放火(中編)
今日から予定通り張り込みを開始する。当直の予定等を勘案し石原部長がシフトの原案を作り僕の個人的な予定を聞いてくれたが『彼女いない歴23年』の僕には差し当たって予定はない。
初日はまず部長から。土曜日が僕で日曜日がまた部長。来週は金曜日に僕の当直が入るので部長が金曜、土曜とやって日曜日が僕。泊りは金曜日だから、
「翌日の土曜日できますよ。」
と言ったのだが、
「宿明けはしんどいから。」
と言ってくれた。
土曜日の午後部長から商店街に来る様言われたので、言われた時刻、言われた場所に出頭した。部長は付いて来る様に言ってまずスポーツ用品店に入り暖かそうなウエアとスノトレを買ってくれた。遠慮したのだが、
「色は選ばさんよ。闇に溶け込む色だけ。」
と言った後、そこを出て若者向けのカジュアルウエアの店でも暖かそうな上下を黒っぽい色で。イヤーマフと手袋も。
「いやこんなにまでして貰っては。」
と重ねて遠慮したのだが、
「張り込みは座って我慢するだけやのうて、ダッシュで被疑者を追いかけないかんこともある。寒いからいうて着膨れとったら機を逸する。冬の張り込みは温うて動きやすい衣類やないと。」
僕ってそういう面での信用もないんだ。でもこれからどんどん寒くなると考えも無く着膨れることは十分ある。我がことながら部長の懸念は当たっているかも。動きやすくて暖かいなんて衣類は持ってないし。
買い物が終わり別れ際に、
「終わって帰るときはこれ使うて。」
と言って、年寄りがウオーキングの時着用している反射材の襷を渡してくれた。
「黒い服は夜道で見えにくいから撥ねられても困る。帰り道気ぃ付けてな。」
重ね重ねのお心遣い有難うございます。
別れた後部長は真っ直ぐ商店街に面したデパートの入り口方面に歩いて行った。そこにはママらしき、姿のよい女性と遠目にも高価そうで可愛らしい服装の小学校高学年くらいに見える少女がいた。
一度家に帰った後午後8時前に周りに気を付けて勝手口から中に入り椅子のところに行くと何やら置いてある。灯はつけられないので外を車が通った時のライトで確認すると、使い捨てカイロが1箱と水・お茶のペットボトルが数本。
4時間の張り込み中、途中一度大急ぎでトイレに行ったが他は何事もなく勤務終了。襷は使わず部屋に帰り、ママから貰ったウイスキーでハイボールを作って飲んだ後就寝。結構高いウイスキーのはずなのにママとチーママが連れて行ってくれたお店のハイボールには程遠い。当たり前か。つい最近まで安くて適当な店で安い酒しか飲んだことが無かったんだから。明日はどうしようかなと思いながらベッドに入るとすぐ寝てしまった。
日曜日は久しぶりの完全休養日。でも僕には行く所が無い。仕方ないから午前中部屋の掃除でもして午後から銭湯でも行って近所の安い飯屋でビールでもと思ったのだが、ママから貰った白ワインがあるのを思い出したから鶏肉とフランスパンでも買ってきて部屋でテレビでも見ながら一人宴会をしよう。ママが白ワインが好きなのはお客さんの間では周知の事実で色々な白ワインを貰うらしいが、白なら何でもという訳ではなくストライクゾーンはごく狭くそこに投げ分けられるのは部長だけらしい。高価なものであれば良い訳では無く先日のイタリア料理店で海老と合わせた白みたいに高価ではなくても好きなものがあるらしいし、一寸手に入らない高価で希少なものも部長は何処かから手に入れてくるらしい。貰い物の白の中でママが飲むのはごく僅かで、大半はホステスさん達のお持ち帰りになっていると聞いた。
ダラダラと休日を過ごした後の月曜日はかったるい。今日は特に。白ワイン1本とウイスキーを少しだから二日酔いになるはずは無いのだが。贈った白ワインを盥回しされた人達の祟り?いつも通り午前7時30分頃出勤して掃除を済ませた頃、コーヒ好きの先輩が出勤して石原部長の机からコーヒーとサーバーを取り出し勝手に淹れ始めた。部長公認なので僕もミネラルウオーターを部長のロッカーから出して手伝った。昨夜は部長の当番だったせいか今日は出勤が遅い。始業時刻ぎりぎりに出勤して来た。それを見た強行一係長が、
「ええ身分じゃのう。重役出勤じゃ。」
と言ったとたん、部長は誰かの差し入れで皆の机の上に配ってあったみかんを1個掴み強行一係長に投げつけた。きれいに腕が振れていて惚れ惚れするくらいのフォームとスピードで。それもクイック。見事命中。
「何すんぞー。」
係長が言ったとたん部長が黙って僕の机の上にあったみかんを掴むと再度の攻撃を試みた。係長は慌てて机の陰に身を隠そうとして尻餅をついた。強行一係と二係は固まっている。強行三係はみんな笑いを噛み殺している。コーヒー好きの先輩が、
「雉も鳴かずば撃たれまいに。」
部長は、
「土居さん、明日から机の上に生卵置いといて。腐ったやつならなお結構。」
部長僕を巻き込まないでください。課長が部長に、
「石原部長もうそのくらいにしとけ。」
係長には、
「物投げたのは石原部長が悪い。でもあんたが要らんこと言わなんだら始まらなんだことや。どっちも悪い。」
と言ってその場を収めた。でも課長も笑いを嚙み殺しているのを僕は見た。
すぐに朝礼の時刻になったので皆で講堂に上がった。そっと強行一係長の顔を見ると目の下が赤くなっていた。ああ、あれはその内青タンになるなと思っていたら定元部長が寄ってきた。
「朝から一課が騒がしかったて?」
鑑識は一課ではあるが階を隔てた別室なので騒ぎは聞こえないはずなのに情報入手が早い。でも近くに一係と二係がいるから言いにくい。
僕が黙っていたら、一と二が傍に居るから言わないと察して、
「おい今朝何があったんや。」
とそちらに矛先を向けた。
「鑑識も一課やから儂らも課内で何があったか知っとく義務がある。言え!」
無理に言わそうとしていたら朝礼が始まり相手はそそくさと逃げて行った。その隙に僕も逃亡。
朝礼の指示は相も変わらず『事故防止』『検挙実績向上』。つまらない。石原部長は堂々と欠伸をしている。講堂を出るころには細かい内容は忘れてしまっていた。間もなく顔に青タンが出る係長は最前列でメモを取りながら聞いている。部長は、
「あれは署長・副署長へのアピールじゃ。つまらんことせずに仕事でアピールすりゃあええのに。」
身も蓋も無い。結構大きな声で言うから周りの署員が笑ってる。
それから数日は騒ぎは起こらなかった。このところずっと日中は三係の普段の仕事をしている。傷害事件、一般火災、変死、他。この署は管轄する人口が多いので自然と扱う事案も多くなる。被害者には申し訳ないが一人前になるには数をこなしてなんぼだから小さな署で初任刑事になった人達よりは恵まれている。それにほとんどの人が有能と認めている石原部長が一緒なので有難い。先日たまたま石原部長が不在で三係も出払っていたので、変死現場に手が空いていた強行一係長達と一緒に行くことになった。『嫌だな』と思っていたら、想像を上回る鬱陶しさだった。手際は悪いし、いちいち能書きを垂れるし、肝心なことを漏らしているし。石原部長の倍時間がかかった。
「儂は石原よりもずっと長ごう強行犯刑事しとる。経験が違うんじゃ。勉強になったやろう。」
と言われた。
「あんたの仕事は糞じゃな。」
という訳にもいかないので、
「はい。」
と答えたら、
「そうじゃろう、そうじゃろう。これ清書して報告しといて。報告者の名前は儂で。」
とご機嫌だったが、署に帰って、戻って来ていた石原部長に検視メモを見せると、
「なんじゃこれ、肝心なとこが抜けとるやないか、なんぞこのメモは。」
と言われた、
「強行一係長が自分一人で聴取してこれで報告せいと言ったんで。」
と言うと、
「こんな肝心なことが抜けた検視報告若い衆に書け言うんか!」
と一係長に詰め寄った。抜けているところを指摘し、
「これでええ思うんやったら自分で書いて報告せい。若い衆の名前は臨場者から外せ。刑事なったばかりの若い衆にお前の不始末担がすな。」
と部長が言うと、指摘が正しく抜けがあることを自覚したらしく黙ってしまった。
「こんな恥ずかしい書類は出せん。自分でやれ。」
と部長は言い放ち、メモを一係長に投げつけた。係長もこれでは報告できないと思ったらしく僕に再臨場するよう言ったのだが、
「自分のケツは自分で拭かんかい!」
と一喝されて自分の部下と黙って出て行った。
「あれはいかんと分かっとったんですけど
『儂はベテランでこの県一の強行係長や』
の一点張りなんで。」
と謝ると、
「馬鹿に付ける薬はないな。」
と言ってさっさと自分の仕事に戻った。
たまたま他署の若い刑事が委託留置をしている被疑者の取り調べに来ていて、その騒ぎに出くわし固まっていた。これでまた一つ石原部長の恐怖伝説が喧伝される。
それから暫くは平穏に日々の業務を淡々とこなしていたのだが、日にちが経つと学習能力が無いバカ係長とその腰巾着達が、
『専従捜査はどうなっとる』『なんもしよらんじゃないか』『もう諦めたんか』
等と言い出した。何ももしてない訳じゃないと言いたいところだが、秘匿張り込みは課長と僕達だけの秘密なので、何もしていないように言われても仕方はない。何故秘密にしているのか僕には分らないがきっと何かの意味があるのだろう。いや何に対してでもその意味を考えろと言われているから考ええてみるか。ただ秘密を守るのは絶対だ。守れなかった時のことを想像すると………。
それからもそんな日々が続き僕達は毎週末張り込みを続け、嫌味を言われながらも受け流し、たまには帰りに若竹や舞に寄って平穏に日々を送っていた。そんなある日強行一係と二係が監察に呼び出された。容疑は執務時間中にパチンコに興じていたというもので、
『捜査対象者の行動確認のため』
と言い訳をしたらしいが、複数日に渡る一塊になってパチンコに興じる様子を撮影した、店内の防犯カメラの画像を突き付けられお手上げだったらしい。何故分かったのか、何故防犯カメラの画像を監察が持っていたのかは課長にも分からないみたいだ。尤もこれを厳しく処分すると署長・副署長の監督責任が問われるので、この県の上りのポストに居るこの署の署長に忖度して処分自体は軽いものだったらしい。でもこれで僕達が遊んでいるだけとは言えなくなるはずだ。署員が複数で監察に呼ばれたという話はすぐに署内に広まった。その内容も。多分広めたのは定元部長だ。恐ろしや。今のところ大丈夫だけど敵に回さない様に注意しなくては。
年末が迫った頃『今年最後』ということで若竹の座敷に集まった。班長・定元部長・僕・ママ、勿論主催者は部長。いつものメンバーだが今日は課長も来た。僕達4人はつるんで署を出たのだが課長は別行動で。ママも一人で来た。部長が、
「今日は身内だけで。」
と言って始まった。今日は定元部長がやや大人しい。女将さんが、
「今日は洋美さんが本当は南風泊に行くはずだった良い虎河豚を、漁師さんから直接沢山手に入れてくれたのでその中でも一番いいのを出します。帰りには河豚飯もありますから。」
釜元部長が、
「一番ええとこだけ出した残りは?」
「うちが貰って商売にします。」
女将さんはしれっと言い切った。
「まあそんなことはどうでもええから始めよう、乾杯。」
部長の発声で始まった。
女将さんが今日出している河豚の、捌く前の姿をポラロイド写真で見せてくれた。班長達は感心したり喜んだり。僕には河豚の良し悪しが分からない。
でもすごく美味しい。僕には刺身よりも頭の唐揚げが美味しかった。乾杯のブラン・ド・ブランのシャンパーニュがよく合う。骨をしゃぶるように食べていたら、それを見た部長が自分の分全部を僕とママに分けてくれた。ママは河豚の唐揚げと焼き物で早速白ワインを飲んでいる。僕にも勧めてくれた。シャブリ・グランクリュ、ドメーヌ・ロン・デパキというワインらしい。ママはご機嫌だ。
次から次と出てくる料理を楽しみながら話が弾んだ。一係長一味の不始末の話になり、班長と定元部長が『不細工な話やのう』『これで土居があじゃこじゃ言われにくうなったの』『石やんが暴れんでもようなった』『課長も安心じゃ』などと言っていたらママが、
「そのパチンコ屋さんの専務さん洋美さんの中・高の同級生よね。」
とぽつりと言った。部長は黙って頷き意味ありげに笑っている。
「そのパチンコ屋さんを経営するグループ企業の社長の息子さんで現専務で次期社長になる人。洋美さんとは仲良いしうちにも時々来てくれる。洋美さんと一緒に来てくれることもあるんよ。」
部長が、
「聞いた話では誰かから防犯カメラの画像添えて監察に匿名希望のお手紙が届いたらしいで。」
部長以外皆啞然。その話はそこで打ち切り。
部長は最初虎河豚の皮をポン酢と薬味で和えたものを辛口純米吟醸の冷酒で、次いで河豚刺しを1枚ずつ口に運び同じ酒を冷やで。定元部長は河豚刺しを何枚も纏めて、箸で一度にこそげるように取ってビールを。課長と班長は純米吟醸を冷酒で飲んだ後、同じ蔵元の本醸造を熱燗で。女将さんが皆に鰭酒を勧めたので男性全員それを。皆それぞれ、思い思いに料理と酒を楽しんで色々な会話を楽しんだ。僕が肴になることもあったがもう慣れてしまって気にならない。〆の雑炊まで堪能して腹一杯になった。若竹の後はいつも通りに舞へ。奥さん達へのお土産の他、ホステスさん達への河豚飯を持って。
正月も同じペースで張り込みを続けた。
「正月に燃えたことはこれまで無いんじゃけど、自分の都合や言い訳でペースを崩すと後が続かんなるけん悪いが正月休みは無しじゃ。」
と言って。
元旦が金曜日だったので三が日共張り込んだ。部長が1日と3日をすると言ったが僕が1日と2日をすると申し出た。1日と2日は部長にお嬢さんとゆっくり過ごして貰おうという積りだったがそこは言わず、いつも世話になっているのでせめてということで。部長はそれを受け入れてくれて仕事納めの後、正月まで山奥の母の処に帰省する僕に前もってお年玉をくれた。祖父用の日本酒と母用の有名な洋菓子も。
元日は午前中田舎の氏神様に初詣をした後帰って来て予定通り午後8時から配置に着いた。部長も
『正月に燃えたことは無い』
と言っていたが、1日2日共対象者の出入りはなく張り込みは異常なし。3日は協力者の従兄弟同士達の家に田舎の土産を持って訪ねて行った。祖父が作った落鮎の焼き干と干し柿を。祖父は川遊びが好きで僕も子供の頃よく連れて行ってもらった。部長もアウトドアの遊びが好きみたいだから事件を解決できたら誘ってみようか。従兄弟同士達はすごく喜んでくれた。部長から
『欲しい情報だけ取れたら後は知らん顔』
というのは絶対駄目だと言われている。転勤で遠くに行ったら仕方ないけど、それまではたまにで良いから顔を出せと言われている。部長も時々覗いてるようだ。わざわざ買ったものを土産にすると相手も気を遣うので、田舎に帰った時に家に有るものが土産に良いだろうとも言われた。上がるように言われたが、
『用事があるので』
と丁寧に断った。
「デート?」
と聞かれたが、曖昧に笑って退散。
正月が明けて松が取れるまでの土曜日、その日は部長が当番だったので僕は夕方たまに行く焼き鳥屋に行った。そこを出たときなんとなく舞に行ってみようかなと思いつき初めて一人で舞のドアを押した。まだ時間が早いせいか客は少なく僕はカウンターの端の方に座った。最初ママが前に座ってくれて、
「今日洋美さんは?」
「あ、別の仕事があるんで。」
「ふーん。」
などと話した後、学生アルバイトのホステスさんを呼んでくれて、
「ゆっくりね、またあとで来るから。」
と言ってママは席を立ち別のお客さんの所に行った。僕達はそこそこの顔なじみなので最初から普通に会話が弾み、ホステスさんから部長はスコッチ、バーボン、ジャパニーズ他何種類ものウイスキーをキープしているけど、どれにすると言われたのでバーボンをお願いした。するとバーボンだけでも何種類もあるのでよく名前を聞くワイルドターキーにしてオンザロックでお願いした。部長がロックグラスを持ち上げて目の前で少し揺らした後口元に運ぶのが恰好良いので居ないところで一寸真似事を。おつまみにチーズとアマゴの燻製が出た。アマゴの燻製は自分のおつまみ用にと部長が持って来たらしい。他のお客さんには出さないが、僕にならと言って皿を運んでくれたチーママに依ると
『アマゴの燻製はスモーキーなスコッチに合う』
と部長が言っていたらしい。バーボンにはどうなのだろう。注意して味わってみたが良く分からなかった。1時間余り居てお勘定をお願いしたら、
「今日はいいですよ。」
と言われたが、
「せめてチャージだけでも。」
とお願いしたら千円だった。アルバイトホステスさんが店の外まで見送りに出てくれて、自分の名刺の裏にプライベートの電話番号を書いて渡してくれて、僕の電話もというので官用名刺の裏に書いて渡した。
1週間経っても電話が掛かってこなかったので、舞が休みの日曜夕方意を決して僕の方から電話した。電話に出たホステスさんは、
『全然電話来ないから私のこと興味無いんかと思っていた。』
と話の中で言った。
「そういう訳では無いけど僕これまで女の人に電話したことが無いから。」
と言うと、
「えー、そうなん、でもこういう時は男から掛けるものじゃない。」
そういうものなのか。でもお互い時間があったので急遽晩御飯を一緒に食べることになった。
『場所は任せる』
旨を言うと、繁華街ではなく学生街の一角にある店を指定された。
部長のおさがりでサイズを詰めてもらったネイビーブルーのフラノのブレザー、これもサイズ調整をして貰ったライトグレーでバーズアイのスラックス、ママの見立てで部長が買ってくれたライトブルーでオックスフォード地のボタンダウンシャツ、これもお下がりでレジメンタルストライプの細目のネクタイ、ママがクリスマスプレゼントに買ってくれたローファー、チーママが買ってくれたラインソックス。全部他力だ。コートだけはボーナス叩いて自力で買った青系のチェック地ダッフルコート。
部長とママが買い物に誘ってくれた時、買い物が終わってご飯を食べに言った店で部長は持ち物もに気を付けるように言いながらポケットから腕時計を取り出し、
「儂の古やけど。」
と言って国産だけど高そうな腕時計を渡してくれた。部長は日頃色々な腕時計を日替りで身に着けている。ママはブランド物のハンカチを何枚か僕に渡し、
「女の子はハンカチまで見てるよ。香典返しの安物じゃなくてこれを。」
と言って渡してくれた。部長が、
「あ、ベルト忘れてたけどサイズが微妙やからそこは自力で工面して。官品締めて外に行くんやないで。」
出掛ける前にそれらのチェックもしていたら時間ギリギリになった。仕方ないので通りでタクシーを拾って目的地に着くと相手はまだ来ていなかった。待つこと10分、
「ごめんなさい。」
と言いながら現れた。
「急だったから準備に手間取って。」
「うん、僕も慌てて着替えたけど男でも忙しかったんだから女性に時間がかかるのは当然。」
と言うと、
「やさしいんやね。」
と言われた。
店は軽食が取れて軽く飲む事も出来てグループでも一人でもといった、いかにも学生相手の感じがする店だった。山奥の農業科、畜産科がある高校で野球ばかりしていた僕には一寸めずらしい場所かな。僕の高校では卒業して大学に進学する者はごく少数だった。そんなことを思っていたら、
「何飲む。」
と聞かれたのでメニューを見ると銘柄不詳だが単に、赤ワイン・白ワインと書いてあるのが目にとまった。
「ワインでも飲む?」
と聞くと小さな声で、
「あまり美味しくないよ。でもたまに飲むけど。」
とのこと。
「いつも石原部長頼みで美味しいワイン飲ませて貰ってるけど、僕達が自力で飲むならこのくらいが妥当じゃない。」
と僕が言うと、
「確かに。じゃあ若者らしく身分相応で楽しもうか。」
ホステスさんに『赤?』『白?』と尋ねると『白』と返事が返ったので白向けの料理をメニューから選ぶことにした。食べながら飲みながら色々話をした。何と呼んだらいいのかなと思っていたら、
「私のことは和子またはカズちゃんと呼んで。」
と言われたので。
「分かりました。」
と返事すると、
「土居さんのことはこないだ貰った名刺の通り秀明さんでいい?何ならヒデリンとか。」
「秀明でお願いします。」
たがいに名前にさんを付けて呼び合うことになった。
和子さんは刑事の日常に興味があるみたいだ。僕は初め当たり障りのないところで話をしていたが、興味は捜査の内容や仕事よりも刑事の普段の生活に興味があるみたいだ。先日のみかんストライク事件の話をしたら大受けしていた。パチンコバレバレ事件の話をしたらこれも受けるだろうと思ったが、警察の恥だから自重した。今やってる張り込みは言えない話だし、言ったところで面白がられる話でもない。仕事のこと学校のことあれこれ話したが、楽しい時間は驚く程早く過ぎ夜も更けたので店を出て、割と近くの彼女のアパート前まで歩きで送ってから家に帰った。
部屋に入ると電話が鳴っていた。取るとさっき別れたばかりの和子さんだった。さっきのお礼ということで。帰りがけ割り勘でと言われたのだが、
「石原部長から女性と年下にはお金を使わせるな。歳上の男からは堂々と奢ってもらえ。」
と言われてるからと言って僕が払ったので。本当はそんなこと言われてないけどつい良い格好をしてしまった。日頃の石原部長の姿を見ているとこれは間違っていないと思う。でも多分性別・年齢ではなく、
『有るもんが払うたらええんじゃ。』
と言うだけだろうけど。それからいえば僕が払うのは間違っているかも。その後少し話をして次に会う約束をして電話を切った。
次の金曜日は僕が張り込む番だった。張り込みに就いた後すぐに対象者が家を出た。指示された通り距離を保って跡を付けた。僕が住んでいる辺りは近年宅地化されてきてはいるがまだ結構田畑が残っていて、近所に牛を飼っている農家まである。田んぼの傍を通られると隠れて跡は付けにくい。途中田んぼで籾殻を燻焼している所があった。今日は日中風が無かったからかな。山奥の僕の家でも祖父が秋から冬の、風が無い日に籾殻を燻炭にして田んぼに漉き込んでいた。
対象者はその場所に来ると立ち止まった。じっと籾殻を見ている。何故だろう。よく見ると夜になって出始めた風で、燻焼中の籾殻に酸素が送られ籾殻が一部赤く光っている。対象者はじっとそれを見つめている。それを見ていると何故か背中がぞっとする様な嫌な感じが。対象者は5分余りその場に立ち止まって火を見つめた後また歩き出した。着いた先は僕も時々買い物に行く酒屋だった。何を買ったのかは分からないがすぐに店を出た。帰りはさっきの田んぼとは一筋違う道を通り家に帰った。さっきの嫌な感じは何だったんだろう。その後動きは無く午前0時になったので張り込みを終えた。
何故かそのことが気になったので翌日部長が張り込んでいる時間帯に張り込み場所に行って昨夜のことを報告した。
「感じたか…。」
と言われたが今一つその意味が分からない。
「少しは成長したな。」
何処がだろう。
「感覚は大事なものや。あいつが火を見つめる姿に何らかの違和感を感じたのなら近いかもしれんな。」
「放火がですか。」
「うん。」
本当だろうか。
「分かった。一層注意深こう見張らないかんな。」
と言った部長は何故か嬉しそうだった。
「儂は火を焚くのが好きでな。時々近郊の知り合いが所有する山に入って焚火しとる。夜の帳の中で燃える火を見るのが好きなんや。折りたたみ椅子に座って火を見ながら肉焼いてワインやウイスキーを飲んで、天幕の中で寝くたばるのが良いリフレッシュなんや。」
僕が黙って頷くと。
「儂は他人の家に火を付けた事は勿論、付けようと思うたことも無い。でもあいつは恨みつらみで付けた火でええ気持ちになれたんやなかろうかと思う。それで止められんなったんじゃろうな。始まりは恨みからやったけど、恨んだ相手の家が燃えるのを見とるうちに火を見ることが快感になってしもうたんやと思う。土居さんが見た、奴が火を見る姿はそれやと思う。ええ情報や。またそれに違和感を覚えたのもええ感覚や。捜査係にとって感は大事じゃ。一見問題なしの現場でも何か感に障るものがあったら気を付けないかん。」
そういうものか。
「うん、分かった。明日に備えて今日はゆっくり休んで。」
と言われたので部屋に帰り少しだけ飲んで早く寝た。
翌日は何事も起こらなかった。新しい週が始まったが特に変わったことは無い。その翌週も。時々対象者の出入りはあったが特異な動きは皆無。日中は日々発生する雑多な事案を片づけて週末は交代で張り込み。ここしばらくは部長のお供では飲みに行っていない。でも和子さんが休みで僕も夜の仕事が無い時に二人で会って、身分相応の店でささやかに分相応のお酒を飲んで取りとめもなく話をしている。二人で話し合ってお互い似た様な小遣い事情なので、きっちり割り勘では無くても一定期間を見ればイーブンになる様に出し合うということで。
もうすぐ冬至から2か月になる。部長は、
「予定より少し期間を延ばし3月上旬まで張り込みを続ける。それを過ぎるとパターン外になるし、異動時期にかかるのでシーズンオフにして来シーズンに賭ける。」
と言った。
「了解しました。」
と僕が言うと、
「『なんもしとらん専従捜査員が』とか言う奴等が出るやろうけど辛抱してくれ。奴が動かんことにはこっちも動きようがない。」
「今やってることを皆に言って
『何もしてない訳じゃない。』
って言うたらいかんのですか。」
と聞くと、
「腐れ一味が絶対混ぜに来る。筋がよさそうやったら何とか横盗れまいかと考えるし、無理やったら邪魔しに来る。」
「そんなこと………。」
「あるんや。あの腐れ係長当直の晩に他人の机の抽斗漁って、他人が苦労して入手した捜査端緒を盗って自分の実績にするんなんか平気の平左や。今やっとることを口に出すのは勿論、メモを鍵がかからん抽斗に置いといたりしたらあかん。儂が、
『書いた書類は大事なものやからメモ1枚まで鍵の掛る引き出しに仕舞え』
『今やってることは3人だけの秘密』
『張り込みの報告はすべて口頭で』
いうのはそのためや。課長も分かっとる。」
一寸ショック。俄には信じ難い話だけど部長が言うのだから真実なんだろう。部長はやばい人だけど卑怯者でも嘘吐きでもない。
ついに冬至から2か月が過ぎた。過ぎた後の最初の日曜日僕が張り込む日だったが、和子さんが出かけたいというので午後8時までに戻ればいいだろうと思ってドライブに出かけた。和子さん僕が生まれた処を見てみたいというので少し迷ったが往復4時間足らずだし良いだろうと思い朝からその方面に向かい、本人が行きたいと言うのだから家にも寄ってみようと車を走らせた。
僕の車は就職してからお金を貯めて買った中古のぼろ車なのでその事も言ったが、親に頼らず自分で買った車が良いと言ってくれた。これまで何度か一緒の時間を過ごしたが、和子さんの家庭もお金持ちでは無いみたいでお互いささやかに日々を楽しんでいる者同士みたいだ。夜の街でアルバイトをしているのは学費・生活費を自分で工面するためみたいで、派手な生活がしたくてでは無いのには好感が持てる。
「この前石原さんが車に乗ってるとこ見たけど軽だったよ。」
「ああ、あれはセカンドカー。家にはよく手入れされた200台位しか世に出てない車があった。」
「そうだろうね。似合ってはいたけど何故だろうと思ってた。」
途中休憩を挟んで景色を見たり話したりしながら車を走らせたら正午前に実家に着いた。前もって報せていたので庭も家も掃除されている。母は僕が初めて家に女性を連れてきたので若干緊張気味。和子さん僕と会う時はお店とは違う学生らしい服装で化粧も薄め。互いに挨拶を交わした後用意してくれていた昼食を祖父も一緒に摂ることになった。
母が、
「近所で採れた物ばかりでお口に合うかどうか。」
と言って出してくれたのは、
落鮎の飴炊き、初夏に採って乾燥保存し戻した淡竹や薇の煮物、少し甘めの卵焼き等僕の好物ばかりだが和子さんにどうかなと思っていたら、すごく喜んで食べてくれたので安心した。
「私両親が工場勤めの共働きで子供の頃、出来合いの物かふりかけばかりだったからこんな美味しいご飯食べさせてもらってすごく嬉しいです。」
と言ってくれたら母も祖父も大喜びで、
『飴炊きは鮎を水で戻した後その水は取っておいて、出がらしの薄い番茶で焚いてから戻し水と昆布出汁で焚く。番茶は濃すぎても薄すぎても、焚く時間は長過ぎても短過ぎてもいかん』
等祖父が語るのも嫌がらず聞いてくれて、つい家に居る時間が長引いた。でも今日は午後8時には配置に着かなければいけないので午後5時過ぎに実家を出た。休憩を挟んでも2時間一寸で帰り着く。余裕だと思って出発したのだが。
家から国道に出るまでの一車線しかない昔ながらの県道で大型ダンプの事故があり進みも退きも出来ず立ち往生してしまった。焦った。でも女性の前で慌てる素振りは見せられない。でも和子さんには僕の焦りが分ったみたいだ。仕方がないので目的・対象等は伏せて午後8時から一人で張り込みをしなければいけなかったのだがと言ったがあまり重大さは伝わらなかった。連絡しようにも近くに公衆電話は無い。落ち着け落ち着け。
結局そこを抜けるのに3時間以上かかった、張り込み開始時刻は疾うに過ぎている。
『もう冬至から2か月を過ぎたし』
『これまで何も起こってないし』
と自分に都合のいい事だけを頼みに市内に帰り着いた時には午後10時を過ぎていた。和子さんを送った後焦って午後11時前頃ボロアパートに帰ると消防車に出くわした。一瞬で顔が蒼ざめるのが自分でも分かった。
急いで張り込み場所に行くと、張り込み場所から対象者宅を挟んだ反対側のそう遠くないところに消防車が停まっていた。小火だったみたいで消防車は帰り始めていた。初捜班と石原部長が居てその奥では定元部長が石膏で足跡を採取していた。部長は何も言わずに石膏を練って近くの足跡を押さえている。僕に気づくと、
「そこに石膏があるけんそこらの足跡全部採れ!」
と言った。意味が解らないのでおろおろしていたら、
「意味が解らんでもやれ言われたことをせい!」
と小さな声だがきつい調子で言われた。慌てて石膏をボウルに溶いたが初任科の時に練習したきりなので水の分量も分からない。戸惑っていると、
「説明は後や、一人では百年考えても意味は分からん。固まりさえしたら綺麗に採れんでええからそこら中の足跡の上に石膏置け!」
それでも戸惑っていると、
「これまでも意味が解からずにやった事はなんぼでも有ったじゃろうが!さっさと動け!」
怒りが言葉に滲み出てきたので慌てて石膏を練って足跡の上に置いて行った。
すると今日当直の盗犯係の先輩が20キロ入りの石膏の箱を2箱持ってきた。奥の足跡を採っていた定元部長が、
「お、もう来たんか。感心、感心。綺麗に採れんでええけんそこら中の足跡に石膏練って載せていけ。」
盗犯の先輩が、
「これなんか意味があるんですか?」
と聞くと、
「儂にも分からん。石やんがやれ言うけんやるんじゃ。今説明する暇はない言うとった。じゃからやれ。」
盗犯の先輩も意味が解らず不満そうな顔だ。定元部長怒った声で、
「やれ言うたらやれや!お前等や儂の粗末な頭で石やんの考えは推し量れん。石やんに何か考えがあるはずやから黙ってやれ!」
蹴り倒しに来そうな雰囲気だったので慌てて石膏を練った。
意味も解らず石膏を練っては足跡の上に流し込んでいたら課長が来た。
「これどしたんぞ?」
と聞かれたので、
「石原部長の指示です。説明しとる暇は無いそうです。」
と答えると、
「そうか何ぞ思いついた事が有るんじゃろう。」
と言って僕が来た時定元部長が足跡を採っていた辺りに行った。そこで石原部長、定元部長と顔を寄せ合って相談事をしている様子だった。部長は強行三係の係長とあと一人の三係員と定元部長が指名したベテランの鑑識主任を名指しで呼び出してくれるように課長に頼んだ後、僕にも付いて来る様に言ったので定元部長と3人で容疑者宅の方に歩いた。僕の粗末な頭ではやってることが分からない。
対象者宅に行き玄関先で声を掛けると高齢の、母親と思われる人物が出て来て、
「息子さん居る?」
と部長が尋ねた。
「はい。」
と答えて、一度奥に戻り息子を呼びに行ったが、
「さっきまで居ったんじゃけど見当たらんのですが。」
「少し前ここに帰ったんを見たんじゃけど。」
「ええ、帰ってきたんじゃけど居らんのですよ。」
「さっきそこで火事があったん知っとった?」
「ええ、消防車が来たんでびっくりしました。そんでも通り過ぎたんけんこの家は大丈夫かと思うとりました。」
「うん、息子さん帰って来たみたいじゃったのはその頃?」
「はい。」
「お母さん、儂ら警察じゃ。」
と言って部長は警察手帳を提示した。何事かと訝しがる母親に、
「さっきお宅の息子さん火事現場で火を消すのを手伝うてくれとったみたいなんじゃ。儂現場から男の人が一人この家に帰るんを見たんで来たんよ。さっきの火事、火が出た原因がよう分からんのじゃ。もし誰か悪い奴が来て火着けたんやったらいかんけん念のため調べよるんじゃ。燃えた所の周りに足跡がよおけあってなそれ全部採取したんじゃけど、消すの手伝うてくれた人らの足跡がそこにあるのは当たり前や。けどそれ以外の足跡が有ったら火を着けた奴の足跡の可能性が出るけん、いっぱい採った足跡と手伝うてくれた人の履物とを照らし合わせよるんよ。有って当たり前の足跡を除けるために手伝うてくれた人全員。その時居った人全員からその時履いとった履物の裏見せて貰いよるんじゃ。有って当たり前の足跡を除けるために息子さんの靴見せて貰えんじゃろうか。」
「ああそういうことですか。」
と言いながら玄関の土間にある履物を見回した後、
「いつも履いとる靴が見当たらんのです。それと近所に行くとき使うとるつっかけも無いんです。」
定元部長は一通りその場の履物の裏を見て小さく首を振っている。僕が小さな声で、
「捜してみます。」
と言ったらお母さんに聞こえない様に、
「バカ!任意のガサする馬鹿がどこに居る!」
と怒られた。部長が、
「普段使うとる履物が2足も無いんかな、おかしなぁ。」
と言うとお母さんはいったん奥に入り暫くして、
「在りました。裏口の外に置いてある靴箱に1足。」
と言って1足のケミカルシューズを持ってきた。それを見た定元部長は石原部長を見て小さく頷いた。
「お母さんこれ儂らが勝手に持って帰るわけにはいかんのじゃけど本人さん居らんからお母さんから預からして貰えんかな。」
と言うと、
「持って帰るんですか?」
とお母さん、
「うん。現場の足跡と合わせて問題なかったらすぐ返すけん。持って帰る前にどこにあったかだけ教えてくれる。」
と言って裏口に案内させて、お母さんに『ここにありました』とでもいう様にその箇所を指で指させて定元部長が写真を撮り、
「本人さんから直接出して貰えんので、お母さんが提出しましたいう書類と、儂が預かりましたいう書類作っとくけんな。」
と言って任意提出書などに署名を貰いその場を離れた。
元のところに戻り部長は小さな手帳に自分の行動を細かい時間とともに記入している。それが終わると僕を少し離れた処に連れて行き、
「口裏合せとる暇は無い。皆が揃うたら儂が状況を説明するからあんたは全部に頷いとけ。要らんことは言うな。絶対に。」
と強い口調で言った後元の位置に戻った。その後部長と定元部長が指名した人達が集まり始め全員揃ったところで招集された人達と現場に居た初捜員に説明を始めた。今日の強行犯の当直はコーヒー好きの先輩だから問題ない。
部長は、
自分達二人は昨年4月1日にこの付近で発生した放火殺人事件の専従捜査をしてきた。
この地区には自分が判断して20年位前から一連のものだと思慮される放火が出ている。
その件を抜きにしては本件の捜査が成り立たないと思うのでまずはその容疑者を割ることから始めた。
それらしき容疑者が出たので身辺捜査を実施し可能性大と判断し行動確認等に入った。
そのため昨秋から土居刑事と二人でこの地区の警戒張り込みを続けてきた。
本日は自分が担当であったが、警戒中火災が発生し対象者が現場から立ち去り帰宅したのを確認。
現場を確認したら火をつけた者の足跡でなければ有り得ない足跡を発見。
本日当直勤務中の定元部長に石膏法による採取を依頼。
関係者足跡確認の名目を作るため現場付近の足跡を大量に採取。
容疑者宅に関係者足跡確認の名目で赴き、本人不在であったが遺留足跡と同一と思われるケミカルシューズを確認したので母親から任意提出を受けた。
以上の状況なのでこれより現住建造物等放火の実況見分を行います。明日夜が明けてから明るいところで再度行うが今の段階の状況も欲しいのでご足労願いましたと言って見分を開始した。
2時間程現場に居た後現場を保存し一旦帰署。部長は僕に仮眠を取る様に言い、呼び出した人たちに礼を言い帰宅を促したが自分は席で手帳を見ながら書類を書き始めた。僕は休憩室でつい寝入ってしまい午前7時頃目を覚ますと部長は自分でコーヒーを入れて飲んでいて、僕にも飲むように促した。
誰も居なかったので、昨日のことを詫びたら、
「済んだことは仕方がない。しかし自分が信用を失ったことは自覚せないかん。」
と言われた。
「失うた信用を回復するのは並大抵のことじゃない。相手は儂だけやからどうでもいいと思うならどうにでもすれば良いし、回復したいならそれなりの行動をとることじゃ。儂はどっちでもええ。」
とも。
検房が終わった当直中のコーヒー好き先輩が課に戻り、
「儂の分は?」
「有るよ。」
先輩は満足そうにマグカップにコーヒーを注ぎ、
「土居よ、ようやったの。儂ら全然知らんかった。」
僕は何と答えていいか分らない。部長が、
「せっかくの食いもんはハイエナに気づかれんようにせないかんからな。」
「そらそうじゃ。そんでも放火は儂らの担当じゃ言うて横入りしてくるぞ。」
「パチンコが担当か思うとった言うて追い散らす。」
「普通の奴やったら石やんの食いもん盗ろうとはせんけどな。まあ極めつけの馬鹿らやから。」
「疲労回復に。」
と言って部長が抽斗から和三盆の干菓子を出して、
「それにしてもあんたが泊りで、定さんが泊り交代しとくれとったんはラッキーやった。」
と言いながら先輩に渡した。そして僕にも。
「疲れには糖分。コーヒーにも合うし。前くれた京大近くの金平糖もコーヒーとよう合うた。」
「また工面する。」
「定さんが昨夜の足跡朝一で鑑定に持って行ってくれる。午後には鑑定書は無理やけど電話受信はくれると思う。午前中明るいとこで現場を再確認した後、足跡の電話受信取れたら令状請求する。捜査報告書他の疎明資料はできとる。今のうちに読んどけ。」
と言って寝ずに書いた書類を見せてくれた。
「ハイエナには見られるな。」
とも言って。
捜査報告書を読むとその時の容疑者と部長の行動、位置関係等が良く分かった。僕が和子さんを送り届けた頃発生したんだ。でも部長は何故現場付近に居たんだろう。恐る恐るそのことを聞くと、
「虫の知らせや。何か知らんけど今晩はあそこら付近に行った方がええような気がした。当たりやったな。」
「済みません。」
「謝るんは誰でもできる。リカバーできるかできんかじゃ。それ以上は言わん。」
午前8時を過ぎて皆が出勤して来た。強行一係長も。上がってくる前に昨夜不審火災があったことを聞いたみたいだ。
「ほら見てみい専従捜査員が何もせんから又やられたやないか。」
と言いながら部屋に入ってきた。先に出勤していた部下が何事か耳元で囁くと顔色が変わった。被疑者が割れてるとでも言われたのだろう。
「運がええ奴らやの。たまたま現場に出くわすやて。」
課員の一部は石原部長が何か投げるのを期待したかもしれない。部長がこの頃文鎮代わりに置いている刀の鍔を素早く掴むと、バカ係長は慌てて部下の背中に隠れ部下は顔を引き攣らせていた。部長はニヤリと笑い静かに鍔を元の位置に戻した。その後すぐに昨夜出てくれた三係が出勤して来て部長は丁寧にお礼を言っていた。最後に課長が出勤して部長と僕にねぎらいの言葉をかけて、
「昨夜放火があったが専従捜査員の苦労が実り容疑者が割れていて疎明資料が揃ったら午後から令状請求をして、出次第身柄を引いて被疑者方の捜索をします。詳細は朝礼の後で。」
と言うとバカ係長が、
「放火殺人は儂らの仕事やから令状は一と二で請求します。」
と言ったが、
「どうやって。」
と課長に言われ無視された。
朝礼に上がると当直司令が当直中扱った事案の報告をし、
『放火事案については専従捜査員が警戒中に発生し、被疑者の目途をつけています。』
と付け加えると安堵のため息が一部署員から洩れた。専従捜査に出る必要が無いと思ったからだろう。1か月以上も休み無く夜遅くまで働くのは皆御免だ。でも僕の心は曇ったままだ。僕が務めを果たさなかった捜査員であることを知っているのは部長だけで皆は、
『良かったの。』
『よう頑張った。』
『三歩前へじゃの。』
と言ってくれるが恥ずかしさが募るだけだ。
朝礼が終わり課に戻ると改めて石原部長と僕に課長から労いの言葉があった。次いで、
「令状請求は三係でして貰う。令状出たら三係で任意同行とガサ。取り調べは石原部長、土居刑事は補助。」
言い終わる間もなくバカ係長が、
「いや、殺人・放火は一係と二係が担当やから儂らがやります。」
と言ったが、
「あんたら被疑者が何処の誰か分かっとるんか?どういう経過で被疑者割れたか知っとるんか?どういう捜査して来たか分かっとるんか?何も分かって無い者がどうやって調べや立件するんじゃ!石原部長と土居刑事は自分の係に極力負担を掛けんようにして、夜間と休日休みなしに捜査して来たんや!あんたらが仕事中パチンコ行って遊んどる時もな。他人の苦労を横から奪おうとする様なハイエナは引込んどけ!」
バカ係長は黙っている。
「この件は石原部長・土居刑事が中心になって三係で立件して貰う。その間三係の手が足りんなるから変死・火事・傷害等は一係と二係でやって貰う。」
「いやそれは、儂らも自分の仕事がありますけん。」
バカ係長が言ったが、
「仕事?儂は何も聞いとらん!手掛けとる未解決事件が有るなら儂に報告してから始めて、逐一経過を報告するのが筋やろう。石原部長と土居刑事はこの件について逐一細かく報告してくれとる。一と二は当分勝手に外に出るのは禁止。儂の指示で動くこと。以上。」
三係は皆笑いをかみ殺している。石原部長が、
「定元部長が今本部鑑識課の足跡係に証拠品の靴と現場の足跡を持って行き鑑定して貰っています。鑑定書は後日になるけど、電話受信で疎明資料にします。それとこれまでの聞き込み状況、昨夜の警戒張り込み状況、本職の容疑者目撃状況、出火場所の状況等の捜査報告書はもうできています。」
「それと容疑者は火災発生直後から姿が見えなくなっておりましたので、現場で機動捜査隊に依頼して捜索して貰っていましたが朝方帰宅したのを確認済み。現在自宅に居る同人を機動捜査隊が監視中です。」
と三係員に報告した。
僕が、
「機動捜査隊よく他所の事件引き受けてくれましたね。」
とコーヒー好きの先輩に言うと、
「機捜隊は身柄確保しただけで実績になるんや。本署までの任同もやらしてやって、凶悪犯罪の逮捕状の執行もやらしてやったら大喜びじゃ。持ちつ持たれつやな。」
「そーなんですか。」
午前中現場に再臨場して明るいところで現場を確認したが特に目新しいものは無かった。部長が行確中の機捜隊員に缶コーヒーとサンドイッチの差し入れをしていた。部長は本当によく気が付く。一緒に居た先輩が、
「石原部長機捜隊や機動隊の宴会の世話までしとるから。」
「え、そーなんですか?」
「この街で一番大きな飲食店グループの会長が石原部長の亡くなったお父さんの後輩らしい。子供がおらんので石原部長のことをすごく可愛がっとるらしい。そのグループの店で機捜隊や機動隊が飲み会したら請求書を石原部長宛に送らすんや。次の給料日に3割引きの請求書が石原部長に来るんで、石原部長が立て替えて払うてその請求書を、飲み会したとこの幹事に送って代金集めさしてそれ用の部長の口座に振り込ます。石原部長宴会代専用の口座持っとんやで。他にも世話になっとる所属が結構あるらしい。大幅割引でも料理は全然落としてないし、大酒呑み揃いの警察官相手に飲み放題という太っ腹やし。儂は機動隊も機捜隊も居ったけん。」
足跡鑑定結果の電話受信を待っていたら午後2時半ころ、鑑識課足跡係から定元部長に電話があったらしい。結果は『符合』だそうだ。
「ケミカルシューズなんて大量に販売されているものでしょう?そこら中に有る物が『符合』で良いんですか?」
と僕が聞くと部長は、
「安もんのケミカルシューズは一足分ずつ靴底作るんやない。靴底を広いシートで作ってサイズごとに型抜きするんじゃ。シート全体のパターンは一緒でも靴底毎の端の切れ方によって靴毎に底の模様に微妙な違いが出る。検品も甘いから小さい傷は見逃されとる。そこに履いてる間の傷が加わったら唯一無二の靴底になる。」
定元部長が電話受信を持ってきた。当直中などにいつも思うのだがあんなガサツなことばかり言っているけど実に綺麗な字を書く。石原部長が綺麗な字を書くのは何となく分るのだが。石原部長は長い調書でも最後の方の文字が最初の方の文字と同じ綺麗さを保つ。
完成した書類に部長が目を通す。1箇所付箋を付けて、
「念のため夜間執行付けといてください。」
と言って一旦書類を戻した。再度書類が来たらその部分を確認して課長に渡した。戻ってきた部長に、
「夜間執行って何ですか?」
と聞くと、何を言うとんじゃみたいな顔をされた。
「初任科で習わんかったか?」
と言われて少し不安になった。警察学校で習ったはずのことで覚えてないことが結構ある。警察学校の成績は秀でたものでは無かったが、劣等だったとも思わないのだが。首を捻っていると、部長は少し呆れた顔をして、
「刑事訴訟法第116条読んどいて。」
と言われたので慌てて警察六法を探した。
課長が書類に目を通し、管理官・副署長・署長に決裁を貰うため課を出た。部長が、
「送致係に言うとるから令状請求連れて行って貰え。どういう手順かを知っとって損はない。」
「はい分かりました。」
まだ見捨てられてはいないのだろうか。
裁判所で暫く待った。裁判官の都合で待たされている間送致の先輩が令状請求について色々話をしてくれた。その中で、
「前に一係の請求で裁判官が納得せんかって令状出んかったことがあった。事務官が遠回しに『出ませんよ。』言うてくれるんで、『撤回します。』いう電話したら一係長が『何が何でも貰え。』言うて困ったことがある。」
「それどうなるんですか?」
「それを無理押ししたら、『却下』されるだけや。令状請求を『却下』されるんは、この件は『無罪』言われたんと同じや。警察の失点や。あの人その事を分かって無い。長い間刑事しとるはずなんやけど。仕方ないから前の課長に言うて撤回させて貰うた。そしたら自分のミスを課長にチクった言うてグジグジ言いやがった。」
「あの人ここ長いんですか?」
「うん、上に胡麻擂って家から通えるとこばっかり異動しとるらしい。」
そんな話をしていたら令状が出た。これから持ち帰って執行するとなれば日没を過ぎるかもしれない。それで部長は夜間執行を必要だと思ったのか。令状が出た旨の電話報告をした後帰署した。三係はもう準備ができていてすぐに現場に赴いた。見張っていてくれた機捜隊員に礼を言った後、
「一旦任同するんで搬送して貰える。」
と声を掛け家に入った。
まず捜索差押令状を示し、
「昨夜あったここに書いてある住所での現住建造物等放火事件に関連してこの家を捜索して裁判所が許可した品物を押収する。この住所はこの家のすぐ先やしわかるな。夕べそこで火事が発生したも知っとるな。」
と告げてから、対象者を立会させて捜索をし、ライターなどを押収した後、容疑者として任意同行を求めた。ぐずっていたが、
「ここでやってもええんぞ。」
と令状が入っている封筒をチラつかせて言うと任意同行に応じた。刑務所に行ったことは無いけど逮捕されたことは有るみたいだから、そこらのことは分かっているみたいだ。機動捜査隊の車両に乗せて搬送したのだが、僕も後部座席で容疑者を挟んで座った。
取調室に入れ椅子に座らせた後部長が、
「何でここに座らされとるか思い当たる節はあるか?」
と聞くと、
「分からんわい。」
「在りすぎてどのことか分からんのか?」
「儂は何もしてない。」
「そうか、儂は夕べお前見かけたんやけど。」
「………。」
「他にもお前が勢いように飛び出てきたとこ見とる人もおるぞ。お前後ろから名指しで『待て!』いわれたやろう。」
「………。」
部長が書いた捜報にはそんなことは書いてなかったけど。
「儂がお母さんからお前の靴預かって帰ったの聞いとるか?」
「………。」
「黙秘か。ええやろう。お前には『黙秘権』がある。お前が喋ったことが自分を不利にすることが有るかもしれんから、言いた無いことは言わんでもええという『黙秘権』がお前にあることは伝えたぞ。そのうえで聞くけど、夕べお前の家の近所であった火事について思い当たることは無いか?」
「儂じゃない。」
「儂じゃない?どういう意味じゃ。夕べの火事あの家の火の不始末やないんか?誰かが着けた言うんか?そしたら誰が着けたぞ?」
「………。」
「まあ豚箱でゆっくり考えたらええ。」
「え、儂帰らして貰えんのか。」
「帰らさん。」
と即答した部長は、機捜隊員を呼んで逮捕状を執行させた。次いで弁解録取書を取った後留置場に連行した。
自分の机に戻ると署長が部屋に居た。バカ係長が日頃胡麻を擂っている署長・副署長・刑事管理官に泣き付いて事件を盗ろうとしているみたいだ。課長は頑として受けつけなかった。署長が、
『本来放火を担当する二係がこの放火事件を担当するのが筋であり署の秩序というものだ。』
と理屈をつけたらしいが、
『執務時間中パチンコに行く様な輩に秩序は無い。事件検挙のため休みを返上し深夜までの捜査をした捜査員に自分で端緒をとった事件を最後までやらすのが秩序というものだ。』
と課長が言うとそれ以上は言えなかったみたいだ。課長は一係長のことを『ハイエナ』とまで表現したらしくその剣幕に署長以下腰が引けたみたいだ。
署長達が立ち去った後課長は、
「盗人の算段する時間が有るんじゃったら仕事せい!ええ事件扱いたかったら自分で端緒をとったらええんじゃ!3月一杯はあんたらは三係の仕事を手伝え!勝手に外に出たら許さんぞ!4月になって異動後の新体制になったらまた考える、その時あんたらがここに居るとは限らんが。」
と強い調子で一と二の係に言った。
石原部長は他人事みたいに欠伸をしながら帰り支度をしている。
「儂寝てないから帰りますよ。調べは明日の朝からします。送致はそれで十分間に合いますけん。土居刑事あんたも夜通し働いたんやから帰るぞ。」
と言ってくれたが周りを見ると帰り支度がしにくい。
「夕べ出てくれた人等も帰りましょう。鑑識にも言うとかんと。」
と定元部長に電話して帰るように伝えた。課長も、
「そうしてくれ儂も帰る。」
と言って帰り支度を始めた。部長は出がけに、
「夕べしんどい思いした人だけに言うたんやからな。」
と一、二係に言ってから出て行った。
翌日は朝礼が終わるとすぐに取り調べを始めた。
「一晩考えてみたか?」
と部長が言ったが被疑者は黙っている。
「黙秘でええぞ。今日から20日余りゆっくり時間は有るし。」
「え、20日もここに居らないけんのか。あんな小火で。それに儂がやったいう証拠でもあるんか。」
「それは後々のお楽しみじゃ。昨日逮捕するときに読み上げた通りお前は『現住建造物等放火罪』で逮捕されとる。昔から火付けは重罪や。鬼平に切り捨てられても文句は言えん。」
「放火?あんなもん古新聞が燃えただけで家はピンピンしとるやないか。」
「何で古新聞が燃えただけやて知っとるんじゃ。」
「あ、いやうちは近くじゃけんその位は分かる………。」
「ふーん、どこに燃え易そうなもんがあるか知っとったんか。」
「いやそういう訳やないけど。」
「まあええ。否認の方が勾留状も出やすいし。調書『黙して語らず』の方が簡単で済むし。」
被疑者は何事か一所懸命に考えている様子だ。聞き込みでの従兄弟同士他近所での評判は、自己中、粗暴、狡猾、妬み嫉みがひどい、最悪の評価だ。多分どうすれば自分に有利な状況になるか、それだけを考えているのだろう。暫くして部長が掛けた言葉に反応し次から次に言い訳・自己弁護を連ね始めた。部長は1時間半程メモも取らずじっとその繰り言を聞いていたが、突然反撃に転じ細かい時刻を指摘しながら被疑者が先に言ったことと後で言ったことの相反する点を指摘し始めた。被疑者の言い訳・自己弁護の矛盾点を次から次と指摘していくと被疑者は言葉に詰まり顔が強張ってきた。目も泳いでいる。部長が、
「往生せい!」
と一喝すると、昨夜の件については自分がやったと認めた。そこで昼になったので取り調べは一旦中断。
被疑者を留置場に戻した後近所の蕎麦屋に昼食を摂りに行った。その後喫茶店で先程の取り調べについて聞いてみた。何故メモを取らなかったのかを。
「警察官が目の前でメモを取ると相手は緊張する。これは被疑者相手だけでは無くて協力してくれる人への聞き込みも同じ。被疑者には聞き流しているように見えれば気を緩めて言わんでもええことや矛盾することを言う。聞き込みの相手にはメモを取らなくても真剣に聞いていることが伝わる様にはする。」
「相手の言うこと全部覚えられます?抜けることも出るんじゃないです?」
「抜けが出る以上に大事なことを聞けたらその方がええ。」
でも多分殆ど抜けなんか出ないんだろうな。部長には。
午後からの取り調べはスムーズに進み、翌日は勾留質問に行きこれまたスムーズに勾留状が出た。その後は逮捕事案についての取り調べを行い、10日後には再勾留が許可された。その頃には本件の送致には目途が立ち、部長はじんわりと余罪の追及を始めた。




