8 伯爵令嬢ベアトリクス・ハルヴァーテン①
あたしはふうぅっと息をついた。
アベルがあたしに言おうとしたことは、何となく察しがつく。
あたしも多分、同じ気持ちだ。
アベルが触れたあたりの頰が、ぼうっと熱くなっている。
あたしは広場の噴水に駆けていって、ガーゴイルの口から流れる水でバシャバシャと顔を冷やした。
と――。
楽しそうな祭りの賑わいとは相容れない音が、通りの方から響いてきた。
あたしは振り返った。
二頭立ての、ゴテゴテと飾り立てた馬車だ。
馬車はあたしを追い越すと、祭りの人混みから少し離れた暗がりで止まった。
片側のドアが開き、男が一人降りてくる。
馬車の中の人物と何かを話しているようだったが、やがてまっすぐにこちらに向かって歩いてきた。
こちらに向かって歩いてきた。
――え、あたしに向かって歩いて来ている?
「リディア・ウィルデッケ嬢ですね?」
男はあたしの前に立って、居丈高に言った。
「あなたは? 聞き覚えのある声だわ」
「イーヴォです。アベル様の従者の」
「……あ」
男の鼻のそばかすと、鋭い目つきは覚えがあった。怪我をしたオレクを村へ送ってくれた若者だ。その後はあたしたちを追って街道を来るはずだったが、なぜそこの馬車に乗っているのだろう。
「あ、アベルはお祭りの楽隊と――」
「存じております」
イーヴォは冷たく、あたしの言葉を遮る。
「今は、あなたに用があるのです。こちらに来ていただけますか?」
そう言うと、あたしの腕をつかんで、半ば無理やり馬車に連れて行こうとする。彼に押されて乗り込む際、扉にほどこされた紋章が見えた。
龍と、ブドウのような実を象った――ノイエンフォルク侯爵家の紋章だ。
◇
「ご苦労さま、イーヴォ」
鈴の音のような可愛らしい声がした。
馬車にいたのは、あたしとそう変わらなそうな年頃の、美しく着飾った令嬢だった。
赤みを帯びたブロンドの豊かな巻き毛が、ばら色の頰を縁取り、綺麗な顔立ちをより華やかに見せている。
「そして、あなたがリディアさん?」
「そう……ですけど、あなたは?」
踊りで乱れた町娘の格好では威厳もへったくれもないけれど、この美しい貴族の娘が妙にツンケンした態度なので、あたしもついつい強気に出てしまう。
「リディアさん、失礼ですよ!」
イーヴォが鋭い声をあげる。
「いいのよ、イーヴォ。田舎騎士のお嬢さんですもの、その辺の町娘と大差ないのよ。いいわ、直接名乗ってあげます。あたくしは、ベアトリクス・ハルヴァーテン。ハルヴァーテン伯爵家の娘です」
「はぁ……」
あたしはベアトリクス嬢の顔を見返した。彼女も、長いまつ毛をパチパチさせながらあたしの顔を凝視している。あたしがどんな反応をするのか観察しているのだろう。
「――で?」
「何が、ですか?」
「あたくしに何か言うことないの?」
「何を言えばいいんでしょう?」
あたしは両手を広げて問い返した。
本当にわけがわからない。ただ、この短いやりとりで、ベアトリクス・ハルヴァーテン嬢のことが大嫌いになった。それだけは明確だ。
「リディアさん。あなた、一緒に旅をしているのが誰だかわかっているの?」
「アベルのことですか?」
「アベル・マリア・フリードリヒ・アウグスト・ハビエル・エルンスト・フォン・ノイエンフォルク」
ベアトリクスは神妙な顔つきで一気に言う。
「……はい?」
「ただのアベルじゃないってこと。ノイエンフォルク侯爵家の血筋だもの」
「……えっと、その名前、全部覚えているんですか?」
「あたりまえでしょ。彼はあたくしの従兄弟なのよ」
「ひとつくらい間違ったりしてません?」
「うるさいわね。あたしとあなたとでは、身分が違うって言ってるの」
「そうですね……」
あたしは認めた。身分のことを言われたら、ぐうの音も出ない。
最初からわかっていたことだ。迂闊にも、今日は忘れかけてしまっていたけれど。
ベアトリクス嬢は「はあぁ……」と深くため息をついた。
「もう、あなたと話してると頭が痛くなってくるわ。イーヴォ。はやくあの人も連れて来てちょうだい」
「は……」
憂鬱そうな表情のイーヴォは、頭を下げて馬車を降りる。
ほんの少しの間、あたしは狭い馬車の中でベアトリクスと二人きりで向かい合った。ベアトリクスはあたしと目を合わせようともせず、フンフンと歌を口ずさんでいる。少し鼻にかかった可愛らしい声。だからといって、彼女の印象がサイアクなのは変わらないのだけれど。
ふいに馬車の扉が開く。アベルの姿がそこにあった。
「リディア! どうしてここに?」
あたしを見て驚きの声をあげたアベルは、続いて奥の座席の令嬢に気付き、こぶしを細いあごに当てて考え込んだ。
「いやねぇ、アベル。あたしよ。覚えてないの?」
ベアトリクスは鼻にかかった声をあげる。
アベルははっと眉を上げた。
「ああ、あのトリクシーか。大きくなったなぁ」
「あら。あたくし、もう大人よ」
ベアトリクスはあたしの隣に座ろうとしたアベルの腕を引っ張り、強引に自分の横に座らせた。
「やだぁ、あなた埃だらけ」
「長旅だったからね。さっきまで街の人たちと騒いでいたし。汚れるから触らない方がいいよ」
「後で手を洗うからいいわ」
ベアトリクスはアベルにしなだれかかり、ちらっとあたしに目をやる。
「あの、どういうことです?」
あたしは訊ねた。
「ごめん、リディア。紹介が遅くなって。こちらは――」
「いいのよ。あたくし、もう自己紹介は終わったもの。ねぇ、リディアさん」
「ええ、まぁ」
あたしはうなずく。
「アベルの従姉妹……でしたよね?」
「そうよ、あたくしはアベルの従姉妹。それに、婚約者でもありますのよ」
「え?」
アベルが驚いた顔をしてベアトリクスを見た。
「だってあたくしはハルヴァーテン家の娘ですもの。ノイエンフォルク家との縁談は以前からの取り決めだわ」
「でもぼくは跡継ぎじゃない。次期当主は弟のディルクのはずだ」
「ディルクは毒であんな体になってしまったじゃない!」
「毒? 待ってくれ、トリクシー。ぼくにはわけがわからないよ。そもそも、なんできみがここにいて、リディアを馬車に連れ込んだりしている? 彼女は何の関係もないのに」
「あら、大ありだわ!」
ベアトリクスは声を荒げた。
「あたくし、あなたを心配して言っているのよ。予定より到着が遅れて、イーヴォの方が先に帰って来るし。途中でおかしな女を拾っただなんて聞くし」
「リディアはおかしな女じゃないよ」
「カスパル・ウィルデッケの娘じゃないの!」
あたしを横目でにらんで、ベアトリクスが言った。
「知ってるよ。それが何か?」
アベルは事も無げに言う。
「知ってたの?」
「知らないの?」
あたしとベアトリクスが同時に叫んだ。
「知ってたの? あたしがウィルデッケの娘だってこと」
「知らないの? ウィルデッケがあなたの弟に毒を盛った噂を」
アベルは、もう降参だ、という風に両手を上げた。
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