1 婚約破棄。待って、そもそも婚約だなんて聞いてない!
「――よって、ノイエンフォルク侯爵家のご長男と、騎士パスカル・ウィルデッケの娘リディア嬢との縁談は、なかったことにとの仰せです!」
あたしはぽかんと口を開けた。
使者の言葉が耳に入っても、意味がまったくわからない。
え? えんだん……っておっしゃいました? 今?
「ななな何と……!!!!!」
わが家の質素な応接ホールに、お父さまの大声がわんわんとこだまする。
「縁談は、侯爵さまとの約束だったはず。なぜいまさらそれを反故にーー!?」
お父さまは使者に詰め寄った。
使者は(オレに言われても……)なんて顔をしながら、「それはーー」と、説明を始める。
が、
「ちょっと待って。『えんだん』って、縁談のこと? え、あたし婚約してたの? まーーーーッたく、聞いてませんけど!?」
これ以上黙っていられなくて、あたしはお父さまの腕をゆさぶった。
そうなのだ。騎士パスカル・ウィルデッケの一人娘として生きてきたこの一七年、このあたしに婚約者がいるだなんて聞いたこともない。
「しかも、その事実を知ったのが、一方的に婚約破棄を言い渡された瞬間だなんて……!」
「リディア……すまない、実はわしも忘れておってだな……」
「忘れてたって……ああ、もう……これだから!」
あたしはため息をついて、お父さまの腕を突き放した。
こういう人だから、娘のあたしがしっかり生きていかなくちゃ、なのだわ。八つの頃にお母さまが亡くなってから、ずっとその気持ちで生きてきたのだ。
「――婚約破棄の件、承知しました」
諦めたあたしは、困り顔の使者に向き直って、淡々と返事をした。
「リディア!」
「いいのよ、お父さま。あたしだって、いきなり知らない人のお嫁になるのは嫌だもの。ええと、使者さん。そのナントカ候のご子息にお伝えくださいな。お互い自由でいましょうね、って」
「これ、リディア! 無礼だぞ!」
「ごめんなさい、お父さま。でも、あたしの身になってくださいな。いきなり見ず知らずの方から、覚えもない婚約について、一方的に破談を言い渡されるなんて。結婚もしていないのに傷モノになった気分だわ。こちらが慰謝料をいただきたいくらいよ」
すると、それまで黙って立っていた使者が、あたしたちの会話に割って入った。
「一方的に、ではありませんぞ。この手紙には書いてありませんが、侯爵さまは貴殿――騎士ウィルデッケ――に対してひどくお怒りになっておられます」
「!? どういうことですかな!?」
お父さまがまた大声をあげた。今度はさっきよりも太い声で、顔もずっと青ざめている。
「侯爵さまの後継と目されるご次男さま。ここ半年ほど体調を崩されて、寝たり起きたりの状態。元来お身体はお強い方ではありませんでしたが、あまりの急変。怪しいと思い、するとーー」
お父さまの喉がゴクリと鳴るのが聞こえた。あたしも息を潜めて使者の次の言葉を待つ。
「お食事に、毒がーー」
おお……!と、お父さまが呻いた。
「誰がそんなことを! 侯爵さまは……ご無事なのか!?」
「気付くのが早かったので、ご無事です。が、すっかり弱ってしまわれました」
「ああ、わしがお側にいれば、卑劣な下手人はすぐに成敗してやるものを!」
いまにも腰の剣を引き抜きそうな勢いだ。
が、そんなお父さまの闘志をくじく言葉が、使者の口から続いた。
「直接毒を入れた下手人はもう判明しております。ちょうど半年前に雇い入れた料理女で、聞けば、貴殿の領地から逃げ出した農奴の家族の一人とか。そんなわけで、侯爵さまのご領内では、貴殿の差金ではないかと噂する者もおるのです」
「馬鹿な! わしが侯爵さまのご子息に毒を盛るなど! 侯爵さまと私は歴戦の友として、まるで兄弟のように親しくお付き合いをさせていただいていたというのに」
「お父さまはそんなことをする人じゃないわ!」
あたしも思わず叫んだ。
ありえない、絶対に!
お父さまは昔は勇猛果敢な戦いぶりだったと聞くけど、普段は裏庭のお花を踏まずによけたり、畑を荒らすカラスを殺さずに追い払う仕掛けを村人と一緒に考えたり、とても優しいお人柄なのだ。
戦時でもないのに人を殺めるだなんて、しかも毒を盛るだなんて卑怯なマネは絶対にしない!
「どうですかな。親交があったと言っても、それは何十年も昔のこと。いまはこんな田舎で、特に手柄も立てずに燻っている。それに――」
と、使者はあたしに顔を向ける。
「慰謝料を欲しいくらいだと、おっしゃいましたな?」
しまった……!
自分の軽率さに腹が立つ。
でも、いちど口にしてしまった言葉は戻らない。
「婚約破棄をされても顔色ひとつ変えるどころか、そういう強欲なことをおっしゃるご令嬢がおられるのです。父であるご老体も、人の良いふりをして、内心では何を考えているのかわかったものではありませんな」
ノイエンフォルク侯爵家からの使者は、意地の悪い笑みを浮かべてそう言うと、あたしたちの屋敷から出ていった。
「ごめんなさい、お父さま! あたしのせいね」
「いや、リディア。おまえは全く悪くはないよ。謝らなければいけないのは、わしのほうだ」
「でも、お父さまの名誉を傷つけてしまったわ。ああ、余計なこと言わなければよかった」
「おまえが驚くのも無理はない。婚約のことを言っていなかったわしが悪いのだからな。さあ、厨房に行って、ワインでも飲もう……」
お父さまはよろめきながら、屋敷の奥へ入っていく。なんだか一気にお年を召されたみたいで、悲しくなった。
辺境の小さな領地の貧乏騎士とその娘だけど、今朝の今朝まで穏やかに幸せに生活していたのに。
あっという間にお父さまは騎士としての名誉を、あたしは結婚適齢期の娘としての評判を、汚されてしまった。
正直、使者の短い説明だけでは、何が起こっているのかわからない。
あたしはそういうのがいちばん苦手だ。自分の知らないところで起こった出来事に、穏やかな生活を振り回されるなんて。
――とにかく、情報を集めなきゃ……。
使者が去り際に残していった、侯爵からの命令書が床に落ちているのが目に入る。
紅い封蝋は、龍と、――ブドウかしら――何かの実をかたどった紋様が浮き出ている。ノイエンフォルク侯爵家の紋章だろう。
ああ、いやだいやだ!
一応、お父さまのご主君だけど、見ず知らずの、紋章も知らなかった貴族の子息と、事もあろうに結婚!?
なんてキモチワルイ!
それに、相手が田舎娘だからって、こんな失礼なやり方で一方的に破談を伝えてくるなんて、相手もろくなもんじゃない。きっと性格がねじ曲がっていて、それが容貌にまであらわれているに決まっている。
破談になって良かったんだわ!
それはそうと、なぜこういうことになったのか、お父さまを問い詰めておかなくちゃ。
その上で、お父さまの名誉を回復する方法を考えよう……!
「――さあ、お父さま! 一から説明してくださらない?」
手紙を拾って、厨房へ駆け出そうとしたときだった。
ゴトンッ……ドサッ……!
椅子が倒れる音とともに、年老いた家政婦の悲鳴が響いてきた。
「だ、旦那さま!? 大変です、旦那さまが……!」
お読みくださり、ありがとうございます!




