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リュカから注ぎ込まれた魔力が、私の体内に澱のように溜まっていたエドワード様の「魔導薬」を焼き尽くしていく。
あまりの激痛に、私は視界が白むのを感じた。意識の混濁の中で、私は遠い昔の、しかし鮮烈な記憶の底へと沈んでいった。
――それは、まだ「伯爵家」が誇り高く、庭に名もなき野花が咲き乱れていた頃の思い出。
当時の私は十歳。没落の影など微塵もなかったが、同時に「貴族の令嬢」としての窮屈な生活に、人知れず退屈していた。
そんな私の前に現れたのが、騎士見習いとして父に忠誠を誓ったばかりの、同い年の少年、リュカだった。
「お嬢様、またそんな格好をして。旦那様に叱られますよ」
木登りに失敗してドレスの裾を破り、膝を擦りむいた私を見つけて、リュカは呆れたように溜息をついた。
今の野性味溢れる姿とは違う、まだ線の細い、けれど瞳だけは真っ直ぐな少年。
「いいのよ、リュカ。ドレスなんて、ただの布だもの。それより見て、あそこの鳥の巣! 雛が孵りそうなのよ」
私が泥だらけの顔で笑うと、リュカは一瞬だけ、毒気を抜かれたように呆然と私を見つめた。
そして、自分の着ていた粗末な上着を脱ぐと、迷いなく私の泥を拭った。
「お嬢様は変な方だ。他の貴族の方は、泥なんて汚いって泣き喚くのに。あなたは、まるでお腹が空いた子供みたいに、新しいものを見つけるとすぐに飛びつく」
「失礼ね。でも、本当のことよ。私は、この箱庭の外にあるものが知りたいの」
あの日、私たちは夕暮れまで語り合った。
リュカは、自分がいつか立派な騎士になって、私を守るのだと言った。
私は、リュカが騎士になったら、一緒に世界の果てまで連れて行ってほしいと笑っていた。
リュカが私に向ける眼差しには、崇拝も、支配もなかった。
ただ、同じ地平に立つ人間としての、ひりつくような親愛。
彼は、私の「お嬢様」という肩書きではなく、泥にまみれて笑う「リリアーナ」という少女そのものに惚れていたのだと、今の私なら分かる。
けれど、彼が騎士団長に上り詰めた日。
彼は私に跪き、剣を捧げた。その瞳は、かつての少年のものではなく、分厚い「忠誠」という壁に守られた、一人の兵士のものになっていた。
「リリアーナ様。私は、あなたの剣となり、盾となります。……それ以上のことは、望みません」
その言葉は、彼自身への戒めだったのだろう。
身分違いの恋。騎士の誓い。彼は自分の熱い想いを、冷徹な忠誠心の奥深くに封じ込め、私を「遠くから守るべき対象」へと格上げしてしまった。
そして――父と母が事故で亡くなり、エドワード様が現れた。
エドワード様が私を「所有」し始めたとき、リュカは誰よりも早くその異常性に気づき、異を唱えた。
結果、彼は濡れ衣を着せられ、私の前から消された。
彼が去る間際、一度だけ私に向けた、あの張り裂けそうな悲しみと怒りが混ざった瞳を、私は一生忘れない。
「……リリアーナ様! 目を開けてください!」
リュカの鋭い声で、意識が現実へと引き戻された。
激痛は去っていた。代わりに、体が驚くほど軽い。胃の奥にずっとこびりついていた、あのねっとりとした甘い不快感が、綺麗に消え去っている。
「……リュカ。私、思い出したわ。あなたが、泥だらけの私の手を、一度も『汚い』と言わずに握ってくれたこと」
リュカは一瞬、眉を動かした。
仮面のような無表情の下で、かつての少年のような動揺が走ったのを、私は見逃さなかった。
「……そんな昔の話は……どうでもいい。……準備はいいですか。あいつが、来ますよ。……狂ったような速さで」
窓の外、遠くの森の向こうから、凄まじい魔力の波動が近づいてくるのを感じた。
冷たくて、鋭くて、すべてを凍りつかせるような、エドワード様の魔力。
彼は怒っているのではない。
「自分のもの」が壊れかけたことに、耐え難い不快感を抱いているのだ。
「リュカ。……私を、連れて行って。……今度こそ、箱庭の外へ。……泥にまみれてもいい、あの日みたいに」
リュカは何も言わず、私の腰を片腕で抱き寄せた。
騎士としての「忠誠」ではない。一人の男としての、守るべきものへの強い力が、私を支えてくる。
「……言われなくても。……そのために、地獄から戻ってきたんですから」
リュカは東の窓から、暗闇の虚空へと身を投げ出した。
崖下の急流が、私たちを飲み込もうと牙を剥く。
その瞬間。
北塔の扉が、凄まじい音を立てて粉砕された。
「――侵入者だ!!」
背後から響いたのは、これまで聞いたこともないような、衛兵達の絶叫。
それはエドワード様に忠誠という名の呪いを誓った、呪詛に満ちた咆哮だった。
私たちは、夜の闇へと溶けていく。
自由という名の、苦くて鋭い風を浴びながら。




