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あれから三日が過ぎた。
夜、扉の下の隙間から、一枚の小さな紙片が差し込まれた。
私は驚いてベッドから起き上がり、それを拾い上げる。
そこには、見覚えのない、しかし力強い筆致でこう書かれていた。
『満腹の後には、食後酒が必要でしょう? ――三日後の新月の夜、東の窓を。』
心臓が、大きく脈打つ。
エドワード様の完璧な統制に、穴が開いたのだ。
送り主は誰か。
これは罠なのか、それとも、私の叫びに呼応した誰かの助けなのか。
私はその紙片を、誰にも見つからないよう、ベッドの奥へ押し込んだ。
これこそが、私が求めていた「自由」なのかもしれない。
苦くて、鋭くて、生きている実感がする、自由への予感。
約束の新月の夜が訪れた。
空は、まるで誰かが墨を撒いたかのように、深く、濃い闇に包まれている。月明かりのない夜は、この国では「不吉の前兆」とされていたが、今の私にとっては、これ以上ないほどの祝福だった。
部屋には、微かな蝋燭の灯りさえ許されていない。私は暗闇の中で、支給された唯一の着替えである、灰色の簡素なチュニックを身に纏っていた。
心臓が、肋骨の裏側を早鐘のように打ち続けている。口の中はカラカラに渇き、手先は冷たい。
(……本当に、来るの?)
東の窓。そこは、北塔の中でも最も切り立った崖に面しており、下を見下ろせば、渦を巻く急流が岩にぶつかる音が聞こえるだけ。ここから逃げるなど、常人には不可能。だからこそ、見張りの騎士たちも、この窓の前を素通りすることが多かった。
カチリ、と。
静寂を切り裂くような、微かな金属音がした。
窓の外からだ。
私は息を殺して窓に駆け寄った。鉄格子の向こう、闇の中から、何かが這い上がってくるのが見えた。
「……リリアーナ様」
低く、しかしエドワード様のそれとは違う、ざらりとした声音。
現れたのは、全身を黒装束で包んだ男だった。彼は鉄格子に手をかけると、信じられないことに、魔術を使う気配もなく、腰に差してあったバールを取り出し、テコの原理で外した。どうやら型をはめているだけで、壁の中までは支柱が通っていなかったみたい。
「……あなた、は?」
私が問いかけるより先に、男は隙間から部屋へと滑り込んできた。背が高く、その身からは微かに硝煙と、雨の匂いがする。
「『食後酒』をお届けに上がりました。……お待たせいたしましたね」
男は顔を覆っていた布を外した。
現れたのは、エドワード様の完璧な美貌とは正反対の、野性味溢れる貌だった。左目の上には古い裂傷の跡があり、その瞳は、闇の中でも光を失わない、獰猛な狼のようだった。
「……リュカ」
私はその名を、呻くように口にした。
忘れもしない。かつて我が伯爵家がお抱えだった騎士団の、最年少騎士。エドワード様が我が家を「支援」し始めた直後、何の前触れもなく、公金横領の罪を着せられて国外追放された。
「お久しぶりです、お嬢様。……いえ、今は公爵様の『宝物』でしたか」
リュカは、皮肉めいた、しかし懐かしい笑みを浮かべた。
「あなたが、どうしてここに……? 横領の罪で、二度と国へは戻れないはずでは」
「ええ、表向きは。……あの潔癖症の公爵様が、私のような『不確定要素』をお嬢様の傍に置いておくはずがない。濡れ衣を着せられ、這う這うの体で国を追われました。……しかし、おかげで目が覚めました」
リュカは窓の外を見やり、舌打ちを一つした。
「あいつは、お嬢様を愛しているんじゃない。……自分だけの箱庭に入れて、眺めていたいだけだ。あなたが呼吸をしていることさえ、あいつにとっては『許可が必要な行為』でしょう? ……まったくヘドが出る」
リュカの言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
私が感じていた窒息感を、彼は的確に言語化してくれた。
「……私を、ここから連れ出して」
私は、リュカの黒い衣を掴んだ。
「このままじゃ、私は死ぬわ。……心が、枯れて、砂になって、エドワード様のコレクションの一部になってしまう。……たとえ、この崖から落ちて死ぬことになっても、ここにいるよりはマシ……」
リュカは、私の目を見つめた。
その瞳には、憐れみも、同情もなかった。ただ、対等な「人間」としての、強い意志だけがあった。
「勿論です、お嬢様。……しかし、その言葉、忘れちゃいけませんよ。外の世界は、あいつが言っていた通り、汚くて、残酷で、無慈悲だ。……だが、クソ高い宝石の代わりに、自分の足で歩く自由ぐらいはある」
リュカは腰から太いロープを取り出し、部屋の柱に括り付けた。
「公爵は、今夜は王宮の晩餐会に出席している。戻るのは深夜。……だが、あいつの『目』は、この屋敷の至る所にある。……特にお嬢様、あなた自身に」
「私に……?」
「気づいていないんですか? ……あなたが毎日飲まされていた、あの『食事達』」
リュカの言葉に、ハッとした。
エドワード様は、毎日、私に「体調管理のため」と称していた事を。無知な私は当初……喜んで受け入れていた。いま思えば……。
「あれには、微量の魔力が込められている。……あなたがどこにいるか、脈拍がどうなっているか、あいつがいつでも感知できるようにするための、『監視』代わりの薬だ」
「……っ!」
私は、自分の体を抱きしめた。
愛の言葉、贅沢なドレス、宝石。……そのすべてが、私を縛るための鎖だっただけでなく、私の体の中までも、彼は支配しようとしていたのだ。鳥肌が立ち、身震いが止まらなくなる。
「……だから、これから少し、痛い思いをさせ事になります」
リュカは、私の腕を掴んだ。
「……これから、あなたの体内の魔力を、強制的に『中和』する。……薬の効果が切れた瞬間、公爵は異変に気づくでしょう。……勝負は、そこからだ」
リュカが私の腕に手をかざすと、そこから熱い、何かが流れ込んでくるのが分かった。
それは、エドワード様の「甘い愛」を、焼き尽くすような、鋭い痛みだった。
「うっ……あっ……っ!」
私は声を殺して、呻いた。
全身の血が逆流するような、内側から引き裂かれるような痛み。
「耐えてください。……これを乗り越えなきゃ、本当の『自由』は味わえない」
リュカの声が、遠く聞こえる。
痛みの中で、私の中で何かが、プツリと切れる音がした。
――――
同じ頃。王宮の豪華絢爛な晩餐会会場。
エドワードは、国王の隣で、優雅にグラスを傾けていた。
彼の周囲には、その権力と美貌に取り入ろうとする貴族たちが群がっていたが、彼の心は、ここにはなかった。
(……リリアーナ。今頃、暗闇の中で、私の愛を求めて泣いているだろうか)
彼女を北塔に閉じ込めてから、三日。
彼は、彼女が「空腹」に耐えかねて、自分に許しを乞う瞬間を、今か今かと待ち望んでいた。
彼女が、自分の足で泥を歩きたいなどと、二度と口にしないように。
私の差し出す『食事』だけを、そして私の差し出す『愛』だけを、貪るようになるまで。
(……ん?)
突然、エドワードの胸元で、微かな振動がした。
彼が常に身に着けている、リリアーナの体調を感知する魔導具。……その反応が、唐突に、完全に消え失せた。
それは、魔導具が壊れたことを意味しない。
彼女が飲んでいた「薬」の効果が、外部からの魔力によって、強制的に遮断されたことを意味していた。
エドワードの瞳から、一瞬にして感情が消えた。
彼が持っていたワイングラスが、みしりと音を立てて、亀裂が入る。
「……公爵? どうかしたのかね?」
国王が不思議そうに問いかける。
エドワードは、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、再び、あの蕩けるような、しかし心の底まで凍りつくような微笑が浮かんでいた。
「……申し訳ございません、陛下。……少し、自宅の『黄金の鳥』が、籠の鍵を壊そうとしているようでして。……すぐに、戻らねばなりません」
エドワードは、跪いて一礼すると、そのまま会場を後にした。
彼の背後で、王宮の空気が、彼の放った殺気によって、凍りついた。
「……リリアーナ。……君は、本当に……お腹が一杯、だったんだね」
彼が、屋敷へと続く廊下を、疾風のごとく駆け抜ける。
「……ならば、今度は、二度と吐き出せないほど、濃厚な愛を、その胃袋に詰め込んであげよう」




