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聖女を浄化しようとしている人がいる。物理で。

作者: 灯野ましろ
掲載日:2026/06/20

「リタさん! 聖女様に聖杖を構えないでください! なんで殴る気マンマンなんですか!?」

 

聖女を、物理で浄化しようとしている人がいる。比喩ではない。聖杖が、本当に振りかぶられている。

 

俺は王都教会の神官、ノア。今日の仕事は、聖女セレスティア様の大浄化儀式を無事に終わらせることだった。

断じて、辺境帰りの巡回浄化係の少女が、王都一の美貌と名高い聖女様を、聖杖で殴り浄化しようとするのを止める仕事ではなかったはずだ。

 

「ノアさん」

 

その浄化係、リタさんは、やけに真面目な顔で言った。

 

「ヤツは、聖女様の奥にいます」

「何がですか」

「悪いものです」

「……聖女様の、中に?」

「はい。性根のあたりに、みっちりと」

「性根に、座標があるんですか」

「あります」

「ないでしょ。あと、聖杖で叩き出すものでもないでしょ!」

 

リタさんは、不思議そうに首を傾げた。手の中の銀の聖杖は、本来、神に祈りを捧げて瘴気を浄化するための聖具だ。

 

少なくとも、腰を落として握り直し、踏み込みの幅を爪先で確かめる道具ではない。

 

祈りの構えではなかった。神に捧げるのではなく、相手に叩き込むための構えだった。

 

「悪いものは、奥に入るほど出しにくいです。沼の主のときは、岩が四百個でした。聖女様は人ひとりぶんですから、三十個もあれば足ります」

「聖女様を埋める単位で見積もらないでください」

「辺境では、常識ですよ?」

 

辺境を何だと思っているんだ、と言いかけてやめた。この人の「常識」は、たいてい誰かの「最終手段」だ。聞いても、ロクな答えは返ってこない。ここ数日で、いちばんよく学んだことだった。

 

――と、いきさつだけ並べても、わけが分からないと思う。当の俺ですら、まだのみ込めていない。

神聖な大浄化儀式の、その真っ最中。俺は、聖女様へ振り下ろされる聖杖を、本気で止めにかかっていた。

どうして、こうなったのか。話は、その日の朝に遡る。

 

 * * *

 

ここは王都大聖堂、祭壇の裏。表の広間では、まもなくセレスティア様の大浄化儀式が始まる。王都中から、貴族も平民も関係なく、信者が詰めかけていた。

 

祭壇の横には、白い聖女像が立っている。その背後の壁は、ほかより少し厚い。

昔は小さな聖具庫があったが、改装で塞がれ、表向きはもう使われていないことになっている。ただ、図面には「点検用の隠し戸あり」と小さく書かれていた。俺も、神官になったとき図面でたまたま知っただけだ。

 

セレスティア様は、その聖女像の前で祈る。

金色の髪、純白の祭服。祈る姿はまるで絵画で、王都の誰もが、彼女こそ本物の聖女だと信じて疑わなかった。

 

でも、俺はこの数日で知ってしまった。

その奇跡の裏には、だいたいリタさんがいる。

 

セレスティア様に、神聖力がまるで無いわけではない。ただ、水晶がうっすら光る程度――蝋燭の火を吹き消すのがやっと、というところだ。広間を満たす瘴気を祓うには、まるで足りない。

足りないぶんを、彼女は裏方とからくりで埋めていた。

 

セレスティア様が優雅に祈る裏で、リタさんは祭壇裏を無音で走り回る。

セレスティア様が芝居がかって手を掲げれば、リタさんが鉄の聖櫃を抱えて運び出す。

セレスティア様が神々しく目を閉じれば、リタさんが呪物をバキバキに粉砕する。

セレスティア様が観衆へ優美に一礼すれば、リタさんが祭壇裏で、何かを地面ごと踏み固めている。

セレスティア様が慈悲深く微笑む頃には、リタさんがボロ雑巾になった悪霊の首根っこを掴んで黙らせている。

 

結果、瘴気はきれいさっぱり消える。大成功だ。

でも、そこが一番困る。俺が神官学校で習った聖務とは、何もかもが違う。

 

 * * *

 

「すみませんリタさん、念のため確認します」

「……なんでしょうか」

「いま脇に抱えている箱は、何ですか」

「浄化実演用の聖櫃です」

「中から、すごい音がしていますけど」

「今日の瘴気核です。悪霊っぽいものも混じっています。ついでなので」

「ついでで悪霊を入れないでください! お得じゃないんですよ!」

 

聖櫃の蓋が、内側からゴンッ、ゴンッと鳴る。蝶番がみしみし軋んでいる。リタさんは、それを何でもないように抱え直した。

 

「逃げようとしたので、押さえています」

「やり方が野蛮! 封印の札があるでしょう」

「無駄です。辺境では、こうしないと開きます」

「ここは王都です!」

「王都の封印札は、丁寧で良いです。辺境では、札を貼る前に逃げられるので」

「逃げ足の速い瘴気しかいない辺境って、何なんですか」

 

聖櫃の中で、オォオォオ……と、何かが低く唸った。

リタさんは蓋に顔を近づけ、一言。

 

「うるさい」

 

ピタッ。

嘘のように静かになった。

 

「……いま、何をしたんですか」

「言い聞かせました。二回目は、ありません」

「一回目で何をしたのか、聞きたいんですよ!」

 

進行表を握る手に、自然と力がこもった。今日は絶対に、胃が痛くなる日だ。

 

 * * *

 

リタさんは、王都教会所属の巡回浄化係だ。

本来は、瘴気の濃い辺境や、聖女が行きたがらない土地を回り、現場の穢れを浄化していた。瘴気は放っておくと広がり、流行り病や魔物の大量発生を呼ぶ。辺境の浄化は、本当は重要な聖務だ。

 

だが、王都での彼女の扱いは、ひどく軽かった。

神聖力を測る水晶は、リタさんに触れられると判定に迷う。う〜っすら光るだけで、最低限に届くか届かないか――それくらいの神聖力だ。

 

ではなぜ、そんな彼女が辺境の瘴気を片付けてこられたのか。

答えは単純で、戦闘力が異常に高いからだ。というより、力ですべてを捻じ伏せてしまう。

 

辺境の巡回記録を読むと、頭が痛くなる。

 

魔物すら近づけない別の瘴気の沼は、村中の岩を投げ込んで埋めた。岩が足りず、最後は丘を一つ崩して足した。

畑を腐らせる呪いの大木は、根ごと引っこ抜いて、近くの火山に捨てた。

墓地から這い出す百体超のゾンビの群れは、二度と這い出せないよう、再生不能なくらいバラして墓地に戻した。

瘴気を吐く邪竜には、まず「うるさい」と言った。通じなかったので、顎を蹴り上げ、聖杖でしばき倒した。

記録の最後には、几帳面な字でこう添えてあった。「※竜は浄化後、なつきました」。なつかせるな、と思った。

 

神官学校の浄化手順書に、竜の顎を蹴り上げる工程は、どこにも書かれていない。

こんなものは浄化じゃない。どう見ても討伐だ。

 

だが――結果として、瘴気は消えている。

村人の体調は戻り、翌年は麦が実った。ゾンビは出なくなり、邪竜はあれ以来ずっとおとなしい。

 

だからリタさんは、本気で信じている。

自分のやっていることは、聖魔法だと。

 

あんなのが聖魔法であってたまるか。

納得はしていない。だが、瘴気は毎回ちゃんと消える。文句のつけようが、どこにもない。それが、いちばん困る。

 

そんな彼女がなぜ王都にいるのか。

セレスティア様の父――王都教会で強い発言力を持つ枢機卿が、半年前、辺境から呼び戻したからだ。

 

『セレスティアのため、儀式を必ず成功させよ』

 

たぶん枢機卿は、「娘の奇跡を裏で支えろ」という意味で命じた。

けれどリタさんは、少し違う受け取り方をしている。

 

セレスティア様のためになること。

つまり――悪いものがあるなら、取り除くこと。

たぶん、そこまで含めて聖務なのだ。

 

枢機卿は、そこまで命じたつもりは絶対にないと思う。

だが問題は、リタさんが本気でそう受け取っていることだった。

 

――もう一つ、前から引っかかっていることがある。

この半年、儀式を裏で支え続けてきたのに、リタさんの欄だけ、功績記録も報酬簿も、いつも空白なのだ。本人は気にしない。聖務だから、と言うだけだ。

だが、その空白は、誰かが意図して作っている。

 

上の人間の命令は、時々、現場でとんでもない形になる。

今回の場合――たぶん、聖女様が飛ぶ。

 

 * * *

 

「リタ」

 

舞台袖から、冷たい声が飛んできた。

白い祭服のセレスティア様が、こちらへ歩いてくる。表で振りまいていた清らかな微笑みは、もうない。扇で口元を隠し、リタさんを見下ろす。

 

「分かっているわね。わたくしが右手を掲げたら、いつものように聖櫃を裏口へ運ぶの。少しでも遅れて奇跡が失敗したら、あなたの責任よ。いいこと?」

「はい」

「フン。返事だけはいいわね。水晶も迷う程度の神聖力のくせに」

 

セレスティア様は鼻で笑い、扇の陰でちらりと壁の方を確かめた。自分でも気づかない癖のようだった。

 

「辺境帰りの泥くさい浄化係が、わたくしの奇跡を支えられる。光栄に思って、感謝なさい」

「聖務ですので」

「だいたい、その喋り方も気に入らないわ。もっと、こう、怯えなさいよ」

「怯えると、狙いが逸れます」

「何を狙ってるの!?」

「……その顔、本っ当に腹が立つわ」

 

リタさんは怒らない。反論もしない。

我慢しているわけではなさそうだった。セレスティア様に従っているというより、教会から与えられた聖務に従っているだけなのだ。地位も名声も、彼女はまるで気にしない。

辺境で沼を埋めるのも、王都で聖女様の裏方をするのも、リタさんの中では同じ。悪いものがあれば、処理する。それだけ。だからこそ、余計に怖い。いろんな意味で。

 

そのとき、ちょうど壁際の通路を、下働きの少女――ミイナが、水桶を抱えて通りかかった。まだ十二、三だろう。身寄りがなく、聖堂に拾われて寝床と食事をもらう代わりに、儀式のたびに祭壇裏を駆け回らされている。聖女様の「奇跡」を裏で支える雑事は、そのなかでも本来の務めの外――給金も出ない、ただの言いつけだった。

セレスティア様は、すれ違いざまに扇でその桶の縁を弾いた。水がミイナの足元に跳ねる。

 

「祭壇の前を、汚れた手で横切らないでちょうだい。穢れが移るわ」

「……っ、申し訳、ありません」

「謝るくらいなら、最初から目に入らないで。今夜の支度をしくじったら、明日の食事は抜きよ」

 

ミイナは俯き、桶の水をこぼさないよう足早に去っていった。震える指の関節が、白かった。

リタさんが、その背中をじっと目で追っていた。

人を見る目ではなかった。「悪いものを見つけたとき」の目だ。

 

「リタ。何を見ているの」

「……いえ」

「フン」

 

セレスティア様は満足げに扇を畳み、それから祭壇横――聖女像の背後の、塞がれた旧聖具庫の壁を、ほんの一瞬、気にするように見た。

すぐに視線を戻す。だが、リタさんの目は、もうそこを捉えていた。

 

「セレスティア様」

「なに」

「奥にも、あります」

「は? 何がよ」

「悪いものです。壁の奥が、少し騒がしいです」

「……お黙りなさい」

 

声が、いつもより一段低い。

 

「今日は王都中の有力者が集まっているの。ここで強い奇跡を見せれば、わたくしの地位は揺るがない。だから、今日の瘴気核は濃いものを使うわ。薄い煙では、奇跡も地味でしょう? 見栄えが必要なのよ」

「お待ちください」

 

俺は儀式監督として、思わず口を挟んだ。

 

「浄化実演用の瘴気核は、安全濃度を守るべきです。万一、制御が外れたら――」

「神官風情が、わたくしに意見するの?」

 

睨まれただけで、足がすくんだ。俺は儀式監督を任されているとはいえ、いち神官だ。本来、聖女様と顔を合わせることすら、できない立場なのだ。

 

「……いえ。ただ、手順の上では」

「フフッ。手順?」

 

彼女は美しく微笑んだ。広間に向けるのと同じ形なのに、少しも温かくない。

 

「これまでだって、上手くいっているわ。民はわたくしを聖女と呼び、寄付も増えた。あの偉そうな貴族たちまで、わたくしに頭を垂れる。なら、もう本物と同じでしょう?」

 

その言い方には、焦りが滲んでいた。

たぶん彼女も、本当は気づいている。最初は、拍手役に手を回す程度の、小さな見栄だったのかもしれない。ただ、引き返すには、彼女はあまりに長く聖女でありすぎた。

 

セレスティア様は、表の舞台へ戻っていった。

その背を見送りながら、リタさんは聖櫃をギュッと締め直す。

 

「ノアさん」

「何でしょう」

「悪いものが、二つに増えました」

「……聖女様の性根のほかにも?」

「はい。さっきの壁、まだ騒いでいます」

 

勘弁してくれ、と思った。

だが、セレスティア様があの壁を気にしたのを、俺もはっきり見てしまっていた。図面にあった「点検用の隠し戸」のことが、頭をよぎる。あの奥に、何かある――そう思い始めている自分がいた。

 

 * * *

 

大聖堂の鐘が鳴る。開始の合図だ。

俺は祭壇横に立った。

 

広間は、人で埋め尽くされている。

最前列に高位貴族、その後ろに下位貴族、大商会の代表、高額寄付者、そして平民。

亡き夫の供養に祈祷料を納めたという老婦人や、壁際で不安そうに控える下働きの子たちの姿もある。

 

その老婦人は、すり切れた喪服の胸に、小さな祈り札を握っていた。隣の信者に、そっと話しかけている。

「先月、夫を亡くしましてね。最後の蓄えを、供養の祈祷料に。聖女様なら、あの人のところまで祈りを届けてくださると思って」

その声は、誇らしげですらあった。俺はなぜか、目をそらしてしまった。

 

祭壇奥の来賓席には、普段の儀式には出てこない大司教様までが臨席していた。それだけ、今日が重く見られているということだ。

 

セレスティア様が微笑み、両手を広げる。

 

「皆様。本日、わたくしはこの王都に残る穢れを、聖なる祈りによって清めてみせましょう」

 

わあっ、と歓声が上がった。皆、奇跡を待っている。

俺は進行表をもう一度確認した。

 

第一鐘、聖女登壇。

第二鐘、祈祷。

第三鐘、封印解除。

第四鐘、リタさんが聖櫃を搬出。

第五鐘、香炉に点火。

 

ここまで進行表どおりに行けば、俺の胃も無事に済む。進行表どおりなら。

 

「聖なる光よ。わたくしの祈りに応え、穢れを祓いたまえ」

 

神官たちが祭壇下の封印具を開く。黒ずんだ煙が、もわあっと細く立ち上った。

本来ここで、リタさんが聖櫃を裏口へ運び、俺の合図で香炉に火が入る。瘴気は白い香に包まれ、広間からは祈りで消えたように見える。見栄えのいい演出だ。

 

第四鐘に合わせて、リタさんは聖櫃を抱え、祭壇の陰から脇へ進み出ていた。あとは合図を待つだけ――のはずだった。

ところが、第四鐘になっても、セレスティア様が右手を掲げない。

俺は小声で呼びかけた。

 

「セレスティア様。第四鐘です。合図を」

 

彼女は俺を無視し、広間へ向かって高らかに宣言した。

 

「本日、わたくしは真の聖女として――補助などなくとも、奇跡を起こしてみせます!」

「……は?」

 

進行表を、落としかけた。

 

「そんなの、聞いてないぞ」

「私も聞いていません」

 

祭壇の脇で、聖櫃を抱えたリタさんが、同じ調子で言う。

 

「これまで、わたくしは愚かな補助係にも、情けで役目を与えていました。けれど、もう要りません。真の聖女に、雑用係など不要なのです!」

 

そう言って、セレスティア様は、祭壇脇に立つリタさんを扇でびしりと指し示した。

信者たちの視線が、一斉にリタさんへ向く。

 

「雑用係?」

「あの子、いつも裏にいる子じゃ……」

「聖女様の邪魔をしてたのか?」

「いや、あの箱、いま鳴らなかったか?」

 

聖櫃の中から、ゴンッ! と、さっきより大きな音がした。

リタさんは鬱陶しそうに、肘で蓋を押さえる。

 

「うるさい」

 

音が、止んだ。

 

最前列の貴族が、何かを察してサッと身を引いた。

気づかないふりをしていたのは、セレスティア様だけだった。

 

 * * *

 

「リタ。あなたはもう下がっていなさい。わたくし一人で十分よ」

「ですが、瘴気が漏れています」

「黙りなさい。これは演出よ」

「床石が、腐り始めています」

「黙れと言っているでしょう!」

 

セレスティア様が声を荒げた瞬間、祭壇下の封印具がギシリと鳴った。

黒い煙が、一気に噴き上がる。

 

最前列の貴族が、椅子を蹴って立ち上がった。悲鳴が上がる。

 

「おい、本当に瘴気じゃないか!」

「子どもを下げろ!」

「聖女様、早く浄化を!」

 

亡き夫の供養に銀貨を納めた老婦人が、祈り札を握りしめた。

 

「こんな危ないものを見せるために、お金を出したんじゃないよ……」

 

商会代表らしき男が、顔を青くする。

 

「うちの商会の名で寄付席を取っているんだ。事故でも起きたら、洒落にならん」

 

セレスティア様の顔から、血の気が引いた。

 

「せ、聖なる光よ! わたくしの祈りに応えなさい!」

 

煙は消えない。むしろ濃くなる。

 

「聖なる光よ! 早く! 早く応えなさい!」

 

広間の空気が変わった。感動していた信者たちが、ざわつき始める。

 

「光、出てないぞ。いつもの白い煙は」

「聖女様、手が震えてる。あれ、本当に祈ってるのか?」

「裏の子を下げたろ。あれが要だったんじゃ……」

 

俺は進行表を握りしめた。まずい。このままだと、本当に事故になる。

 

「リタさん、聖櫃を!」

「はい」

 

リタさんが動こうとした瞬間、セレスティア様が叫んだ。

 

「リタ! あなたのせいよ!」

「私ですか」

「そうよ! あなたが何かしたのでしょう! わたくしの奇跡を妨害したのね!」

「まだ、何もしていません」

 

それが問題なんですよ――と言いかけて、飲み込んだ。今は言い返すより、避難誘導が先だ。

 

「下働きの子たちは壁際から離れて! 香炉班、予備の聖布を!」

「勝手なことをしないで!」

 

セレスティア様の声が、鋭く飛んだ。

 

「前列の貴族席を、先に守りなさい。後ろの者たちは、自分で逃げればいいでしょう」

 

その瞬間、広間の空気が、もう一段冷えた。

 

壁際のミイナが、祈り札を握ったまま固まる。後方の平民席で誰かが息を呑んだ。貴族席ですら、数人が眉をひそめた。

 

そして、リタさんの目が、変わった。

 

静かだった。怖いくらいに静かだった。

辺境記録の「危険なものを見つけたとき」の顔とは、たぶん、こういうものなのだと思う。

 

「セレスティア様」

「何よ!」

「大変、申し上げにくいのですが」

 

リタさんは、聖櫃を片手で床に置いた。ドンッ、と重い音がする。

そして、聖杖を両手で構えた。

 

「やはり、悪いものがいます。奥です」

 

広間が、しんとした。

俺は恐る恐る尋ねる。

 

「リタさん。悪霊ですか」

「違います」

「呪いですか」

「違うと思います」

「では、何が」

「性根のあたりに」

 

俺は反論しようとした。したかった。

だが――セレスティア様が、足元に落ちた小さな金具を靴で踏んで隠そうとしているのが見えた。祭壇脇の壁を、何度も気にしているのも見えた。

 

いるのかもしれない。少なくとも、何かはある。

 

セレスティア様は怒りに顔を染め、祭壇横の儀式用の杖を掴んだ。あれは聖印を描くための杖だ。人に向けるものではない。

 

「まだ言うの!? あなた、わたくしのために動くよう命じられているでしょう!」

「はい。ですので――セレスティア様のために、悪いものを取り除きます」

「は?」

「奥です」

「壁の、ですか」

「両方です」

「待って、片方は人なんですよ!?」

 

俺の叫びは、間に合わなかった。

 

「この出来損ないが! わたくしの奇跡を邪魔するなら――」

 

儀式用の杖が、リタさんへ振り下ろされる。

リタさんが、半歩、沈んだ。

 

本当に勘弁してほしい。俺はもう、その身のこなしを知っている。

辺境記録にあった、邪竜をしばき倒したときの体勢だ。

 

――ああ、ここだ。

さっき、どうしてこうなったのか、と言った。その問いに、いま、追いついてしまった。今朝からの一日が、まるごとこの一瞬に集まっている。今度は、止める間もない。

 

「待ってください! それ、祈ってないでしょ! 完全に振りかぶってるでしょ!」

「聖魔法を、直接お届けします」

「宅配みたいに言わないで!」

「割れ物注意です」

「割るのは、あなたですけど!?」

 

セレスティア様の杖が触れる、その直前。

リタさんが、一歩、踏み込んだ。

 

聖杖の先が、セレスティア様の祭服の腰当てに当たる。

腹でも、顔でもない。厚い布と金具のある位置。そこだけは、冷静だった。

 

問題は、力加減だった。

リタさんが、ぽつりと言った。

 

「浄化します」

 

ドンッ、と、鈍い爆発のような音がした。

 

 * * *

 

白い祭服がひるがえり、セレスティア様が宙を舞った。

大聖堂の端までは行かない。だが、十分に飛んだ。本人なりには、かなり手加減したのだと思う。

 

セレスティア様は、聖女像の台座に背中から激突した。

衝撃で聖女像が大きく傾き、それを支えていた背後の壁ごと、めりっと押し込まれる。塞がれていた旧聖具庫の壁に、ひびが走った。

 

やっぱり、そこか。

リタさんは、最初からそこを見ていた。

 

『奥にも、あります』。

儀式の前、リタさんはそう言った。セレスティア様は『お黙りなさい』と、それを遮った。

黙らせたのは――たぶん、ここを見られたくなかったからだ。

 

壁がめきめきと崩れ、塞がれていたはずの隠し棚が露わになる。

そこから、金貨袋、座席札、白い粉の瓶、銀色の反射板――聖女の「奇跡」の中身が、ガラガラと雪崩のように落ちてきた。

 

広間に、水を打ったような奇妙な静寂が落ちた。

リタさんは、聖杖をゆっくりと下ろす。

 

「出ました」

「……何がですか」

「奥のものです」

 

最前列の貴族が、足元に落ちた札を拾い上げた。

 

「……『第三鐘の後、拍手開始』?」

「拍手?」

「こっちにもあるぞ。座席番号まで振ってある」

 

笑いかけた誰かが、途中で口を閉じた。

別の信者が、小箱を開ける。中の瓶を一本つまみ上げ、眉を寄せた。

 

「涙薬……『前列用』?」

「おいウソだろ。泣くのまで、仕込んでたのかよ」

 

そして、壁際にいたミイナが、床に転がった瓶をおずおずと拾った。

今夜しくじったら食事は抜きだ、と言われた、あの粉だ。言っていいのか迷うように何度かリタさんを見て――それから、小さな声で言った。

 

「……これ、いつも私が撒いてました。聖女様が祈ったとき、光って見えるように。後で、リタさんが片付けてくれてました」

 

ざわめきが、一段低くなる。

商会代表らしき男が、金貨袋を拾い上げた。封蝋を見た瞬間、顔色が変わる。

 

「これは……うちの商会の印だ」

「修繕費の寄付じゃなかったのか」

「帳簿を見ろ。『衣装装飾費』だぞ。聖堂の壁じゃなく、聖女様の服を直していたのか?」

 

怒声と困惑が、広間を埋めていく。

――その喧騒の中で、一人だけ、声を上げない人がいた。

 

喪服の老婦人だった。彼女は踏み荒らされた帳簿を一冊、震える手で拾い上げる。ゆっくりとページをめくる。そして、ある一行で指が止まった。

 

「……『供養祈祷料、衣装装飾費へ移動』」

 

顔を上げない。ただ、小さく繰り返した。

 

「私の、銀貨も……あの人の供養も……あなたの、お洋服に……?」

 

その一言で、広間のざわめきの質が変わった。

驚きではない。怒りだ。静かで、底の見えない怒りだった。

 

「おい、じゃあ今までの奇跡は何だったんだ」

「拍手する席まで、決まってたのか」

「泣く人も、仕込みかよ」

「後光みたいに見えたの、あの反射板じゃないか」

「聖女様、祈ってただけか?」

「祈りながら、合図してたんだろ」

「それは……指揮者では?」

 

俺は床に落ちた帳簿を拾った。手が震える。

そこには、儀式ごとの支出が几帳面に書かれていた。

 

白煙粉。涙薬。反射板磨き。拍手役謝礼。寄付金移動。

そして――『巡回浄化係リタへの未払い報酬、衣装費へ振替』。

 

帳簿の間から、赤い封蝋の押された羊皮紙が一枚、床に滑り落ちた。

王都教会、枢機卿の印。

 

俺は、すぐには声を出せなかった。

これを告発すれば、セレスティア様だけでは済まない。枢機卿に届く。彼女を聖女に祭り上げてきた王都教会そのものに、傷がつく。

俺は、いち神官だ。上の人間に逆らえる立場じゃない。

 

けれど――老婦人は帳簿を握って、泣きそうな顔をしている。

ミイナは、白煙粉の瓶を抱えたまま、唇を噛んでいる。

リタさんは、自分の報酬が衣装費に消えていたことを、たぶん、まだよく分かっていない。

 

だから代わりに、俺が腹を立てることにした。

この人は、辺境で沼を埋め、竜をしばき、ゾンビを片付けて、村の麦を実らせた。その全部が、誰かの服を飾るために、なかったことにされていた。

本人が怒らないなら、せめて記録には残す。それが、たぶん、儀式監督の最後の仕事だ。

 

 * * *

 

「セレスティア様」

 

俺は震える声で問うた。

聖女像の足元で、セレスティア様が身を起こそうとしていた。膝に力が入らないのか、台座にもたれたまま、動けずにいる。

 

「ゲホッ……な、何よ……」

「涙薬。拍手役への謝礼。反射板。白煙粉。寄付金の流用記録。それから――リタさんへの、未払い報酬」

 

俺は帳簿を握りしめた。

 

「説明してください」

 

セレスティア様は、口元を持ち上げようとした。いつもの、聖女らしい微笑みに戻そうとしたのだと思う。

けれど、頬が引きつっただけだった。笑顔には、ならなかった。

 

「ち、違うわ……それは、教会のため……。奇跡には、演出が、必要なのよ……」

 

絞り出すような、弱々しい声。

だが、群衆の中から、声が上がった。

 

「いま、『演出』って言ったぞ」

「俺の母ちゃん、あの奇跡に泣いて、なけなしの銀貨を出したんだぞ」

「拍手役に、うちの家名を勝手に使うな。巻き込むな」

「『演出が必要』だと?」

 

別の声が、低く重なる。

 

「演出で、人の涙まで売り物にして……それを奇跡だと言って、銀貨を取ってたのか」

 

セレスティア様は首を振ろうとした。だが、その動きだけで痛んだのか、台座に肩を預けたまま、顔を歪める。

 

「違う……違うの……。わたくしは、聖女よ……。皆が、わたくしを求めたの……。リタなんて、ただの、力仕事係じゃない……」

 

俺は赤い封蝋の羊皮紙を開いた。震える声で読み上げる。

 

「『巡回浄化係リタを、聖女セレスティアの儀式補助に回すこと。表向きの功績は、すべて聖女セレスティアのものとして記録すること』……枢機卿印の、命令書です」

 

その一文に、広間の空気が決定的に変わった。

奇跡は、仕込まれていた。功績は、奪われていた。それを、教会ぐるみで。

 

セレスティア様は、それでも笑おうとした。

誰かがまだ信じてくれると、思っていたのかもしれない。

だが、誰も笑わなかった。誰も、祈らなかった。

 

後ろの席で、平民の老人が、ぽつりと言った。

 

「あんた、さっき言ったね。後ろの者は、自分で逃げろ、と」

「……」

「言うとおりにさせてもらうよ。あんたから、いちばん遠くへ」

 

誰も、彼を止めなかった。むしろ、何人かが続いて席を立った。

壊れた聖女像の周りに、ゆっくりと空白ができていく。

 

そのとき――。

 

「……返してください」

 

人垣の中から、老婦人が一歩前に出た。

 

「それは、亡くなった夫の供養にと、納めたお金です。聖女様なら、きっと夫のもとへ届けてくださると……そう、思って」

 

胸元の祈り札を、握りしめている。

誰も、すぐには言葉を発せなかった。

 

セレスティア様の口元が、そこで、完全に止まった。

 

 * * *

 

そのとき、祭壇下の瘴気が、さらに濃くなった。

煙が床を這い、椅子の脚に絡む。信者たちが咳き込んだ。

 

「リタさん、瘴気が!」

「はい」

 

リタさんは、聖櫃を持ち上げた。

 

聖櫃は本来、瘴気を吸い込む道具ではない。近づけた穢れを、内側に封じるための聖具だ。

リタさんは、それを瘴気の噴出口にそのままかぶせた。そして、蓋を少しだけ開ける。

中から、押さえ込まれていた瘴気核が低く唸った。

 

「何をするんですか」

「まとめます」

「何を」

「そちらも」

 

何が「そちら」か、聞きたくなかった。

 

煙が、聖櫃の中へ吸い込まれていく。入りきらずに広がろうとした煙を、リタさんは聖杖で床石ごと押し込んだ。ごり、と音がする。

 

「いま、床を削りましたよね!?」

「溝を作ると、流れます」

「ここ、河川じゃないんですよ!」

 

やがて、瘴気はすべて聖櫃に収まった。

リタさんは蓋を閉じ、片膝をその上に乗せる。中から、どん、どん、と暴れる音がした。

 

「うるさい」

 

今日、三度目だった。いちばん暴れていた中身が、嘘のように黙った。

 

「……リタさん。怖くないんですか。あれだけのものを、たった一人で」

「いえ。だって、聖務ですから」

 

怖い、という発想が、最初からないらしい。

 

広間から、ぽつりと声が上がる。

 

「……消えた」

「あの子、本当に浄化したぞ」

「いや、詰めたんじゃないか?」

「詰めて消えたなら、浄化だろ」

「物は言いようだな……」

「そうなのか……?」

「少なくとも、いま、助かったぞ」

 

水晶も迷うほどの神聖力――セレスティア様は、そう言ってリタさんを笑った。

その、水晶も迷う神聖力が、たった今、広間中の信者をまとめて助けていた。

 

セレスティア様が、唇を震わせた。

 

「認めない……認めないわ。こんなの、聖女じゃない。こんな乱暴なもの、聖魔法じゃ……!」

 

その点だけは、俺も少し同意した。

だが、同意したくない部分もあった。

 

セレスティア様の祈りでは、瘴気は止まらなかった。

リタさんの腕力では、止まった。

 

その事実を、俺はどう受け止めればいいのか分からなかった。

 

 * * *

 

「俺は」

 

声を絞り出す。

 

「俺は、セレスティア様を、本物の聖女だと思っていました。民のために祈る方だと、信じていました」

 

一度だけ、声が詰まる。

 

「でも、これは違う。寄付金を流用して、拍手役を仕込み、リタさんに仕事を押しつけて、民をだましていた」

 

「黙りなさい! 神官風情が!」

「黙りません」

 

思ったより、声が出た。

 

「リタさんの聖魔法の定義には、だいぶ異議があります。でも――リタさんは少なくとも、本当に穢れを止めた。あなたの奇跡を支えていたのは、あなたが見下してきた人たちです」

 

誰かが、ぼそりと言った。

 

「物理でな」

 

別の誰かが「でも、助かった」とつぶやく。

 

セレスティア様は後ずさった。だが、背後には壊れた聖女像と、床に散らばった帳簿と小道具がある。逃げ場はない。

 

そのとき、祭壇奥の扉が開いた。

臨席していた大司教様が、とうとう表へ出てきたのだ。

白い眉を震わせ、床に落ちた金貨袋を拾い上げる。

 

大司教は、すぐにはセレスティア様を叱らなかった。まず、広間を見渡した。

貴族。信者。寄付者。下働き。商人。

もう、誰か一人を黙らせれば済む状況ではなかった。

 

「……セレスティア」

 

低い声。怒りだけではなく、諦めも混じっていた。

 

「だ、大司教様、これは違うのです。すべて、リタが――」

「壁の奥に隠していたものまで、リタのせいだと?」

 

セレスティア様は口を開けたが、言葉が出なかった。

 

商人が、金貨袋を掲げる。

 

「大司教様。これは、うちの商会が大聖堂の修繕にと寄付したものです。説明を求めます」

 

老婦人も、祈り札を握りしめた。

 

「私の供養料は、どこへ消えたんですか」

 

ミイナが、ぽつりと言う。

 

「リタさん、毎回、裏で走ってました。聖女様が手を上げるたびに、聖櫃を抱えて」

 

大司教は、目を閉じた。

 

「……すべて調べる。セレスティアの聖女認定は、ただちに停止する」

 

セレスティア様が、崩れるように膝をついた。

 

「流用された寄付金は返還する。リタへの未払い報酬も清算する。セレスティア、お前の衣装と宝飾品は差し押さえ、弁済に充てる」

 

「そんな……!」

 

「足りぬ分は、労働奉仕で返せ。穢れを出した者が、まず床を清めよ」

 

リタさんが、なぜか少し感心した顔をした。

 

「清掃も、浄化の基本です」

「たぶん今の話、そういう意味ではありません」

 

「お、お父様が……お父様が、黙っていませんわ……!」

 

最後の頼みのように、セレスティア様が父の名を出す。

だが、大司教は静かに首を振った。

 

「枢機卿については――この命令書および帳簿の照合のうえ、聖務会議にて審問にかける」

 

その言葉に、セレスティア様の肩が、びくりと震えた。

 

父の名を出せば、守られる。何かあれば、枢機卿の娘という一言で神官はうつむき、貴族は口をつぐみ、すべてが内側で握り潰された。たぶん、彼女はずっとそうやって生きてきたのだろう。

だが今回は、その名が彼女を守らなかった。それどころか、父をも審問の場へ引きずり出す札に変わってしまった。

証拠は、王都中の信者の前に転がっている。老婦人も、貴族も、下働きも、商会の代表も、全員が見ている。

握り潰すには――あまりにも、表に出すぎていた。

 

セレスティア様は、床に落ちた白煙粉の袋を見た。反射板を見た。拍手役の座席札を見た。

自分を聖女に見せていたものを、ひとつずつ見ていく。

そして、もう誰も自分に跪いていないことに、ようやく気づいた。

 

「わたくしは……聖女、なのに……」

 

その声は、もう、誰にも届かなかった。

 

大司教が、リタさんを見た。

 

「リタ」

「はい」

「今のは……聖魔法か」

 

広間中の視線が、リタさんに集まる。

俺は小声でつぶやいた。

 

「ここは慎重に答えてください。お願いします。本当に、お願いします」

 

リタさんは、少し考えた。

瘴気は止まった。旧聖具庫の中身は出た。セレスティア様も、これ以上は暴れていない。

リタさんの中では、たぶん、答えはひとつなのだろう。

 

「はい。聖魔法です。辺境式の」

「辺境式、便利すぎるでしょ!」

 

俺は、思わず叫んだ。

 

大司教は、長く沈黙した。やがて、深いため息をつく。

 

「……効果は、あった」

「大司教様、それを認めると、色々と終わります!」

「分かっておる。だが――瘴気は、もうない」

「事実が、強すぎる……!」

 

大司教は、こめかみを押さえた。

 

広間から、また声が上がる。

 

「でも、偽聖女の悪事は出たな」

「瘴気も止まった。そこは、認める」

「いや待て、聖女様が飛んだ件は、流していいのか」

「飛んだというか……飛ばされたというか……」

 

誰かが、言った。

 

「……あれ、もう『物理聖女』ってことで、いいんじゃないか?」

 

俺は、両手で顔を覆った。

 

「よくないです……よくはないんですけど……否定しきれないのが、つらいです……」

 

その日のうちに、セレスティア様の聖女認定は停止された。

寄付金の流用、儀式の偽装、巡回浄化係への報酬未払い。

旧聖具庫から出てきた帳簿と小道具は、神官が三人がかりで運んでも足りなかった。

 

なお、セレスティア様本人は、命に別状はなかった。

台座にぶつかった衝撃で気絶はしたが、目を覚ましてからは、しばらく「わたくしは悪くない」と叫んでいたらしい。

 

 * * *

 

数日後。

 

俺は、王都大聖堂の中庭で、リタさんと向かい合っていた。

 

大司教から、リタさんは正式に巡回浄化係として再任命された。

ただし、王都での扱いは変わった。これまでは裏方。これからは、正式な聖務担当だ。肩書きは、まだ決まっていないらしい。

 

老婦人の供養金は、返還されることになった。夫のもとへ、ようやく届く。

下働きの少女たちは、危険な雑事から外された。もう、粉を撒く子はいない。

ミイナは、リタさんに会うたび、深く頭を下げるようになった。リタさんは、その意味がよく分からないらしく、毎回、律儀に同じだけ頭を下げ返している。

リタさんには、未払いだった報酬が清算された。もっとも、本人は報酬袋を見て、こう言った。

 

「重いですね。中で、何か唸っていませんか」

「唸りません。お金です」

「……では、これは安全なものですか」

「リタさんにとっては、たぶん世界で一番、危なくないものです」

 

中庭の隅では、セレスティア様が床を磨いている。

豪華な祭服ではなく、簡素な作業着姿だ。衣装も宝飾品も差し押さえられ、寄付金の返還と未払い報酬の清算に充てられた。それでも足りない分を、彼女は労働奉仕で返していくことになった。

 

セレスティア様は、リタさんに気づくと、ぎろりと睨んだ。

 

「リタ……覚えていなさいよ。いつか、必ず、わたくしは――」

 

リタさんが、足を止めた。

 

「ノアさん」

「はい」

「まだ、残っています」

「何がですか」

「悪いものが」

 

俺は、一瞬で青ざめた。

 

「待ってください。ここは中庭です。旧聖具庫も、壁もありません。大司教様が、また倒れます」

「では、軽めに。壁一枚分で」

「壁を単位にしないでください!」

 

セレスティア様は顔を引きつらせ、慌てて床磨きを再開した。

 

「……は、反省します。反省、しますから」

 

リタさんは、うなずいた。

 

「出ました」

「今度は、何がですか」

「反省です。奥から出ました」

「奥にあるものほど、出しにくいんでしたよね」

「はい。今までで、いちばん奥でした」

 

俺は空を見上げた。雲ひとつない、よく晴れた日だった。

 

「リタさん」

「はい」

「お願いですから、せめて、先に祈ってください」

 

リタさんは、うなずいた。

 

「分かりました」

「本当ですか」

「祈ってから、お届けします」

「結局、届けるんですね!?」

 

大聖堂の鐘が鳴る。

リタさんが、聖杖を握り直した。

俺はその構えを見て、すぐに声を上げる。

 

「だからそれ、祈りの構えじゃ……」

「祈っています」

「目を開けて、踏み込まないでください!」

 

リタさんは、真面目な顔で答えた。

 

「辺境式の、祈りです」

 

王都の聖務は、これから少し大変になる。

けれど、悪いものはきっと減る。

 

たぶん。

 

物理的に。

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― 新着の感想 ―
悪いものは確かにこの場からは消滅してるけど、何処かに吹っ飛んでる(笑)ので巡回が必要なのですね。リタの巡回記をまた読めたら良いなと思います!
野生の動物って力関係見せられると従順になるやん?だからリタの力に屈して消滅したり大人しくなった瘴気もセレスティアも動物なんでは。
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