
「ええ」わたしは言った。「途中から、そうなりました」
◆
会合のあと、ミレーユ様が廊下でわたしを待っていた。
彼女は少し痩せていた。
「わたし、あのお弔いのあと、九軒回ったんです。数えていました」
「……はい」
「どこでも丁寧にしていただきました。お茶も出ましたし、失礼なことも言われませんでした。……でも、誰もわたしに用を頼まないんです」
わたしは黙っていた。
「七年、かかるんですね」
「二晩の氷割りが、七年ぶん要ります」
ミレーユ様は笑って、目のふちを拭いた。
「ルイス様に、そう申し上げます。──たぶん、伝わりませんけど」
「伝わらなくても、九軒回ったことは残ります」
彼女は少しだけ、顔を上げた。
「参会帳に、ですか」
「ええ。あなたのお名前で」
◆
秋の終わりに、収穫祭の招待が来た。
ヴェルナン家の朝は早い。羊を出してから戻ると、卓の上に長老会の封蝋が乗っていた。
封を切って、宛名を見た。
七年間、この封筒に書かれていた文字を、わたしは覚えている。〈レンハルト伯爵家 御代理様〉。誰が来るかは、書く側にとってどうでもよかったのだろう。来るのは毎回、同じ人間だったのに。
今年の宛名は、こうだった。
〈アイリス・ヴェルナン様〉
紙を持つ手が、少し震えた。こんなふうに震えるのは、ずいぶん久しぶりだった。名前というのは、こんなに重いものだったのか。
その日の夕方、テオドルが丘を上がってきた。帳面を小脇に抱えて、いつもの通りに。
「届きましたか」
「……あなたが書いたのですか」
「宛名は、記録役が書きます」
彼は帽子を取った。
「七年、あなたの名前ばかり書いてきました」
風が羊小屋のほうから吹いた。彼の耳が赤いのは、風のせいではなさそうだった。
「はじめのころは、代理と添えるのが決まりですから、そう書きました。三年目の冬に、水路で二晩お会いしたときから、添え書きが手に馴染まなくなりまして」
「……三年目の冬。あなた、あの場にいらしたのですか」
「灯りを持って立っておられました。木槌を持たせてもらえずに」
わたしは招待状を胸の高さで持ったまま、動けなかった。
「そのあとの四年は、添えずに書ける日が来ればいいと思いながら書いておりました。──ずいぶん長い規則違反です」
丘の下で、ヨナスが手を振っている。堰の板の件だろう。ハンナさんの家の煙突からは、細い煙が上がっている。マルテさんが四十年守った水路は、今日も凍らずに流れている。
行く場所は、もうずいぶん前から決まっていたのだと思う。
「テオドル様」
「はい」
「書いてくださいますか」
彼は帳面を開いて、羽根ペンを構えた。
わたしは、息を吸った。
「アイリス・ヴェルナン。──代理は、ございません」




