放火 (前編)
昭和50年代始め頃田舎県警のお巡りさんになりました。以後定年後の再任用も含め40余年出世もせず首にもならず平凡に過ごした毎日をヒントにし、膨らませたり削ったりしながら物語にしてみました。あくまでもフィクションです。
夢の中でサイレンが鳴った。目を覚ますと安アパートの窓ガラスに回転している赤い光を投げつけながら消防車が走り去って行った。枕元の時計は午前1時35分を指している。少しの間、
『火事は消防の仕事だし朝は早目に出勤しなければいけないし。』
と考えているうちにまた眠りに落ちていた。
午前6時にセットした目覚ましですんなり起きられた。いつもはもっと遅い目覚ましでもなかなか起きられなくてしばらくベッドの中でぐずぐずするのだが今日から新年度、本日付で刑事勤務の辞令をもらうので少し緊張、少しウキウキ。警察学校で1年。交番で9か月。その後一度警察学校に戻り現任補習科で3か月。それが終わると所属に帰り交番でまた1年。署内異動で交番から留置場の看守勤務に配置換えがあってから1年。やっと警察学校時代からの希望が叶い刑事になれる。ベッドから出た後身支度と簡単に食事を済ませて部屋を出た。始業は8時半だけど1時間前には出勤し仕事場の掃除をした後、出勤してくる先輩達にお茶を出しながら挨拶をなどと考えながらバイクを走らせているとすぐ仕事場に着いた。
署に着いてみるといつもと雰囲気が違う。普段なら当直終了まであと少し、もうすぐ出勤して来る当日の勤務員に業務を引き継ぎ当直勤務終了だという安堵感みたいなものが感じられるのだが今朝は違う。急いで階段を上り今日から僕が勤務する刑事一課の前に来ると、ざわめきの元はやはりここだった。
部屋に入ると疲れた顔の先輩達が報告書らしきものを書いたり缶コーヒーを飲んだり。こうしようと決めていた僕の刑事勤務一日目の計画はもろくも崩れ去った。どう動いたら良いのか分からない。自分が想定外の事態に対応しきれない人間であることはたった今よく分かったがこれは何の役にも立たない。固まりかけている僕を見かねて以前交番で一緒に勤務していて一年先に刑事になった先輩が皆に僕を紹介してくれ今日付けで刑事一課長になる人のもとに連れて行ってくれた。
事案が発生しているのに出てこなかったことにつき謝罪すると、
「それはかまんよ呼び出してないんやから。まだ辞令交付前で正式に一課勤務になったわけじゃないし。」
と軽く答えた後で、
「午前9時から辞令交付や。儂も受けるし今回異動して来たもんと一緒に準備して。それが済んでからやることを指示するから。」
と言われたので、異動の内示があった後すぐ挨拶に来た時教えてもらっていて既に自分の荷物を置いている席に行くと、今回異動して来て僕の主任になるはずの人の席で作業服を着てデイリースポーツを読んでいる人がいた。阪神ファン?
「今回の異動で留置係から強行犯係になりました土居です。よろしくお願いします。」
と当たり障りのない挨拶をするとその人は立ち上がって、
「石原です。よろしくお願いします。」
と挨拶が返ってきた。異動の内示があった後留置場の非番の日刑事一課に顔を出したとき、転勤して来て僕の主任さんになるであろう人のことを教えてもらい『気難しい』『偏屈』『喧嘩っ早い』『口が悪い』等々気が重くならざるを得ない評判を聞いていたのだが一見普通の人だ。でも作業服ということは辞令交付前なのに夜中出て来たのだろうか?
その後制服に着替えて講堂で辞令交付を受け正式に刑事一課勤務になった後すぐに作業服に着代えて昨夜の火事現場に臨場した。現場は僕の住むアパートの近くで、数年前にできた住宅地の一角だった。辞令交付が必要ない以前から一課にいた先輩達が現場の寸法を測ったり写真を撮ったりしていたが全員揃ったところで原因調査が始まった。僕は何をしていいか分からないので先輩たちが仕分けして不要と判断された火元付近の瓦礫を指定された場所に運ぶだけで昼になった。石原部長は火元付近をまるで遺跡発掘のように細かく調べていた。一緒に居た年が近い先輩が、
「石原部長は火災の原因調査と立件が得意らしいで。」
と教えてくれた。石原部長は突っ立って見ていた僕を手招きし現場の土を手に取り臭いを嗅がせ、
「どう思う?」
と聞いてきた。何か言わなければいけないので、
「油ですか?」
と答えると、
「うん、検知管持ってきて。」
と言われたが、飲酒検知管は知っているが???。戸惑っていると先輩が飲酒検知管によく似たガラス管と検知器を渡してくれた。検知器は交番勤務の頃飲酒検知に使ったのと同じ物みたいだ。飲酒検知は容疑者が膨らませた風船に検知管を刺して風船の中の呼気からアルコールを検知するが、火事現場では測定箇所上の大気から直接検知するらしい。検知管もアルコールではなく油類に反応するものらしい。警察学校で飲酒検知管は北川式アルコール検知管と教えてもらったような覚えがあるが、アルコールだけではなく色々なガスそれぞれに反応する検知管があることを今日知った。本当は授業で教えてもらっているのかもしれないが。油類の反応が出たらしい。石原部長は何故か首を捻っていた。
火が出たのは屋外、家屋裏台所勝手口付近、故紙を置いていた辺り。本来火の気無し。現場の状況、家人・近所の人達の証言からほぼ確定らしい。皆顔が暗いが僕には何故か解らない。傍にいた先輩が、
「この火事でここの奥さんが亡くなっとる。放火殺人は重要事件やから当分休み無しじゃ。」
と教えてくれた。交番勤務の頃、殺人・強盗等の重要事件が発生すると刑事一課だけではなく他の課からも応援が出て、全署体制で一か月以上休みなしの捜査が行われることは知っていたがそれが僕の刑事勤務初日とは。
午後課長が現場に来た。現場を仕切っていた係長と石原部長を呼び何か話をした後現場にいた者を集め現場検証を続ける者、一旦署に帰り聞き込み等の捜査に従事する者を分け、それぞれに任務付与をした後石原部長と話をしながら現場を確認し帰って行った。僕は石原部長と一緒に見分を続けるように言われたのでその場に止まったが何をしていいか分からないので部長に言われた通り動くより他はない。部長は出火元を細かく調べ鑑識の人に写真を撮ってもらったり試料を採取してもらったりしながら僕にもあれこれ説明してくれたが今ひとつピンとこない。実況見分は夕方終わり署に帰った後、現場の計測をしていた先輩達がその図面を僕の机の上に置きに来た。『え!』と思ったら石原部長が、
「実況は儂がするけん現場の図面引いて。」
と言ったので、『?????』がはっきり分かる顔をしたら、
「交番の頃盗難現場の実況したやろ。同じや。」
と言われたが、同じじゃないでしょう。
「昔儂が引いた実況見分調書の図面が書庫にあるけんそれ参考にして。明日からでええよ。」
と軽く言われてしまった。
「………。」
午後7時頃課長が署長室から戻りこれまで解っていることを改めて皆で共有した。出火日時、出火場所、推定による出火状況と原因、死者の解剖結果等。死者の気管には煤があったらしい。放火であれば犯人は生きている人間を焼き殺したことになる。
「今日は夜中から出てきて疲れとるじゃろうからこれで解散。明日は定時に出勤して講堂に集合。捜査本部を立ち上げて他課の応援も貰い解決・検挙に向け頑張って貰う。」
とのことで皆三々五々課を出て家路に就いた。
課を出ようとすると石原部長が、
「飯まだやろう、家で作って待ってくれてる人がおらんのやったら一緒にどう?」
と声を掛けてくれた。
「自分は一人暮らしですけど部長こそ家で待ってる人がおるんじゃないですか。」
と答えると、
「儂も一人暮らし。そしたら行こか。」
と軽く返されそのまま付いて行くことになった。単身赴任かな?
署の前の電停から市電に乗って繁華街の電停に着いた。料金は部長が払ってくれてまっすぐ部長の目当てらしき『若竹』と看板が上がっている結構立派な構えの割烹に入ると、女将さんらしき美人とカウンターの中の板前さんが満面の笑みで迎えてくれた。すでに予約していたみたいで小さな座敷に案内された。これって晩御飯じゃなくて宴会?
座敷には前菜とシャンパンが用意してあった。女将さんが部長にシャンパンの状態を確認をした後僕のグラスから先に注いでくれ部長が、
「土居さんの刑事初日に。」
とグラスを挙げて乾杯してくれた。女将さんも一緒に。
「ひろみさんはシャンパーニュが大好きなんですよ。」
と女将さんが言った。『ん!』『ひろみさん?』『誰?』と一瞬戸惑ったが石原部長の名前がが漢字で『洋美』だと思い出した。本来の読み方である『ひろよし』を『ひろみ』と呼んでからかっているだけだと思っていたら、
「戸籍に読み仮名振ってあるわけではないが物心ついた時から『ひろよし』じゃなく『ひろみ』と呼ばれてるから『ひろみ』が本名らしい。小学校入った時の持ち物に平仮名で『いしはらひろみ』と書いてあったし。その頃から名前のことではずっとからかわれてばっかりじゃ。」
と女将さんを睨む振りをした後、
「親父どういうつもりでつけたんかな、どうでもええけど。」
とやや憮然と言うので、これは触れないほうがいいことだと判断した。僕にしてみれば『石原部長』または『部長』と呼べば済むことだから。それよりも話題を変えるため、
「このお酒『シャンパン』じゃないんですか?女将さん『シャンパーニュ』って呼んでましたけど。」
と尋ねると女将さんは、
「当店女将の恵美と申します。宜しくお願いします。お尋ねの件ですが、これはフランスのお酒だからこの素敵なお酒を造ったフランス人への敬意を込めてフランス語の表記をフランス語で読んでるんですよ。フランス人が英知を尽くして造り出した素晴らしいお酒を、何にでもケチャップかけて食べるアメリカ人や、『ハギス』を食物と認識するイギリス人の言語風に呼ぶのは嫌だという人もいますけど。」
と言って部長のほうを見た。続けて、
「『シャンパーニュ』は『シャンパーニュ』で『シャンパン』と呼ぶのは私的には一寸、『洋美』は『ひろみ』で『ひろよし』と呼ぶわけには。ね『ひろみ』さん。」
元に戻ってしまった。部長は黙ってる。どうしよう。
女将さんが部屋を出ると、
「今日の現場付近はもう20年くらい前から時々一連のものと思われる放火がある。短かければ1年。長ければ3年くらいの間隔で。儂と土居さんはそれを解決する。」
『はぁ!』何を言ってるのか分からない。もろにそれが顔に出たらしく、部長は苦笑いをしながら、
「食いもってでええから聞いとって。」
と言って、
今話題にしている今日の火災現場付近の一連の放火はどれがその最初の案件になるのかまだ解っていない。だからまずはどの火災がその最初の案件なのかをこれから書庫を漁って調べる。いくつか候補を挙がれば現場確認・聞き込み等ではっきりさせる。始まりが解らないと誰がどういう動機でやっているのかは当然解らない。
10年余り前石原部長がこの署の刑事一課にいた頃、今日の現場付近で発生した火災を放火だと断言したが刑事管理官・刑事一課長・強行係長らの賛同を得られなかった。それでも放火説を引っ込めず手が空いた時勝手に聞き込み等をしていたら、次の異動で隣の県との境にある海がよく見えて風光明媚な町にある小さな警察署に異動になり、その次は標高500メートルくらいの高原の田舎町にある同じくらいの規模の署に異動した。冬が寒かった。そのまた次は県庁所在地から50キロくらい離れた城下町で、人口5万人規模の市とその周辺を管轄するそれまでよりは少しだけ大きな警察署に異動した。いつか心残りがあるその一連の放火事案を解明したいので、言いたいことも言わず検挙実績を積み重ねこの署の刑事一課に戻りたいと思っていたがやっと戻ることができた。
(その割には評判悪いですよと突っ込みたかったけど我慢した。)
自分が転勤した後もこの地区で自分には放火と思われ、以前の類似事案と思われる火災が数年おきに発生しているが、一連のものとしてではなく単発の放火または失火として扱われ未解決のまま放置され捜査は尽くされていない。
今回異動して来た刑事一課長は前回ここにいたとき捜査主任同士として机を並べていた。現課長はその時放火説に内心賛同をしていたがそれを強くは主張しなかった。仲は悪くなかったので転勤後そのことについて話し合い、巡査部長風情が何を言っても通らないので警部になってここの一課長として戻ろうと決めた。しかし自分に昇任試験は無理なので現課長が昇任試験を頑張り警部になり刑事一課長になって石原部長を呼び戻し事件解決をしようと決めた。そんな話だったが何故二人がこのことに執着しているのかよく分からない。
「課長も一課長でおれるのは2年やろうな。その間で決めないかん。儂と一緒におって仲良くしてると思われるとあまり良くは言われんから皆には適当に儂の悪口でも言っといて。」
(分かってはいるんだ)
「課長と儂がつるんでるのも内緒ね。儂がこれまで身に着けたことは全部教える。土居さんを他人に引けを取らない一人前の強行犯係にする。そやから一緒にやって欲しい。」
と頭を下げられた。
他に道はないので、
「宜しくお願いします。」
と答えておいた。その後はまた女将さんが部屋に来て料理や日本酒の説明をしてくれ、腹が減っていたし美味しかったので出てきたものは全部やっつけた。
一通り食べ終えると女将さんが、
「尚美のとこも寄ってね。うちだけで帰ったらあとがうるさいから。」
「分かった。寄ってから帰る。」
「土居さん、次行ってからお開きや。長居はせんから。」
と言われた。まだ午後10時になってないから大丈夫と思い、
「分かりました。」
と答えるとすぐ近くの雑居ビルに案内された。
店は『舞』という名前でスナックのようだが、入り口のドアが立派で外から見ただけで高そうな店だった。入ると中は結構広くカウンターの内側にはピアノがありミニクラブといった風情で、身なりが良いホステスさんが沢山いて日頃似たような歳の仲間と行く店とは大違いだ。
「あら、転勤初日からとは嬉しい!」
と言いながら、つい見とれてしまう美人がここでも満面の笑みで出迎えてくれた。石原部長って何者なんだろう。
「先に恵美姉ぇのとこ寄ったん?」
と問いかけられて部長は、
「先に飯食わないかんから。」
とやや済まなさそうに言い訳めいた返事をした。
「順番からいうたら仕方ないか。でも私を同伴するという手もあったんよ。」
と言われた部長は、
「今日は何かと忙しかったし、もう午後8時過ぎてたし。」
とここでも言い訳のニュアンスで。分からん。
カウンターに座るとシャンパーニュが出てきた。運んでくれたホステスさんが、
「これは石原さんのやと思った。」
と言いながらラベルに大きなSの字が書かれたボトルを僕たちに見せた。
「このラベル有名なんですか。」
と聞くと、
「洋美さんの一番好きなシャンパーニュなんですよ。」
と美人が答えてくれ、Sの字が印刷されているラベルはエチケットと呼ぶのだと教えてくれた。
「この店をやっている尚美です。今後とも御贔屓に。洋美、恵美、尚美、三姉妹の末っ子です。」
と言われたので部長を見ると苦笑いしていた。
「土居と言います。今日から石原部長の部下になりました。よろしくお願いします。でも僕の小遣いでここは無理ですよ。」
と言うと、
「ボトルは洋美さんのを飲めばいいし、洋美さんの部下の方なら他も勉強しますよ。」
とにっこりされたら心が動き、つい石原部長の顔を見てしまった。
「勘定も儂に付けとってええから。」
と言われたが………。
終始ご機嫌でにこやかな美人ママはずっと僕たちの前にいた。
「石原さん来るとママが動かんなるから困るんよね。」
小さな声で、
「ママ目当ての他のお客さん達が機嫌悪くするし。」
等と言いながら他のホステスさん達も入れ代わり立ち代わり僕達の前にやってくる。石原部長って同僚には煙たがられるらしいけどこういう処の女性には好かれるんだ。1時間足らず店にいて、
「明日があるから。」
と言い席を立ちママに見送られて外に出ると、
「明日から頼みます。これタクシー代。」
と言って兎のイラストが入った小さな袋を渡してくれた。帰りがけにホステスさん達にも渡していたような。
翌日気を取り直して早めに出勤し掃除をしていたら石原部長が書庫から出てきて手伝ってくれた。
「どしたんですか?」
「古い火事の書類を漁ってた。」
掃除が終わると、
「お茶はええから。」
と言いながら自分でドリップコーヒーを入れて飲み始めた。僕の分も入れてくれ、飲んだらすごく美味しかった。少しして出勤して来た人達の中で昔から石原部長を知っているらしい人達が、
「お!儂も貰おう。」
と言いながら部長のコーヒーと道具で自分達の分を淹れて、今回異動して来た人達や以前からここにいても石原部長とこれまであまり付き合いがなかった人達も呼んだ。
「性格難ありやけどコーヒー選びは優秀やから。」
「口悪いけどケチじゃないし。」
等勝手なことを言いながら大きなサーバーの沢山のコーヒーを皆に。みんなに嫌われている訳じゃないんだと思っていたら、
「こいつのこと嫌いな奴は結構おるからそこは自分で見極めて。こいつと仲ええと思われたらこいつのこと嫌いな奴等はあんたのことも無条件に敵視しかねんから気ぃつけてな。」
と僕に言った。それを聞いたコーヒー飲んでる人達は笑ってた。苦笑いの人と心から笑っている人はどちらが多いんだろう。部長は二杯目のコーヒーを飲みながらデイリースポーツを読み始めたので、
「阪神ファンなんですか?」
と聞いてみた。
「いや、競輪ファン。」
「はぁ-?」
「石原部長ギャンブル欄しか見てないけん。」
「結構当たるけん。自信をもって教えてくれたやつだけ買うてたらそこそこ浮くよ。」
「本人はつい買うたらいかんやつも買うて火傷するけど。」
分からん!
そんなことをしていたら出勤して来て僕達のところには近寄ってこなかった年配の係長に、
「こら!若い衆!茶入れんか!」
と大きな声で怒られた。慌てて茶を入れて持っていくと、
「儂の湯呑はこれじゃない。そこの湯吞入れに名前書いたのがあるけん入れ換ええ!」
とまた怒られた。すると、
「来たばっかりのなんも知らん若い衆に偉そうに言うても始まらんじゃろうが!!!」
石原部長が相手以上に怒気をはらんだ大きな声で睨みつけながら歩み寄っていくと少し腰が引けた係長が
「儂は係長ぞ。」
やや震える声で言ったが締まらない。部長は、
「朝から訳の分からんことを下のもんに偉そうに言う係長なんか要らんわい。儂が頼んでなってもろうた訳じゃない!」
コーヒを飲んでいた人達は横や下を向いて笑ってる。
「土居さんこんな腐れに茶入れんでええからな。あんたお茶汲みに雇われてる訳やないんじゃ、茶は飲みたいもんが勝手に淹れたらええ。」
他の人達にも、
「ええな!」
と言い放ったらコーヒーを入れていた先輩が、
「それがええ。」
と賛同し、あと幾人かが、
「明日からそうしよう。」
でも事の発端の僕はどうしたらいいんだろう。出勤してすぐにコーヒーを飲みに来た先輩が、
「気にせんでええよ。これから度々あることやから。困ったような顔して下向いてたらええ。困ったような顔だけで本当に困る必要はないけん。
『僕も石原には迷惑してます』
いう顔してたらええから。」
と言ってはくれたが。
その後課長が出勤しさっきの係長が取調室の方に課長をいざなって何事か言いつけたようだったが課長は課に戻ってもそのことについては何も言わなかった。時間が来たので皆は朝礼のために講堂に上がった。そこでは朝礼に引き続いて捜査本部員に指名された署員に指示があった。部長と僕は残って実況見分を仕上げる。その他は現場周辺の聞き込みが主で家族・親族・被害場所周辺にはベテラン捜査員が。少し離れたところは聴取事項を書いた紙を持たされた刑事課以外の署員が。
翌日は被害者の葬儀があるらしく僕と石原部長と署内で一寸有名なベテランの鑑識主任が行くことになった。死者を出し自責の念に駆られた被疑者が参列者に紛れ焼香したり香典を包むことがまれにあるらしい。葬儀会場で浮かない服装をと言われたがそれらしいスーツの持ち合わせはない。同期生から全くサイズが合わない喪服を借りて間に合わせることにした。部長と僕は不審な参列者探し。鑑識の定元部長は参列者の写真撮影。
当日葬儀場では死者の夫が喪主として挨拶をしていたが、実に冷静に葬儀に臨んでいた。喪主と死者の間の娘と思しき幼女が、多分事態が呑み込めていないのだろうけど悲しむでもなく大勢の人に戸惑っている様子が実にかわいそうだった。火事の時は喪主が娘を抱えて逃げたけど寝入っていて逃げ遅れた妻が焼死。夫は娘を安全なところで近所の知り合いに預け、もう一度家の中に戻ろうとしたが火の回りが早く助け出せなかったそうだ。葬儀が終わった後しばらく外にいたが、結論として不審者は見当たらず。僕はよく分からないが石原部長がはっきりとそう言ったから間違いはないのだろう。
その日は早速当直勤務が当たっていたので、午後5時頃当直勤務用の作業服に着替えて副署長に就勤の挨拶をした後当直室に入った。一つの班に刑事7人の初動捜査班と6~7名の一般当直の組み合わせで、そこに別枠の当直指令が加わり夜間・休日の事案対応をする。中央に机がある7人座るとギュウギュウの狭い部屋で待機して事案が発生すると出動する。この署はこの県で一番大きな警察署で、大きな繁華街を管轄しているので対応する事案が多く、一応仮眠時間帯が決められているが一番下っ端の僕が十分な仮眠をとれることはあまり無いと言われた。
同じ当直の班に今日一緒に葬儀に行った定元部長がいた。
「土居の当直での一番最初で且つ重要な仕事は晩飯の注文取りじゃ。そこに出前してくれるとこのメニューがあるけん皆に聞いて電話せい。」
と言われたのでメニューを見ると交番や留置場で出前を取っていたところとほぼ同じだったのでそこらにあったメモ用紙で注文を受けた。
「土居、こいつは質より量じゃけんこいつだけ違うとこに注文するかもしれんがこいつの注文じゃ言うたら一つだけでも持ってきてくれるけん。」
定元部長が顎で指した先には、元柔道の特練で暴力犯主任をしている先輩がいた。
「バケツで飯食うんは動物園の他はこいつだけじゃ。」
「注文するときは儂の名前出して『大盛』頼んで。儂用の大盛が来るけん。」
どんな大盛だろう。
「麺類は頼むなよ。急に出ないけんなったら伸びてしもうて食えんなるぞ。」
「はい分かりました。」
注文をし終えると早速盗難現場の通報があった。初捜班長が、
「盗犯と鑑識行って。大飯食いがあんたらの飯食わんように見張っとくから。」
行くのは盗犯と鑑識だけかと思っていたら、
「土居なんしとんじゃ!お前も来んか!若い衆が現場行かんで済む思うとんか!」
と定元部長に怒られた。班長が、
「土居刑事、若い衆は強行係でも盗難現場や詐欺の通報、何でも行って経験積むんや。小さい署行ったら全部やらないかんなる。石原部長は小さい署ばっかり回されてたから元は強行でも窃盗犯検挙、選挙違反取締、暴力団検挙、何やらしても人並み以上や。」
「はい、済みませんでした。」
謝って二人を追いかけると、
「遅い!しゃんしゃん動け!」
また定元部長に怒られた。
盗難現場は車上狙いで、無施錠車両からの窃盗だったのでそう時間はかからなかった。現場近くの交番から来た警察官が被害届を取ることになり、定元部長の鑑識作業と制服警察官が被害届を受けている間現場付近の聞き込みを少しして帰署した。
帰署して注文していた冷えた親子丼を食べ始めるとすぐ暴力団に脅されている旨の相談が来た。班長に事情聴取に同席するよう言われたので僕は食事を中断し大食いの先輩が話を聞く間横で一緒に話を聞くことになった。僕は相談者が言うことをメモを取りながら聞き逃さぬよう集中してそこにいたが、暴力犯主任は腕組みをしてメモも取らず適当に話を聞いている。とりとめのない話を素っ気ない素振りで少しの間聞いてから、
「今は当直中で事件対応もせないけんから帰って。」
と言って相談者を帰らせた。
「あれでええんですか?」
「なんかおかしゅう思わなんだか?」
「え。」
「あのおっさん何年も前から何遍も同じことばっかりを言いに来るおっさんや。初めて来たときは少しだけ近所で聞き込みしたがおっさんの言う事実は無いな。」
「え。」
「異動があったんで新顔が来たら真に受けて貰えると思うたかもしれんが、出て来た相手が儂であかんかったな。」
「で、どうするんですか。」
「どうもせん。聞き置くだけじゃ。新しゅう来たもん狙ろうてまた来る。引っかかったもんが不調法じゃ。おっさんご近所トラブルがあるのは間違いないが、その相手を陥れるために警察を利用しようとしてるだけ。真に受けて一回話に乗ったら延々付きまとわれるし、利用されて大ごとになるぞ。」
対応を終えるや否や通信指令室から署の東方1キロくらいにある公園で喧嘩、花見客同士で双方複数との臨場指令が入った。これは強行犯の担当事案だと身構えたら定元部長が当直室の近くにある機動警らの待機室に行って、
「おい、急いで行くな。サイレン鳴らして現場付近一周して追い散らせ。日頃善良な市民が花見酒にいきっただけじゃ。団体戦やった奴等全員連れてきたらどもならん。」
と言うとパトカーの人達も笑いながら、
「了解。」
と言って特に急ぐ風もなく出発していった。僕達も捜査用車2台に分乗し車の屋根にマグネットで取り付ける赤色灯を回しサイレンを鳴らして署を出た。公園の周りを一周して現場に着くとまだ逃げずに残っていきっている馬鹿が少しいた。連れて帰って相被疑で調書を取ってと考えていたら、まだぐずぐず言っている連中に定元部長が、
「お前らどうするんぞ。喧嘩は片一方だけが悪いゆうことはないんじゃ。どっちもが加害者でどっちもが被害者じゃ。被害届出すゆうのなら、どっちもが全員罰金払ろうてどっちもが全員前科もんじゃ。お前らだけじゃあすまんぞ。逃げた奴らも全員探し出す。場合によったら逮捕じゃ。どうすんぞ。今ならお互い謝って握手してお互い善良な市民として家に帰れるが。儂はどっちでもええぞ。」
と恫喝すると、『前科者』という言葉に恐れをなしたのか急に元気がなくなり握手をして帰ることになった。
「足元明るいうちに帰ったほうがええぞ、蒸し返したら今度こそ全員前科もんじゃ。」
と追い打ちをかけると、喧嘩には加わっていなかった様子の双方の年嵩の男性が、
「責任もって連れて帰りますから穏便に。」
と申し出て一件落着。
「土居、お前連れて帰って調書取りたそうな顔しとったけど、こんなもん持って帰ったら皆から白い目で見られて八分にあうぞ。」
と定元部長から指導を受けてしまった。元柔道部の暴力犯主任からは教育的指導の手振りまでつけて。
署に帰る途中飲み屋街で喧嘩との通報が入った、今度は一対一らしい。そのままそちらに向かい現場に着くと、喧嘩をしていたと思われる酔っ払いが止めに入った近くの交番のお巡りさんに食って掛かっていたが暴力犯主任他
『鬼瓦が台風で飛んで地べたに落ちてヒビが入ったところを地下足袋で踏まれたような顔をしたガタイのよいおっさん達』
が取り囲むと急に静かになった。普通の顔の僕は後ろ加減で。傍にいた連れらしいおっさん達が、
『仲間内の喧嘩ですけん連れて帰らしてください。』
と言うので、強行犯係である僕が簡単な事情聴取と人定事項だけを確認してここでも、
『お互いに前科者になりたかったら素面で明日来い。』
と言って引き揚げた。99パーセント来ないだろう。
「おっ、もう正しい対応身に着けたやないか。学習能力あるのう。」
皆がニヤニヤしてる中帰ろうとしたが、署に帰り着く前に無線が入り盗難現場とのことだったので盗犯・鑑識・僕で臨場し残りは帰署することになった。
盗難現場が終わり帰ろうとしたら市街地から離れたところにある会社の事務所で侵入警報という無線が入った。僕達がいたのは現場と署の中間付近だったのでそのまま僕達だけで臨場することになった。晩御飯がどんどん遠ざかる。到着すると既にパトカーが到着しており『風による誤報』らしいとのことだった。一応周囲を確認し侵入形跡を確認したが異常なし。到着した備保障会社員にその旨を伝え、その人と一緒に中に入り侵入形跡なしを確認。
署に帰ると午前0時が近くなっていた。飯が汁を吸いふやけて冷たくなった親子丼をじっと見ていたら、僕がしょうもないおっさんの相談を横で聞いている間に夕食を済ませた定元部長と盗犯係の先輩が、
「こういうこともあるけん麺は頼むな言うたやろ。麺がいけんなら丼もいけんくらい想像せにゃぁ。」
「そんでも怪我の功名じゃ。その冷や飯のぉ、カップ麺の汁に入れておじやみたいにして食うたらこれは旨いんじゃ。」
と言ったので、成る程そういうやり方もあるのかと思い言われた通りにしてみた。食べようとすると、
「ようそんなもん食うのぉ。」
と皆が笑いながらこっちを見ている。
「土居にはめったやたらなこと言われんのぉ。」
「山奥育ちで何でも真に受けるけん気ぃ付けないかん。」
「お前のぉ、30秒に1回眉に唾つけい。」
ひどい。
班長が、
「土居刑事、それ始末して夜食行くぞ。」
と言ったので、また僕をだまそうとしてるのかと動かなかったら、
「何しとんぞ。置いてくぞ。」
と言われたが、動いたとたんに笑われそうな気がしたのでじっとしてると皆が本当に席を立った。慌てて残飯を片付け付いて行くともう皆初動捜査班用の車両に分乗していて僕が乗ると本当に走り出した。
車の中で定元部長が、
「きのうの朝、面白いことがあったらしいのう。」
と聞いてきたので、
「え、いや、何のことですか?」
とぼけた積りだったが笑われただけだった。
「あのバカ係長十何年か前にも石やんに痛い目に遭うとるのに。」
「そうなんですか。」
「前に儂や石やんが一課居った時あのバカも居ったんや、捜査主任で。あの頃から石やんと仲悪かった。あのバカ仕事はせんのに自慢話ばっかりするんで皆に嫌われとって、一回り年下の石やんにことあるごとに、
『仕事せい』『こんな事も出来んのか』
みたいなことを言われとった。」
「昔あのバカ、高い銭払うてええ靴を買うたことがあってな、仕事もせんとその自慢ばっかりしとった。その時丁度一課の飲み会があって、その向こうの大通りに面した料理屋が会場やったんやけど、そこでも靴の自慢ばっかりしとった。帰るときになってあのバカが『靴が無い』言うて騒ぎ出して、探したら表通りの道路の真ん中で車に轢かれて『昔靴やったかもしれん物』になっとったんや。それ見た石やん、
『すごいな、ええ靴て勝手に一人歩きするんや。』
言うて何事もなかったように笑いながら飲みに行った。」
「えぇ~………。」
「お前もう石やんがやったと決めつけたんか?」
「あっ、いや、そういう訳では無いですけど。」
「皆もそうじゃと思うとるし間違いないやろう。もうお宮に入っとるけど。」
恐ろしい。
「きのうの朝のこと、あれは石やんの通常運転やから気にするな。
『僕は部長とは別人格です。』
『僕も困っとるんです。』
『一緒ちゃいます。』
言うてたらええんや。石やんは気にせんから。巻き込まれんようにだけ気ぃ付けとけ。」
昨日言われたのと同じようなことを言われた。
「まあ何かやられかけたら石やんが守ってくれるし、やられても三倍返しで仇とってくれる。」
それはよくわかりました。怖かったけど。
「最初にかまして、手出しせんように牽制したんちゃうか。」
「牽制球にしては厳しいコースやな。」
「ビーンボールじゃ。」
「舞のママ相手に何かしたんやったら三倍で済まん。青天井で返されるやろうな。」
「命がないぞ。」
「いや玉取ったら自分も臭い飯食わないかんけん、儂らでは考えつかん想像を絶する嫌がらせを延々やるやろうな。」
「ずっと前舞のママがまだ学生やった頃若竹でアルバイトしとった時に、ママと女将にチョッカイ出したヤクザもんが居ったんやけど、激怒した石やんにエンドレスで嫌がらせされて耐えきれんなって親分と二人で署まで来て、
『どうぞ堪えてください。』
言うて泣き入れたらしいぞ。」
「あっ、それ聞いたな。なんでも指千切って焼酎で瓶詰にして署まで持ってきたらしいやないか。」
「流石の石やんもこれには困って、
『そんなもん要らんわい。持って帰らんかいボケ。』
言うて追い返したらしいけど。」
「それからいうたらあのバカ係長度胸あるんやのう。」
「鈍いだけやろ。」
「土居、お前石やんに喧嘩売ってみんか。」
「滅相もない。考えただけでちびりそうです。」
「今まで『石やんにやられた』いう話はなんぼでも聞くけど、『石やんをやった』いう話は未だ嘗て聞いたことが無いけんお前史上初の人物になってみんか?」
「絶対嫌です!」
署から遠くないところの、屋台の周りを一応引き戸で囲んであるだけのような汚い店に着いた。隣の空き地に車を止めていいみたいだ。他に客は誰もいなかった。外だけではなく中もなかなか風情がある。壁も煤けて油染みていて、ハエが止ったらくっつくかもしれない。そう思っていたら、
「汚い店じゃ思たやろ。」
「壁がハエ取り紙みたいやて?」
ん!、なんで分かったんだろう。
店主と思われる老人は怒ることもなく一緒になって笑ってる。
「誰でもそう思うんじゃ。」
「儂ホルモン焼きそば。」
「儂はモツ入りラーメン超大盛。」
それぞれ思い思いのものを注文し、僕は晩飯食べそびれたので、ホルモン焼きそばの大盛を注文した。頼んでしまった後ではあるが、
「麺はいかんのじゃないですか。」
と聞くと、
「ここはすぐできるけん現場入っても大急ぎで食うたら問題ない。当直室は人目があるけん食うの止めてでもすぐ出ないけんけど。」
とのことだった。
班長が、
「今日の運転要員は、盗犯と暴力と薬物。強行は今日は免除やけど新任の若い衆は次からは当分毎回運転要員。」
と言った後、ビールを注文した。店主の奥さんと思しき人がグラス4個とビール大瓶2本を持ってきた。
「え、いいの?」
互いにビールを注いだ後、運転要員以外は当たり前のようにビールのグラスを持ち運転要員は水のグラスを持ったので僕も慌ててビールのグラスを持つと、班長の発声で、
「土居刑事の初捜第5班配属を祝して、乾杯!」
僕も慌てて、
「乾杯。」
グラスに口をつけビールを飲むと、それを見ていた皆が、
「あ、こいつほんまに飲みよった。仕事中やのに。」
周りを見るとまだ誰も飲んでない。え、どうしよう、困った。
僕が慌てているのを見てひとしきり笑った後他の3人も飲み始めた。
「ええのが来たのう。退屈せんわ。」
「当直勤務が楽しゅうなるなあ。」
「次の当直が待ち遠しいわ。」
なんちゅう人達、なんちゅう班じゃ。
ホルモン焼きそばは旨かった。お代は班長が
「今日だけ。」
と言って払ってくれた。
「午前0時前後が凪じゃ。これを過ぎると深夜営業の部になる。さあ帰ってそっちに備えるか。」
と班長が言うと、皆も頷いて帰署した。
今頃は花見時期だから少し遅くまで騒がしいが、繁華街のざわめきも普段の平日だと午後11時過ぎたら落ち着くらしい。その後午前1時頃から、事務所荒らし・忍び込み。午前2時過ぎの飲み屋の営業終了時間頃から出店荒らし等夜間侵入盗の時間帯になり、警報装置等で発生即の届け出になれば寝ずに臨場。発生時に気づかれず逃げられたら、気づいた時点での届け出になり大部分は交代後盗犯係と鑑識係の当日勤務者が臨場するそうだ。
帰署して、
「今日は仮眠できるかなぁ。」
と誰かが言うと、
「それ口に出したらいけんのじゃ。」
と誰かが言った。
「楽しようと思うたらバチが当たって寝られんなるんじゃ。」
と不吉な言葉。直後受付にいた一般当直から、
「変死でーす。」
「ほら見てみい。誰じゃ要らんこと言うたんは。」
怨嗟の声が飛んだが死者は生き返らない。班長が、
「儂と強行と鑑識と運転兼補助で知能。」
と臨場者の割り振りがあった。班長と鑑識はベテランだけど知能犯の先輩はそこそこ若くてあまり検視の経験がなさそうだ。知能犯係に、
「検視どのくらい経験あるんですか?」
と聞くと、
「前にいた署とこの署の当直で20回くらいかな。強行やいうても、誰でも刑事なり立ては何やっても初めてやから心配せんでええよ。班長も鑑識主任も経験豊富やから。ただ黙って任せてたらあかんで。何でも聞いたら何でも教えてくれるから。口ぶりはああでも根は親切やから。」
本当かな?
検視は特に問題はなく滞りなく終わった。帰署してから一課に行ってそこで四条報告と呼ばれる検視状況の報告書を作成することになった。班長が盗犯と暴力と薬物には先に仮眠をとるように言った。僕は必要な用紙を用意するために、留置場の非番・週休日に先輩に教えてもらっていた用紙類が置いてある書庫兼休憩室に入るとそこのソファーで石原部長が寝ていた。居ると思わなかったので急に電気を点け勢いよくドアを開けてしまい起してしまった。慌てて謝ったが特に不機嫌そうではなく、
「すまんすまん、帰るの面倒くそうなって。変死か?」
と言うので、
「そうです。」
と答えると、
「儂も手伝う。」
と言って起き上がった。
石原部長が必要な書類を集めて渡してくれたのでそれを持って執務室に帰ると、後ろから石原部長が入ってきたので皆驚いていた。流石に慣れているので現場のメモ書きを見てきれいな字で清書してすぐに書類を仕上げてくれた。4条報告は巡査部長以上じゃないと報告できないので初捜班長名で本部に報告した。
終わったらもう午前4時だった。班長の、
「休めるときに休むぞ。2時間一寸しかないけど。」
の声で仮眠室に行くことになった。石原部長も書庫に戻りもう一度寝るそうだ。暴力犯主任は先に班長から仮眠をとるように指示があった後、
『刑事二課の休憩室で寝る。』
と言って仮眠室には来てなかった。
「あれは自分の鼾が安眠妨害になるのを知っとるけん。」
「うん、あれは当直中に仮眠をとるという重要な公務を妨害する極めて悪質な公務執行妨害じゃ。」
「家でも嫁と子が寝とるとこから一番離れたとこに一人で寝かされとるらしいぞ。」
「あんなこまい建売でどうやってあの大鼾が聞こえん距離取るんじゃ。」
容赦無い。
運良くそれからは事案が無く朝まで休めて、『検房』のために午前7時前に起きた。『検房』というのは留置場の被留置者が使っている留置室(房)を検査することで、被留置者が起床後洗顔等に出房している間に行う。プラス1体制ということで留置場内では房外に出ている被留置者より常に一人以上多い警察官がそれを見守る決まりになっており留置係だけでは一度に房外に出せる人数が少なくなり時間がかかるので当直警察官が補助することになっている。つい先日までやっていた仕事だからビビることはない。
『検房』が終わり当直室前のロビーで来訪者用の椅子に座ってぼんやりしていると石原部長が玄関から入ってきた。
「初の当直どうやった?」
「疲れました。」
「まあじきに慣れるやろ。」
と話していたら、
「10年以上刑事しとる奴みたいな態度やったぞ。」
と後ろから定元部長の声が聞こえたので驚いてそちらを見ると、
「お前をうちの班に採ったんはお前が優秀やからという訳やのうて石やんの頼みやからじゃ。うちの班なら自分の敵がおらんけんお前がいじめられんで済むじゃろうとゆう親心じゃ。うちの初捜班全員を『若竹』と『舞』にご招待とゆう条件付きで受け入れた。」
えぇ、僕いじめられてないんですか。
「で、いつ一席設けてくれるんや。」
「捜査本部がある間はあかんから5月半ば過ぎてになるけど。待っててくれるよう皆に頼んどって。」
「待ち賃として冬場に忘年会兼ねての河豚も付けたら考える。」
「ええよ。それまでの繋ぎにビアガーデンもつけよか。」
「分かった、それで手を打とう。」
定元部長が離れた後、
「定さん言うたこと気にせんとって。儂が勝手にしてることやから。昨日で儂を嫌ろとる奴等がおること実際に分かったやろう。儂を嫌うてるのは陰険で陰湿な奴らが多いんや。」
向こうだけがですかと思っていたら、
「儂には何んもようせんのやけど。」
と苦笑いしながら言ったので話を変えようと、
「どこか行ってたんですか。」
と聞くと、
「温泉入って朝飯食ってきた。」
「こんな早くからやってる処あるんですか。」
「知り合いの旅館で風呂入れてもろう朝飯食わしてもろうた。電話しとくから当直終わったら行って風呂入って朝昼兼用で飯食うてきたらええ。」
それ良いんだろうか。
「遠慮せんでええ。儂とは長い付き合いやし普段からそれなりのお礼は欠かしてないから。」
始業時間開始の少し前当直司令以下が整列し副署長に当直勤務終了の報告と挨拶をしてそれぞれの課に帰り、僕も自分の課で当直中の取り扱い事項を課長他に報告した。課長からは初の当直勤務へのねぎらいと、休憩を兼ねて食事を摂ってくるように言われた。席に帰ると石原部長がメモと市内電車の回数券を2枚渡してくれた。皆がこれから朝礼のため講堂に上がるのでその間電話番としてこの部屋に待機して、皆が戻ればそのメモのところに行くように言われた。そのメモには市内電車で数駅離れたところにある旅館の名前と誰に声を掛ければ良いかが書いてあった。いいのかなと思っていたら、
「遠慮せんでええ。」
と言われたので、
「甘えます。」
と言ったすぐ後に皆が朝礼のために講堂に上がっていった。
皆が戻ってきて石原部長が、
「もう行ってええよ。」
と言ってくれたので、出入り口の前で、
「飯行かせてもらいます。」
と一礼してから電停に行きメモにあった場所に行った。
何度か前を通ったことがある立派な旅館に着いたが、本当に入って良いものだろうかと思案していたところに旅館の法被を着た人が出てきて、
「石原さんのお知り合いですか。」
と言ったので、
「そうです。」
と答えたら、愛想よく笑って、
「こちらへ。」
と言って案内してくれた。
「まずは風呂に。」
と言われ大浴場を教えてくれてタオルを渡されたので言われるままに風呂をいただくことにした。
「終わったらフロントに声を掛けて下さい食事の場所に案内します。」
と言われたが、大丈夫なのかという気持ちがあったので小さく頷いた。
立派な浴場だった。宿泊客のため朝5時から開けているらしい。遠慮しながらのつもりだったが気づくとリラックスして温泉を堪能している自分がいた。こんなことなら着替えの下着を持ってくれば良かったと思いながら。我ながら結構順応し易い。
風呂を出て遠慮がちにフロントに行くとそこにいた仲居さんがニッコリ笑って、
「賄い飯ですが。」
と言いながら食事の場所に案内してくれた。宿泊客の朝食の場所らしい。もう朝食を出す時間は終わりかけたらしく誰も食事をしている人はいなかったがさっきの仲居さんがわざわざ給仕までしてくれた。石原部長の行く所はどうしてこんなに皆愛想が良いんだろう?食事も賄い飯どころか豪勢な食事で実に美味しかった。一応、
「代金を。」
と言ってみた。『それじゃあ。』とか言われて高額な請求をされても困るのではあるが。
「石原さんから頂きます。」
と言われたので、素直に引き下がった。『代金を。』と言ったのは『一応の礼儀』としてだと自分を納得させながら。
午前11時前課に帰ると、居るのは課長と送致の内勤二人と石原部長だけだった。他は聞き込みに行っているのだろう。他の人に聞かれない方がいいかと思い小さな声で、
「ごちそうになりました。」
と言うと、
「昼からでよかったのに。」
と言われた。帰ってくるのは昼からでよかったという意味かな。でもそうもいかんでしょう。引くようにと言われていた実況見分の図面を引くため、10年以上前に部長が引いた図面を開き見様見真似で先輩たちの控えを清書することにことにした。部長は外周から順に写真を台紙に張り付け説明文を付けていた。早く図面を仕上げなくては。
翌日僕的には苦戦、部長は楽勝の実況見分を仕上げた後僕達も現場の捜査に加わった。数日現場に近いところの聞き込みをした。もう既に誰かが行った後での再訪を迷惑がる人達も結構いたが、部長は粘り強く丁寧且つ腰を低くして協力をお願いして聞き込みを続けた。服装も地味で清潔で品のあるスーツ姿で。
「聞き込みってスーツ姿のほうが良いんですかね。」
「うーん、スーツじゃないといかんことはないが、人間て見た目で判断されること多いからな。かというてスーツ着とったらええというもんでもないし。土居さんの班のマル暴主任みたいなのが、茶色にチョークストライプでオーバーサイズのダブルのスーツ着て家に来たら嫌じゃろう。クロコダイルの靴履いとったりしたら最悪じゃ。」
「それはそうですね。御免なさいって財布差し出してしまいそうです。」
「日頃ラフな服で聞き込みしてる人らを馬鹿にする気はないけど、この地区の場合地味でサイズが合ったスーツ姿のほうが信用されやすいと思うてこうしてる。スーツに限らず相手に受け入れられ易い姿でということやな。」
『サイズが合った』というのは昨日の葬儀での僕の服装への皮肉かな?服装のせいもあるのか結構時間を取って話をしてくれる人が多く、部長の話術も相まって既に報告書で上がっている以上に踏み込んだ話をしてくれる人達もいた。
部長は聞き込み中今回の火事前後近所周りに変わったことがなかったかを聞いていたが、その中で必ず火元の当主のことをさりげなく聞いていた。『被害者の評判』何故だろう?
昼飯時現場近くの飯屋でなんとなくそのことを聞いてみた。
「放火は何らかの恨みを買うてやられることが結構多いんや。そやから被害者の人柄や普段の生活は大事じゃ。知らん間に買うとる恨みもあるしな。放火の動機は単なるストレス解消の無差別、単なる愉快犯等色々あるけど。中には鼻に持病がある人が『炎を見ると鼻の通りが良うなるからやる』なんかいう訳分からん説もあるけど。」
「放火すると鼻が通るんですか。」
「知らんけど。若い頃新任で行った署で明らかな放火があった時その付近の耳鼻科でそれらしい患者を探させられたことがある。」
「今でもやるんですか?」
「さあ、その時儂にそれをせい言うたんは今の刑事管理官や。」
「またやれ言いますかね?」
「昔やからや。今時そんなことしたら同じような病気の患者さんらへの人権侵害で怒られる。」
午後8時頃署に帰った。帰署してから部長は僕の名前を連名にして今日実施したことの報告書を書いた。確認のためか、書き方の指導の意味か、提出する前に僕にも見せた。急ぎ共有するべき案件であれば口頭でもで報告することになっているが、口頭でも書面でも被害者についての聞き込み内容は報告していない。そのことを聞くと、
「被害者の聴取と捜査は腐れの強行一係長が担当しとる。被害者周辺人物に対しての事情聴取と聞き込みも強行一係が担当しとるけん儂が報告したら差し出がましいて言うのが解っとるけん。」
「………。」
皆が揃ったところで課長から話があり解散した。
翌日からも同じような捜査を続けたが特に進展はなかった。僕達強行三係は本件の捜査をしながらも日々発生する事件の処理をしなければならないし、課員全員に当直勤務も確実に回ってくる。刑事一課は送致、強行一、強行二、強行三、鑑識の各係に分かれていて、一と二は殺人・強盗・放火等重要犯罪、三は喧嘩・口論・火事・変死が主たる担当だ。殺人は一が、放火は二が担当といっても、放火は発生即放火とは言えないことも多いので、三係が実況見分をして失火ではないと判断した後二に引き継ぐことも多いらしい。今回みたいに実況見分だけはそのまま三にやらせることも多いらしいが。ただ今回放火とはっきりしているのに石原部長が黙って見分したのを皆が不思議がっている。大嫌いな強行一係長の下請けをするなんて。もっとも一と二だけでは人員不足なので、人手がかかる実況見分現場の土運び、図面引き等は普段でも三に回ってくる。この件は放火殺人なので一が主導で今のところやっている。一と二の係員はそれに専従で、日々発生する雑多な事案にはあまり関わらない。
この件の専従捜査員は土曜も日曜もなく毎日午後8時まで捜査をし、その後署に帰り報告をしてから帰宅する毎日だった。当直5班は僕の他は誰も専従になっていなかったので発生後2週間もすると堂々とではないが、ひっそりと捜査本部員を見捨てて退庁できているみたいだ。発生後3週間近くたったある日朝からひどい雨で、
「こんな日に聞き込みなんか行ったら嫌がられるだけやろう。」
と皆が言っていたら、
「今日は天気が悪く回復も期待できないので午後5時に帰署。」
と課長から指示があった。
この日は当直中受けた傷害事案の処理をするため午後から被疑者を呼び出せという指示を受けていたので外に出ず、午前中僕はその準備、部長は書庫で古い火事の書類をいつものように漁っていた。午後からの被疑者調書は部長の手助けもあって午後5時前に終了した。係長に見せようとしたら、
「石原部長は?」
と聞かれたので、
「見せてこれで良いと言われました。」
と言うと、
「そんならそれで。」
と確認もせずにOKが出た。
今日の予定として僕達は夕方から現場付近に行くはずだったのだが雨のおかげで出なくていいことになった。午後5時頃捜査員が帰って来始めた。皆何かしらホッとしたような顔をしている。課長からねぎらいと今日の報告は明日で良いからという言葉があり三々五々家路に就くことになり帰ろうかなと思ったら、
「さあ飯でも行くか。」
と言われた。
「家帰らんでええんですか。」
「前も言うたけど儂一人や。」
「え。」
「結婚しとったこともあるけど、今は一人や。」
「………。」
「そんなに困ったような顔せんでええ。行くで。」
と言われたので黙って付いて出た。
多分とは思ったがやはり今日も若竹だった。店に入ると舞のママがカウンターで女将と話をしていて舞のホステスさんも一人いた。先日の口ぶりでは呼んどかないとまずいのかな。そのまま座敷に移動。4人だったらカウンターでもと思ったが、
「人相違反が来るけん。」
と言って座敷に。上座を二つ空けて席に着くとすぐに初捜班長と定元部長がやってきた。人相違反は定元部長なんだろうな。5班全員集合だと席が足りないが?
そんな僕の心を読んだのか部長が、
「当直5班へのご接待はまた日を改めて。今日は早く帰れるんで急遽。」
女将が、
「こんな日は暇やけど、ええお客さんばっかり6人での飲み会なんて嬉しいわぁ。」
とお愛想だけでは無い素振りで言ってくれ、定元部長が、
「他も誘うたんやけど、知能と暴力は愛妻家兼恐妻家やから嫁さんに事前の届け出無しの飲み会は無理。盗犯と薬物は特に嫁はんが怖い訳やないし、飲み会自体は好きやけどそれ程酒飲みやない。それに家が遠いけん車置いて帰ると明日が困る。」
不参加の理由を教えてくれた。
「うちの班は皆石やんのことが好きやから土居はビビらんでええけんの。」
「ビビってませんよ。みんなに良くして貰ってますし。」
料理は、鯛、鰆、メバル、筍、アスパラ他旬のものがいっぱい出て実に旨かった。最初シャンパーニュで乾杯、ビール好きの定元部長はその後終始ビール。部長は辛口の日本酒を冷酒で。ママとホステスさんは見たことも聞いたこともない白ワインを天婦羅や焼き物を食べながら飲んでいた。班長は皆が飲んでいるものを少しずつ。僕も日頃飲んだことがない高級そうな酒を万遍なく。
僕は終始定元部長の玩具にされたが嫌な気分にはならない。班長と定元部長は警察学校の同期で、石原部長が前回一課にいたときも二人ともこの署にいて一緒に当直をしていたらしい。班長は盗犯係、定元部長は鑑識係、石原部長はその頃既に強行主任だったらしい。
「石やんもあのまま行っとったら今頃どっかの課長やのにのぅ。」
「土居、何やらかしたんですかて聞かんのか?」
ママと女将は可笑しそうに笑ってるが、僕は何と答えていいか分からない。
「石やんはの、大学中退でここ入ったんや。一応短大卒の扱いにして貰うて。そやから入って4年目で資格ができて一発で巡査部長になった。その3年後警部補受験の資格ができたらこれも一発でペーパーテストをクリアしたんやけどな。」
「え。」
僕以外みんな笑ってる。みんな知ってることなんだ。
「その時警務部長が面接の試験官で来てたんやけど、そいつが、
『こんな奴等の面接なんか時間の無駄や』
みたいなことを偉そうにぬかしたらしいわ。それが石やんの目の前やったらしゅうて、そしたら石やんすかさず、
『儂かて偉いとも賢いとも思うてない奴から試験されるんなんか嫌なんじゃ。』
て言い放ったらしいわ。」
「はぁ。」
「当然その年の試験はパーじゃ。」
「翌日朝一で署長と副署長に呼び出されて、あじゃこじゃあじゃこじゃ言われたらしい。お前はこの先昇任試験に受かることはないとも。」
「処分受けたんですか?」
「これを表立っての処分はできんじゃろう。」
「そんでもなーもっと悪いな。反抗的な奴は、胡麻擂って出世した奴等から見ると理解しがたい危険分子じゃ。ささやかに反抗的ならまだしも。面と向こうて言い放ったからな。最後まで付いて回る。」
「石やんええ奴じゃけど正直すぎるし腹立てやすい。どんなきついことでも、思うたことを本人の目の前ではっきり言う。」
これが自分には昇任試験は無理やからということだったんか。石原部長は特に気にした風もなく笑ってる。
「その試験落ちたすぐ後に放火があった。そこでまた我を通したら自然に囲まれて空気がきれいで景色がええとこで勤務さしてもらうことになった。」
「刑事首になってどこかの離れ小島で駐在さんするよりは良かったんじゃないか?」
「その方が諦めついて良かったかもしれん。なまじ刑事のままやったからやり残した付火が気になってしもうて。」
「定元さんせっかくの料理が。」
女将さんがうまく話を変えてくれ、料理や酒の話になり楽しい時間が過ぎていった。時々定元部長が僕をいじろうとしたが、女将さんとママがうまく話をそらしてくれた。流石繁盛している店を切り盛りしてるだけのことはある。
若竹を出てそのまま舞に行った。女将さんも一緒に。こんな雨なのにそこそこ客がいる。ママと同伴で店に入った僕たちを客全員が嫌な目で見ている。ママを連れ出しているだけでも敵意の対象だろうし、その上ママに劣らぬ美貌の美魔女が一緒だし。
空いていたボックス席に座ると、
「敵視されとるんは石やんだけでお前や儂らは関係ないからな。」
定元部長が僕にささやいた。
「それは分かってます。こんな貧乏そうで田舎くさい小若い衆誰も気にせんでしょう。」
「自分を知ることは大事なこっちゃ。」
「でも石原部長田舎回りが長かったから、これまでそんなに此処には来られんかったでしょう?」
「間が空いたらママがギャーギャー騒ぐから来ん訳にはいかん。それに石やんにはこの街にどうしても再々来ないかん訳もあるし。」
よく分からないが詮索しない方が良いみたいだと感じた。
2時間足らず舞にいた。定元部長の独壇場で歌ったり踊ったり。こんなのいいのかな『?????』となるくらい。ホステスさん達も大笑いしながら楽しんでいる。僕にも何かやれと言われたが、残念なことに僕には芸がない。
「猿は芸があって初めてええ猿になるんや。芸無し猿はただの有害鳥獣じゃ。」
と言われても僕は音痴だし。
「よし儂が芸を仕込んでやる。半年もしたらいっぱしの見世物猿になるじゃろう。」
「それは楽しみ。」
ホステスさん達まで悪乗りしてる。
「知能犯も芸無し猿やったけど、今じゃ少ないながらも投げ銭来るくらいは芸ができる。うちの班はみんな芸達者じゃ。」
「え、マル暴の兄さんもですか。」
「あれは顔見せてもの言うただけで受ける。」
「定は顔の上に芸やからな。」
「うちだけやなくて他のお店のホステスさん達にも定元さんもてるんですよ。笑わすだけやなくてホステスの話を親身になってよく聞いてくれるって評判です。」
「それは定の手やな。こんな顔した奴が不愛想にして座っとったら誰も寄ってこん。女性を蔑視して言う訳やないけど、女性は自分の話を真剣に聞いて相槌打ってくれる男が好きなんや。こんな不細工な顔でも。」
ホステスさん達は目をそらして笑ってる。班長は続けて、
「こいつは初任科の頃から要領がええ。いつも先頭に立って悪さを始めるんやけど皆が真似してやり始めてヤバなったら知らん間に後ろに下がって関係ないような顔しとる。止め時が分からん馬鹿が処分されても定は無傷や。石やんみたいなキリっとした男前がそれやったら恨みを買うけど、こういう間抜けにしかみえん顔やから皆見過ごしとる。」
「そんなん言うたら儂が悪人みたいやないか………。」
「本当はお前自覚しとるやろう。言いたい放題・やりたい放題しとるようで上のもんには嫌われんように言いたいこと・やりたいこと控えとる。その証拠にお巡りさんになってからもう20年以上になるのに一遍も単身赴任したことがない。いつの異動も家から通えるとこばっかりじゃ。儂はもう2回も単身赴任した。」
班長は本気で追及するつもりはないみたいだ。目は笑ってる。
「いやそういうことはないんやけどぉ………。」
「それに同期で一番最初に試験無しで巡査部長なっとるし。」
石原部長が笑いながら追い打ちをかけた。定元部長黙ってしまった。
「まあそこらの見え見えのとこまで含めて定さんやけん。」
石原部長!それフォローになってません。
定元部長が大人しかったのは5分程度だった。すぐに復活して元通り。こういうところが憎まれないのかも。でも僕には真似できない。そんなこんなで午後10時過ぎまで店にいた。石原部長がそれとなく3人にタクシー代を渡してくれた。前にも貰ったうさぎが踊っている絵が付いた袋に入れて。女将とホステスさん達には心づけとして夫々に渡したみたいだ。
「石原さんのポチ袋ええよね。粋やもん。」
「これ京都で買うたん。」
「うん。こういうんの専門の店がある。」
「こんな絵柄もあるんやね。」
「学生頃の友達で日本画の絵描きがおるけんデザインして貰ろうた。」
「オリジナル?」
「名前書かんでも絵で儂やと分かる。」
この人どう考えてもお上から貰う給料以上のお金を使ってる。それも大幅に。大丈夫かな。
「儂親から受け継いだ遺産があって、それを食い潰さんようにちゃんと増やして、増やした分も全部を使うとるわけじゃないけん心配せずに奢られとって。悪いことして作った金やないし。」
つい『部長僕の心が読めるんですか?』の顔をしたらしく、
「土居さん分かり易いよ。刑事長い間しよか思うたらもう少し顔色読まれんようににせんと。被疑者に手玉に取られるで。」
以後気を付けます。
翌日は雨も上がり普段通りに勤務した。もう聞き込みをする先もなくなった。部長は相変わらず朝早と深夜に火事の書類を漁っている。僕も手伝うと申し出たのだが、
「今探しとるのはどの火災が一連の放火の始まりかゆうことや。こればっかりはよう事情を把握した者やないと書類見ても分からんと思う。一緒に居って付きおうとるだけは時間の無駄や。今の体制終わったら二人でこの件捜査することになる。そしたら付火は夜やから二人だけで夜に出ないかんなることが多なるけん帰れるときは遠慮せんと帰って休んどって。」
と言われたので申し訳ないが毎日先に帰らせて貰っている。
四月の終わり頃になった。世間ではゴールデンウイークと呼ばれている時期になったが僕達に休みはない。ゴールデンウイークが終わった頃、そろそろ帳場も縮小やなという話が出始めた。ベテランたちは経験で分かるらしい。
5月半ば頃の朝、
「本日は午後4時30分に送致係だけ残して講堂に集合。」
課長から声がかかった。皆が嬉しそうな顔を抑えているのがよく分かった。顔に出るのは僕だけじゃない。
言われた時刻講堂に上がると、他の課から応援に駆り出されていた捜査員達も集まっていた。署長が壇上で、
「だいぶ無理をさせましたが本日で本件捜査を縮小し、明日からは専従捜査員を指定しての継続捜査とします。ご苦労様でした。」
と宣言し、次いで刑事管理官の挨拶と労いの言葉があった後、課長が登壇し、
「長期にわたり大変ご苦労をおかけしました。心からお礼申し上げます。事案は未解決ではありますが本日で捜査本部を縮小し、明日からは刑事一課の石原部長と土居刑事の二人で専従継続捜査といたします。他の署員の方々も日常業務を通じて本件事案の情報収集等ご協力くだされば幸いです。本当にありがとうございました。」
と謝辞を述べた後、副署長が散開を宣言しそれぞれの部署に帰って行った。
課に帰ると課長が再度、石原部長と僕が専従捜査をする。深夜に発生した事案への捜査になるので深夜時間帯の捜査も必要となるだろうから、それによって出勤時刻が不規則になり通常業務へのしわ寄せが他の人によること等もあるができるだけ協力してほしいとの話だった。
「できるだけご迷惑を掛けないようにする積りですが、何かあった時は宜しくお願いします。」
と部長が協力依頼をした後課長が、
「今日はこれで置いてください。また明日から日々の業務宜しくお願いします。」
と言ってお開きになった。
「さあ飯行くよ。」
と部長が言ったので、もう慣れてしまった僕は当たり前のようにお供をすることにした。
前とは違い電車ではなく歩いて。道々、
「一や二を差し置いて僕らでええんですか。恨まれません?」
「あいつ等やる気ない。ええ幸いや思うてる。あいつ等にやらしたら御神輿をお宮に道案内してお見送りするだけや。こっちの進展が見えんと遊んどるように言うやろし、うまいこといきそうになったらハイエナみたいに噛んでくるやろうけど。」
署からそう遠くない繁華街の北に隣接する住宅地の中の看板もネオンも控えめなひっそりした店に着いた。煉瓦で装飾された目立たない入り口で、レストランだと思うが何料理なのかは分からない。
部長は来慣れている様子でドアを開け中に入っていった。すると先にもう舞のママがいた。先日とは別の若いホステスさんを伴って。
「今日は始まりが早いからゆっくりできるね。」
と嬉しそうな笑顔で。僕はこういう店には来慣れていないのでキョロキョロしているとホステスさんがクスクス笑いながら、
「私もこんな落ち着いた雰囲気の店に連れてきて貰えるのは初めてだからめずらしくて。」
とは言ったが、キョロキョロはしていなかったように見えた。
「ここはステーキ屋さんや。儂が仲良くしてる肉屋が納品しとる。ほんとは同じ肉屋が納品しとる焼肉屋に行きたかったんやけど客商売がニンニクプンプンはいかんらしい。」
「当たり前やろう!上品なお店で売ってる舞のママがお店でニンニクプンプンはいかんやろう!」
「分かった分かったニンニクプンプンは今度土居さんと二人で行く。」
「えぇっ、お店休みの日に一緒に行く!」
「無理せんでええよ。」
「無理なんかしてない!」
少しふくれっ面の美人も良いものだ。
「土居さんママに見とれてる。」
ホステスさんに言われて少し顔が火照った。
「あっ、土居さん顔が赤なった。」
ちょっと沈黙があったタイミングでお店の人がにこやかに笑いながら、
「そろそろ良いですか?」
メニューを携えて席に来た。
「あ、ごめん。まずシャンパーニュをいただきながら料理を選びますので先にシャンパーニュを。今日はブラン・ド・ノワールで。」
「では、アンドレ・クルエなどいかがでしょう。」
「いいですね。」
「畏まりました。本日は当店のステーキをお楽しみください。焼肉は後日ということで。」
「済みませんあれは冗談です。」
「分かっていますよ、石原さんとは長い付き合いなので。」
「あ、それとご婦人方のニンニクどうされます。」
部長がママの方を見ると、
「全く無しは寂しいから少しだけ。プンプンは無しで。」
とママが答えると、
「畏まりました。」
と言ってメニューを置き何故か嬉しそうに笑いながら立ち去った。
その後シャンパーニュを飲みながら肉の種類や重さを決めて注文をした。僕とホステスさんは黒毛和牛のサーロイン、ママは黒毛和牛のヒレ、部長は土佐あかうしの赤身。
「部長が注文した肉あまり聞かない名前なんですが。」
と聞くと、
「褐毛和種ゆうて主に熊本で飼われてる品種なんやけど、高知でも少しだけ飼われてる。高知と熊本では同じ褐毛和種でも違いがあるらしいけどよう分からん。高知の海岸沿いで潮風を被った青草を食べて育った褐毛和種の赤身が儂好きなんや。」
少し興味がある顔をしたら、
「少し分けるけん味おうてみて。」
また心を読まれた。ホステスさんクスクス笑ってる。部長は僕の肉を僕が頼んだよりも大き目にして注文し、
「儂が土居さんくらいの時はもっと沢山食べとった。」
肉の前に前菜が出た。何種類か出たが『白が合いそうだから』と言って部長がピュリニー・モンラッシェという白ワインを選んだ。ママはその白ワインが好きらしくすごく喜んでいた。
「石原さんてママが喜ぶツボがよく解ってるんですね。ママが喜ぶとすごく嬉しそうだし。」
気が付かなかった。ママは嬉しそうで、部長は少し恥ずかしそうだった。
シャンパーニュと白ワインが終わるころ肉が焼けた。一緒に赤ワインが出て来た。もう既に栓が抜かれていた。
「抜いてすぐだと開いてないから食事の時間から逆算して抜栓して貰らってた。」
開くという意味が分からなかったけどあいまいに頷いた。
おなか一杯になった。肉と一緒に出てきた赤ワインがすごく美味しかった。僕たちがたまに飲む安物の赤ワインとは雲泥の差だ。
「これ高いんでしょう。」
と聞くと値段には触れず、
「高い安いは市場の原理。借金してまで贅沢するのは阿保やけど、使えるお金を使うのは日本の経済活性化のため必要なことやから。」
僕は自由に使えるお金があまりないからよく分からない。ホステスさんも経済のことは多分あまり解ってないと思う。ママはどうなのだろうかと思ったら、
「経済もワインも、分からん者が無理に分からんでもええんじゃない。ワインは飲み物、そのワインが好きか嫌いかだけのことよ。洋美さんに感謝して美味しくいただいとったら。」
ママにも心を読まれた。ホステスさんは増々可笑しそうにして笑うのをこらえている。
『ごちそうさま』を言って店を出て、舞に行くことになった。少し距離はあったけどいい時候だし時間も早いし歩くことになった。ママは部長の腕に腕を絡めて楽しそうに歩いている。
「店に来るママ目当てのお客さん達がこれ見たら石原さん闇討ちされるね。」
「ママがもてるのは分かるけどそこまで?」
「うちの店はママで持ってる店だから。美人で朗らかだし、悪い意味ではなく客あしらいが天才的に上手って言われてるみたい。」
なんとなく分かるけど、
「『寸止めの尚美』って知ってる?」
「えっ。」
「あ、私が言ったんじゃないんよ。前に石原さん一人で来た時にママの前で言ってた。ママ機嫌損ねて、石原さん一寸慌てたんよ。『上手にお客さん引き付けて最後の一線は絶対超えさせない』って意味らしい。」
「仕事場で慌ててるとこなんか見たことないけど、石原部長も慌てるんだ。」
少し安心した。
「石原部長にも寸止めなんかなぁ。」
「石原さんが寸止めしてるらしいよ。」
「えぇー。」
「ママはずっと待ってるみたいやけど、石原さんに踏み切れない事情があるってお店の人が言ってた。ママは結婚という形はとらなくてもいいと思ってるみたいやけど、石原さんがなし崩しは嫌みたい。」
知らなかったことばかりだ。僕だったら絶対我慢できないと思う。分かったのは、石原部長は強い理性の持ち主で、仕事場だけではなくて外でも男には嫌われるんだ。
「今日は新月で五月闇やから襲うにはいい日かな。でも今頃街中で真暗闇の道なんてないけど。僕が育った山奥の家は、闇夜はほんとに真っ暗やった。」
「ふーん。そんな暗闇見てみたい。でも今日は五月闇じゃないよ。五月闇は梅雨の頃の厚い雲に覆われた日中の暗さとその頃の闇夜のことを言うんよ。今は5月だけど旧暦だとまだ卯月だし梅雨はまだまだだし。こんな事言うと嫌な女と思われるかもしれないけど。」
知らなかった。
「私国文の学生なんよ。ホステスはアルバイト。学業に触らない日だけで良いって言われてるけど店の人達みんな良い人達だしお小遣いも欲しいから毎日出てきてる。石原さんもそれ聞いて奨学金やって言って時々お小遣いくれるし。あ、直接じゃなくてママを通してね。これ他の人達には内緒ね。」
前を歩く二人には僕たちの話が聞こえないように間を空けて舞まで行った。二人は店のすぐ近くでも腕を組んだままだ。敵に見つかると危険です石原部長。仕事場でも自分を嫌ってる奴らのことなんか全くお構いなしだけど外でも同じか。
翌日からは普通に出勤して午前中、傷害・変死・失火などの処理をして、午後時間が取れたら放火現場付近に行き顔なじみになった年寄りたちと話をしたり、部長が書庫を漁って確認した一連の放火である可能性がある古い火災現場を確認したりの日々が続いた。
「次の発生待ちになるから先は見えてない。2か月程はええけどそれ以上になってこれにばっかりに関わっとると腐れと腰巾着が文句言い出す。この2か月で基礎の情報をできるだけ集めて、その後は昼間の仕事はちゃんとやっといて夜間の時間外で捜査を続けることになる。それまでにそれらしい着火マン候補者が出てくれればええけどそうもいかんじゃろうな。時間を奪い苦労を掛けることになるが我慢して欲しい。」
頭を下げられると、この2か月程でこの人の人となりはそれなりに分かり、仕事熱心で仕事を良く知っているので見習うべき人だと思うようになっていたので、
「はい。強行刑事として仕事身に着けるチャンスや思うてやります。」
「頼む。この仕事はサービス残業ばかりで報酬面での戻りはないけどその点は儂が考えるから。」
その数日後当直5班集合で、ご接待の飲み会があった。
「今日は思い切り遊んでまた明日から気合入れよか。」
と班長が言って飲み会が始まった。ここにも舞のママと先日とはまた別のホステスさんが今日は2名も来ている。部長この2箇月余りで飲み代だけでもう何十万円も、いやそれ以上のお金を使っているんじゃ?
「儂の懐の心配はええから、先輩たちに可愛がられるように芸覚えてな。土居さん暴力犯みたいに顔見せただけでは受けんから。」
若竹の後は当然のように舞へ、これも当然のように女将さんも。いつも通り定元部長の独壇場かと思ったら、盗犯も劣らぬ芸達者で、知能もそこそこ。班長だって結構いける。薬物は芸無し猿かと思っていたらごく短い一発芸で大受けしていた。暴力は何かものを言うだけでホステスさんが笑ってる。ダメなのは僕だけだ。石原部長だってピアノを弾きながら歌を歌い、ママは勿論ホステスさん達も目を輝かせている。芸無し猿の僕は若竹でも舞でも皆に玩具にされたが不思議に嫌な気分にならない。舞での飲み会が終わるころ皆に御車代のポチ袋が渡されその後お開きになった。
その日から暫くして部長は始まりと思われる火災を絞り込み、もう亡くなっている人もいたが絞り込んだ3軒の家に聞き込みを始めた。20年も前のことを聞かれても皆戸惑っているし、明らかに不愉快そうな顔をする人もいる。部長は僕が知っている気に入らない同僚に対する態度とは全く違う態度で低姿勢かつ辛抱強く相手の協力を引き出していった。一気に昔の話に持ち込むのかと思うと、庭木や鉢植えを誉めたり子や孫を誉めたり。日本刀が好きなおじさんの家には亡くなった自分のお父さんのコレクションを持参して見せたり、相手の愛刀を褒め上げたり。よく分からないけど豊後南画とかいうカテゴリーの日本画が好きなもう一方の人にはそういう絵が好きな人達のグループを紹介したりもしていた。
そういうことを重ねているうち、発生から4箇月が過ぎた頃には僕達が訪ねるのを楽しみにしてくれるようになった。その頃は周りが煩くなりそうなので日中は極力本来の業務をすることにしていた。休日の午後、親しくなった被害者宅に上がり込んで趣味の話をしたりするうち少しずつ昔の話が聞け始めた。相手が自分から話し始めた火事があった頃のことを聞くうちに、3軒のうち同じ苗字の2軒が結構近い親戚であることが分かり、この地区の古くからの農家から分家した家であることも分かった。その本家と分家は旧民法で本家の戸主だった人が亡くなった際、財産分けで揉め土地や骨董をめぐり争ったことなども。一気に聞き込みを進めるのかと思ったらそうでもなく趣味や最近の話題を混ぜながらゆっくりと。
その後南画好きの人のために、部長の亡くなったお母さんの実家にあった『田能村竹田』という豊後南画の創始者らしい画家の軸を借り出し、もう一方の日本刀が好きなおじさんのためにはお父さんのコレクションから『助廣』という刀工の刀を実家から持参してその鑑賞会を部長主催で開くことになった。場所は若竹の座敷で。
若竹の座敷には、親戚同士の2軒の当主と部長と僕と舞のママと学生アルバイトホステスさんが集まった。もちろん女将さんも。床の間には田能村竹田の軸が掛けられ、広めの座敷の空いたスペースには黒い敷物の上に日本刀が一振り。
まずは掛け軸から。部長は南画についてはあまり知らない体で南画好きのおじさんがあれこれ知識を披露するのをさも感心したように聞いていて、ママや僕達は本当に何も知らないので頷きながら話を聞いた。次は日本刀で、これも部長は聞き手に回り刀好きのおじさんのうんちくを感心しながら聞いていた。ひとしきり骨董品の話で盛り上がった後、刀はこれも部長が用意した刀掛けに掛けて飲み会が始まった。
飲み会が始まったが部長は骨董の話ばかりしている。招いた二人も部長との骨董の話に夢中だ。ママが小さな声で、
「洋美さんは骨董詳しいんよ。本職の骨董屋に掴ませるくらい。大学も美学美術史専攻やったらしいし。うちのお客さんの骨董屋さんが言ってた、洋美さんが持ってた二束三文の紛い物を本職の骨董屋が高値で買ったらしい。骨董屋さん達の間では結構有名な話らしいよ。洋美さんが言うには、
『骨董屋が素人を騙すのは犯罪やけど、素人が本職に掴ましたら勲章もんや。』
って胸張ってた。」
「それ問題にならんのですか?」
「後で文句言うてきたらしいけど、
『儂は本もんじゃと思うとった。今でもそう思うとる。あんたも納得して買うたんやから今更。それに儂が買うてくれ言うたんじゃのうてそっちが欲しい言うたんやろ。』
って言って無視したらしいよ。どうもそれ以前にその骨董屋が洋美さんの知り合いに偽物売りつけたらしい。」
「その骨董屋も本物やと思って望んで買うたんなら買うた人の責任ですよね。」
「うちのお客さんの骨董屋さんもそう言ってた。うちのお客さんの骨董屋さんは洋美さんのお父さんが生前時々利用していたらしい。洋美さんも子供の頃から知ってるみたい。うちにも洋美さんと一緒に来たのが最初だったし。その人が言うには、何処かの骨董市に洋美さんと一緒に出掛けたことがあって、その時洋美さんが件の骨董を二束三文で買うとこを見てたらしい。でもその人は、
『【儂は掘り出しもんの値打ちもんじゃと思うて買うたんや。ええもん安う買えたと思うとった。】と言われたらどうしようもない。プロのくせに玄人裸足とはいえ素人に文句着けるんは筋違いや。そんなことは言うたらいかんこと。自分が偽物店に置いてるて宣言したようなものやから。涙呑んで黙ってこらえて知らん顔で転売するんが骨董屋の本筋や。』
って言ってたよ。
『でも洋美さんが知ってて見せびらかしたんは間違いないと思う。』
とも言ってた。強盗・窃盗・骨董。」
「えぇ、それ危ない人じゃないですか。」
「ええんよ。私にだけ正直でやさしかったら。」
「僕の飲み代ってそこからですかね。」
と聞くと、
「土居さん心配性やね。私は自分の食事代やワイン代服代の出処なんか気にしてないよ。」
と笑われた。
その日は火事の話は一切なく、二人のおっちゃん達も美味しい料理と酒を堪能し、骨董と美人達で眼福を得て帰って行った。
「舞には誘わんのですか?」
「そこまでは。儂らはこのまま帰ったら怒られるけんそろそろ行くか。」
二週間程して土曜日の午後その二人のところを訪ねた。手土産に手に入りにくい日本酒を持って。最初に尋ねたのは南画好きのおじさん宅だった。こちらの火災が日本刀より先だったので。そしたらその人が今晩家で飲もうと言い出し、日本刀のおじさんも呼ぼうと言い出した。部長はそれに応じもう夕方だったので、当直司令をしていた課長に電話して事情を説明し捜査対象者宅で夜間飲酒を伴い話をする許可を貰った。敵対する人たちに揚げ足を取らさないために。これまでの捜査状況も細目に課長に報告しているそうだ。いつの間に?次いで若竹に電話を入れ4人分の酒飲み用弁当と家の人用のおかずを僕がタクシーで取りに行くことになり、弁当の他にクーラーに入った冷えた缶ビールを女将さんから持たされた。
少し酒が回ると、聞きもしないのに本家と分家のいさかいについて二人が話始めた。当時分家同士では特に対抗意識や揉め事は無かったようで、両家が結託して本家に対抗した訳では無かったみたいだ。二人は従兄弟同士で二人の父親が兄弟。太平洋戦争敗戦の数年後二人の祖父が亡くなったらしい。二人の父親の上には兄が一人がいて、その人はお爺さんの先妻の子で、二人の父達は後添いさんの子供だったらしい。二人の祖父が亡くなったのは昭和23年の正月だったらしく、せっかくの正月に楽しく遊べず寂しい思いをしたらしい。
本家の長男は終戦後日本の民法が変わったことを理解せず、旧来の家督相続が当然で次男・三男に分ける財産はないと言い張ったらしいが、法には勝てず後添えさんも亡くなっていたので兄弟三人で分けることになったらしい。本家の戸主だったお爺さんは長生きした人らしく、もう1年寿命が短ければ長男の思い通りになっていたらしい。財産分けは不承不承受け入れたが、誰が何を貰うかについては随分揉めて結局親戚の長老格が間に入ることになり、本件での長男の言動を不快に思っていたその人は次男、三男に好意的な裁定をしたらしい。その直後から長男とその一人息子は不満たらたらで、会う人毎に二人の父親達の悪口を言い回っていたらしい。
本家にはそのままなら農業だけでなんとかやっていける程度の農地と家作があったらしいが、3軒で分けてしまったので生活が怪しくなったらしい。分家した弟2人は自立しなければやっていけないと思っていたのでそれなりの職業選択をしており、遺産を貰ったことで生活が安定したらしい。そのおかげで今日一緒に飲んでいる二人やその兄弟姉妹はそこそこの教育を受けることができ、それなりの職業に就くことができたし骨董を楽しむ余裕もできたらしい。今一方が掛け軸が好きで、もう一方が刀が好きなのは遺産分けの時、掛け軸好きの父が掛け軸を貰い、刀好きの父が刀を貰ったのが始まりだそうだ。
本家は急速に衰退し、元々性格がおかしかった本家の長男の一人息子はろくに仕事もせずに飲んでは分家の悪口を言いふらしていたらしい。昭和33年に本家の長男が亡くなり、そのろくでなしの息子は不満をぶちまける様に二人の家に嫌がらせをするようになったが、親戚同士のトラブルなので警察にも言いにくいし我慢していた。そしたらその翌々年の初冬南画好きおじさんの家が燃えた。燃えたのは道路に面した納屋で母屋は軒が少し焦げたくらいで済んだが納屋にいた鶏が焼けて臭かった。納屋の軒下には稲藁が積んでありその辺りが火元だったらしくて『通行人のたばこのポイ捨て』が原因だろうということで終わった。といった話だった。
よくある話だ。刑事は『放火』という言葉が嫌いだ。『たばこの不始末』という言葉は好きみたいだが。こんな話はしてはいけないが、昔あるベテラン刑事が火災現場に臨場するとき最初からたばこの不始末で話をまとめるつもりでいて、臨場するやいなや、
『この家でタバコを吸う人は?』
と尋ねたが、
『誰もいません。』
と即答されて、
『弱ったのう!!』
と言ったなどという不謹慎な冗談があるくらいだ。追加としてそのベテランは別の現場で、
『原因は鼠の寝煙草!』
と言ったとか言わなかったとか。
その1年余り後に刀好きおじさん方も火事になったらしい。その時も道路に面した軒下に置いてあった肥料の空き袋辺りから燃えたらしい。これも原因は不明だが放火とは扱われなかったようだ。この火事は南画好きおじさんの家よりもひどく、母屋が全焼したらしい。大寒の頃で家族一同寒くて困り途方に暮れたらしい。
それ以前から両家では釈然としないものを感じ、口には出さないが本家の息子が怪しいのではないかと思ってはいたらしいが、身内の恥なので口には出せなかったらしい。その後新築する際敷地の周りを少し高めの燃えない塀で囲い施錠できる門を付けた。新築中は鉋屑などが沢山あるので夜間は家族が交代で見回りをした。南画好きおじさんの家もその頃塀で敷地を囲い施錠できる門を付けた。それから3年近くたった頃に少し離れたところにある相続の際間に入ってくれた親族の家も火災に遭った。これは発見が早く小火で済んだ。これで絶対だと思ったが、間に入ってくれた人は遠の昔に亡くなっており遺族は本家の息子とは全く付き合いがなく嫌がらせもそれまでなかったので、小火だったこともあり火の用心を再確認しただけで終わったらしい。自分達も寝た子を起こすようなことはしなかった。その後親戚の家は燃えていない。
部長は警戒されないようにメモは取らなかったが真剣に聞いていた。僕も聞いていたが心を読まれやすい僕は相手を警戒させないようにやや下がり気味で。でも二人の言葉を聞き逃さない様にと真剣に。だいぶ酒が回ってからは火事の話を外れて骨董の話に戻り、若竹の女将さんや舞のママ達の話になり
『どっちが石原さんの彼女?』
とか、
『あの若い娘が土居さんの彼女かな?』
とか。だんだんエスカレートしてきわどい科白が出始めたので、
『もう時間も遅いし。』
と言うことで帰ることにした。僕は住んでるアパートが近いので徒歩で。部長は通りまで出てタクシーを拾うと言って。
僕は部長の家がどこなのか知らない。課員名簿に当直明けにお世話になっている旅館辺りの住所が書いてあるが詳細不明。ママと一緒に住んでるんだろうか。でもなし崩しは嫌みたいだし。そんなことを考えながら歩いているとアパートの前に着いた。人の生活を詮索しても仕方ないので考えるのを止めて風呂に入って寝た。
翌日は日曜日だったが出署した。本来の休日も基本休みはなく、休む時は前もって二人で連絡を取り合って休むということにしていた。もっとも聞き込みはほぼ終了したので日中特に用事はない。協力してくれている人達のところは時々部長が自前で手土産を買って覗いている。部長は時々行く先を言わずに消えることが有ったりするが、ママとデートかなくらいで詮索はしていない。課に入ると課長と石原部長が話し込んでいた。僕が自分の席にいてもしばらく話を続けていたが、
「そしたらその方針で。」
という課長の声がして部長は自分の席に戻ってきた。
部長は、
「そしたら出るか。」
と言って署外に出た。
「朝飯食ってないやろう。」
と言って、署の近くの喫茶店に入りモーニングセットを奢ってくれた。
「課長には昨夜の話全部した。例のろくでなし息子マークでいく。半年程で可能性が高い着火マン候補者が出たらなら御の字じゃ。」
と言った後、
「今日は久しぶりに競輪行くけどどうする。」
「競輪て面白いんですか?」
「面白い!」
ん?と思ったがいつか競輪好きを取り調べるときの準備として行ってみることにした。何事も経験だ行ってみよう。
競輪場に着くと最初のレースがもうすぐ締め切りだったが、
「このレースは最弱レベルの団栗マンが低レベルの背比べしとるようなレースじゃから見送り。」
と言って、売り場からは離れた人がいない観覧席に歩いて行ったので付いて行った。
そこの壊れかけた汚いベンチに腰掛け僕にも座るように促したので恐る恐る座ると、
「今日の狙いは3レースからや。それまでに課長との話を伝えとく。」
と言って話し始めた。
心証としてあいつが着火マンであろうことは課長も同意した。
時効になっている件の風評程度の供述では呼び出すネタにはならない。
二人から聞いた通りの人間なら他の引きネタくらいあるかもしれないがそれはやらない。
行動確認して現行犯で押さえたい。
余罪はまず現行犯で身柄捕ってから。
さしあたっては容疑者の身辺を慎重に捜査して行動パターン・立ち寄り先等を確認する。
こちらの影に気づくと犯行を止める程度の知恵はあるみたいだから、細心の注意が必要。
ここ10年で4件それらしい火事がある。平均3年程の間隔。しかしそれはあくまで平均。
何か不満が溜まればやるじゃろう。せっついて不満をためることが出来たらええけど難しい。気長に待つ。
他の課員には鋭意捜査中とだけ言う。やってることの詳細は秘匿。
そんな話だった。
その後、
「これはあくまで儂の考えや。」
と念押しした後、
儂があいつの犯行と推定した事案の共通点は、発生時刻が午後10時頃から午後11時30分くらい。
どの火事も家人が起きている時間帯。多分家の明かり他で寝込んでないことを知って火を付けとる。
発生は日暮れが早い冬至の前1箇月半、後2箇月くらいの間。
曜日は、金、土、日。
現場で油類が確認されたことはない。
着火箇所はいずれも道路に面する、または極めて近い箇所。
このことは課長には説明しているが他には言ってない。腐れ一味に手の内は極力見せん。
「土居さんも自分だけが知っといて。」
部長は度々課長には報告済みと言うが、
「でも課長と話しとるとこなんか見ませんでしたよ。」
「今朝見たやろ。」
「いや、今朝全部?」
「課長とは最初から度々会って細目に進展状況を報告しとる。」
「えぇ。」
「最初にも言うたけど、課長と儂がつるんどるのは内緒じゃ。」
「何処で報告してるんです。」
「時々あんたも行っとる旅館の離れじゃ。儂その離れに住んどるけん。課長は旅館の近くにある幹部用の官舎に奥さんと居るけん帰りに寄ったり、奥さんと風呂がてら来てくれたり。」
「あ、只で居候しとるわけやないよ。元々その離れは儂の爺さんが田舎から出て来た時自分が滞在するために自分が金出して建てさしたもんで、儂が中学・高校の頃はそこから学校通うとった。儂がおらん時は特別なお客さん用に使うとったりもしたみたいやけど。飯代も管理費もちゃんと払うとる。請求はいつも安すぎるから自分判断で多めに。」
「部長ってお坊ちゃまやったんですね。」
「それを否定はせんよ。儂は世間知らずの甘々ボンボンや。」
それは違うと思います。
3レースが発売になったので部長は出走表を見ながら僕に1万円札を1枚とデイリースポーツを渡して、
「1レースに2千円以上買うたらあかんで。」
と言った。何を買っていいやら分からないので新聞に書いてある通りに買っていたら、2千円以上は買うなと言った本人は売り場窓口の小さな穴に万円札を何枚も通していた。大丈夫だろうか。
「この穴は人一人の手くらいしか通さんように見えるけど、広い田畑も広大な山林も大きな家屋敷もスルッと通す不思議で危険な穴やから気いつけないかん。」
それは自分に言い聞かせてるんですか。
レースが始まり、僕はデイリースポーツの予想通りに4点5百円ずつ。的中して配当は540円だった。2千円が2千7百円になった。部長は2点に絞り的中。5万円中3万円が的中し16万2千円を窓口で受け取った。利益は1レースで僕の1箇月分の手取りに近い。次のレースは落車があり車券は紙屑に。5レースはド本命が来て僕も部長も当りはしたが収支はマイナス。渡されたお金で張っていても結構興奮する。
当たってマイナスになるのを『トリガミ』と言うらしい。『トリガミ』の車券を換金したら、3レースのトータルで僕は千6百円くらいマイナス、部長は5万円足らず浮いていた。賭けている間はホームスタンド側でレースを見ていたが、
「次は8レースから、暫く休憩。」
と言って、スタンドから離れた売店らしきものが並んでいる方に歩き始めたので付いて行った。
「今日は中日で8レース以降準優勝戦になる。今回出走しているメンバーの中の強い選手が分散するから軸がはっきりして買い易い。」
と部長が言ったが意味はよく分からない。黙って後を付いて行ったら、汚なく小さい店が何軒か並んだところに着き、その中でも一番汚い店に部長は入っていった。当直中夜食を食べに行く店の壁は、
『ハエが止まったらくっつくかな?』
くらいだけど、この店の壁は
『くっついたら絶対に逃げられない!』
と思う。ガスコンロ回りはゴキブリでも無理、換気扇に至っては鼠がアウト。
部長が店に入り空いてる席に座った。壁に凭れかからない様に気を付けている様に見えるのは気のせいだろうか。僕も壁に接触しないように椅子に座った。
「洋美ちゃん、久し振りやね。帰って来たて聞いてたんやけどなかなか来てくれんから競輪やめたんかと思うとった。」
「競輪は止められんね。でも今回はなかなか暇がのうて。」
「洋美ちゃん高校生の頃から浸かっとった競輪はやめられんよねぇー。」
「そんな頃からですか?」
「高1の頃から。その頃は競輪ある日はそれを知らせるために午前8時に花火が上がってなぁ、遠いとこから汽車乗ってくる人も大勢居った。洋美ちゃんのお父さんも時々ここに来てくれて、帰りには過分な心付けをくれてた。そこは洋美ちゃんもお父さんに似たなぁ。洋美ちゃんの同級生ら洋美ちゃんは競輪ある日は絶対学校来んもんやと思うとったみたいや。平日にここでお父さんとばったり出会うたこともあったな。」
「それ慌てたでしょう。」
「いいや、どっちも普通にしてて、一緒に競輪して一緒にビール飲んでた。」
「ビール二つ。」
「はいよ。」
と答えて店主らしき、ドラム缶の上に漏斗を伏せた様な体形のおばちゃんが縁日でかき氷を入れるような発泡スチロールのカップに350ccの缶ビールを注いでくれた。
「洋美ちゃんはキリンやけど、お連れさんは?」
「同じでお願いします。」
「缶とグラスを渡してくれたんで良いんじゃないんですか?こんな飲みにくそうなカップに入れんでも。」
「ここでは、酒類はご禁制の品じゃ。判定が気に入らんと暴れて火まで付けるような奴らが団子になっておるとこで、そいつら酔わしてしもたら危のうていけん。」
「え、それやったら飲んでたら取り締まられるんですか?」
「堂々と飲んだらいかんけど、こっそりと遠慮がちにやったらお目溢しもある。割れる器もいけん。その為のこのカップじゃ。」
「でも皆知ってることなんでしょう。意味ないでしょう?」
「ここでは酒類の値段は少し高目になっとる。揉めて暴れるような奴らには飲みにくい。なんせ百円の車券買えんで、50円玉1枚見せながら
『ワッパひとつ乗らんか!』
言うて、もう50円出す奴探して車券の共同購入を呼び掛けるような奴らやから。」
「えぇ。」
「ここ酒類のお品書きないやろ。」
他のお品書きもあんまり無いけど。
おばさんが、
「おでん?串焼き?」
部長が、
「両方。」
すぐに適当に見繕ったおでんと串焼きが出て来た。部長は串焼きを1本摘み上げ、
「高校生の頃ここで焼く前の肉見たことが有る。醤油のたれにどっぷり付けたから今こんな色しとるけど、焼く前は灰色っぽい見たことない不思議な色やった。これはひょっとしたら、鼠追いかけてる『ね』なんとかいうやつの肉かなと思うた。」
「失礼な、だれまり手に入らん高級肉や。ずーっと食べてるもんやのに今更あじゃこじゃ言わんの!」
部長は笑いながらもう1本串焼きを摘まみ、ビールの御代わりを頼んだ。小さな笑い声が聞こえたのでそちらを見たら、奥に僕達より前に入ってたらしい客が白菜の漬物らしきもの一皿を肴に紙コップで何かを飲んでいた。白菜が無くなると皿の醤油に化学調味料を入れてその醬油を割りばしの先に着け舐めながら紙コップを口元に。おばちゃんの近くに甲類の焼酎だと思われる瓶が見えたので紙コップの中身はあれかな。
7レースの発走が近くなった頃そこを出てホームスタンドの方に歩いて行った。途中胡散臭そうなのが屯していたが部長を見るとこそこそとその場を離れていった。8レースから後の3レースは順当な結果に終わりデイリースポーツの予想が全部当たった。終わってみれば僕は3千円余り、部長は50万円くらい浮いていた。元金を返そうとすると、
「あ、一遍出したもの引っ込めささんとって。」
と言われ、部長が勝ってるのを目の前で見てたから有難く頂戴することにした。この後どうするのかと思ったら、
「儂これから用事があるけんここで別れよう。」
と言って、街のほうに歩き始めたので、僕は臨時収入で焼き鳥屋にでも行こうと思い繁華街の方に歩いて行った。
繁華街に行くため商店街を抜けていたら、舞のママとチーママにばったり出会った。
「アレェー、土居さんどうしたん。」
「あ、臨時収入があったんで焼き鳥屋にでも行こうかと思って。」
と答えると、
「競輪勝ったんやね。」
「え、なんで競輪行ったの知っとんですか?」
「洋美さん久し振りに競輪行く言うてたから。だいぶ勝ったん。」
「僕は3千円くらい。それと部長に1万円元金を貰いました。」
「土居さんじゃなくて洋美さん。」
答えにくいのでモジモジしてたら、
「かまへんから言うて。」
「あぁー、50万くらいですかね。」
「よっし!」
「部長と待ち合わせですか?」
「ううん、今日は洋美さん若くて超可愛い娘さんとデート。」
「ええっ、そんな人いるんですか。」
「私じゃ太刀打ち不能。」
でもママは怒ってはいない。
「土居さん、焼き鳥止めて私らとご飯行こう。」
断る理由はないのでお供することにした。
繁華街の外れにある地味な構えの古そうな店に着いた。店名がイタリアの地名でイタリアの国旗が掲げてあるからイタリア料理の店なのだろう。ドアを押して中に入ると少し照明を控えた店内にほぼ満席の客。ママ達は来慣れているらしく、フロアの男性が嬉しそうに出迎えてくれた。すぐに厨房から店主らしき人が出てきてママを出迎えた。
「こちら土居さん、洋美さんの部下の方。急遽一人増えたけど宜しく。」
と僕を紹介してくれた。
「今日は石原さんはどうされました?」
「一寸別の用事があって。」
ママと部長は皆からセットだと認識されているみたいだ。
既に用意されていた席に行くと、急いで僕の分のグラスなどを追加で用意してくれた。
「まずは冷えたプロセッコとカプレーゼをお願いします。後は飲みながら。」
とママが言ったら、ワインクーラーに入ったお酒とカプレーゼとやらが運ばれてきた。
「いつも最初はシャンパーニュなんですか?」
と聞くと、
「これはシャンパーニュじゃないのよ。プロセッコ。」
え、どう違うんだろう。
「私も洋美さんの受け売りしかできないけど、スパークリングワインの中でもシャンパーニュと呼ばれるためには色々条件があるらしいの、これはイタリアのスパークリングでプロセッコ。プロセッコを名乗るためにも色々条件があるらしいけど。まあ美味しければ、ハハハハハ。」
よく分からないけどまあいっか。
プロセッコとやらをいただきながらママが料理とワインを決めた。スパイスを効かせた海老料理と白ワイン。それとニンニク、塩コショウ、トマトソースで下味をつけ、レモンを絞ってかけながらフライパンで焼き上げる鶏肉と別の白。
「一人1本も飲めるんですか?」
「程々に飲んで残りは厨房の若い人たちの味見用に。そしたら丁度良い量になるよ。」
海老と合わすのはイタリアのサルディーニャ島というところの白ワインで、ヴェルメンティーノという、その島で多く栽培されている葡萄でできていて、高価なワインではないが魚介類とよく合いママも部長も好きらしい。鶏に合わせたのはシシリー島のシャルドネという葡萄で造られた白ワイン。ニンニク風味の鳥料理と相性が良いらしい。シャルドネという葡萄はフランスのブルゴーニュという地区で多く作られてきた葡萄だが、高品質のワインができるので世界中に広まっていっているそうだ。ここまでの話明日の朝起きた時覚えていられるかどうか。
僕は先程から『ママが太刀打ちできない程若くて超可愛い娘さん』が気になっている。
「どんな娘さんか気になる?」
あ、また心を読まれた。
「興味津々です。」
と答えると、
「その超可愛い娘さんはね、洋美さんと別れた奥さんとの間の一人娘。すっごく可愛いのよ。可愛いだけじゃなくて頭もよくて将来絶対すごい美人さんになる。」
そんなお嬢さんがいたんだ。
「洋美さんこんな仕事してる上に親も兄弟もいないから、親権は持ってるけど娘さんは別れた奥さんの御両親と住んでるんよ。詳しくは知らないけど離婚の原因は奥さんらしい。元奥さんは東京にいるみたい。娘さんも母親よりも父親になついていて父親の家によく泊まっているらしい。洋美さんも別れた奥さんの実家によく行っているらしいのよ。洋美さん何も言わないけど、小耳に挟んだ話ではそう。」
「挟んだのって定元部長ですか?」
「よく分かるね。」
「あの人そういうことに詳しそうやから。」
「土居さんも分かってきたやない。彼女と一緒に居るとこでも見られたらもう、すぐにでも子供生まれるような話にされるよ。」
さもありなん。でも彼女いないので大丈夫です。自慢じゃないけど彼女いない歴23年。娘さんのことを根掘り葉掘り聞くと部長に伝わって嫌がられると困るから僕も小耳に挟むだけにしとこう。そのうち聞かなくても定元部長が話すだろう。今は美味しいから食べることと飲むことに専念しよう。田舎者の僕が言うのもなんだが、洒落た味ではないが家庭料理のようなホッとする料理でボリュームもあり大満足。そのことを言うと、
「この店のコンセプトはイタリアの家庭料理らしいよ。」
厨房から出て来たオーナーシェフにママが僕の言葉を伝えたらすごく喜んでもらえた。
ママとチーママは冬物の服を買いに街に出ていたらしい。ママたちの仕事は衣装代や化粧品代が大変だ。ママはいいけど若いホステスさん達はどうしているんだろう。少々高い賃金貰っても間に合わない。学生のアルバイトで元が取れるのかな?僕が要らぬ心配をしていたら、
「何考えてるん?」
とチーママに聞かれた。何か見透かされているような気がして一瞬恐怖。チーママは意味ありげな笑いをして僕を見ている。まさか心の中を………。
それ以上の追及はなく店を出た。ごちそうになったお礼を言って帰ろうとしたら、
「まだよ!」
とママとチーママが声を揃えて言った。怖いんですけど。そのまま少し離れた処にあるバーに連れていかれた。舞のような贅沢な造りではなく簡素な造りだが年季が入ったという感じで、カウンターの中のお二人は御夫婦のようだった。カウンターだけの狭い店だったが3人分の席がかろうじて空いていた。座るとママはハイボールを3人分注文した。カウンターの中のお二人がここでも、
「今日石原さんは?」
手慣れた様子でご主人が作るハイボールはやや濃いめだが美味しかった。ウイスキーも日頃舞で出して貰ってる高そうなスコッチウイスキーではなく、僕でも買える角瓶だったが実に美味しい。ママが、
「私達が作るハイボールや水割りと、一流のバーテンダーさんが作るハイボールや水割りは全くの別物。私たちも努力はしてるんだけど。」
それで部長が舞でオンザロックだけなのか。
「洋美さん家でシェークしたりステアしたりしているけど、
『素人芸では追いつかん。』
って言ってる。ここには負けるけどそこらのバーだったら五分やと思うんやけど。」
「ここのマスターと比べたらいかんよ。私も思い付きで開いてるとしか思えんバー相手なら石原さんのカクテルの方が絶対美味しいと思う。」
マスターが、
「石原さんはよく分かってますよ。ずっと前にうちのお客さん同士でB&B を作って飲み比べをしたけれど、石原さんのが断トツでした。」
この店のママさんが
「食べることと飲むこととお嬢ちゃんには力いっぱい情熱注ぐからね。あ、尚美ちゃんにも。」
普段ならママの軽口が出る場面だけど黙ってる。ママさん困った。マスターは要らんこと言うなの顔してる。ママも気づいて軽く笑ってるけど明らかに挙動不審。周りは固形化。僕が元気に、
「御代わりお願いします。」
と言うとマスターとママが動き出し少しごまかせた様な気がしたのだが。
ママはすぐ気を取り直したのか普段に戻ったように見えた。次は薄めのジンフィズを注文しチーママと今日買った服の話を始め、僕にも少し身なりを構うようにと言い始めた。
「僕も石原部長の様なカッコいいスーツが着たいんですけどね。でも先立つものが。」
と言うとママが、
「洋美さんが若い頃着てたスーツ貰ってサイズ直したらいい。娘しかいないんやから置いといても仕方ないし。」
「え、尚美ちゃんが男の子産んだら………。」
またママさんが要らぬことを。一瞬またみんなが固まりかけたが、
「うん大事に使ってもらってから私の息子に返してもらう。」
「そうそうそれがええ。」
皆が声を揃えた。
翌日は署の業務をした後午後4時頃から自分たちの捜査を始めた。着火マン候補者の行動確認だ。以前住所を確認しに行った時見たのだが、手入れがされず廃屋にしか見えない古い家に母親と二人で住んでいる。捜査事項照会で入手した戸籍謄本では従兄弟達が言った通り兄弟はいない。従兄弟達は絶対に近寄らない、御近所さんも目を合わさないように細心の注意を払っている様子。部長は出入りを確認できる場所、隠れて待機できる場所を探していたみたいだが僕には思いつけない。もうすぐ冬になる。準備を急がなくては。
現場付近に着くと部長は容疑者宅から少し離れたパチンコ屋の駐車場に車を止めた。
「張り込み場所を確保したけん。」
と部長が言い、僕達は歩いて容疑者宅の出入り口が見通せる場所にある空家に着いた。そこは容疑者宅の出入り口を見通せるがやや離れた場所だった。建物の道路に面した側に塀はなく二方向から庭に入れた。庭と言うほどのものではなく雑草が生い茂った狭い空き地かな。部長は周りを見回した後容疑者宅から見えにくい側から庭に入り蛇行して家屋に向かった。僕が雑草を踏み分けて真直ぐ行こうとすると、
「儂の通ったルートから。」
と短く小さな声だけどきつめな調子で言われた。怒気を感じたのですぐに言われた通りにした。
「先に言っといたら良かったんやけど、人が出入りしとる形跡は残しとうない。」
「勝手に入っていいんですか?」
「許可は取っとる。」
「?????。」
裏口から屋内に入ると容疑者の出入りが汚い窓ガラス越しに確認できる位置あたりだけが少し片づけてあって椅子が二つ置いてあった。
部長が椅子に座り、立ったままの僕に、
「その椅子は儂が持ち込んだもんで汚れてない。」
と座るよう促し、僕が座ると、
「ここは知り合いの不動産屋通して儂が借りた。儂ら以外で知っとるのは課長だけ。この地区のことじゃけん従兄弟同士に相談しょうかとも思うたが止めた。あの二人は『言うな』言うたら増々話さずにはおれん性格やと思う。それと人の気配は極力消したい。秘匿張り込みの場所に新しい踏み分け道付ける馬鹿はおらん。踏み分け道だけやのうて人の気配は全部消す。」
怒ってる。言葉にはしていないがそんなことも考えんのかと言われてる。
「言われたことをするだけではいかん。自分が何のために行動しとるのか分かって動かんと。目的を遂げるためにはどう動くべきかをよお考えて。儂も言葉が足らんとこは多々あるけど。」
確かに僕はこの半年余り自分では全く考えず部長の言うとおりに後を付いて行くだけだった。何も言えない。
「元々電気も水道もガスも切れてる。当然のことながらそれらを契約することはない。これから寒くなるけど暖房はカイロだけ。外から灯が見えると最悪やから暗闇で動いてもらう。懐中電灯は夜間捜査の必需品やけどここでは絶対点灯せん。外がよう見えるということは外からもよう見えるということや。」
それから暫くそこに居たら容疑者が何処かから帰って来た。
「儂が分析して、こいつの仕業やと思う火事が9件あった。前にも言うたけど、それらは全部11月初旬頃から2月下旬頃の間。曜日は金、土、日。時間帯は午後10時から午後11時半くらいの間。なんでそうなのかは解らん。結果がそうやいうだけや。儂らたった二人やから買目拡げては賭けられんけん狙い目絞らないかん。」
僕が少し強張った顔で頷くと、
「今日は月曜やからここまでにして先の相談と気いつけないかん点だけ言うとく。」
と言って車のところに戻った。
車を停めた場所に戻ると部長はパチンコ屋の公衆電話で何処かに電話をした。車に乗ると部長は時々当直明けに風呂と食事をいただいている旅館の裏手に狭い道路から入りシャッター付きの駐車場に車を停めた。車は部長の私物で一係と二係からは趣味で捜査をしてると言われている僕達は数少ない捜査用車を使うことはない。部長はジムニーに乗っていて『お金持ちなのに?』と日頃思っていたが駐車場にはきれいに手入れされたケンメリのGTRが停まっていたいた。
「これ部長のですか?」
「うん。」
「お出かけにはこれで?」
「あんまり使わん。たまに田舎の家を見に帰るときくらいや。向こうでゆっくりするときは持山で生り物採ったりするんでジムニーの方が使いやすいし。」
僕はママとのお出かけの意味で聞いたのだが。
駐車場の奥にある、趣のある門の格子戸を潜り部長が中に入ったので僕も付いて行った。中はすごく落ち着いた雰囲気でぼろ家にしか住んだことが無い僕にはどう表現していいか分からない。
まず風呂を勧められたが遠慮する素振りを見せると、新品の下着とプラスチック袋を出してくれた。
「これに替えて。儂の予備や。一寸大きいかもしれんが、大は小を兼ねる。今身に着けとる方はこの袋で持って帰って。」
と言われたのでお言葉に甘えることにした。風呂は脱衣場までいれると僕の部屋くらいの広さがあり自然石を使った立派なものだった。風呂から出ると居間のテーブルには塗りの弁当箱とシャンパーニュとビールとグラスが置いてあった。
「儂も風呂入ってくるけんやりよって。」
と言われた。どちらも栓が抜かれている。どうしようかと思ったがビールをいただくことにした。
風呂から出た部長は和服に着替え、一寸した貫禄だ。普段から警察官の中では身形の良さが目立っているが今日は一段と。部屋の雰囲気にマッチしているせいかな。
「遠慮せんで良かったのに。」
と言われたが、
「シャンパーニュうまく注ぐ自信が無かったので。」
と答えたら、部長がシャンパーニュを僕のグラスに注いでくれ、その後自分のグラスにも注いで一気に飲み干した。
「昼中きつう聞こえる物言いしてしもうたが謝るつもりはない。あんたのために言うたことやなどと綺麗事を言う気もない。単に一寸ムカついただけや。一緒に仕事し始めてもう半年過ぎたのにという気持ちと、一から十まで言わないけんのかと思う気持ちと。一寸情けない気もした。そこらはどう思う?」
何と言い訳をしようと考えていた訳では無いが言葉に詰まった。
「甘えてました。ただ言い訳をする気はないんですがどうしていいか分からないことばかりなので。」
と答えると、
「分からんかったら聞いたらええ。儂が何か指示するまで聞きもせん、考えもしてない。」
言われた通りだ。
「分からんことは聞いてくれ。でもすぐに答えは出さん。土居さんの考えをまず聞く。正解ならそれでええ。近かったらヒントを出す。答えが明後日方向なら『残念過ぎる奴やな』いう顔して、仕方ないから正しい指示を出す。」
「分かりました。一所懸命考えます。」
部長は弁当箱のふたを開け僕にも開けて食べるように言った。すごく豪勢だ。
「いただきます。」
部長は飲みながら、
金、土、日は交代であのぼろ家に入り容疑者を張る。
時間は午後8時から深夜0時まで。
張っている間に容疑者が外出したら後をつける。
外出中か在宅中か分からないときは室内から容疑者宅の出入り口を見張る。その場合もし張り込み中に火災が発生すれば火災現場と容疑者宅の間で容疑者を探す。
放火が発生しているのに容疑者が在宅なら自分の見込み違い。
後を付けて現場を抑えられればベストだが………。
まあなるようにしかならんが、足掻かん者には福は来ん。
そんな内容だった。
仕事についての話が終わり、僕に飲め、食べろと勧めた後に、
「あのぼろ家に火付けてくれたら一番ええんやけどな、儂らが張り込んどる時に。でもこれまで空家に火付けた事は無いからな。火付けやすいようにあいつの家に近い方に燃え易そうなもの積んだんやけど。」
それ良いんですか?
「最初は恨みがある親族方やった。でも火を付けたらすっきりしたんやろな。そこからは何かで不満が溜まった時の憂さ晴らしに赤の他人宅にもやるようになったんやと思う。でも家人が寝入っとって死んだらいかんから家人がる起きとる気配がある内にやっとるんじゃないかな。親族方から他人方に変えたんやから現住建造物から非現住に変えてくれてもええのに。」
部長本気だ。
「それに非現住の方が圧倒的に安い。」
「安い、ですか?」
「法定刑が軽い言うことや。付ける奴に有利や。火を見てすっきりするだけやったらこっちの方がええ。」
建物にはリビングと小さな台所と和室と寝室と立派な風呂と一般家屋とは思えない立派なトイレがあった。僕の安アパートとは大違いだ。
「御飯は旅館が作ってくれるんですか?」
「うん。要る日を伝えといたら用意してくれる。急に頼んでも有るもので何とかしてくれる。普段一人の時は大浴場とお客さんの朝食用の食堂を使うとる。今日は説教するつもりは無いが、言わんといかん事が出来たんでパチンコ屋から電話して弁当を部屋に届けるように頼んだ。」
2時間程居て帰ることになった。部長がタクシーを旅館の前まで呼んでくれた。
タクシーの中で自分がいかに甘くて情けない人間だったのかと恥ずかしくなった。部長が何から何までしてくれているのに甘え切っていた。しかし急に明日から別人になれる自信はない。さてどうしたものか。考えなくては。今週末からは張り込みを始める。




