9 伯爵令嬢ベアトリクス・ハルヴァーテン②
ベアトリクス・ハルヴァーテン嬢は、勝ち誇ったようにあたしを見た。
「アベル。ディルクは病気じゃなくて、毒を盛られていたの。陰でそれを操っていたのが、カルパル・ウィルデッケ。リディアさんの父親よ」
「ちがいます! お父さまがそんなことをするはずない」
あたしはすかさず否定する。
アベルは眉をひそめて、あたしとベアトリクスの顔を交互に見た。
「報せでは、そんなこと聞かされなかったぞ。毒のことも、ウィルデッケのことも。父からの言伝だけだ。『帰って来い』って」
「旅の途中で誰かから聞いたりはしなかったの? 噂は広まっていたはずだわ」
「何も……」
アベルは両手を広げ、肩をすくめる。
「まあ、アベル、アベルったら。昔からそんな感じだったわね。親戚の子たちと遊んだ時のこと、覚えている? みんなで秘密の隠れ家に集まっているのに、あなただけそんな場所があることすら知らなくて。木に登ってすねて、お夕飯まで降りてこなかったわね」
「ひとりでいるのが好きなだけだよ」
「うふふ、あの時もそう言ったわ。あたくしね、あなたのそういうところ、嫌いじゃないの。強がりなところも、ちょっと抜けているところも。でもこれからはもう少し、警戒心を持っていただかなくては。旅人たちの噂話もよく聞いて……。あ、リディアさんはそのためにアベルに近づいたのかしら?」
「は? 何を言ってるんだ、トリクシー」
「都合の悪い噂をあなたに聞かせたくなくて、あなたに近づいたのかもしれないわよね」
「なん……ですって……?」
あたしは怒りで息が止まりそうになった。もうどこからどう否定すればよいのかもわからない。
「ばかなことを言うなよ、トリクシー! リディアと旅することになったのはたまたまだ。彼女が困っていたところをぼくが助けたのがきっかけなんだ」
「あら、偶然とおっしゃるの?」
「そうだよ!」
「イーヴォはそうは言わなかったわ」
それまであたしの隣で辛抱強く黙っていたアベルの従者を、ベアトリクスは指差した。
「言ってちょうだい、イーヴォ」
イーヴォは陰気な目をちらっとあたしに向けてから、口を開く。
「アベルさまは……騎士カルパル・ウィルデッケの娘を見てみたいとおっしゃり、わざわざ遠回りをなさいました……」
「な――」
あたしはアベルを見た。
アベルはしかめた顔を背けて、拳で自分のひざを叩く。
「なんでそれを言うかな、イーヴォ……」
「申し訳ありません、若さま。お家の一大事だと存じましたので」
「ほらこらんなさい、アベル。あなた最初から、ウィルデッケ親娘の策略にはめられてるんだわ」
「ちょっと待ってよ!」
あたしはたまりかねて声を上げる。
「お父さまとあたしの策略って? さっきから黙って聞いていれば、ひどい言いがかり!」
「そんなの決まりきっていますわ」
ハルヴァーテン嬢はすっと首を伸ばして、澄まし顔であたしを見下ろす。
「ノイエンフォルク家のお家乗っ取り。侯爵さまとの口約束を間に受けて、アベルとの結婚をたくらんだ。でもアベルが後継でないことがわかったので、ディルクを殺そうと毒を盛った。ちがう?」
「トリクシー!」
「ちがいます! 絶対にちがうわ! それを侯爵さまにわかっていただきたくて、あたしはヴィルダに来たんです!」
「アベルに色目を使いながら?」
「色目だなんて、あたし、そんな――」
「リディアさん。あなた本当に、アベルのこと何とも思っていないの?」
「…………」
「トリクシー……ベアトリクス! これ以上リディアを侮辱するな!」
「侮辱ですって?」
ベアトリクスは、白く美しい眉間に皺をよせる。次の瞬間、宝石のような大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「こんな夜に、なぜあたくしが馬車で街中を走り回っていたのか、わかってくださらないのね。とても心
配していたのよ。予定を過ぎてもあなたが到着しないから。あなたまで殺されたのかと思ったわ」
「大げさだな。ぼくのことなんて、誰も殺そうとは思わないよ」
「何もわかっていないのね。ディルクは体が弱っている。そして侯爵さまは狩に出かけられたまま行方不明。次に狙われるのはあなたなのよ、アベル!」
アベルの顔色が変わった。両手に顔をうずめてシクシクと泣いているベアトリクスの両肩をつかむ。
「父が、行方不明? いつから? なぜもっと早く言わないんだ、トリクシー!」
ベアトリクスは子どものようにしゃくりあげた。
「言えるわけないじゃない。陰謀の張本人かもしれない女がそばにいて、そんな恐ろしいこと……」
「――もう、沢山だわ」
あたしは狭い馬車の中で腰を浮かせた。
「あたし、降ります。さようなら」
「リディア、待った――」
「イーヴォ、扉を開けてあげて」
ベアトリクスが言った。
イーヴォは、戸惑ったようにベアトリクスの顔を見る。
「……いやしかし、ディルクさまの毒殺未遂や、侯爵さまの失踪にからんでいるかもしれないのに」
「いいのよ。あたくし、これ以上一秒たりとも、この人と同じ空気を吸いたくないもの」
「それはこっちのセリフですから!」
イーヴォが開けた扉を蹴破るほどの勢いで、あたしは馬車の外に飛び出した。
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