放火(後編)
本件の送致が終わり起訴された日に人事異動の内示があった。課長も石原部長も僕も異動は無かった。でも当直5班は定元部長と暴力犯主任が異動になった。定元部長は警察本部機動鑑識班、暴力犯主任は警察本部暴力特捜、転居を伴わない御栄転だ。班長が残ってくれたら問題ない。班ごとのバランスをとるため若干の組み換えはあるかもしれないが、刑事なり立ての雛である僕を欲しがる班は無い。強行、盗犯で石原部長を嫌っている者はそこそこいるらしいが、鑑識、暴力にはまず居ないとコーヒー好きの先輩が言っていたから代わりが来ても多分大丈夫だろう。
一課の送別会は内示がある前に、誰が代っても恨みっこ無しの『め〇ら送別会』ということで済んでいる。『め〇ら』は不適切な用語なので使ってはいけない言葉のはずだが、この世界では結構不適切な言葉を耳にすることが多い。いけないことだが仕事の相手が相手だからかな。取調室でも時々伏字必至の怒号が飛び交っている。特にマル暴の調べでは。宿直が一緒の暴力犯主任は、
「叩いて、しばいて、くらわして、おらび倒して、脅しあげて、その合間たまに頭撫でてやったら、そこだけであいつ等嬉しがるんじゃ。」
と恐ろしいことを当たり前の様に言っている。
強行三係にも2人転出する人が出た。一係と二係は合計3人。バカ係長は動いてなかった。残念。内示があった翌々日、三係と2人異動した鑑識と初捜第5班の合同送別会ということで若竹で飲み会があった。丁度その日は二係員が当直で、三係と鑑識に当直員が居なかったし、たまたま若竹に宴会が入っていなかったので。鑑識係員は初捜班の数より少ないので、鑑識係を配置できない班に盗犯係の中から元鑑識だった人と、鑑識専科に入校したことがある人が特別鑑識員として配置されている。この特別鑑識員は通称『特鑑』または『ニセ鑑』と呼ばれている。送別会の日は『ニセ鑑』の日だった。この飲み会は石原部長の御招待ということで開かれ、異動にも当日の当直にも該当が無かった送致係も招待された。当然課長も。でも石原部長、一係と二係は当然だが自分の初捜班も呼んでない。消息通の定元部長に尋ねると、
「班長と仲悪い。班員にも反りが合わんのが居る。お前の配置を優先して自分は敵が居る班に回った。まぁ、本人はたまに一緒に泊りするもんの中に合わんのが居っても全然気にせん。向こうも痛い目に遭うんは自分じゃいうのが分かっとるけんなんもせん。揉め事起こして暴力沙汰にでもなって、どっちもが辞めないかんなったりしたらわやや。石やん共倒れ平気やから。石やん辞めても悠々飯食える。儂等普通の警察官は途中で辞めたら土木の仕事くらいしか使い道が無い。」
当日は舞を貸し切りにしてママ以下舞のホステスさん達も全員集合。いつも部長主催の宴会は高級食材がふんだんに使われるのだが今日はまた一段と。女将さんが頑張って3月20日までが漁期の山陰のズワイガニを1人1杯用意してくれた。心配する必要は無いのかもしれないが、部長の出費を考えるとやはり心配になる。和子さんも来ていて目が合ってニッコリ笑ってくれたので僕は嬉し恥ずかし。
「お前何ボーッとしとんじゃ。あの若い子に見とれとったんか。」
と定元部長がちょっかいを出してきた。
「あ、こんな豪華な宴会流石の部長も負担が大きいんじゃないんかと心配で。」
とごまかすと、
「石やんこんなんで財布壊れたりせん。儂やったら蟹1杯で財布使い物にならんなるけど。」
「それにこれは一と二に嫌がらせじゃ。明日皆が豪華な料理で、綺麗なホステスが最初っから10人も来て、そのままホステスらの店で二次会やって全部石やん持ちやった言うたら、コーヒー1杯奢らんバカ係長のケチが目立つけん。」
成る程。でも比較するだけ無駄だと思われていませんかね。
若竹で美味しい料理とお酒を堪能した後は、一年一緒に仕事をした仲間と舞で楽しい時間を過ごした。例のパチンコ屋の専務さんもさりげなく舞に来て課長と名刺を交換している。遊技場は警察許可の対象だからかな。でも石原部長と親しいのは警察上層部との付き合いには妨げかも。今日来ている僕たち以外のお客さん達は皆石原部長と顔馴染みみたいで皆、身形がよくてそこそこの地位がある人達のように見える。石原部長の仕込みなのかも。
警察官も石原部長の知り合いらしいお客さんも一緒になって飲んだ。定元部長と盗犯に知能が絡んだ宴会芸は大受けだった。楽しく騒いで明るく別れを惜しみお開きに。石原部長は警察官全員にタクシー代。転勤する人達には更に餞別。ホステスさん達には心付を渡していた。その原資はどうなっているんだろう。ママが全然心配して無いから問題無いのだろうけど。帰りがけ僕が和子さんと話をしていたら定元部長とコーヒー好きの先輩が寄って来て何やら意味ありげにニヤついて、
「ええのう、若いということは。儂等も若い頃はあったんやけど金も彼女も無しやった。」
「定兄ぃなんか『近寄るな!』言われて高校生の女の子に石投げられとった。」
「それお前じゃろうが!」
「儂は女の子から手紙貰うたことが有る。」
「それは石やんに渡してくれ言われただけじゃろうが。」
「そーやったかなー。」
帰りがけの皆が大笑いしている。最後まで楽しい宴会だった。
部長は4月1日の新体制の発足までは
『人手が足りん』
と言いながら、短い時間でも毎日午前・午後被疑者の調べをしている。日中時間が取れなかったら夜間でも。調べを中断して現場に行ってくれと言われたこともあった。
「起訴になったから、時間が無い時に無理に調べせんでもええんじゃないんですか?」
と聞くと、
「あいつ煙草吸いやから細目に出してニコチン補給ささんとイラつくんや。身勝手極まりない奴やから調べにくうなる。余罪うたわして調べカスになるまでは辛抱や。」
目的を遂げるまでは我慢が要るものなんだ。部長煙草の臭い大嫌いなのに。
4月に入ってからは余罪調べのピッチが上がった。最初はもう時効になっている従兄弟同士の事件について調べた。部長曰く
『時効になっている事件でもここから解明せんと皆が納得する犯行動機は説明できん。』
身内相手のことだし自分の悪事の暴露だから言いにくそうにしていたが、『時効』のキーワードをさりげなくそこらに散りばめると少しづつその頃のことを話し始めた。部長が煽てたり同情したりしながら聞いていくと、
『財産が減った時の父の怒りと怯え』
『自分の日常がが目に見えて貧相になっていくのに気付いた時の困惑』
等を少しずつ。部長は、
『そうか辛かったやろうのう。』
等と相槌を打ちながら深刻な顔をして聞いていた。僕はそれなら、
『手に職を付ければよかった』
『もっと勉強すればよかった』
等と思いながら、何でも他人のせいにする奴だと腹を立てながら聞いていた。
取り調べが終わって留置場に被疑者を戻し、調べ室の前の通路を通って課に戻る途中空いている取調室に入る様に言われ、
「調べ中は思うたことを顔に出すな。あいつは紙に『僻み・嫉み』いうてマジックで書いてパンツ穿かしたらでき上るような人間や。せっかくうたい始めたのに、あんたの表情に気づいて馬鹿にされた思うて黙ってしもうたら、言いとうもない世辞言うたのが無駄になる。改まらんようなら調べ室に入れん。」
言ったらすぐに僕を置いて自分の席に戻った。
先に言ってくれれば………と思いかけて、
『ここが僕の駄目なところか』
と考え直した。自分で考えろと前にも言われたじゃないか。自分がここでこう動いたら周りがどうなるか全く考えてない。張り込みに遅れたのだって遅れたことは悪いけど、
『事故があったから不可抗力じゃないか』
という気持ちが何処かにあった。
『もし事故に遭ったら』
と考えるべきだったんだ。
席に戻ると小さな声で謝ったが返事は無かった。言われた時不満そうな顔をしていたんだろうか。
『先に言ってくれれば』
と直後に考えたくらいだから不満そうに見えたのかも。自分でも分からなくなった。
部長は当直だったので午後5時頃支度をして1階に下りて行った。皆が帰り支度を始めたので僕も帰ることにした。帰る前に挨拶をしようとしたらもう現場が有って出動した後だった。何かすっきりしないのでたまに行く焼き鳥屋にでもと思い繁華街に出ると、部長の同級生の専務さんに出会った。
「今晩は。」
と挨拶をしたら僕のことを覚えてくれていて、
「今日はひろは?」
と聞かれた。
「はい、今日は泊りです。帰るときに挨拶しようと思ったらもう現場に出てました。」
と言うと、
「あなたは今日は?」
と聞かれたので、
「そこの焼き鳥屋にでも寄って帰ろうかなと思って。」
と答えると、
「僕も今日は妻子がコンサートに行って家に居ないので、食事をしてから帰ろうかと思っていたんですよ。良ければご一緒しませんか。」
と言われたが、何を話せばいいのか分からないので丁寧に辞退するとそこらを察したらしく、
「僕はひろの中学生の時からの友人なので遠慮しなくても大丈夫ですよ。」
と言って腕を取る様にして同行を促された。
会った場所からすぐの所の寿司屋さんに案内された。綺麗な店で清潔な服装の店員さん達が、
『いらっしゃい、』
と気持ちの良い声で迎えてくれた。カウンターの中の店主らしき人に専務さんから、
「この方はひろの部下の方。」
と簡潔に紹介して貰った。名前を名乗ると職人さんは、
「そうですか、付いて仕事を?でも石原さん言葉が少ないから大変でしょう。」
と言われたがなんと返事をして良いか分からないので少し考えて、
「いえ、僕の察しが悪いので部長が困っていると思います。」
と答えると専務さんが笑いながら、
「ひろは口悪いけど悪い奴じゃないです。というよりも根は本当にやさしくて親切でよく気が付く人間だから。」
と言いながら、
「好きなものを注文してください。」
言ってくれたがこんな高級そうな寿司屋は初めてなので戸惑っていると、
「何かどうしても食べられないものがありますか。」
と聞いてくれ、
「いえ、好き嫌いはありません。」
と答えると、お任せで一通り出すよう頼んでくれた。店主はまず少量の鯛の刺身を、
「摘み代わりに。」
と出してくれ、
「寿司屋の刺身やから若竹の刺身とはちょっと違うかもしれんですよ。」
と言った。
「え。どうして僕がが若竹に行っていることが?」
と戸惑いながら言うと、
「石原さんうちにも時々来てくれるけどホームは若竹やから。」
「へー、ここと若竹では刺身の切り方、盛り付け方が違うんですか?」
「いや、そうでは無くて寿司屋は『仕事をする』いうてネタを熟成さして味を良くしようとするんです。うちは寿司屋の中でも歯ごたえよりも熟成後の味に重きを置いているんで歯ごたえを好む人にはどうだか。若竹も熟成はさすけどうちほどじゃないから。」
「僕親戚に海釣りが好きな人がいて時々釣りたての鯛を食べさせてくれるんです。けどこれまでもう一つ鯛の美味しさが分からなかったんです。でも若竹の鯛の刺身を食べて初めて鯛が美味しいと思いました。ここの鯛食べさせて貰えるの楽しみです。」
歯ごたえは物足りないけど味は凄く良かった。そのことを言うと、
「石原さんは薄造りをポン酢で食べるのが好きやけど出しますか?」
と聞かれた。どう返事をしようかと思っていたら専務さんが、
「出して。僕も食べたいから二人分。それと純米吟醸を冷酒で。」
少し酔った勢いもあり、
「中学・高校の頃の部長ってどんなかったんですか?」
と聞いてしまった。
「中学の頃から一風変わってましたよ。群れんかった。他人のすることに興味を持たないように見えましたね。体育の時間抜群の運動能力を見せるのにクラブ活動をしないし、いくら誘われても断っていました。でも周りの調和を壊すようなことはしませんでしたね。始業ギリギリに教室に入って、終業と同時に出ていっていました。」
「何となく分かります。」
と答えると、専務さんは笑いながら、
「相変わらずですか。でも僕はあいつからその頃受けた一生ものの恩義があるんですよ。」
と言って、食べながら・飲みながらその頃のことを話してくれた。
その内容は、
自分は中学の頃から成績が良くなかった。部長は抜群と言う訳では無かったが、勉強熱心には見えないのに160人程の学年で常に上位四分の一に入っていたと思う。特に仲が良い者も居なかったので通知表を見た者は居なかったが多分間違いない。
自分は高校に入るとますます成績が落ち、自分より下は居なかったと思う。地元の私立大学が無理かもしれないと自分でも思うようになっていた。先が見えず、どう打開して良いかも分からず只々不安だけが心の中を占めていた。高校2年の1学期の終業式の日渡された通知表を見て途方に暮れた。項垂れて教室を出ようとしたら、席が近かった部長が専務さんに声を掛け、
『一寸付いて来い。』
と言った。部長には何となく怖いというイメージがあったので、
『何か気に障ることをしたのだろうか』
『自分は殴られるんだろうか』
と思いながら付いて行ったら、
『お前このままでどうするんぞ?』
と聞かれた。意味が分からずおろおろしていたら、それは成績のことだった。部長は専務さんが学校の授業に付いていけず自分の進路に不安を持ち、どうしていい分からなくなっていることに気付いていた。
『日頃ずっと目が死んどる』
とも言われた。黙って下を向いていると、
『私立で良かったらそこそこの学校に入れるようにしてやるが?』
と言われたので目を丸くしていたら、
『お前は数学が全くダメでいくら時間をかけても改善の見込みは無いから国立は無理。私立文系の3教科に絞って自分の言う通りにすれば何とかなる。』
と言われ藁をも掴む積りで首を縦に振ったと言って、専務さんは盃を口にし遠い日を思い出すように、そして楽しそうに微笑んだ。
翌日から部長が今も住んでいる旅館の離れに通い始めた。夏休み中月曜日から金曜日の朝9時から夕方5時まで。昼食も部長が用意してくれた。完全に私立文系の受験に絞り、『英語』『国語』『日本史』だけを部長の指示通りに勉強した。部長本人は横で本を読みながら時々進捗状況を確認したり、週末にその週勉強したところを試験するための問題作りをしていた。
『自分は勉強せんでええの。』
と聞くと、
『俺は授業をちゃんと聞いとる。』
と言って本を読んでいた。
夏休みが終わり、学期初めの実力試験を受けたら英・国・日本史だけは手ごたえがあり、前よりはずっと点数が上がっていた。でもその他の科目は赤点だらけだったので落第を心配していたら、
『自分が私立のそこそこの所に合格させるから落第ささんとってくれ。』
と担任に交渉済みで了解を得ているとのことだった。部長は妙に担任に信用されていたのでOKが出たみたいだった。
その後新学期が始まってもずっと平日は夜8時まで部長の部屋で勉強し、週末は家で回答を切り取られた問題集を解いて月曜日部長に渡していた。冬休み以降の長期の休暇は、週末と休みの中頃を外しそれ以外はずっと部長方で勉強をした。休みの中頃と週末は部長が東京や京阪神方面の劇場や美術館に行くし、地元に居るときは競輪場に行くので自習しろと言われていたが、たまには連れて行ってくれた。1年余り経って高3の秋に模擬試験を受けたら私立難関校がBの判定になっていて自分でも驚いた。相変わらずそれ以外の教科は駄目だったけど。
専務さんのお父さんは高等小学校を出ただけで、戦後のどさくさに事業を始め、一気に成長させた人らしく大学入試の知識が乏しくて、国立一期校だけが優秀だと思い込んでおり私大目標の受験には納得がいかない様子だったが部長がお父さんを説き伏せたらしい。入試の結果は関東・関西の有名私大にいくつか合格し、最初は東京での学生生活をと思ったが、部長が関西の旧帝大一本で受験しそこに行くので自分も関西にと思い、関西では最難関と評価されている私大の商学部に合格していたのでそこに進むことにした。その頃には父も自分が入学手続きした大学が田舎の国立よりも高く評価されていると知り、周りの人からもそう言われ喜んでくれていた。それ以来父親は部長を下にも置かない扱いで接している。只いくらお礼をしたいと言っても物も金も受け取らない点には不満みたいだが。
そこまでしてくれたのに、恩がけることもなく常に淡々としている。大学生時代は一緒に遊びたいと誘っても以前の通り素っ気無いことが多かったが時々は、
『餌やってしもうた犬とは時々は遊んでやらないかんかの。』
等と憎まれ口をたたきながら誘いに応じてくれ、飲みに行ったり、部長が大好きな鉄道で、これも大好きなお寺詣でをしたり。その頃専務さんは同じ街にあった女子大に通っていた現在の奥さんと付き合い始め、奥さんの友人達も交え食事をしたり小旅行をしたり。二人とも小遣いには不自由していなかったので学生にしてはいい店に行けるし出歩く事も出来たので、一緒に遊ぶ女性達も喜ぶし楽しく4年間の学生生活が送れた。でも遊ぶばかりではなくちゃんと講義に出席し単位も修得した。
『でも部長大学中退したんでしょう?』
と聞くと、中退したのは卒業論文が通らなくてその単位だけが足りなかった。決して怠けたり成績不良だった訳では無い。卒論がが通らなかった訳は、指導教授との意見の対立で、指導教授と真っ向から対立する説を結論とする論文を提出したため突き返されて
『書き直せ。』
と言われたが
『卒業証書1枚のために膝は折らん。』
と言って再提出に応じなかったそうだ。
部長は節を屈してまで学歴に拘る気は無かった様子だ。生活のために職を得る必要が無い部長が警察に入ったのは、犯罪者を追い詰めて捕まえるということに興味を持ったからみたいで立身出世などという気は全く無いらしい。そして不愉快なことが有ってもこの仕事を続けているのは、気になる事件を解決できて無いからだと専務さんも聞いてはいるが、その事件がどういうものかは専務さんは知らない。専務さんは
『警察官を続けているのは、昔授業中上の空で目がうつろな自分が気になって世話を焼いてくれたのと同じく、単にそれを片付けないと気になるからといった程度のことかもしれない。それは足の裏に着いた飯粒を取らないと気持ちが悪い程度のことかもしれない。言いもしないし聞きもしない。でも高校2年生の1学期の終業式に突然声を掛けてくれたことを自分は一生忘れない。あのままだと大学に進めないか、進んでも三流・四流の私大だったろうし、そこを出て父の跡を継いだとしても人目が気になる自分は自信が持てない人生を送ることになっていたと思う。自分は学歴とか、世間体とか、そういうことで身を飾り、そういう事に頼らないと生きていけない弱い人間なんです。ひろはそこらも見抜いていて声を掛けてくれたんじゃないかと今思います。』
と言ってまた杯を干した。
何の不自由もなさそうな部長にも突き当たった壁はあったんだと思ったが、僕がそう思うだけで部長には別に大した事では無いのかもしれない。ついでに、
「この間専務さんやお知り合いの方舞に見えてましたけど、部長が連絡したんですか?」
と聞いてみた。
「あれは前の晩若手経営者の集まりがあってその流れで舞に行ったら、ママから翌日ひろがくると聞いたので顔を見に行っただけです。うちの奥さんもひろ絡みの話なら飲みに出ても何も言わないし。一緒に来た人達は学校の先輩後輩も居れば、僕の絡みでひろと知り合ってファンになった人達も居ます。ひろが呼んだ訳ではありません。」
「部長ってファンがいるんですか?」
「ええ、沢山いますよ男女共に。言葉少なだし、たまに口に出す言葉は結構辛らつだけど僕の周りの人達は皆ひろのことが好きです。うちの奥さんなんか大ファンですよ。それに妙に世の中を読むのが上手で僕達の事業にも的確なアドバイスをくれるし、相場を読む目も鋭くてみんなひろのおかげで株で儲けさせて貰っていますから。」
「じゃあ部長が僕達に気前よく奢ってくれるのは株ですか。」
「そうだと思います。うちは親父が終戦後、徒手空拳で稼いで作り上げた会社ですが、ひろの家は室町時代から続く家で、明治になってひろの曽祖父に当たる人が事業を起こし拡大し、祖父がそれを一層拡大し、お父さんがそれをうまく整理して経営からは離れるが、配当と利子だけでかなりの収入があるようにして、ひろはその収入を投資に回し、僕なんか比べ物にならない額を使っても元が減らないどころか増え続けているはずです。僕達と飲みに出ても、
『金は有るもんが払うたらええんじゃ。』
と言って僕達は財布に触らせても貰えません。」
「ほんと気前良いです。僕みたいな山奥の、子供が跨げるような狭い谷川の水に頼って米を作り続けた水吞百姓の小倅には信じ難いです。」
「良いんじゃないですか。ひろが身上潰して豪遊してるなら止めないといけないけど、全くそういう事はありませんから。親から貰った資産のある程度を投資に回し、その運用収益から税金等払った残りを翌年の生活と遊興費に回してるみたいだけど、1年分の運用収益の五分の一も使っていませんよ。多分ですけど。残りは元本に組み込むから翌年はもっと配当・利子が増える。本人は
『俺は一見キリギリスに見えるけど実は蟻なんや。』
と言ってますからね。蟻ほどコツコツ働いてはいないけど。学生の頃、座右の銘は
『濡れ手に粟』
なんて言ってた割にはすこぶる堅実です。」
その後は
「ここまで来てるから。」
と専務さんが言って舞に行った。二人でカウンターに座るとママが来て、
「珍しい取り合わせやね。」
と言って僕達の顔を見回した。僕が黙っていると、
「そこで会ったんで寿司屋に案内して、ここに黙って帰る訳にもいかないんで一寸。」
と専務さん。ママが、
「土居さん何となく元気無くない?」
「え、いやそんなことは。」
「でも明らかに普段と違うよ。洋美さんと何かあったの。」
「………。」
「一人で考え込んでも解決せんよ。」
「………部長に叱られたんで………。」
「そうなの。私が間に入るからどういう事だったのか教えて。」
「いや叱られるようなことをしたのは僕だし、全面的に僕に非が有るので何とか自分で解決して信用回復をします。」
「でも。」
「いえ、これは自分でやらんと駄目なことやと思うので頑張ってみます。」
「分かった。でも行き詰ったら言うんよ。」
専務さんが、
「ママ良く分かったね。」
「ああいう言葉足らずの下で働くことは大変やといつも思ってるから。」
それから暫く飲んで帰ることになった。田舎者の若輩者で警察以外の目上の人との付き合いをしたことが無いので、どうお礼を言うべきかよく分からなかったが精一杯感謝の気持ちを伝えた。
翌朝出勤していつも通りの手順で清掃等をしていたら部長が検房を終え戻ってきて、
「儂午前中、宿明けするから現場なかったら身柄出して煙草吸わしといて。一遍出たら入りたがらんし若い衆や思うてごねるかもしれんけど30分程度で。最初っから人呼び出しとるから煙草だけ言うとったらええ。」
と言って当直室に下りて行った。
朝礼が終わり宿明けに出る前、
「出すのは10時半ころ。11時に人呼んどるから言うて予防線張っといたらええ。事件のことは聞くな。逆にこっちの算段探られかねん。その頃現場が有ったらそちらを優先。」
と言ってから出て行った。
昼休みが終わるころ帰ってきて、
「夕べ舞行ったんか。」
と聞かれた、
「はい、道で専務さんに会って誘われたんで。」
と言うと、
「そうか。」
とだけ言って昼からの調べの準備をし始めた。何故分かったんだろう。ママと会ったんだろうか。自分の不始末でママを頼ったと思われるのは嫌だなと思っていたがそれ以上の話は無かった。
午後からの調べで部長は、掛け軸好きおじさんの家が燃えた件について調書を巻いた。時々、
「これは遠の昔に時効になった件やからなぁ。」
とか言いながら。被疑者も立件されない事件だと高を括っているのでスムーズに進んだ。僕は表情を殺しながら部長の推理が当たっているなと思ったが極力平静に。
翌日からは刀好きおじさんの家への放火について。1件うたってしまったら敷居が下がったのかこれもスムーズに話が聞けた。数日後には当時の行動、着火方法・状況についての詳細を調書にした。残っていた書類を詳しく見ている部長は、書類の状況に合うよう微妙・巧妙に道案内をしながら。横で聞いている僕は自分が将来調べ官になった時のため必死に集中して調べを見守った。その時思ったのは観客として見ていると要らない思いが頭に浮かびそれが顔に出るが、自分が調べているつもりで集中していると余計な考えが浮かばないという事だった。もっと早く気づけばよかった。
それが終わると、部長がこれが着火マンの仕業だと思うと言っていた事件の内の、4年余り前の件について調べに取り掛かった。これは時期が最近で時効に係らない件なので阿保たれも用心している。でもこれまでの、僕から見ても少し温いんじゃあと思った取り調べとはとは打って変わって、次から次にテンポよく質問・疑問をぶつけ相手に言い訳を考える暇を与えず短時間で落としてしまった。必死にその技術を盗もうとしたのだが今の僕では………。
4年前の件で阿保たれを再逮捕した。当人留置場に居るのに重ねて逮捕されて面食らっている。20日余り後には追起訴された。部長が居ない時僕が代わりに調べ室に出すが本人凄く動揺している。次いで6年前の件で調べをしたらいとも簡単に自供した。もうどうしようもないと諦めたのだろうか。この件も再逮捕して起訴して貰った。
部長が阿保たれの犯行の可能性があると言っていた事件の内時効に係っていない件を順番に追送検していった。気が付けば梅雨が明けてお日様が容赦無くなる季節が来ていた。もうすぐ高校野球の県予選の季節だ。去年は専従捜査で土・日も休みでは無かったので母校の応援に行けなかったが今年は行けるかもしれない。でも去年の4月1日に起こった放火殺人についてはまだ調べに入ってないのでこの先どうなることか。
阿保たれの身柄を取ってから5か月が経った。これまでやや大人しかったバカ係長がまた騒ぎ始めた。言い分は、
『一番肝心の昨年4月1日発生の放火殺人をうたわしてない』
『つまらん昔の火事を蒸し返すよりもそこをうたわせ』
『そこをよううたわさんのは刑事としての技量が足りんからだ』
といったことだ。
バカ係長はどうも日頃胡麻を擂り取り入っている、署長・副署長・刑事管理官に根回しをして取調官の交代を目論んでいるらしい。数日後署長が刑事一課にやってきて。課長と取調官である石原部長に
『強行一係長は事件発生時被害者の聴取担当であり本件の発生状況等を理解している。』
『強行一係長は死者の夫の無念を深く理解し何が何でも敵を取りたいという意欲が高い。』
『被疑者逮捕後4か月を過ぎたのに本件解明の目途は全く立っていない。』
『強行一係長の意見はもっともである。』
『よって取調官の交代をし本件解明に全力を挙げるべきである。』
というのが署長の言い分であった。
課長が石原部長に、
「署長はこう仰って居られるが部長の意見は?」
と尋ねると、
「署長の仰ることはもっともです。本官の能力不足によりご心配をお掛けして申し訳ありません。こうなりましては署長の御意見通りに取調官の交代も已む無きことと思います。ご意見ご尤もと思いますのでご指導に従わせてもらいます。」
周りの者は皆唖然としている。一係長とその腰巾着も。
署長が帰ると、バカ係長は勝ち誇ったように満面の笑みだ。部長はバカ係長に、
「この件については調べ自体して無いので引き継ぐことは無い。これまでの送致済みの件については控えを見てくれ。もう儂はこの件には関わらんから勝手にやってくれ。」
と言って自分の席に戻った。課長は何事も無かった様に無表情で自分の書類に目を通している。
終業時間がくると部長はさっさと片づけをして帰ってしまった。僕が戸惑っているとコーヒー好きの先輩が、
「土居、お前まさか石やんが尻尾巻いたじゃのと思うてなかろうの。」
と言って笑いながら小声で話しかけてきた。
「石やん素直に署長の指示に従う玉じゃない。何ぞ魂胆が有るに決まっとる。楽しみじゃのう。」
と言ってホクホクしている。
僕も部長が一筋縄ではいかず署長の指示に簡単に従うはずは無いと思うのだが訳が分からない。先輩が、
「お前ずっと一緒に居るんやから何ぞ思い当たる節は無いんか?」
「いや分からんです。」
「そーか、お前もまだまだやのぅ。」
そう言われても分からないものは分からない。
それから3日後、バカ係長が大きな声で
「前任者の調べが甘うて被疑者のしつけがなっとらんから調べにならん。」
と自分の係員に言うふりで皆に聞こえる様に大声で言っている。
「調べに出しても煙草吸うて帰るだけじゃ。『知らん』『分からん』『儂じゃない』だけしか言わん。」
とも。部長は黙って冷ややかにバカ係長を無視している。課長も同じく無視。三係も全員同じ。
帰りの時間が近くなってきたころ部長が、
「次の土曜午後一寸時間あるか?」
と聞いてきた。続けて、
「和子とデートの約束でもあるなら日を改めるが。」
「えッ、あの、その。」
不意を突かれて僕が慌てていると。
「どっちや。」
「いえ、約束はしていません。」
「こんな分かり易い被疑者ばっかりならバカ係長でもうたわせられるのにな。そしたら仕事終わったら2時間程。」
その日は12時30分になったらすぐに外に出た。部長が署の前の電停に行ったので黙って付いて行くと、最初に来た電車に乗り競輪場に一番近い電停で降りた。デイリースポーツを持っていたので多分そうだろうと思っていたら黙って競輪場の方に歩き部長が二人分の入場料を払って中に入った。入ると5レースの発売中だった。僕に1万円札1枚とデイリースポーツを渡し、
「儂は車券買うてくる。あんたは買うても買わんでもええ。買うなら1レース2千円までな。買い終わったら初めて来た時行ったバック側の観覧席に行く。」
と言って。
結局僕は千円分だけ車券を買って言われた場所に行った。部長は出走表だけを手にもって後から来た。レースはすぐに始まって、デイリースポーツの本命はゴールラインのずっと手前で行方不明。部長が当たったのかどうかは分からない。
「次のレース買うたらまたここに戻る。」
と言って立ち上がったので僕も後に付いて行った。途中払い戻しの窓口で結構沢山のお札を受け取って、迷うことなく次のレースの車券を買い元の場所に帰って行った。僕は当たりそうな気がしないのでパス。戻っていく部長の後ろをついていくと、元居た辺りに座ったので僕も。
「儂があっさり調べ譲ったんが不満か?」
と聞かれたので、
「はい、この件を解決すると言われて付いてきたのに。」
と答えると。
「もう解決した。」
と言われた。
「えぇ、一番肝心の事件が。」
「まだ解って無いんか。去年4月1日の火災の発生時刻・場所・状況全部言うてみい。」
と言われたので、
「発生時刻は午前1時頃、場所は新興住宅地の一角、一戸建て住宅の裏勝手口付近から出火、油類の反応。」
と答えると、
「あの阿保たれの犯行は?」
「発生は午後10時から11時半ころ、発生場所は同じ地区、そこに在った紙類に放火………。」
「発生した地区が同じやいうのは当たり前や、放火場所の状況を聞いとる。」
突然の叱責に僕は混乱してしまい答えられないでいると、
「阿保たれは道路から直接が殆どで1件だけほんの数メートル入った場所のことがある。4月1日の件は道路から家屋の壁と塀の間の狭いとこを通ってからやないと辿り着かん裏の勝手口付近に着けとる。阿保たれは油使うたことは一遍も無い。これも前に言うとるが阿保たれは人を困らすんと火が燃えるのを見て気分をすっきりさせるんが目的や、人が死んでしもうたら自分が捕まった時死刑になったら困るけん午後10時頃から午後11時30分頃の家人が起きとる時間に火を付けとる。多分起きとることを確認してからやっとる。4月1日の火事と重なることが有るか。」
「いや、前に部長が
『対象が親戚の家から他人の家に変わった。』
とか、
『これまで空家に着けたことは無いけど空家に着けてくれたら良いのに』
とか言ってたから手口が変わったのかもと思って。」
「手口が変わることは有る。それは必要があるから変わるんじゃ。人間かて獣捕ったり木の実拾うたりして生きてきたんが、より安定して命を繋ぐために百姓仕事始めたんや。必要があって狩猟・採取から農耕に変わったんや。人が寝入っとる深夜に火を着けるいうんはあいつにとってはやったらいかんこと、変えたらいかん事なんじゃ。自分が死刑にならんために。火の回りが早い油を使うんもや。家と家の間の奥まで入ったら見つかった時逃げられんなる。地元で顔を知られとるあいつはすぐ逃げられるとこにしか火を着けん。親族の家から他人の家になったんは恨みのある親族の家は済んでしもうた、二度目行こうにも塀で囲まれてしもうて行くに行けんなったからじゃ。儂が『空家でも』言うたんは、恨みの無い人を苦しめず、火を見て気持ちようなるだけの気分になったら空家でもええかもしれんと思うただけや。そうなって儂らが居るとこに火を着けたら手っ取り早ようてええのになという意味で、そうなると予想した訳やない」
「………。」
「支離滅裂に犯行形態が変わるんなら手口係は要らんし手口分類も意味を成さん。」
「………。」
「バカ係長がなんぼ阿保たれを責めても絶対うたわん。やって無いんやから。無理にうたわしたら冤罪じゃ。まあなんぼ責めても死刑が怖い阿保たれは放火殺人を被ることは無い。阿保たれがやった一連の放火はもう片付いとる。」
「ええ、それを言ってくれれば。」
「前に儂が言うてあんたも納得したことを忘れたか。『まず考えろ』言うたら『考えます』言うたやないか。巣を温めて口開けて餌貰うだけの生活をいつまで続ける積りや。」
「………。」
「儂はあんたに謝らないかん。
『2年間儂と一緒に仕事してくれたら一人前の刑事にする』
と最初に約束した事を守れる自信がのうなった。」
「いや、僕は新任刑事現任科でも書類作成は一番よくできとると教官が褒めてくれました。」
「小手先のことがなんぼ上手になっても意味は無い。事件検挙の端緒を取ってくるんが一人前の刑事や。その為には考えないけんのじゃ。自分の感を研ぎ澄まして、状況を正確に判断し、考えて考えて被疑者を追い込むのが捜査員の仕事じゃ。他人が挙げた事件の手伝いで型通りの書類が上手に仕上げられて喜ぶ奴は、儂には何が嬉しいのか解らん。」
「………。」
「結論を言うと、去年4月1日の件は別に被疑者が居る。来週からはそれを探す。容疑者はある程度の目星を付けとるが、これはデリケートなところがある相手なんで接触は儂一人でする。自分でも分かるじゃろうが今のあんたでは相手を警戒さすだけじゃ。着手するときは連れて行くがそれまでは三係の仕事をしといてくれ。このことは課長も了解済みじゃ。」
「えッ、そ、それ誰なんです。」
「また考えもせんといきなり質問か。」
「あッ、済みません………。」
「今日のこの話は課長と儂等だけの秘密じゃ。絶対に漏らすな。」
「はい。」
「今日の話はそれだけ。遊んで帰っても、このまま帰ってもどっちでもええで。」
「いえ、最終レースまで考えます。部長最終レースまで居られるのなら終わったら僕の考え聞いてください。」
「分かった最終レース済んだらここに来る。レース済んですぐ来たら外れ、時間掛かったら当たりで払い戻し受けた証拠じゃ。」
笑いながらホームスタンドの方に移動していった。
言われてからなら解るのだが確かに阿保たれがやった放火と、去年4月1日の放火殺人に手口的に一致する点は殆ど無い。だったら誰が。分からん。ああもう考えることを放棄しようとしている。専務さんが部長は
『犯罪者を追い詰めて捕まえるということに興味を持った』
から警察官になったと言っていた。僕は生活のために田舎の高校からでもなれる、公務員としての警察官になった。刑事になったのも署内で刑事はヒエラルキーが高そうに見えたので希望した。根本が違う。でもそれで納得してはいけない。考えろ、考えろ僕。
最終レースが終わるまで考えたが全く分からなかった。部長が来るまでに少し時間がかかったので当たったのかもしれない。最終レースはあと半周を過ぎてから僕の目の前で落車があり高配当になったみたいだ。余計なことを考えている場合では無い。もうすぐタイムアップだ。
部長がやって来た。心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。部長は黙って僕の横に座った。
「済みません。いくら考えても自分には犯人が分かりませんでした。」
「当たり前じゃ。これまでそんなことを考えもせず言われた事だけしとった者が、2時間かそこら考えて正解が出るんなら世話ない。誰でも名捜査官になれる。」
「はい。部長が目を付けているのは誰なんですか?僕が知ってる人物ですか?」
「もう答えをくれ?全然進歩して無いやないか。今のあんたに言う訳にはいかん。」
「誰にも言いませんから。」
「バレるバレん以上に、もっと考えろと言うてる。今それが誰かをあんたに言う気は全くない。考え抜くことが仕事や。勘違いしたらいかん。甘えたらいけん。」
「………、はい、分かりました。」
情けないような、馬鹿にされたような釈然としない気分だがこれ以上は言える雰囲気ではない。
部長はポケットから札束を掴み出しその内の5万円を僕にくれた。
「いや、あの、これは。」
と僕が言うと、
「これは儂のジンクスや。帯抜きした時は一緒に博奕場行ったもんに祝儀弾むか奢るかしとかんとツキが逃げるんや。断わられたら儂が困る」
「帯抜きって何ですか。」
「1レースで百万以上払い戻し受けることや。百万円の束には帯封がかかってるやろ。最終当たった。こけて怪我した奴らには悪いけど儂にはええレースやった。」
僕が唖然としていたら、
「くれぐれも言うとくが、信じんでもええが阿保たれがもう調べカスやいうのは誰にも言うな。そしたらな。」
と言って帰ってしまった。
帰り道で暫く考えたがなにも思い浮かばない。部屋に着くと悲しくなってつい和子さんに電話をしてしまった。バイトに行く前の忙しい時間に悪いなと思ったのだけど。
『忙しい時間だろうけど声だけでもと思って。』
と言うと少し話相手になってくれ明日会ってくれるというので電話を切った。少し気分が晴れたので、風呂に入ってビールを飲んで有り合わせで夕食を済ませハイボールを飲んだ。ずーっと作り続けていたら少しましになったような気がする。ママに貰ったスコッチは疾うに終わってそれからは角瓶で作っているがスコッチの時よりも美味しくなったような気がする。ぼんやりテレビを見ながら飲んでいたら眠くなり事件について考えることは無く寝てしまった。
翌日は昼前に待ち合わせてお昼ご飯を一緒に食べた。食べながら昨日のことを話した。仕事のことは抜きで競輪のことだけ。石原部長に祝儀を貰い車券代の残りと合わせたら5万9千円あるから今日の支払は全て僕がと言うと、笑いながら同意してくれた。でも部長が大儲けしたのママに伝わったらまずいかも。そこも言うと
『それは大丈夫。石原さんママに隠し事しないから。』
と和子さん言ったけど根拠があるのだろうか。
「石原さん最近店に来ないのよ。」
と言われ
『例の件一人で捜査しているのだろうか?』
と考えて少し間があいた。
「どうしたの?」
と聞かれて我に返り、
「あ、いや、この頃何処にも行って無いのかな。」
と言うと、
「誘われてないの?」
と尋ね返され一寸困った。部長が取り掛かっていることについては言えないし。
「うん。」
「石原さん来ないけど、でもママは機嫌悪くないよ。元々自分のことで他人に当たったり迷惑をかけたりする様な人ではないけれど普段通りよ。」
「前に定元部長が、部長の足が舞から遠ざかると
『ママがギャーギャー言う。』
って言ってたけど。」
「石原さんこの街を離れてた頃にはそういう事もあったらしいけど今はそんなこと全く無いよ。チーママに依ると
『石原分は十分足りてる。』
って言ってた。」
「石原分って何?」
「うーん、鉄分とかカルシウム分とか言うじゃない。人間に必要な栄養素。ママは石原分が無いと精神の安定が保てないらしいよ。でも今現在安定してるということは不足して無いんじゃない。」
「そうなの。」
「秀明さん和子分必要?」
「うん、昨日も行き詰った時凄く電話したくなった。」
「何に行き詰ったの?」
あ、やば。
「いや、石原部長に一寸仕事のことで注意されて、よく考えて来いと言われたんだけど如何して良いか分からなくて。でも仕事の内容は口外無用と言われているから御免。」
「分かった。石原さん口が軽い人嫌いだろうからね。」
午後からは少し街を歩いて映画を見て、昨日の分け前と言って和子さんに一寸高級なTシャツを買った。帯抜きの話をしたら驚いていたが部長ならやりそうだと納得していた。
『秀明さんギャンブル好きなの?』
と聞かれたので
『僕は博奕に才能無いし、小心者だからやらない。』
と答えたら、ちょっと安心した顔をした。
「私の父親街工場勤めで給料安くてお金無いのに競艇が好きでね、休みの日朝から無料バスで競艇場に行ってた。いつも一攫千金狙って大穴の舟券買っていつも負けてた。帰ると安い焼酎を飲んで
『あの時誰それがもう少し頑張っていたらとか転覆しなければ』
とかグチグチ言ってた。私それが嫌でね。自分と結婚する人は絶対ギャンブルしない人が良いと思ってた。」
「僕絶対しません!」
あ、言わされた。和子さん笑ってる。でも感触は悪くない。
舞には午後7時過ぎに入ればいいというので若竹に行ってみた。女将さんが。
「和子ちゃん、やるじゃない同伴出勤やなんて。」
「秀明さんお金にならないお客さんだから同伴扱いは無理でしょう。」
「はい、ご飯食べて正規の出勤時刻に行ってもらいます。」
女将さんは笑いながら、
「最近ワインをお店で出せないものかと思って勉強してるんよ。試してみてくれる。白を和食にと思うんだけど、これだと思うマリアージュがね。これなら辛口の純米酒を選んだ方がと思うことが多くてね。尚美が洋美さんのセラーから色々な白を抜いてきてくれるんだけど。」
「それ良いんですか?」
「No.2がすることだから良いんじゃない。」
「No.1は誰なんですか?」
「それは勿論一人娘よ。」
「ママNo.2では不満なんじゃないです?」
「それは無いと思うけど。尚美も美佳ちゃんに夢中だから。」
部長の娘さんは美佳さんというらしい。
和子さんの出勤時間になったので若竹の前で別れて、和子さんは舞に僕はボロアパートに。部屋に帰って考えたが第二の着火マンは分からない。発生直後の聞き込みで、被害場所の世帯主の評判を部長は聞いていたが、世帯主に何か恨みを持つ人物でもが浮かんだのだろうか。それだったら僕には分らないが、部長が考えろと言ったということは僕も知ってる人物なのだろうか。思い浮かばない。風呂に入ってハイボールを飲みながらテレビを見て寝た。
月曜日出勤していつもの手順で始業時間を待っていたが部長は出勤してこなかった。三係長が出勤して来て、
「土居刑事、石原部長は今日は休みや。夕べあった二人組の素人恐喝を呼んどるけん調べてくれ。」
と言われた。事案はある会社の現場事務所で一人の従業員を他の二人の従業員が脅して金品を巻き上げたという単純なことで、昨夜の当直に届け出があったらしい。そこの社長は警察にも協力的な人なので、連絡をしたら今日の午前9時に二人を連れて出頭するとのことであった。夕べ初捜が取った被害届と被害調書を、朝礼出んでええから読んどってくれ。
『え、被疑者が二人?』
と思ったら、コーヒー好きの先輩がもう一人の担当で、二人して夕べの書類を読んだ。
時間通りに出頭してきた。社長は警察関係に顔が利くらしく署長自ら案内して来た。署長は何事かを課長に言って、被疑者を残し社長と一緒に課を出て行った。二人の被疑者を6部屋ある調べ室の対角線上の端と端の部屋に入れ調べを始めた。始めるとすぐに係長が来て僕を室外に呼び出し、
「逮捕はせん。署長指示じゃ。その積りで。」
と言って帰って行った。
「1時間半程調べて大筋をメモして一度室外に出、留置係や交番員の非番で捜査係志望で手伝いに来ている者に被疑者の番をしてもらい先輩と突き合わせをした。二人の話が合わない。先輩が、
「待っとけ。」
と言って調べ室に戻った。30分足らずで課に帰り、
「大概くらわしてみたが言うことが変わらん。お前が騙されとらや。も一遍聞いて来い。」
と言われた。
調べ室に戻って、僕は人を殴るのは苦手だから手は出さなかったが、騙された怒りを机を叩き激しい言葉でぶつけたら先輩が聞いた通りの供述に変わった。昼まであまり時間は無かったが、昼食で外に出して口裏合わせられても面倒なので二人に、
「さっさと済ませたほうがええやろう。」
と言って昼食抜きで一気に調書を巻くことにした。先輩と大筋を合わせて巻き終えた調書を係長に見せると、
「これでええ。」
と言って貰えた。
被疑者が帰った後、やっと自分で被疑者調べを終えられたと一仕事した気分を噛み締めていたらコーヒー好きの先輩に呼ばれた、
「お前何嬉しそうにしとんぞ。何ひと仕事した気になっとんぞ。」
と言われた。
「はい、初めて自分で事件送致する調書巻けたんで。」
と言うと、
「お前がぬるいけん、叩かれんでもええ奴が叩かれて、嘘ついとる悪い方がくらされんで済んどんじゃ。」
と一寸怒った声で言われた。自分が勝手に叩いたんでしょうがと思ったがそれは口に出さなかった。でもそれは読まれたようで、
「お前に聞かしとったらいつまで経っても前に進まんけん儂が手っ取り早よう済ましただけじゃ。いつまで見習い気分で居るんじゃ。」
ときつい調子で言われた。確かに最初騙されたのは僕が悪いけど僕だって一所懸命やってるんだから。
先輩はあれ以来口をきいてくれない。翌日も部長は休みだったが、先輩は勝手に部長のコーヒーを入れて飲んでいるが僕には何も言わない。他の人達も先輩とは無駄話をしているが僕には必要なことしか話しかけない。
その翌日も部長は休みだった。課長も係長も何も言わないが特に気にする風もない。昼休みが終わった頃初捜5班の班長が一課に来て、
「石やんは?」
と僕に尋ねた。
「月曜日からずっと休んでます。」
と答えると、三係長が、
「明日は出勤する。」
と班長に答えた。班長は僕に、
「石やん出てきたら、蛇タツ連れて来てくれ言うといて。損にならん話やからいうて。」
「分かりました。今日じゃなくてもいいんですか。」
「うん。今日石やん居ったらと思うただけで明日以降でもええ。損にならん話やからできるだけ早ようと言うといて。」
蛇タツなら僕も知っている。忍び込みで有名な泥棒で、僕が留置係の頃軽犯罪法違反で留置場に入っていた。忍び込みというのは犯罪手口分類で、窃盗>侵入窃盗>夜間侵入窃盗>忍び込みと分類される。夜間家人が就寝中等に家屋に侵入し金品を窃取する手口を言う。前回入っていた時は機動捜査隊に深夜職質を受け侵入用具となるドライバーを所持していたということで逮捕されていた。良く喋る奴で僕の言うことはよく聞いていたし、留置場に居る間中、
「担当さんにはお世話になっとるけんこれからも担当さんの言う事だけはちゃんと聞くけん。」
とずっと言っていた。そこまで言われたら僕も蛇タツには少し甘く対応し、蛇タツは釈放される時も僕にだけは、
『外でも担当さんの言う事だけはちゃんと聞くけん。』
と愛想よく言って出て行った。
係長に、
「一寸出て来ていいですか?」
と聞くと、
「ああ、今暇やからええよ。用事できたらポケットベル鳴らすから。」
と言われた。僕は部長が契約してくれて使用料も払ってくれているポケットベルを身に着けているので係長も割と自由にさせてくれている。通勤に使っているバイクに乗って、いつも蛇タツが遊んでいるパチンコ屋行った。僕のボロアパートの近くで、僕はパチンコをしないけど以前蛇タツがそこに入るところを見たことが有る。初捜班長にそのことを言うと、蛇タツはその近所にヤサが有りよくそこに出入りしているらしい。パチンコ屋に入ると、やはり蛇タツはそこに居た。
タツは不貞腐れた様に体を斜めにして打っていた。箱は一つも積まれていない。
「タッちゃん久し振り。」
と声を掛けると、『お前誰や』みたいな顔をされた。
「いや、あの監守しとった土居やがね。」
「誰?知らんなー。」
「前に担当さんの言うことやったら何でも聞く言うてくれたやない。」
「何のこと。儂見てのとおり忙しいんや。あんたの相手しとる暇無い。」
それまで斜めに座って打っていたのがパチンコ台に正対し僕の方を見ようともしない。
「いや、一寸用事があって来たんよ。一緒に来てくれんかなー。」
「何で儂がおどれの言うこと聞かないかんのじゃ!寝ぼけたことを言うな!」
取り付く島もない。
諦めて署に戻り刑事三課に行って班長に、
「タツに『一緒に来い。』言うたら怒鳴り声で断られました、あれ無理です。」
と言うと。すごく冷たい声で、
「誰がお前に連れて来い言うた。」
これまで聞いたことも無い不機嫌そうな声だった。
「儂が言うたって来んもんがお前如きに付いて来る訳無いやないか、ド阿呆!」
怒鳴られた。課内にいた皆が僕を見ている。
「帰れ。帰って明日石やんに今日のこと言うて『連れてきてください。』言うてお願いせい。」
「いや、あれ駄目です。黙って付いて来る様な雰囲気じゃ無かったです。」
「お前に出来んことは誰でも出来んと思うとんか!思い上がるな糞馬鹿!出来ん儂が偉そうなこと言うな思うかもしれんけど、儂は自分に出来んと知っとるけん『石やんに』言うたんや。」
「いやでもあれは………。」
「やかましい!お前と押し問答する気はない!帰れ!糞馬鹿!」
糞馬鹿と言われた。二度も。何で僕が。課に帰ると皆が笑いをこらえている。一課と三課は通路を挟んで向かい合わせだから班長の怒鳴り声が筒抜けだったみたいだ。僕の係長が、
「土居刑事、あんたこの頃一寸勘違いして無いか。あの放火検挙したのは石原部長や。あんたは石原部長の言う通りに付いて動いただけじゃ。あんたは石原部長じゃない。」
「いやそれは。」
「少しは進歩したかと思うたが案外やったな。」
意味が分からない。僕は刑事になってもう1年半が過ぎたし、書類も言われた通り書けるようになったし、事情聴取も一人でできるし。
翌朝石原部長が出勤して来てコーヒーを入れ始めたので昨日のことと班長に言われたことを言った。部長はじっと僕の顔を見て、
「もう何でも一人で出来ると思うた?」
と聞かれたので、
「あ、いや、蛇タツは留置係の頃知っとったし、その時
『ここで世話になったから僕の言う事なら何でも聞く』
言うたんで。」
「盗人の言うこと真に受けたらいかん。あいつ等はその場その場で自分が一番楽できる様に得する様に利用できるものは何でも利用するんや。その場しのぎの嘘なんか息する様に吐き散らす。」
「でも………。」
部長は黙って立ち上がり部屋を出ようとした。付いて行こうとすると、
「来んでええ。」
暫くしたら戻って来た。何も言わない。冷めたコーヒーを黙って飲んでいる。
「あの、3日も休んでたけど体調悪かったんですか?」
「そうや無い。心配せんでええ。」
黙ってデイリースポーツを読んでいる。すぐに朝礼の時刻になったので皆と講堂に上がった。
朝礼から戻ってきて部長はずっと何事か考え続けている。暫くすると係長に、
「鑑識と三課に行ってきます。」
と言って出て行こうとしたので、慌てて付いて行こうとすると、
「来んでええ。」
とだけ言って一人で出て行った。
戻ってきた部長は、
「一寸出てきます。昼越えます。」
と係長に言ってから外出しようとしたので付いて行こうとしたら、
「来んでええ。この間言うたやろ。暫く三係の仕事しとけて。」
「いや、あの。」
「来んでええ。」
午後3時頃帰ってきた部長は、
「四の五の言わんと黙って儂の言う通りに動くなら、今晩タツ攫いに行く時連れて行く。勝手なことするんやったら定時で家帰って。」
「はい。言う通りに動きます。連れて行ってください。」
「そしたら午後8時にここに集合。」
言われた通り午後8時に自分のデスクに行くと、鑑識と盗犯が2名いた。鑑識は去年僕と一緒に留置場から専務警察になった人で、盗犯の内1名は僕より1年前に刑事に登用された先輩でもう一人は今年盗犯係になったばかりの人だった。班長から行ってこいと言われたらしい。すぐに部長が入ってきて僕達4人に行先を告げ、任務付与をした。
行先は先日僕がタツを呼びに行ったパチンコ屋。鑑識は現場で部長の指示で写真撮影。後の3人はタツの逃走を防ぎ身柄を抑える。配置箇所は現場で言う。車両は捜査用車1台。運転は盗犯の先輩。
「え、タツを乗せると一人あぶれますよ。」
と僕が言うと、
「うん、そこは考えとる。現場で指示するから今はええ。」
と部長に言われた。
「写真撮るみたいやけどストロボ焚いたらばれません?」
「色々考えるんじゃの。こういう細かいことやのうてもっと大事なことを考えてくれたら嬉しいんやけどな。ASA1600のフィルムを用意したから駐車場の明かりで十分や。30分の1秒、絞4で。これでブレてたら鑑識首やな。」
「今から出発するけど、タツは最後まで粘るから着手は閉店時間を過ぎてからになる。たまに勝って打ち止めになると早めに帰ることもあるから用心で少し早めに。」
「それより早く打ち止めになったら?」
「色々心配が多いんやのう。もっと早目に止めたら次の台に行く。それよりももっと大事な心配してくれるか。」
他の3人に笑われた。
「それにちょっと前に纏まった銭盗っとるけん最後まで居る可能性が強い。」
パチンコ屋に着くと駐車場の端の目立たないところに捜査用車を停める様に言い、全員に待機場所を指示し具体的な行動を再度指示した。蛇タツがいつも自転車を停める場所を教えてくれて、
鑑識は少し離れた位置から蛇タツが自転車に乗る前から乗って走り出すまでを撮影する。撮影が終わったら他の者が蛇タツを停車させている所に速やかに移動する。
他の3人は蛇タツが自転車に跨って走り始めたところで止める。自転車のハンドルに手を掛けてもいいが体には触るな。蛇タツは警察慣れしてるから
『職質の理由を告げる前から身体に強制力を加えられた』
とか言いかねん。
「自転車乗らんかったらどうするんですか。」
と僕が聞くと、
「さっきから煩いなあ、四の五の言わんと黙って動け。儂が考えろ言うたんは細かいこと言うてやっとることに水差せいう意味やない。もっと大事なことを考えろいう意味じゃ。」
部長はイラついたように少し怒気をはらんで不愉快そうに言った。
『蛍の光』が流れ始め閉店時刻になった。僕達が張っている方の出口から蛇タツが出て来た。景品引換所には向かわず真っ直ぐ自転車置き場に向け歩いている。負けたんだ、天罰じゃ。タツは自転車置き場で立ち止まり辺りを見回して自転車置場を確認し首をかしげている。でもそこに在った自転車を引き出すと跨って走り出そうとした。あッまずい、慌てて走り寄ろうとすると、タツの目の前に部長が現れ自転車を止めた。どこから出てきたんだろう。他の2人も慌てて走り寄って来た。部長が、
「タッちゃん今晩わ。」
タツは状況が把握しきれて無い様な感じで戸惑っている。
「タッちゃん、ええ自転車乗っとるね。」
と声を掛けるとタツは慌てている。
「一寸見せて貰うてもええかな。」
と言いながらさっと防犯登録を控え先輩の方の盗犯係に、
「照会して。」
と言ってメモを渡した。盗犯係が歩いて捜査用車に向かおうとしたら、
「走れ!」
と部長に言われ慌てて走り出した。
盗犯係はすぐに走って帰ってきて、
「被害届は出ていません。」
と言ったとたん、
「阿保かぁ!職質対象者の前で照会結果を言う馬鹿が何処に居る!」
と部長に怒られた。盗犯係固まっている。するとタツが笑いながら、
「此処に居るぅー。」
と笑いながら盗犯係を指さして言った後、
「被害届け出てないんなら帰らしてもらいます。」
と勝ち誇った様に言ったとたん部長は急に凄みを聞かせ、
「お前まだ儂のこと分かっとらんな。儂がこのくらいで引き下がると思うとんか。儂がせっかく優しゅうモノ言うてやっとんのにそれが解らんか。上等じゃないか。儂に取る手は一杯有るんじゃ。儂は仏にも鬼にもなるぞ、その相手はお前だけじゃ無い、お前の周り皆じゃ。」
蛇タツは急に勢いがなくなり、
「あのぉ、おふくろだけは………。」
と言ったが、
「知ったことか。わしに刃向うた奴は絶対許さん!」
「いや刃向うた訳やないです。」
「お前今『被害届け出てないんなら帰らしてもらいます。』て小馬鹿にした様な物言いしたやないか。あれは儂に喧嘩売ったいうんじゃ!」
「いや、部長さん儂ら位になったら自転車1台で半年は行かないけんなるんです。」
「蛇タツなら半年は安い。そんなもんで堪えるか。」
蛇タツ黙ってしまった。
「行きます。おふくろだけは。」
と言ったので部長は先輩の盗犯係に捜査用車を回すように言った。
部長は蛇タツに後部座席に乗る様に言い、その両脇に後輩の盗犯と鑑識を座らせた。そして僕には、
「この自転車乗って署まで帰って。大事な証拠品やから途中で失くしたらいかんで。タッちゃん締め上げるとこ見たかったら早よ帰った方がええよ。」
と言って助手席に乗り込み出発した。これで乗車人員の辻褄は合った。僕も恨み骨髄の蛇タツが締められるのを見たいから激チャリで帰署した。でもその自転車は結構新しいのにライトが壊れていてパトカーに止められた。顔を知っている機動警邏係だったので無灯火の理由は了解してくれたが、押して帰る様に言われ被害届も出てない自転車を持って帰るために出遅れた。
署に帰ると蛇タツは調べ室に入れられ班長が調べていた。班長は刑事三課盗犯第一係長で夜間侵入盗が担当だ。蛇タツの手口を担当している。部長は自転車の被害届を取りに行ったそうだ。盗犯の先輩が
『僕が行きます。』
と言ったらしいが部長は
『急ぐから。』
と言って自分が行ったそうだ。同行を申し出たが
『タツは逃げるから。』
と盗犯二人で調べ室の出入り口前にいる様に言われ、鑑識には
『帰って良いよ。』
と言ったらしいけど鑑識は自分の自由意思で残っているらしい。
1時間もしない内に部長は帰って来た。僕達に、
「この後令状請求することになる。明け方になると思うからそこらで少し休んどけ。」
と言って1万円札を僕に渡し、
「どこかで夜食と飲み物を工面して来て。」
と言って、自分は調べ室に入っていった。
それから1時間程したら班長が出て来て、
「今石原部長が話聞いとる。暫く休憩。交代で誰か一人出入り口見張って、あとの者はそこらで休め。」
と言ってソファーで横になった。
明け方になって調べ室から呼び出しの合図があり、
「令状請求するけん班長呼んでくれとのことだったので、転寝をしていた班長を起こしそれを伝えた。そこからは班長が中心になって盗犯係に指示が飛び、僕達も手伝い蛇タツを自転車の占有離脱物横領で逮捕するための書類を作った。書類を纏めながら部長に、
「時間掛かりましたね。」
と言うと、
「そうやね、儂はとろくさいけん上手に書類が書けんけん。」
と言われた。
令状と逮捕は三課に任せて僕達が一課に帰りコーヒーを飲んでいると皆が出勤して来て、腰巾着が耳打ちした昨夜のことを聞いたバカ係長は、
「他所の手伝いする暇が有ったら自分の仕事したらええんじゃ。」
部長はすかさず机の上の物を掴み投球開始。今回は腕の振りが止まらないので慌てたバカ係長は部下の後ろに逃げようとしたがその部下が身を交わそうとしたので二人で転倒。部長は腕を綺麗に振ったが途中で掴んだ物を放したので単なるシャドウピッチングになった。周りは皆笑いを堪えている。懲りない奴だ。
蛇タツは逮捕されたが、最初はいつも通り本件以外は完全否認だったらしい。でも今は班長の巧妙な取り調べと部長の圧力で如何しようも無くなった犯行だけは少しずつうたい始めているらしい。当直勤務の日にタツが完全否認型になった理由を班長が教えてくれた。その晩は台風上陸のため街に人通りは無く出動事案も無かった。刑事当直の待機室で待っている間僕が、
「蛇タツってなんでこんなに完全否認型になったんでしょうね?」
と疑問を口にすると班長が、
「お前んとこのバカ係長がタツをこんなにしてしもうたんや。」
と苦笑いしながら教えてくれた。
蛇タツは子供の頃から手癖が悪く万引き、かっぱらい、車上狙いと少しずつ手口を上げて、鑑別所、少年院に何度も収容されていたそうだ。20歳を少し過ぎた頃は、玄関荒らし、室内狙いが主な手口だったらしく、まだ屋内に上がり込む度胸は無かった様子で無閉まりの玄関や窓から靴を脱がなくても手が届く範囲のバッグなどを持ち去って、逃げる途中に現金だけを抜き取りバッグなどを捨てるのが常套手段だったらしい。
ある時蛇タツはドジを踏んでこの警察署に隣接する、署員が百人に足りない警察署の機動警邏係に現行犯逮捕されて、その時の調べ官が今うちにいるバカ係長だったらしい。バカ係長は取り調べで蛇タツを徹底的に騙したらしい。
「え、あの係長『儂は強行犯一筋』っていうのが口癖ですよ。」
と聞き返すと、
署員百人足らずの警察署の刑事課は、強行・盗犯と知能・暴力で係を分けているそうだ。だから強行畑が主の刑事も盗犯検挙のノルマを担がされるらしい。もっと小さな警察署では捜査係と言うことで、強行・知能・盗犯・暴力全てを扱うそうだ。そういう署では防犯課は無く、刑事防犯課となって、一応防犯係はいるが少年事件まで扱わされるらしい。
バカ係長が蛇タツを騙したやり方は、
蛇タツがが逃げる途中に捨てたバッグの在りかを言葉巧みにうたわせるという事だったらしい。班長が言うにはいくら被疑者が自供していても自供だけの事件は検事さん起訴に慎重らしい。でもブツがある事件になると強気になるし、そのブツが引き辺り捜査で被疑者自身が捨てた場所に案内し発見されたブツなら秘密の暴露も付加されて強気に起訴するそうだ。
バカ係長はまだスレて無かった蛇タツが、捨てたバッグ・財布等の在りかに案内する度に、
「おお、裁判官これほど正直に自分のした事を言う人間にはええ印象持つぞ。」
「1件言うたびに判決1か月ずつ減るやろうな。」
「全部言うたら執行猶予間違いなし。」
と煽てて騙してうたわしたらしい。
その結果は、初犯なのに懲役2年4か月。実刑だった。裁判官が、
「被告を懲役2年4か月に処す。」
と宣告した後、蛇タツは『但し』という言葉を待っていたのに裁判官はそのまま帰ってしまったらしい。執行猶予が付くときはその後に、
『但し、本裁判確定の日から〇年間右刑の執行を猶予する。』
と裁判官が言うのだが、蛇タツはその言葉を待っていたのに『但し』は無かったらしい。班長と仲が良い刑事がその署の刑事課だったので判決言い渡しを傍聴に行ったらしい。調べている状況を見て、酷いことするなと思っていたらしいが、実刑を言い渡されて茫然自失、ガックリと肩を落として退廷する蛇タツを見て同情さえしてしまったらしい。騙されたことに気づいた蛇タツは、それから後は捕まっても余罪は一切うたうこと無く、明らかな本件さえも否認するようになったそうである。そんな奴を班長と部長はどうやってうたわせたのだろう。
そこのところを尋ねたら、
「それは知らん方がええ。捕まえるとこ以外は石やん一人で全部やったやろう。偶然運よく蛇タツが盗んだ自転車乗っとるとこに出くわす訳無いやろう。連れて来てから一人で長い間調べてたやろう。タツは自転車が窃盗か占脱かで大違いやからそこで脅しとったんやと思うで。窃盗になったら常習累犯になってアウトや。占脱やったらセーフ。小便刑で済む。そこらをお前らに見せんかったんは、お前ら巻き込まんための親心や。要らん詮索はするな。」
「………。」
「今頃タツがパチンコ屋まで乗って行ったタツ名義の自転車は近所のどぶ川の中にでも居るんじゃないか。」
「えぇ。」
そういう事か。
「でもタツえらくビビってましたよ。
『おふくろだけは。』
って言いながら。」
「前刑は石やんがここに来る前の署で調べとる。その時石やんがタツの母親をこの市がやっとる老人福祉施設に入れてやった。あの人でなしのタツでも年取った母親のことは気掛かりで、やった仕事はうたわんけど年取った母親のことは人並みに心配しとったらしい。それを聞いた石やんが自分の事出来兼ねとる母親が施設に入れるように手配りしてやった。その施設は入所希望者が多いんでなかなか入れんのやけど石やんが自分の人脈で手を回して入れてやった。」
調べ官はそこまでするのか。
「そんなことする捜査官はめったに居らん。そやからこそ今回蛇タツは石やんの剣幕見て、石やんの機嫌損ねたら母親そこから追い出されるんやないか思うてビビったらしい。実際怒らしてひどい目見た奴はなんぼでも居るけん。」
「………。」
「前刑の時は余罪も仄めかさす程度で、詳わしゅうには聞かなんだみたいや。どうせ聞いても本当のことは言わんし。昔懲りとるけんブツの捨て場所なんか絶対言わん。それやったら検事も起訴してくれん。その代わり仄めかした分の原票だけはしっかり切ったけど。」
「原票って何ですか。」
「刑事が阿保みたいな質問すな。お前刑事になってもう1年半やろうが。こんなんで一人前気分か。情けないぞ。お前らも交番で自転車盗捕まえたら検挙原票きったじゃろうが。盗犯は検挙原票で評価されるんじゃ。強行も書く数は少ないけど発生原票書いて検挙原票で検挙率を問われる。送検はせんかったけど明らかにタツの犯行の現場は警察内では検挙済みにして検挙原票切るんや。儂はその頃隣の署で盗犯しとって石やんがタツのやった事件じわっと原票切らしてくれた。儂のとこ以外は石やんが全部自分で切った。」
「それ何かメリット有るんですか?」
「お前もう刑事辞めい。儂は儂のとこで発生した分自分で切ったからマイナスは無い。他所は発生だけあって検挙を石やんに取られたから赤字や。石やんは他所の発生を自分が検挙原票切ったから大幅黒字や。盗犯刑事は検挙率命じゃ。お前も小さい署行ったら検挙実績で絞められて、落とせる原票捜して四苦八苦するんじゃ。」
もう一つピンとこない。
「それとな、タツが乗っとった自転車の所有者、石やんが住み着いとる旅館の湯守しとるおっちゃんのらしいぞ。窃盗・占脱どうにでもなる。」
と言って班長はニヤリとした。
僕が刑事になって二度目の秋が来た。このところ特に変わったことは無い。僕は毎日三係本来の仕事をし、部長は三係の仕事の間に時々どこかに出かけている。数時間のこともあれば二日に及ぶこともあった。儂がうたわすと大言壮語したバカ係長は検察庁に放火殺人をうたわすからもう少し待ってくれとお願いしたのだが全く進展は無い。検察庁から公判の都合もあるのでと進捗状況を聞かれる課長も堪ったものじゃない。無理やり調べ官を交代させたのは管理官だからと対応を上に上手に押し付けたみたいだ。課長は阿保たれが被疑者では無いことを知っているのだから当然ではある。
そんなある日課長が、強行三係長とコーヒ好きの先輩と僕を会議室に呼び
『次の日曜日、去年4月1日の放火殺人の容疑者を呼ぶから手伝うように』
と指示があった。そこには石原部長も。口外無用と厳しく伝えた後、部長が作成した容疑の内容を書いた資料を渡し、ここで読み腹入りしてから資料を返せと言った。バカ係長や上層に知られたくないとも。
その内容は、
容疑者は被害場所の世帯主。死者の夫。容疑の理由は
事件発生前からの夫婦仲の悪さ
離婚が現実的な話になっていたこと
一人娘の親権につき激しく言い争いがありそれが続いていたこと
去年4月1日被害場所の隣の家に蛇タツの犯行と思われる忍込み未遂があったこと
それが判明したのは最近になって放火の被害場所近くで少し前忍込みがあり多額の被害が出た
聞き込みをするうちに火事があった朝、被害場所の隣の家の窓ガラスが割れていたことが判明
その家の家人は燃えた家側のガラスだったので火事か消火活動で割れたものと思慮し届け出なかった
今回の聞き込みでベテランの盗犯係がガラスの割れ方を聴取すると蛇タツの割り方に酷似
そのため蛇タツを引っ張り込んでその晩のことを聞いた
脅して、宥めて、すかして、未遂だし今更立件不能と理解させその時の状況を聞いた
蛇タツが窓ガラスを割ってクレセント錠を開錠しようとした時に隣の家でドアが閉まるような音がしたのでタツは慌てて逃げて未遂
音を聞いた直後出火
隣の家の裏に回るには蛇タツが居た処の横を通る必要があるが誰も通っていない
出火後逃げた者もいない
見分時勝手口は内側から施錠されていた
以上の理由から容疑者は死者の夫と推定し呼び出す
物的証拠は無い、状況証拠しかないが調べて自供を得る
最後の手段『叩き割り』でいく
との内容だった。
当日午前8時30分に本署に集まった。あくまでも任意の呼び出しなので迎えに行くのは僕と部長。残りの3人は課で待機。当直明けの強行二係員が居て何事かと聞いてきたが無視。僕と部長はすぐに出発。容疑者は燃えた家から遠くないところに親の家がありそこに身を寄せていた。到着すると部長は、
「無表情!」
とだけ言って玄関のチャイムを鳴らした。
玄関先に容疑者の母親と思われる人物が出たので、部長は警察手帳を示し、
「昨年4月1日の火事に付いて息子さんに詳しく聞きたいことができたのでお伺いしました。」
と実にさわやかな笑顔で話しかけた。母親は警察と聞いて一瞬身構えた様に見えたが、部長のにこやか且つさわやかな笑顔ですぐに警戒が解けた様に見えた。成る程。この前蛇タツに凄んだ時の顔と声とは全くの別物だ。
容疑者は怪訝そうな顔で玄関先に現れたが、部長のにこやかな顔を見て一気に警戒が解けた様子だった。部長は地味だが仕立ての良さが僕にもさえも分かるスーツ姿で、今気づいたのだが綺麗に散髪までしている。元々がお坊ちゃまだから日頃粗暴な振る舞いがある警察官とは思えない品がある。部長が来訪の目的を告げると同行に応じ、一旦奥に入って着替えてから車に乗り込んだ。部長は車のキーを僕に渡し、
「正面玄関に着けて。」
と言って自分も後部座席に座った。
署に着くと部長が先に降りドアを開けて案内し正面玄関から署に入っていった。日頃悪い奴らを任意やら強制やら分からないようなやり方で攫ってきた時は裏から入るのだが。僕は急いで捜査用車を仕舞い駆足で課に戻った。
容疑者はもう既に調べ室に入っていたが部長は外にいた。どうも僕を待っていてくれた様で、
「すぐに調べに入る。要らん口を挟んだら叩き出す。それが出来んなら家でテレビでも見とれ。」
と言われたので、
「は、はい。」
と即答したら、黙って調べ室に入っていった。
入るとすぐに部長は調べ官の椅子に座り、僕には斜め後ろの椅子を指した。部長は座るといきなり、
「今日ここに来てもらったのは参考人としてではありません。昨年4月1日にあなたの奥様が亡くなられた放火事件の容疑者としてです。先程も名乗りましたが、私は当署刑事一課強行犯主任巡査部長石原洋美と言います。これから私があなたにお聞きする事は、あなたを放火殺人事件の容疑者としてですから、あなたが話す内容によっては今後あなたに不利益をもたらすことが有るかもしれません。ですからあなたが話したくないと思ったら無理に話をする必要はありません。ここまでは理解できましたか。」
と一気に問いかけた。被害者の夫は明らかに困惑・混乱している。が頷いた。部長はその混乱が収まる暇を与えず一気に昨年3月31日から4月1日の間のことを聞き始めた。メモなど用意して無いのに次から次とその頃の夫婦の状況、諍いの内容、亡くなった奥さんの精神状態等を見てきたように。容疑者の顔は蒼褪めている。あの晩あの時刻たまたま現場付近に居た人が居て、人の出入りが無かったことを確認している等、時系列に応じ当時の近辺の状況を克明に告げた。調べを始めて40分もたった頃、それまで矢継ぎ早に質問をしていた部長が一呼吸沈黙の時間を挟み、
「辛かったやろうなー。」
とそれまでの厳しい口調から一転優しい口調で話しかけると、容疑者は震える様に体を揺らせながら何か言いたそうにし始めた。
「これから一生言うに言えん事抱えて辛い思いで生きるんか?」
と言って部長は容疑者の目を見た。言葉ではなく目が問い掛け続けている。
5分くらいの沈黙の後容疑者は落ちた。
逮捕の手続きをした後、管理官・副署長に報告のため課長が連絡を入れた。慌てて本署裏の官舎から駆け付けた副署長に逮捕を報告している。副署長はあの阿保たれが被疑者だとバカ係長から思い込まされているので事情が理解できないみたいだ。課長が噛んで含める様に説明している。
課長の説明では、石原部長は被疑者を取り上げられた後、冷静にもう一度本件について考察したら一連の放火とは手口的に違うと思い始め、課長にそのことを説明し時間が許す時もう一度洗ってもいいかと許可を求めてきた。強行一係長の調べに進展が全く無いこともあったので本来の業務に支障をきたさない限り、と言う条件で許可をした。これで打ち切りにするようにと言った後の、最後の取調べで容疑者が自供したので今日の逮捕となった。と言ったところであった。
副署長は納得している。元々が警備畑の人なので捜査のことは何も分かっていない。加えて言うなら石原部長の過去の言動も。刑事管理官が来たので副署長が今の課長の説明を鸚鵡返しに管理官に伝えた。その後署長が来たので課長が再度同じ説明をしたが、交通畑の署長は『重要事件の解決』に舞い上がり課長の説明を疑うことなく受け入れた。自分達が石原部長の協力者であることには全く気付いていない。胡麻擂りの管理官は署長・副署長に逆らうことは無い。
署長は本部と連絡を取り、重要事件解決の報道発表に余念がない。日曜朝に任意同行をかけているので明日午後拘留請求のため署を出る時間に合わせて発表することになった。署を出る護送車の周りを報道が取り囲みストロボを焚き倒すことだろう。以前には逮捕被疑者の雁首を撮影させるために、用事も無いのに手錠腰縄の被疑者を連れて、裏の階段から1階ロビーに降りて表の階段から二階の刑事一課に戻るという通称
『庁舎内引き回しの刑』
を実施していたらしい。
部長は午後から拘留請求のための書類を整えたが、ベテラン二人に加え課長も手伝ったのでスムーズに完了した。僕は何をしていいか分からない。誰も僕に手伝いを求めないのでキョロキョロしている間に何もかも終わってしまった。何もしなかった僕が、
「済みません。」
と言うと、コーヒー好きの先輩は、
「当てにしてない。」
と短く冷淡に言った。課長が、
「土居刑事、このままじゃあ続かんぞ。」
と言った。
「続かんと言うのは?」
と言うと、ため息交じりに、
「それも解らんか。」
書類ができた後部長の誘いで軽く打ち上げをということになり、部長が住んでいる旅館に案内された。離れでは無く旅館の、庭がよく見える部屋にはもう支度が出来ていたが、
「まず風呂でも。」
と部長が言い、皆で大浴場に入った。ゆっくり汗を流した後、旅館が用意してくれた浴衣と丹前に着替え部屋に戻った。部長は自前の和服に着替えている。庭を見ると舞のママと一人の美少女が庭の反対側の端を通って部長が住む離れに歩いて行くのが見えた。先輩が、
「美佳ちゃん大きゅうなったなー。一段と可愛らしゅうなって。」
と感嘆の声を上げている。部長は少し照れ臭そうだ。
いつも通りシャンパーニュでの乾杯から始まった。シャンパーニュにはオコゼの唐揚げが出た。出てくる料理は若竹の料理とは少し違っている。でも美味しい。コーヒー好き先輩はアルコールが苦手らしく乾杯のシャンパーニュを飲んだだけなのにもう酔って僕に絡み始めた。
『何も出来んのにもう一人前になった気になってる』
とか。部長が、
「今日は仕事がうまくいったお祝いじゃ。そこらは改めてということで。酒苦手な人のために旨い料理一杯出して貰うけん、ここは儂に免じて。」
と言うと、
「あ、そうよな。飲んで仕事のこと言う奴はおもろないな。分かった。」
と言って話を変えた。でも明日のバカ係長の反応が楽しみでたまらないのか上機嫌だ。
「儂石やんがタダで転ぶ訳無い言ううたやろ。なあ土居。」
「はい。」
翌朝朝礼の後課長から昨年4月1日発生の放火殺人事件の被疑者逮捕について課員に説明があった。逮捕に至った経緯を簡略に説明し、検挙の功労者である石原部長に一言を促した。部長は一歩前に進んで軽くお辞儀をした後、
「今回の検挙は課員の皆様の協力のお陰です。特に強行一係長さんには感謝の気持ちで一杯です。十数年前此処に居た時気付いて絶対に検挙をするという思いで取り掛かった事案を検挙することができて感無量です。それに加えて別件の放火殺人という重要事件を検挙することができました。昔からの事件の延長線上にあるように見えたこの事件を検挙できたのは強行一係長が旧来の事件を引き受けてくださって、本職に冷静に考える時間を作ってくださったお陰です。そのお陰で事案を見直すことができ検挙することができました。本当にありがとうございました。」
三係は全員笑いを嚙み殺している。課長も送致も。バカ係長は、
「いや、儂も事件検挙に貢献出来て嬉しいです。」
皮肉が伝わって無いようにも感じるのだが、本気に見える様に言っているのなら狸だ。
夏の終わり頃から時々部長が休暇を取っていたのは、実は休暇では無く課長公認の秘密の出張で、亡くなった被害者の実家や兄弟姉妹の家を訪ねて亡くなる前のことを聞いていたらしい。友人達にも。じっくり準備をしていたら班長が耳寄りな話を持って来てくれて一気に勝負に出たらしい。
被疑者は自供してからは何か心が落ち着いたようにも見える。部長は優しく丁寧に言葉を掛け丹念に調べを進めている。阿保たれの取り調べとは違う。その点を聞くと、
「どうしてやと思う。」
と返って来た。答えを用意せず問い掛けた僕が馬鹿だった。
「相変わらずやな。あれほど『考えい』言うてるのに考えん。次の異動では課長は間違いなくご栄転や。三係長もコーヒー豆もや。儂は上に嫌われとるから何時どこに飛ばされるか分からん。もうすぐ一人で歩かないかんのにこれでは自力で餌はとれんな。」
僕が黙っていると、
「『僕のどこがいかんのです。』言うて聞かんのか。」
「聞いても答えんでしょう。」
「そこは当りや。結局時間切れか。」
僕が不服そうな顔をしていると、
「あんたは、先輩は手取り足取して後輩を育てるのが義務やと思うてないか?」
「先輩ってそういうものじゃないんですか。」
「成る程、『考えろ』は言うだけ無駄やったんか。今回の調べはこれ1件や。余罪はない。この件の物的証拠もない。着火したライターも、使うた油も残ってない。狡い弁護士でも入って
『否認しなさい。証拠は無いから。』
とか入れ知恵されたら一寸不安や。優しく丁寧に心から自分が悪かったと思わすためにこういう調べをしとる。分かった。」
「そう言うてくれたら分かります。」
「これからはそうする。」
「お願いします。」
「ただこれ以後あんたを一人前にするという目標は放棄させて貰う。」
「どうしてですか。」
「考えん人間に先は無いと思うけん。これからは自分が思うように自力で一人前になってくれ。」
翌朝部長は強行三係長に、
「土居刑事は一人前の刑事として扱われることを強く望んでますから今日から係長直々に一人前の刑事として任務付与をしてください。」
と言い、係長は、
「分かった。」
とだけ答えた。一人前扱いは望むところだ。
僕はあれからずっと三係の日常の業務に追い回されている。傷害・変死・一般火災・etc. あれこんなに三係の仕事って多かったのかな。次から次に来る傷害の届け出、冬に増える一般火災、年間3百を超える変死事案。傷害の未処理は油断するとあっという間に溜まってしまう。その合間には他県からくる嘱託捜査も回ってくる。僕はこれまで傷害の処理は
『今日何時に被疑者がくるから調べろ』
と言われて調べるものだと思っていた。今は初捜が受けていったん帰らせている被疑者を自分で呼び出したり、一方的にやられた被害者からの届け出を受け被疑者を探すところから始めたり。任意では済まず逮捕状を請求しなければならないこともある。あっという間に僕の手持ちは満杯になってしまった。でも誰も手伝おうとはしてくれない。それを愚痴ると先輩に怒鳴られた。
「お前だけじゃない!皆同じことしとるんじゃ。お前は今まで専従捜査をしとったから楽しとったんじゃ。」
「あ、いや専従捜査は結構忙しかったんで。」
「阿保か、お前は石原部長が付けた段取りで言われた事しとっただけじゃろうが。仕事は段取り付けるのが大変なんじゃ。お前今傷害呼び出す段取りだけで音上げとるやないか。お前自分一人前の刑事やからそれなりに扱うてくれ言うたんじゃろうが。言うたんなら泣き言言わずにやらんかい。」
「………。」
「石原部長はな、お前みたいな半人前でも、自分が連れて皆の仕事手伝えんのは申し訳ない言うてお前居らんとこではいつも謝っとった。そのお詫びや言うて皆の嫁さんが喜ぶもの家に贈ってくれたり、子供が喜びそうな物買うてくれたり。」
「え、それならそうと言ってくれたら。」
「何でも言われるまで解らんやつはろくなもんじゃない。もおええ、一人前なら一人前らしゅう黙ってやることやれ。」
部長は被疑者を調べ終え時間を置かず身柄を未決に送った。阿保たれはそれよりもずっと前にバカ係長が持て余してしまい、うたわすと言った手前未決に送る訳にもいかず、ろくに調べもせず放置してしまっていた。たまに検房で顔を見るともう1週間も出して貰らって無いから煙草を吸わしてくれなんて言ってきたが相手にしなかった。石原部長にも同じことを言ったらしいが、
『もうお前は儂の身柄じゃない。勝手に他人の身柄を調べ室に出すのは仁義に悖ることやから出来ん。お前を調べとる係長はすごく怖い人やからとてもじゃないが儂如きでは手は出せん。』
と言われたらしい。僕が留置場の係だったころにも何日も調べに呼んでもらえない被疑者・被告人が居た。被留置者はそういう状態を『蒸される』と表現していた。でも僕達が真犯人を挙げたので留置場に留め置く意味がなくなり早々に検察庁に移監指揮をお願いしたそうだ。検察庁からはだいぶ嫌味を言われたそうだが。
部長も三係の仕事に復帰した。僕が溜め込んでいた仕事を半分以上引き受けてくれ、アッという間に処理してしまった。その後は、
「スタートラインは揃えたから後は一人前らしく自分でやってくれ。」
と言われたが、僕と石原部長では処理能力が違う。また僕は未処理が溜まっていくが、僕より多く仕事を引き受ける石原部長に手持ちはない。夕方になると終業時刻通りに課を後にしている。
「飲みに行ってるんですかね?」
それとなくコーヒー好きの先輩に聞くと、
「阿保、美佳ちゃんとこにまっしぐらや。」
と言われた。
僕が四苦八苦している内に年が明けていた。石原部長は相変わらず涼しい顔で人より多くの仕事を苦も無く片付けている。他の人達は手一杯ながらも残業をしながら何とか片付けている。僕は手持ちが増える一方。遂には休日も出勤しなければ収まらなくなった。休日に留置や交番の刑事希望者に声を掛けて手伝ってもらいながら片付けようとするのだが悪戦苦闘。手伝ってくれる後輩達も呆れている。
「石原部長の手伝いに押し掛けた時は、すごく分かり易い指示が出ましたよ。」
と言われてしまった。返す言葉が無い。
3月に入る前から石原部長は時々休暇を取る様になった。余裕だなと思って、羨ましい気持ちで見ていたがこれも仕方がない。そうこうする内に人事異動の内示があった。今年は4年に一度の統一地方選挙の年なので内示が少し早かった。僕は代わっていなかったが、課長は警視に昇任して本部のデスクに。三係長も本部のデスクに。コーヒー好きの先輩は選考昇任した上に本部に。部長も名前が無いなと思ったら、最後の方のページの退職者の所に名前があった。皆驚いている。
部長は警察官を続けていた理由となる事件を片付けたのでこの仕事を続ける気が無くなったらしい。課長は去年からそのことを知っていたみたいだ。
「本県警察にとっては惜しいことじゃが、こんな暴れ馬抑えられる者も居らんしな。」
と笑いながら言った。部長は3月31日までに有給休暇を全部消化する積りで休み始めていたらしい。今年は異動が少し早いので発令から3月末まで日数があるから消化し易いと笑って言っていた。
初捜班長も動いていた。また単身赴任だとぼやいていたが、この署の次に大きな警察署の盗犯係長で仕事のできる盗犯係長が選ばれる席らしい。
「お前も一人前宣言自分でしたんやからちゃんとせいよ。」
と言われた。石原部長からは、
「自分では一人前になった気分かもしれんが、儂から見たらとてもそうは思えん。最後まで面倒見さして貰えんかったんは心残りやけど、これも自分の意思やから思うようにやってくれ。」
と言われた。確かにこの頃、自分は思い上がっていたかもと思うこともあるがそうじゃないと思うようにしている。それを1年先にこの課に入った二係の先輩に言うと、
「僕にすれば羨ましい主任さんの下になったのにそれが解らなかった残念な後輩にしか思えんけどな。僕はこの3年間本当に辛かった。あんな係長らの下で手を抜くとこと人の手柄を奪うところばかり見せられて、処分の巻き添えまで。でも一係長は退職、二係長は転勤、係長が全部代わって係の組み換えもあるらしいから今度こそと思ったら石原部長も退職。ショックじゃ。」
「………。」




