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【 西へ西へと、君と征く 】  作者: 八尾 十一
十一章〈過去からの〉
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十一章《一節 西へ北へ今より先へ》3


「ご老体!」 

 強く、低く呼びかける。すると老人がハッと目を開いた。

 目を剥き……魔物の姿が見えた様子だ。喉の奥を引きつらせた悲鳴を上げ、慌てて剣を取ろうとしたのか腰を探る。


 それには構わず、オルグレンは彼を引き起こした。

「立て、走れ!」

 短く言う。

 老人は目を白黒させている。

 それでもとにかく、と判断したか。老人がもつれさせながらも、足を動かし始める。オルグレンはその体を支え走った。


 背後では、風切りの音が響く。ロゼの矢に違いない。

 見ることはできない。

 だが、動き出したこちらに反応したのだろう、瘴禍(ミアズマ)の注意を引いてくれたのだと察する。


 一方で、老人を老婦人のところへ送り届けようとし、オルグレンは気づいた。

 老婦人が居なくなっている。だが、それを気にし続けることはできない。


「隠れているか、逃げろ。いいな」

 オルグレンは言った。

 今になって腰が抜けたか、座り込んだ老人が震えている。それでも、生き残ろうとする意志は強いらしい。痙攣ともつかない顎の上下と共に、這いずるように木の影に向かう。

 みなまでは見届けず、オルグレンは踵を返した。

 駆け戻る視線の先。

 そこでは、瘴禍(ミアズマ)が白い流れ人を狙っている。

 人間や動物と同じように意思があるとすれば、矢を受けたことに怒ったと言った所か。


 その体表から、槍のように突出した黒が放たれる。

 ロゼが、跳んでそれを避けた。

 彼の足元を、深々と黒い触腕が穿つ。

 それだけでは終わらない。そこから更に、闇色が放たれる。横へと枝分かれするように、繰り出される触手。それをロゼが巧みに、足捌きで避けていく。


 その襲いかかってくる、不浄の魔手。

 それへの対処を少しでも誤れば、待ち受けるのは消失だ。遺骸さえ、そこにいた痕跡さえ残せず、ただ消される。

 魔物は人間にとってやはり脅威。

 キグナをはじめ、始まりの種族達は、瘴禍(ミアズマ)が減り、あとは陽光により少しずつ削られていく消滅や、人間たちでも処理ができると考えているが……、災厄であることには違いない。


 黒い淀んだ塊が、鈍く動く。

 どうにかしなければ、いつかは呑まれて死ぬ。

 初めからいなかった者のように、今までの生を無にされてしまう。


 できるならば、魔物を退けたい。そうすることが一番被害が少ないからだ。

 魔物は陽光や輝くもの、光るものを嫌う。厭って逃げるのだ。太陽が出ていれば、金属で反射し照らせばいい。

 そうであるが、生憎とやはり空には雲が垂れ込めたままだった。


 あるいは、こちらが遁走するか。とはいえ、獲物と認識されている今、背を向ければどうなるか。

 魔物はその気になれば、馬よりも速く移動できる。

 走っては逃げられない。


 今の状況としては、倒すしかない。

 瘴禍(ミアズマ)は、一応倒すことができる。難しいことではあるが、不可能とまでは言えない。

 水袋のような体表の中にうごめく、黒い汚泥を流し出させてしまえばいいのだ。

 しかし、ロゼの矢によってできた傷は、既に瘴禍(ミアズマ)の体にはない。傷を作っても、塞がれてしまう。


 これ故に、前の時代の人々は、魔物と対峙せねばならなくなった時、身の丈を超えるような大剣や、大斧などで大きく切り裂く戦い行っていた。

 それが今や……、オルグレンは長剣を手にし駆けた。


 瘴禍(ミアズマ)に意識があれば、それは今ロゼへと向いている。

 現に、再び彼へと鋭く触手を伸ばす。それを白い流れ人が身を捻って避けた。

 その伸びた黒い槍の根本に、オルグレンは滑り込む。

 鋼を振るい、根元を断つ。

 硬化していなかったと見えるそこは、砂袋を断った手ごたえをオルグレンに伝え、ざくりと切れ飛んだ。

 断面からは、黒い水がどっと噴き出る。

 オルグレンは止まることなく、足を速めた。

 その水を浴びないように、潜り抜け距離を取る。


 体表とは違い呑まれることはないが、瘴禍(ミアズマ)が零す黒い水は、浴びれば皮膚を溶かすのだ。

 魔物が身を震わせて傷を塞ぐ。


 もっと大きく切り裂かねばならない。

 しかしながら、長剣の刃渡りではやや心もとない。

 魔物にも相対できるように長剣は作られているが……、過去の武器と比べれば半端だった。わだかまる体を両断するには、重さも十分であるとは言い難い。


 そしてロゼの半曲刀は、長剣よりも更に人を斬ることに特化している。

 薄く滑らかな刀身は、魔物の体を深く切り込めるだろう。だが、切れ味のよすぎる刃の一撃では、魔物はたちどころに傷を塞いでしまう可能性があった。


 ロゼが再び、矢を放つ。

 二本束ねて放つ矢は、魔物の身を貫いた。

 とはいえ、オルグレンは短い舌打ちの音を聞いた。

 白い流れ人が、珍しくも漏らしたものだ。重ねて放つ矢は、穿ち抜いた穴で汚泥を吐き出させるが、すぐに治されてしまう。


 無論、無駄ではない。だが、やはり決定打がない。

 石で縄を断ち切るように、少しずつやっていくしかない。


 あまつさえ――ロゼが次に放った矢は、硬質な音と共に弾かれた。

 瘴禍(ミアズマ)はその体表を固くできる。

 時に鉄よりも固くなり、剣よりも鋭利になり、重くも軽くもなる。世界の理に反する存在だ。


 何か、手段を――。

 オルグレンは、魔物を警戒しながらも空を見上げた。

 そこは陽光を降らせてくれない不運の象徴でもあったが、転機の象徴でもある。

 厚く黒い雲が渦を巻いていた。水の気配と土の香りが混ざったにおいが、先ほどまでより濃く鼻に届く。

 そして、期待したものがぽつり、と彼の頬を濡らした。

 気のせいではなく、頬へ、腕へ、草へ水滴が落ちる。

 雨が降る。まだ降り始めではあるが、これからしばし降り続けることが、明白な空模様だった。


 であれば、使ってもいいだろう。

 太陽がないのであれば、次に使えるものは火だ。


 だが、何もない荒れ野であればともかく、今は植物が多い。青々としたものだけではなく、枯れて乾いたものも混じっている。

 不用意に火を用いればどうなるか……といった具合だった。

 だが、雨が降るのであれば、仮に下草に燃え移ったとしても、山の木々に燃え移る前に消してくれるはずだ。


「オルグレン!」

 ロゼが声を上げた。火を起こすとの合図。

 彼はきっと自身と同じ思考をしていると、オルグレンは信じること以上に、確信していた。

 オルグレンはそれを聞き、細く息を吸った。ロゼが火を起こす間、魔物の注意を引かなくてはならない。


 ロゼを探してか、うねるように動いた黒へ、オルグレンは刃を突き込んだ。部分的に硬化させていただけなのか、胴はそれほど硬くはない。

 刃を深く潜り込ませようとし、しかし断念する。

 すぐに離れた。

 寸前までいた空間が、黒い刃に切り裂かれる。


 それを見送る暇などなく、オルグレンは剣を盾にして構えた。

 金属音。刀身に硬いものが当たり、オルグレンを押す。

 瘴禍(ミアズマ)の身体が変化し、また槍のように突いて来たのだ。


 今の動きは、オルグレンの目の端に映っていた。

 だから、防げた。

 しかし、何度もできることか。


 魔物が、大きく伸び上がる。その上で、その黒を大きく広げた。

 丁度、投網のように。その漆黒の体表でオルグレンを呑もうというつもりらしい。

 案の定、それはしなだれ掛かってきた。

 大波のように。荒れた波濤のように。


 呑まれる。オルグレンは、頭の遠い部分で感じた。

 違う部分では、どうすべきかが目まぐるしく巡る。

 退るしかない、間に合うか否か。

 硬直は愚策、――ならば動け。直感のまま、後ろ足に退る。


 丁度その脇へ、熱が飛来した。

 それが魔物との間の地面、そこに放り出された荷物に突き立つ。

 ――火矢。

 旅に際して、ロゼは常に綿に獣脂を馴染ませたもの――火口を用意している。焚火の火種の意味もあるが、こうして魔物と相対することとなったときに備えての物でもあった。


 それを矢に巻き付けて放ってくれたのだ。 

 火矢は落ちても消えはせず、老人と共に驢馬に投げ出された、荷駄へと燃え移り確かな火を立ち上らせた。

 魔物から見れば、まだまだとても小さな火だ。

 それでも、それで十分。唐突なその火に驚いたと見え、魔物が黒い波の姿のまま硬直する。


 オルグレンは一転して、前へと駆けた。足先で跳ねる。そして、魔物の脇を通り抜けざま。二度剣を振るう。

 そうして描いた、切れ込み。そこから、水差しを倒したかのような勢いで、黒い汚泥が溢れ出る。


 瘴禍(ミアズマ)がその体を震わせ、身の毛もよだつ怪音を響かせた。

 行ける。

 オルグレンは散らばる荷を、火の方へと蹴りよせながら内心で呟いた。

 だが倒すには、まだ遠い。


 もっと隙を作るための、あるいは弱らせる為の炎がいる。

 そして、更に傷が必要だ。

 黒い水をまき散らしながら捻じれ藻掻く姿は、減じたとはいえ、まだまだ大きい。


 それでも、拮抗できそうなのは事実だった。

 ロゼと共であれば、戦える。退けられる――いや、倒すことができる。

 しかし、まだもう少し。

 もう少し粘らねば……。オルグレンがそう感じた時だった。


「おーい! 離れろ!」

 雄々しい声が響いた。

 

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