十一章《二節 消え去る》
「おーい! 離れろ!」
深く、しっかりとした男の声だった。
「投げ入れっから、火を頼む!」
それでいて緊迫感をほどよく緩和する、どこか軽い調子がある口調。
それが何者の声であるのか、オルグレンにはわからない。
それでも、直感だった。その言う通りに瘴禍から離れる。
現れた男は人の頭ほどの大きさの何かを提げていた。
それに結わえた紐を回転させ、勢いをつけている。
オルグレンが十分な距離をとるのを見定めて、
「そらっ」
それが投げ込まれた。
放物線を描く物に、ロゼが放つ炎の矢が正面からぶつかる。
瞬間――、それの表面を火が舐めあがった。
オルグレンは腕を上げ、顔を庇った。
地に落ちるや、男が投げ放った物が大きく燃え上がったのだ。
恐らくは先ほど火矢に使った火口に近い物。
……こちらは、松明の芯でも束ねたものか。熱波には灯油の獣臭さと、つんと鼻を刺す松脂の匂いが混じっている。
一方で瘴禍は、荒れ狂った。
明るく燃え上がった炎に慄くように、そそり立つ。
そして、まるで恐ろしいものを打ち払うようだった。鞭のようにその身をしならせ、炎をその身で打ち据える。
打ち散らされた火に目を細めつつ、オルグレンは鋼を構えた。
黒い汚泥は、駆けてくる男を狙い、体表を変化させようとしている。彼を害させまいと、オルグレンは判断した。
しかし、同時に魔物の体表が、もう一箇所変化を起こす。
自分への攻撃、そうと悟る間には、――風切りが彼の耳元を駆け抜けた。
変化し波打っていたところへ矢が突き立ち、それを潰す。
その援護を見終わることなく、オルグレンは動いた。
鋼を振り抜く。そして、瘴禍が、駆け寄ってきた男へ、伸ばそうとしていた触腕を刈り取る。
「いいぞ! 青年」
駆けつけた男は、やはり場違いなほど、明瞭で朗らかな声だ。
続けて、しゃがめと声は言う。オルグレンは従った。
すると鋼が猛威を振るう。
それは、長大な剣だった。魔物と戦っていた頃の特徴を残す、鋼の大剣。
それが腰を落としたオルグレンの頭上を過ぎていく。
そして――鈍く濁った音を立て、魔物の本体を深く切り裂く。
大きな開口。それを塞ごうと瘴禍が身を波立たさせる。とはいえ……、空いた穴はあまりにも大きい。
あまつさえ、
「ほーれ、オマケだ!」
実に威勢良く。
体液を避けて退った場所から、男が間合いに戻り、取り回した大剣で逆袈裟に切り上げる。
刀身に設えられた持柄に手を添えた、全身の力を感じる一撃。
それが不浄の塊を大きく断つ。漆黒の汚泥があふれ出る。
それを見て取りつつも、オルグレンは動いた。
大剣を構え直す男へと腕を出し、彼が再度斬りかかる前に押し止める。
予感の通り――、目の前に黒が広がった。
また、しな垂れかかろうというのだろう。一転して廃屋の襤褸布のように、不気味な軽やかさをもって広がる黒。
斬りかかっていれば、呑まれていた。
いや、今もまだ危機は去っていない。退ってはいるが、瘴禍はこちらが稼ぐ距離よりも広がりを見せていた。
だが、火が降る。曲射された火矢が天から、魔物の体を打ち抜いた。
そこが限界だったのだ。
黒い形状が、瞬く間に崩壊した。
一つの崩壊が他に伝播し、形を保てずに崩れていく。
オルグレンと大剣の男に届くことなく、黒い汚泥がくずれ落ち、その場に降り注いだ。
これが、――瘴禍の死。
オルグレンは、ゆっくりと息を吐いた。
雨か、汗か、判別のつかぬ雫が伝う顎を拭う。
草地を燃やさないか気がかりだった炎は、魔物に叩き消されたおかげか、雨でその光と熱を失いつつあった。
大剣の男も大きな息をつく様子だ。
ロゼの身長ほどの長い大剣を地面に突き立て、手を振ってほぐす彼はオルグレンよりも背は少し低い。
とはいえ、肩や胸は程よく厚く、体格はその男の方が勝っている。
風貌は幾つも年上と見えた。しかし、表情と仕草は若々しくオルグレンの目に映った。
麦藁のように明るい金髪に、やや緑がかった青の目。
どこか印象的な、堀の深い顔立ちの男。
その彼が、軽い調子に振り返る。
「いやあ、助かった。お前さんが、じいさんの命の恩人だな」
ばあさんが呼びに来た時は本当に焦った、と続けた男が右手を差し出す。
握手の意、そうと悟りオルグレンは剣を払って鞘へと戻した。
手袋を取って、その手を握る。男の手のひらは、固く厚みがあり、大きい。
「感謝する。ありがとな」
そう言って、握り返す手の力はとても強い。
オルグレンは答えた。
「とんでもない。こちらこそ、ご助力に感謝します」
と――、オルグレンはそれに気づいた。
男の手の感触が、少し歪なのだ。
それに思わず視線を落とせば……ああ、と男が気づく。
そうして、見せられる手。
滑り止めのさらしを巻いただけの剣士の右手には、小指の第二関節から先がない。
「半年ほど前に、ちと大怪我をしちまってな」
そのうちの一つだと、男は言う。それは、大剣のような両手武器を扱う者にとって、あまりにも痛々しい傷のように、オルグレンは感じた。
男の方はと言えば口元を緩めて、そして首を巡らせる。
「じいさんに聞いたんだが、連れがいるんだろ?」
オルグレンは、はたと気が付いた。
自分が障害物となっているのだと気付き、一歩横へと移動する。
答えながら振り返り、紹介を口に上らせ……
「ええ。――もう一人」
その先ではロゼが目を見張り、立ち止まっていた。
男の方も、息を飲む音を漏らす。
「ロゼ……」
それはかすれた、低い声だった。
その声を聴き、ロゼが表情を崩す。
彼は、一度強く目を閉じた
少年が強い感情を覚えたときに見せる仕草。その後に一瞬だけ見せる、泣きそうな……だが、決して、一度として涙をこぼしたことのない、その顔。
しかし、今は開いた目の淵が赤く染まった。
「……――っ」
少年は一度唇をわななかせ、それでも言葉が出ない様子で口を閉じる。
それで構わなかったのだろう。剣を置いたまま、男が駆け出した。
そして、飛びつかんばかりの勢いで腕を広げ、彼をかき抱く。
「っ、……ゼオン」
男の腕の中で、ロゼがどうにか呼ぶ。
それを聞き、オルグレンは薄く息を飲んだ。
剣聖ゼオン――それは記憶がないオルグレンでも、おぼえていた人の名だ。そして、西へと行く旅路の中で世話になった、傭兵団『猛りの尖兵』の馴染みの人物でもある。
死神サクラスの相棒であり、ロゼのもう一人の師。そして養い親。
白き峰々の国エーイーリィと標星の大国クゼリュスの戦争。
その戦争で傭兵として活躍した人物であり、かつてのクゼリュスの一将……。
「よかった……。お前は、生きてたんだな。ロゼ、生きてたんだな」
強くロゼを抱きしめ、ゼオンが言う。
その声は震えていた。
「ゼオンも……よかった。でも……」
父親とも呼ぶべき人からの抱擁を受けながら、ロゼは腕を下ろしていた。
何かに耐えるように、手を握りしめている。
それがオルグレンの目にも映った。
でも、でも、と彼は子供のように言う。
その先をオルグレンは知っていた。ロゼは、伝えなくてはならないことがある。相手が、サクラスの相棒であった人物であれば、尚のこと。
「でも……、ゼオン……」
「いい、知っている。大丈夫だ、知っているから」
かつての縁で聞いているから、とゼオンが言う。
その声はやわらかく、落ち着かせようとしてか、ロゼの背を二度叩いた。
「それに、……お前は守ってくれたんだろう? 彼女を」
その言葉に、ロゼの肩がはっきりと跳ねた。
オルグレンはその理由を知らない。知らないことだったが……今はただそっと見守った。
「ありがとうな。一番、辛いことをさせてしまったな。でも、お前は……あいつを最後まで守ったんだ」
クゼリュスは結局、それらしい遺体を見つけたものの、それがサクラス当人だとは断定できずにいるのだと、ゼオンは言う。
だから、ありがとう。
きっと、サクラスもそう言う、と。
ロゼが震えた息を吸うのが、オルグレンにも聞こえた。
そうして、少年の喉から言葉にならない声が上がる。
何にも縋らず耐えていた手が上がり、……ゼオンの背を強く、握りしめた。




