初任科
高校3年生になった僕は卒業後の進路を決める必要に迫られた。今住んでいる田舎町での就職先は限られる。大きな企業は無い。小さな会社は嫌だ。公務員が良いが町役場は強い縁故が必要。現状では一番なり易い警察官の試験を受けることにした。
僕の全国高等学校野球選手権大会県予選は、最初の試合で終わってしまった。さてこの先どうしよう。我が家に僕を進学させる余裕は無い。僕が国立の有名大学に進学できる学力でもあれば無理をしてでもということになるのかもしれないが、僕の成績は、悪くは無いが良くも無い。その上今通っている高校自体が旧制の中学校・女学校の系譜では無く、農業学校から新制の高校になった学校で、大学進学を目指す生徒があまりいないし、元々僕自身が進学をする気が殆ど無い。勿論準備もしていない。
家に農業で食べていける程の農地は無い。祖父と母が狭い水田と畑を耕し牛や豚を飼い、昔村役場の職員をしていた祖父の年金と、母が縫製工場の内職をして得た賃金で養ってくれた。離婚した父親が僅かながらの養育費をくれていた事も有ったらしいが、生きている内から送ってこなくなり、その後直ぐに死んでしまったらしい。
就職をしなければいけないが、地元にはろくな就職先が無い。公務員が良いと皆が言っているが、町役場も消防も町長や議員の縁故でなければ入れそうにない。僕の成績で一番近い公務員は警察官だが、これは母が喜ばない。僕の父親がろくでなしの警察官だったからだ。
しかしここしか無いと思ったので祖父の助けを受けて母を説得した。生計を立てるために、形振り構っていられないのは小学生の頃から分かっていた。田植、稲刈など農作業も出来るだけ手伝ってきた積りだ。同級生にも農家の子弟が多く、高校の部活も農繁期は家の手伝いのために休みになっていた。
この県の警察官採用試験を受け合格した。これで職にありつけたと安心していたがそれは勘違いだった。僕は試験に合格したが、採用候補者名簿に名前が載っただけで採用が確定した訳では無かったのだ。採用試験の会場で近くの高校の野球部員で顔見知りだった奴に会って、それ以後時々連絡を取っていたのだが、12月の中頃そいつの所に
『警察学校入学案内』
が来たのだが僕には来なかった。
年が明けても
『警察学校入学案内』
は来ない。就職担当の先生に申し出て確認をして貰ったのだが、分かったのは採用試験合格は即採用確定では無いという事だった。採用候補者名簿に名前が載っただけで、その後人物等の調査をして警察官に相応しいと認められた者だけに入校命令が来るらしい。
母にそのことを言うと、
「こういう事もあるかもしれないと思って受験に反対した。」
とため息交じりに言われてしまった。死んだ父親が警察官に相応しからざる行為を重ねていたことをその時はじめて知った。
母の行動は素早かった。結婚前に勤めていた会社の会長さんに面会し僕の窮状を訴えたみたいだ。母に父との結婚を強く勧めたのは当時社長だったその会長さんらしい。あまり乗り気ではなかった母に強く結婚を勧め、その結果母が幸せになって無いことを気にかけてくれていたらしい。現在跡を継いだ、会長の息子である現社長は県の公安委員をしていると聞いた。
母の不幸な結婚を知っていて、その原因が自分の父にあることを知っていたその人は速やかに動いてくれたらしい。県警本部に足を運び、自分が保証人になるから入校させるように言ってくれたので、3月に入ってやっと入校案内が届いた。
入校が決まってからその人にお礼を言いに行ったら、
身元調査をした制服警察官は死んだ父親と仲が悪かったらしい。
生きていて警察官だった頃の父に意地悪をされたり迷惑をかけられたり。
そんな奴の息子が警察官に成るなどとんでもないということで、採用は勧められないという報告をしていたらしい。
元々人事課にも父を知る人が居て、そういう親の子ということで採用の可否を考慮中だったところにその報告が来て採用保留になったみたいだ。
身内に共産主義者がいた場合は公安委員が身元保証をしても無理らしく、過激派だと絶対無理らしい。
父親が警察官不適格者だったというのは何とかセーフに判定を変えて貰えた。
4月1日の採用だったので前日の午後から警察学校に行き制服他給貸与品を受領したのだが教官達の態度がおかしい。僕にだけ他の者より当りがきついのだ。これは父のせいだと思ったが、黙って耐えるしか無かった。卒業が近くなった頃父の過去だけではなく、公安委員を使って決定を覆したことも原因になっていたことを知った。仮採用中に辞めさせるべき人物として扱われていたことも。
入校式には母が来てくれた。あまり居心地が良さそうでは無い。どうも教官の内の何人かは知っている人が居るみたいだ。
「此処に居たらこれから嫌な思いをすると思うが、自分で選んだ道だから辛抱しなさい。どうしても我慢できなければ辞めてもいいけど後のことは保証出来ん。」
と言われた。反対を押し切って選んだ道だからと自分に言い聞かせて、
「最後まで頑張るから心配せんで良いよ。」
と言いはしたが、不安が表情に現れてはいなかっただろうか。
警察学校の訓練は元から結構厳しいものなのだが、僕達の期は僕を排除するために更に厳しいものになっていたらしい。忍耐力に欠けすぐに逃げていた父親の遺伝子を持つ僕が、厳しさに耐えかねて辞めるのを期待した様だ。知らずに一緒に訓練を受けていた同期生はいい迷惑だったろう。でも後が無い僕は必死に耐えた。僕以外の罪が無い初任科生で、訓練の厳しさに耐えかねて辞めていった者が何人か出た。でもこの厳しい訓練のお陰で、僕達の期は根性抜群の期として評価されているらしい。
最初の方の訓練は走らされることが多かった。入校して3日目には冬の制服に、まだ貸与されていなかった拳銃と警備靴以外の装備品を全て着装して12時50分に集合し、各個教練を実施した後13時15分頃から教官がグランドにある大時計を指し、
『短い針が2の所に来るまで走ります。』
と言った後グランドを延々周回させられた。号令調整で足並みを揃え隊列を崩さずに。僕は高校で部活をしていて結構ランニングをしていたし、部活を引退してからも家で農作業の手伝いで体を動かし、入校に備えランニングや筋トレをして来たので最後まで落伍しなかったが、運動が苦手そうな奴で15分持たずに脱落した奴もいた。
入校後少しして編み上げの警備靴が支給され教練の時間はその重い靴でする様になり、制服での訓練だけでは無く出動服での訓練も始まった。段々お日様が高く廻りだして気温も上がっていく中で、長袖の出動服に防炎マフラーを首に巻き、機動隊用のヘルメット・籠手・脛当・警棒を着装し、大楯を携行しての1時間走などという訓練もあった。
僕達には同じ日に入校した大卒の期があり、高卒が1年の訓練なのに半年で卒業する。カリキュラムが違うので、柔道・剣道の時間が被ることは有るがその他は別の時間に訓練を受ける。座学の時間中その期が教練の授業を受けているのを窓から見ると、どう見ても僕達の訓練より緩い。僕以外の同期生も気付いたみたいだ。
柔道・剣道の訓練も、僕達は訓練の最後に兎跳びで道場5周などというきつい最後が決まりだったが大卒の期にはそれが無い。何故なんだろうと皆同じことを考え始め、日頃教官にきつく当たられている僕のせいではという話が出始めたが僕は知らぬ顔以外しようが無い。
最初の脱落者が出て、迎えに来た親と一緒に去っていった。そいつは結構皆から嫌われていた奴だったからまだ良かったのだが、次の脱落者は人気者だったので、僕のせいではという話がまた出だしたが、僕は知らぬ顔の半兵衛以外の手は思いつかなかった。
前の年中途採用された大卒の人達が7月頃現任科の生徒として入校して来た。中途採用で少人数の期なので柔道・剣道等術科の訓練は初任科と一緒にしていたが、
『自分たちが初任科の頃よりずっと厳しい』
と言っていた。その後半年を過ぎて日頃の締め付けがやや緩くなってからも、術科の訓練の厳しさは緩和されなかった。今更緩められなかったみたいだ。9月以降現任補習科として入ってきた昨年度採用の人達は、中途採用された少人数の先輩達以外は音を上げた人も多かったが、何故こうなっているのかは解らなかったみたいだ。
そういう事情だから他の初任科生にも何となく僕は要注意人物と認識されていたみたいだ。そのことに負けて自ら辞めたのでは相手の思う壺だと考え何とか耐えていたら、入校後半年を過ぎたごろから教官達の当たりが柔らかくなった。それに連れ同期生達も。それほど悪い奴では無いと分かって貰えたらしい。
そこらからは随分過ごし易くなり、宿泊登山訓練、宿泊研修等楽しい行事もあり初任科の生活が楽しみとなった。でも年が明けて、実務修習が始まると一寸不愉快なことも。一線の警察署には死んだ父親に不快感を持つ人が結構居て、僕は母の姓を名乗っているのに、それでも僕がろくでなしの息子だとバレている。僕が修習をさせて貰った派出所の主任さんも僕がろくでなしの息子だと知ってはいたが、
「親とお前は別人じゃ。儂は父親のことでお前を差別せん。」
と言ってくれ、言葉通りに皆と分け隔てなく接してくれて有難かった。
実務修習中には窃盗犯と無免許運転を検挙した。窃盗はオートバイ盗で、夕方交番前で立番をしていたらオートバイで通りかかった、僕より少し年上に見える男性を停車させ免許証の提示を求めたところ、免許証を見せかけた後いきなり逃走した。あれっと思ったがもうどう仕様もない。只オートバイのナンバーを控えていたし、僕が立っていた所の前の道路を見るとさっきの奴が免許証を落としている。それを見ると本籍地が僕の実家と同じ町内で、写真をよく見ると見覚えがあった。停車させた時『あれっ』っと思ったのだが高校の先輩だ。修習中の交番の先輩が翌日そいつの家に行って任意同行しオートバイ盗で処理をしてくれた。
手間を掛けたお詫びをしたら、
「いや、修習生の検挙実績は自分が計上できるので有難い。毎月のノルマが1件の窃盗犯検挙が転がり込んだんやから僕がお礼を言うよ。」
と言ってくれた。
「知っとる顔ならやりにくかろうから、僕だけでやっても良いよ。」
とも言ってくれたが、僕は被疑者とは高校の同窓というだけで、むしろ嫌な先輩だったので、
「勉強させてください。」
と言って、供述調書等処理の手順を横に付いて教えて貰った。特に名乗りは挙げなかった。でも向こうは気付いていたみたいだ。
その次の当務で無免許運転を検挙した。窃盗検挙の手順を教えてくれた先輩と、公園内の道路を徒歩で警ら名目の散歩をしていたら、植え込みの陰から原付バイクが出てきたので停車させた。免許証の提示を求めたら中学校の頃の同級生で、僕が育った町から少し離れた所にある工業科が有る高校に進学した奴だった。向こうも僕に気づき、
「久し振りやなー、制服着とるから分からんかった。」
等と、いやに馴れ馴れしく話しかけてくる。おかしいなと思っていたのだが、
「免許証を拝見させて頂けますか。」
と先輩が丁寧に言うと、
「いや僕はそこに居る土居君とは中学校の同級生でして。」
それ今関係無いやろうと思ったら、先輩は構わず、
「免許証を見せてください。」
「家に忘れてきました。」
「それなら免許証不携帯ですね。確認しますから氏名と生年月日をお願いします。」
渋々、氏名・生年月日を言ったので、先輩が
「合っとる?」
と聞いてきたので、
「名前は合ってます。生年月日は知らないけど年は辻褄合ってます。」
と答えた。
照会の回答が返って来たが、その氏名生年月日では運転免許証が確認できなかった。おかしいとは思っていたがやっぱり無免許か。就職前の春休み家から一番近い教習所で同級生達が免許を取っている時こいつの姿は見なかった。
先輩が目配せで、
『お前は関わるな』
と示してくれたので僕は少し下がった。同級生は恨めしそうにこちらを見ていたが知らぬ顔で先輩が赤切符処理をするのを待った。処理が終わった後また恨めしそうにこちらを見たがお門違いだ。
初めて捕まえた窃盗犯が高校の先輩で、初めて検挙した無免許運転が中学の同級生とは。派出所の先輩達から
『お前の故郷は犯罪蔓延地区か。』
とからかわれた。
初任科卒業を前にした3月半ば、久し振りに帰省した。警察署に配属された後のことなどを言っておく必要が有ったので。僕の顔を見た祖父が、
「お前の悪口を言って回っている奴等が居る。同じ町の同じ学校出身のくせに自分達を犯罪者にした。薄情な奴やと言うとる。」
そういう事もあるだろうとは思っていた。
「犯罪を犯したんやから犯罪者扱いされても仕方ない。」
と答えたら、そいつらの親達も、
『土居の息子は血も涙もない。不人情な奴でろくなもんじゃない。』
と言い回っているらしい。祖父は
「気にしていない。」
とは言ったが、田舎の狭い町のことだから気になら無くはないと思う。
その日の夕方地元に残っている高校の頃の仲間と、部活帰りに時々寄っていた店に集まった。未成年ばかりだが一寸羽目を外してビールも。そこでも犯罪者達のことを聞かれ、どういう内容のことを言っているか聞かされたので、その時のことを克明に説明し、悪意も加えて奴等のその時の言動を伝えた。僕が悪く言われる謂れが無いことも。狭くて話題の少ない町だからすぐに広まるだろう。
初任科卒業式の日が来た。数日前僕は、この県で一番大きな警察署に配属されると主任教官から聞かされていた。
「よく頑張ったな。」
と言われたが、今更そんなこと言う位なら苛め紛いの事を最初からするなよと思ったが、心の中だけに止めておいた。
母も卒業式に来てくれて涙を浮かべて喜んでくれた。入校式の日には避けていた教官とも少しながら言葉を交わし、
「息子さんはよく頑張りました。」
と言われたらしいが、
「辞めさそうとしていたくせに都合のいいことばかり言って。」
と僕が思ったのと同じ様な事を言っていた。
卒業式の後近い署からは迎えが来て、遠い署は学校の車で国鉄の駅まで送って貰らった後、制服で拳銃を着装し列車に乗り、着いた駅までその署の迎が来る。
もっとここを離れる寂しさみたいなものが有るかと思ったが、特に感じなかった。まあそれはそうか、9カ月後には現任補習科で帰ってくるし、その後も何度も専科で入校するところなのだから。
さあ明日からは一線の勤務になる。最初は新任教養だがすぐに独り立ち、半年後には年上だが大卒の後輩達がやって来る。
僕は父親の様にはならない!




