十章《五節 二律背反》3
喉が張り付き、声が出ない。
オルグレンがただ息を繰り返す間に、ロゼの顔が向いた。
「……驚かせて、申し訳ないね」
その少年の顔には微笑のような形の、悲しみが浮かぶ。
ロゼの双眸は、また絨毯の模様へと落ちた。
そして、続ける。
「死んで……、それから鷲獅子に神の力をもらうことで、息を吹き返しこうなったんだ」
細い声だ。
聞きながら、オルグレンは痛みを覚えた。
力を貰うことで蘇った……、そのにわかには信じられない言葉。それがなぜか頭の中に響いていた。
自身の記憶の残滓に触れた時のような、額からの頭痛を覚える。
聞いたことへの動揺のせいか、それとも違うところからか……。
あの青黒い髪の子供。その幻視が眼裏に蘇り、泣き声が耳の奥に響いた。
わだかまりのような息苦しさと共に、背に冷たいものが這う。オルグレンに立ち込めてきたのは、名状しがたい、胸が痛くなるような感情だ。
頭の痛みは脈打つように、鈍く続く。
それに片目をしかめながらも耐え、小さく頭を振って振り払う。
……同時に、オルグレンは確信した。
白い流れ人をはじめて見たときに感じたもの――或いは、今も覚える皮膚一枚違う所にいるような感覚。
それの根源が、今の言葉なのだと。
一瞬憶えた感覚を飲み込む。オルグレンは、深く息を吸い心を凪がせた。
それを待ったかのように、キグナがロゼの話の後を受け取る。
「精神感応で我はそれを見た。正直……人間の器に神に賜った力を注ぐことだけで、解放の者が生まれるのであれば、同じことを成せる」
始まりの種族の誰かが犠牲となり、それを行えばいい、と。そうキグナが言う。
しかし、彼はだが、と話を繋いだ。
「それだけとは思えん……。とはいえ、その時に鷲獅子が、他に何か特別なことを行ったかといえば、そうではなかった。ロゼ、お前に生きていて欲しいと、ただ純粋に願っていただけだった」
キグナの話にロゼが深く瞬きをする。
強い心の動きを覚え、耐えているらしい少年。
その姿を前に、キグナが自身の口元に触れながら続けた。
「もしも、その事が条件に含まれるのであれば……同じ事を再現することは、一朝一夕には出来ない」
話し、一度彼は口を閉じる。そこには躊躇の色が浮かぶ。
彼がオルグレンを見、ロゼを見た。
「……どうしてか、聞いても?」
しばしの静寂の後、オルグレンは聞いた。
キグナが顔に触れていた手で、口元を覆う。
「……お前達に言うべき言葉ではないかもしれんが……人間に、それほど純粋な願いを向けられる者は……今はいないだろう」
我達は五年前、鷲獅子が多く一度に死んだのを感じてしまっている、と。
キグナは言った。
「遠いつながりで、仔細まで分かった者は少なかろうが……。今の時代、かような惨事が瘴禍のものとは考えられんからな」
つまり、その鷲獅子の多くを害した災いの根源は、人間以外ない。そうと皆が感じている。
キグナが砂煙のように曖昧にした言葉を、オルグレンはそうと察した。
敵を、深く愛せるか。自分たちの仲間の仇を、純粋に思いやれるか。
オルグレンは自身の中に問いかけた。その中で思う。
再びどこかで……あるいは、意図的にロゼ以外の解放の者を生み出すのは難しいだろう。それが自分達のためであっても。
いつか、始まりの種族の心が癒え、ロゼと鷲獅子のように、心を通わせた交流が再びできるようになるまで待つしかない。それはおそらく、遠い先のことになる。
オルグレンは、目を伏せた。
ロゼの想い、始まりの種族たちの願い。
どちらもが苦しんでいて、どちらもが悪くない。
せめて代行者を立てようにもその道は、今は手が届かない。
キグナがはじめに言いだした誓いと、精霊母の待つという言葉。
それが、どれほどのものか、オルグレンの胸には重く思えた。
それでも、彼はロゼを見た。
少年に事を成してやれとは言えない。解脱は……ロゼにとって家族を殺す行為だ。
それにと、オルグレンは思う。
彼は、先程大穴の底で見てしまった。キグナが消えなかった事に安堵する人々の姿を……。
キグナも、身内の情を示すような顔をしていた。安堵する集落の人々を前にした彼の表情は、人間を信じられぬものだとするような表情ではなかった。
世の始まりの頃から、懸命に己の役目を果たしてくれた、彼ら。
その彼らに、役目が終わったのだから去ってくれなどとは、微塵も思えない。
彼らは、大役を果たしたのだ。オルグレンは胸中に思う。
もっと相応しい報いがあっていいのではないか……。
それが世を去る、解脱のみであるのは、あまりにも……。
「何か……他に道はないのか」
口に出しながらオルグレンは、それがあってほしいと願った。
「……ない、な」
だが、キグナが言う。
「…………」
ロゼが考え込むように黙った。
沈黙が満ちる。蝋燭や灯明皿の芯が燃える音が、聞こえるような静寂だった。
いくつもの灯りに囲まれながらどこか暗く、一滴の慈雨もなく乾ききっている。
それでいて、地の底へと連れられるように重い。
その中で、オルグレンは息の震えを聞いた。
少年が、また強く目を閉じる。
それは彼が強い感情を覚えた時に、よくする仕草だった。
強く深く、独り閉じこもるように、――心をどこかへ封じ込めるように閉じられる瞼。
更に彼が、自身の腕を強く握る。
それの意味するところは……
――彼はきっと自身の思いを諦める、その直感がオルグレンの脳裏をよぎった。
今の二者択一の中で、彼はきっとそうする。
しかし、……させたくはない。
白い流れ人は、今、正直に内心を話しているのだ。
始まりの種族達に生きて欲しい。
隠す事なく打ち明けたその言葉を、このまま無下にしたくはない。彼自身に望みを破棄させたくはない。
そうオルグレンは、自身の深くから願った。
横で瞼が開いた。少年が口を開く。音のない唇の動き。
その言葉にならない言葉が音を成す前、ロゼが何か言うよりも早く。
オルグレンは、言った。
「探せないだろうか」
二人の視線を前に、はっきりと自身の意思を向ける。
「今のいずれでもない、――新しい道を」
オルグレンは、記憶もなく、何も持たず、何も分からず目覚めた。
帰りたい……帰り着かねばならないという漠然とした思いだけを持ち。
そこからロゼに導かれ、アィーアツバスを知り、今こうして新しい道を歩んでいる。
クゼリュスに捕まるでも、ただただ彷徨うだけでもない、――意志ある道をずっとこの友人と共に歩んできたのだ。
だから、
「俺は、ロゼに家族を殺させるような真似をさせたくはない。そして解脱が、……貴方達が誠に受け取るべき報酬であるとは思えない」
だから、第三の道を、と。オルグレンは言った。
「……キグナ」
ロゼが細い声を出す。そして、キグナを見た。
兄の意見を伺う、弟のように。
一方で狼 竜は、腕を組んでいる。
「…………わかった。我も、精霊母と同じく、待つことを選ぼう」
彼は、長い息を吐く。
「……あまり長くは待たせてくれるなよ」
そう言って、表情を緩めたキグナの顔は、恐らくは、それが彼の元々の表情だと感じさせるものだ。
優しく、それでいてどこか力強い微笑。
彼が、浮かべたのはそんな柔らかい表情だった。




