十章《二節 解放の者》1
何度目か……
戸口に立ち、オルグレンは苛立たしく外の気配を探った。
風は依然として強く吹きすさんでおり、高い音を響かせている。
遠雷の音も響く。屋内では戸板や、開き窓の板が風の猛威に怯え震えていた。
それらの隙間や壁の隙間は、布や練った泥などで埋められている。
だが、それでも細かな砂が舞い込み、床へと降り積もっていた。
あれほど待ち望んだ砂嵐が始まったのは、ことが過ぎ去ってから。
今はオルグレンの足を止めるだけのものとなっている。
もともとはこれを、傭兵団を巻く為に利用するつもりだった。
とはいえ、……実際に体験してみたところは、無謀な試みだったと言わざるを得ない。
吹き付ける風は家屋を揺らし、地上にあるものを吹き散らさんばかりに強い。
そんな風に吹き上げられた礫砂が打ち付ける音は、壁を削り取らんばかりだった。
「少し落ち着いたらどうだい」
声を掛けられ、オルグレンは焦点を取り戻した。
言ったのは、ガマリの街で門兵だった男にして、ロゼを攫った男……キグナの仲間――ザラハだ。
ツァーカの住人である彼の案内によって、オルグレンは思う以上に圧巻の気象変動であった砂嵐から、近くの集落の家屋へと逃れることができていた。
断続的に発生する大風の間、日干し煉瓦の客間を借りて過ごしている。
ザラハの言葉に、オルグレンは咄嗟には答えかねた。
言われていることは、彼にもわかっている。
落ち着きなく過ごしたところで意味はない。心のままに外へと跳び出たところで、風の猛威と空を覆う砂がもたらす暗さとで道を見失うに違いないのだ。
「気持ちはわからんでもないが……、あの子供がちゃんと約に従い、役目を成すなら、問題はないさ」
彼は自身の主をよほど信頼しているらしかった。
我らがキグナ様は厳しくもあるが、優しい方なのだとザラハが言う。
「まあ、オレはキグナ様にお別れも言えんのだから、寂しくはあるがな……」
そう言って、彼は肺の底からの溜息を吐く。
オルグレンは眉を寄せた。
ザラハの言う別れとは何か。そして役目とは何か。
言葉がオルグレンの中を荒らしていく。
始まりの種族たちが、ロゼに何かをさせたいと考えていることは彼も把握している。
オルグレンが深手を負い倒れた際に、ロゼが差し出そうとした何か。
ロゼが心の奥から拒否している、――何か。
精霊母セラーフィナの口から、始まりの種族の生き残り全てが、切望するものであると聞いていた。
だが、それはいったい何なのか……、オルグレンは知らない。
セラーフィナとの対話でオルグレンは、ロゼのことは彼自身に聞くと言った。
そのつもりだったが、聞き出せたことはまだ、ただの一つもない。
ロゼの様子も安定しており、無理に聞き出すつもりがなかった、というのもある。
それにタロト西岸街ではお互いの静養を優先してしまった。
後のツァーカに足を踏み入れてからは、天候に悩まされつつも、お互いに笑いながら歩めるような穏やかな旅路。そこに水を差すような真似を考えつけなかったのだ。
そこから傭兵団に追われる間は、事態の対応の方に気を取られてしまった。
いや、オルグレンは内心で首を振る。
甘かった、と。
まだ、もっと先まで共に行くのだと、思い込んでしまっていた。西の果てに辿り着くまで、別れることはないと。
聞いておくべきだったのか、無理にでも聞き出しておくべきだったのか……、オルグレンは額を押さえる。
そして、
「……申し訳ないが、聞かせてもらえないだろうか」
オルグレンは言った。
踵を返し、ザラハが座る卓の向かいの席へとつく。
「貴方達はロゼの役目について、ご存じなんだろう」
その問いにザラハは目を大きく開くようにしていた。
その彼へ、オルグレンは言葉を足す。願うように。
「本当に……情けない話ですまないが、ロゼは……彼は、俺に貴方達の言う役目についての話をしたがらなかった」
だから、何か知っているのなら聞かせてほしい、と。
ザラハが腕を組み、暗い天井の方を見上げる。
扉も窓も締め切っているため、煉瓦に囲まれた客間の明かりは、灯明皿にともった小さな明かりがあるだけだ。
「――一応、確認だが……」
口が開かれる。
「あんたは始まりの種族を知ってるかい? ……その、伝承と言う意味じゃなく」
灯火に顔の半分を照らされながら、ザラハが静かに言う。
「……ああ。精霊母と出会い、彼らについて少し聞いた」
オルグレンが答えると、ザラハが深く頷いた。
彼はさらに問いを足す。
「なら、……解放の者についても?」
何か聞いているか? 言外に含まれた言葉。
それを感じつつ、オルグレンは返答をした。
「言葉としては、聞いた。だが、それについて仔細を問うことはできていない。ロゼからも、聞けていない……」
ザラハが唸る。
「なるほど、……ほとんど何も知らんのか」
その言葉に、オルグレンは胃の辺りに冷たいものが満ちるのを感じた。
彼の言う通り、何も知らないのだ。
かといって、詰め寄って無理にでも聞いておけばよかったかといえば……、オルグレンは胸中に渦が巻くのを感じた。どうするべきだったのか、答えが分からない。
戸板が震える音だけが響いた。
隙間からの風でか、灯明皿の灯りが揺らぎ、露出した芯が小さな羽虫のような音を鳴らす。
少し煤けたにおいが、細く一筋を描く。
そうした、ひと時の沈黙の後、
「あんたはもう関わってんだ。……すこし知っておくのも、悪くはなかろうさ」
ザラハが口を開く。
煙草枯れしたような声には、独特の掠れと深さがあった。
「……キグナ様、――始まりの種族の方々が望んでおられるのは、現世からの解脱だ」
曰く、始まりの種族達は疲弊しているのだと言う。
神から命じられたという、瘴禍との闘争の末に。終わりのない、長い命に。
個々でありながら全、全でありながら個という在り様。
その離れていながらにして意思を共有するという繋がりは、今の人間が欲してやまない力であるように強力な力だ。
とはいえ、彼らのそれは、苦痛さえ共有する。
数多の仲間が消え、それを感じ合い、傷つき、それでも神を慈しみ、戦い……いつしか神は姿を消した。
それでも言いつけを守り、戦い続け……。
そして瘴禍が減じた今、始まりの種族は、役割を終えたと考えているという。
最早、存在する意味は潰えたと……
「解放の者というのは、神様がお隠れになる少し前に、始まりの種族に残した言葉だそうだ」
それは、人であって始まりの種族に連なる者。
現世と隠世の狭間の者。
それが解放の者である。
「キグナ様も初めは何のことか理解しかねたらしい。しかし……五年前、唐突に感じられたそうだ」
――解放者が現れた、と。
「それが、ロゼなのか……」
オルグレンは呟いた。
現れし子よ、解放の者よ、……狭間の者……。
東側の河の賢者にして、もう一人の精霊母シルユーノが口にしたロゼへの呼びかけはその言葉と一致している。
「解放の者というのは、だ」
ザラハが噛み締めるように言う。
「……永きに渡って神と人間を慈しみ、お守り下さり……心身ともにお疲れになられた方々を、この地のしがらみから解いて、お休みいただく大事な役目なんだ」
彼の言葉はどこか重く、声色には喉が細くなってしまったような揺らぎがあった。
「解放の者が現れた、五年前のあの時。――何があったか……たくさんの鷲獅子が居なくなったそうで、キグナ様はずいぶんとお辛そうにされていた」
遠いつながりであるため仔細はわからぬと前置きしつつも、キグナは多くの死の感覚があった、とザラハ達に打ち明けたのだという。
故に、ザラハは決心したのだと言った。
集落の生き神であるキグナ様が居なくなることは悲しいが、解脱の手伝いをしようと心に決めたのだ、とザラハが言い長く息を吐く。
「だが……ロゼは、それを嫌がっている」
オルグレンが言うと、ザラハが僅かに眉をしかめた。
灯火に照らされ、顔に陰影が浮かぶ。
「大事なお役目。それを頂きながら、いったい何が嫌なのか……」
「……わからない。それでも……」
嫌だ、と絞り出すように言う、ロゼの声をオルグレンは覚えている。
外では砂嵐は更に深まった様子で、強い風が吹き抜けていた。
強く、弱く……悲しい悲鳴のような、泣き声のような音が、響き続けている。




