十一章《三節 饗応の席で》1
姿が見えなくなっていた老婦人――キアは、山小屋にいた。
魔物と遭遇した場所から少し先にある、付近の集落の者たちが使う避難小屋だ。
オルグレンは老人を背負いたどり着いたそこで、
「ああ、……あなた!」
老婦人の感激の声を聞いた。
ゼオンの指示により、そこで待っていた彼女は、夫――ケッフェルを見るなり雨の降る中を駆けよってくる。
そして、オルグレンの背から降りたケッフェルを、はたくというよりも叩くような少し荒い手管で、怪我を看る。
幸いにして、ケッフェルの怪我はさほどひどくはない。
それであまりにもの出来事の恐怖が、無事に抜け出せたことの安堵へと変わり、やがて興奮へと変わってしまったのだろう。
ゼオンの促しで小屋に入るや、彼女が一心に話してくれる。
曰く、夫を助けたい一心で彼女は山道を駆けたらしい。
助けを呼びに行ったのだ、と。ゼオンがここにいてくれてよかった、と彼女が繰り返し言う。
当のゼオンは、怪我を負った身体の慣らしと、山小屋の修繕とを兼ねてここへ通っていたのだという。
松明の芯をゼオンに渡したのは彼女らしく、いつの間にか武勇伝となっていた。
手当てと話が一段落つくと、夫婦二人ともがオルグレンとロゼの手を、あたたかい手で包んで感謝をくれた。
それでも興奮が冷めやらぬ中、キア老婦人が話を繰り返し、その上にまた繰り返して夫の無事を喜ぶ。
ケッフェルもまた、瘴禍が倒れるまでの顛末を語り始め――
熟年夫婦の、気心の知れた賑やかなやりとりとなっていく。
それを眺めつつ、オルグレンは気づいて横を見た。
ロゼが端にあった木箱に腰を預けたのだ。
そうして彼は、静かながらも緩やかに息を吐く。
「大丈夫か?」
オルグレンは声を押さえて聞いた。
「……なんだか、ぼーっとするだけだよ」
ロゼが小さく答える。彼は正直に告げてくれた。
それは疲れ、なのだろう。
とはいえ、瘴禍と戦った緊張と言うよりも、感情によるものなのかもしれない。そうとオルグレンは思った。
察しつつ……、もっと泣いて、感情を出し切っていてもよかったのではないかと、内心だけでつぶやく。
あの時こそ、ロゼの目の淵が赤くなっていたものの、もう今は落ち着いている。
目元は腫れたりなどはしていない。
雨で髪が濡れていたが、頬は乾いていた。
それでも彼はどこか憑き物が落ちたような、荷物を降ろしてきたような、いつもより少しぼんやりとした目をしている。
その様子が、オルグレンには嬉しく感じられた。
一方でロゼの方はと言えば、気を張ろうとして頬を擦るなどしている。
その最中に、小屋の戸板が動いた。
「おーい。ばあさん、じいさん。驢馬が戻ってきたぞ」
外で周囲の魔物避けを見てきたゼオンが、戸口から顔を覗かせて言う。
外套を被った彼の向こう――戸板の外では、雨が音を響かせて降っていた。
その向こうでは、瘴禍に驚き、主人達を置いて退避していた驢馬達が、笑んだような独特の顔をして屯している。
弱ったような様子はなく、奇妙な笛のような驢馬たちの鳴き声が重なる。
あの戦いの場で振りまいた荷駄はほんの一部らしく、驢馬たちは荷物の小山を背負ったような姿のままだった。
「おお……なら、雨が落ち着いたら、村までもうふた頑張りするとするかの」
ケッフェルが膝を叩いて言う。
「お二人も、ぜひ村においでくださいな」
キアもそう言ってくれた。
オルグレンは、ロゼを見た。ロゼもオルグレンを見ている。
その視線で身の振り方が決まり、二人で答えた。
「すみませんが、お世話になります」
❖
それから小屋の中で、簡単な昼食を取り終えた後――
雨が止み、僅かな青空が垣間見える空模様となった。
始まった村までの道中は、ケッフェル老人の言う通り。
山に分け入る道は、確かにふた頑張りと言った険しさと距離があった。
驢馬だけが、背に荷物を満載しているというのに、愛嬌のある足取りで呑気に歩く。
ロバに乗った老夫婦が、先ほどの危機をまた大げさに話し合うのを聞き、あるいは他愛ない話をしながら歩き、そうして今度は霧雨に晒されながら村に到着した。
それから老夫婦の家で、息子夫婦だという、ゼオンよりいささか年上と見える人達に迎えられ……
今は、雲のすき間から夕方の黄赤を帯びた陽の光がさしている。
影が濃くなり、部屋の燭台に火が灯された。
居間には蜜蝋の蝋燭の薄く甘いような香りが垂れこめていたが、今は違う匂いも漂っている。
食卓の上には豪勢に料理が並べられていた。
籠に盛られた白く平たい麺麭からは、柔らかで酸味のある香りがする。
大きな鉢には色とりどりの菜や、根菜を細かく刻んだ野菜が盛られ、香草のものと思われる、さわやかな澄んだ匂いがした。
それらの横には様々な形や色の乾酪が切り分けて並べられている。
勧められて席に着くが、
「……その、あまりお構いなく」
オルグレンは、何度目かになる言葉を言った。
到着から、息子夫婦だという二人には世話になりっぱなしなのだ。
雨に降られ少なからず濡鼠になっていた所に、乾いた布を貸してもらい、衣服も夫のものだ、巣立っていった子供のお古だ、というものを貸してもらえた。
「何をおっしゃっているんですか。貴方様方は父母の恩人なのですから、今夜ぐらいはどうか」
お礼をさせてくださいよ、と老夫婦の息子が言う。
到着した時に老夫婦が話しだしたので、瘴禍に決定的な痛打を与えたのは誰かなども知っているはずだ。
……とはいえ、助けに入った事だけで、歓迎に値すると考えてくれているようだ。
料理を準備する若婦人の方は大変そうだが、ロゼと目が合ったらしい彼女は優しげに微笑む。
「いっぱい食べてね」
その柔らかい口調。婦人から見れば、ロゼはまだ子供に見えるようだった。 子供のものだと貸し与えられた服の袖が、余っているのも相まってか。
オルグレンが思わず口元を笑いに歪めると、白い流れ人からは少し睨むような視線が来る。
それを見ていたらしく、丁度居間に入ってきたゼオンが、笑いながら彼の白髪を緩く混ぜるように撫でた。
そうする内に、だった。
ケッフェル老の息子が串に刺さった、ひとかたまりの物を持ってくる。
部屋の中には、自然と口の中に唾液が誘われてくる、香辛料とこんがりとした旨味の匂いがあふれた。




