十章《一節 記憶の断片》2
ロゼが感じたのは寒さだった。
茹でられたように熱いと感じながらも、背に染みる悪寒で震えが止まらない。
外套を体に巻き付けようとし手を動かそうとするが、何に触れているかもわからない。
意のままに動くはずの指が痺れ、自分の腕がどこにあるのかもわからなかった。
手足が失われたのでは……、――その悪い予感に胸が細る感覚に襲われ、ロゼは自身の瞼をこじ開けた。
先ず彼の視界に写ったのは、投げ出した自身の手。
そして、ぼんやりとした明るさだった。それが蝋燭だと判るまで、ロゼにはだいぶ間が必要だった。
薄くしか目が開けられず、ただそれだけの身動きで、気が遠くなりまた瞼が閉じる。
しかし、やはり寒く、また薄っすらとした覚醒を繰り返す。
そこが岩か何かをくり抜いた部屋だということ。
厚手の色褪せた絨毯を敷いた床に寝かされているのだということ。
それらが判るまでに、長かった蝋燭が火立の底へとついていた。
そして、またロゼが気づいた時には、蝋燭が長くなっている。
霧がかった意識の中で、その明滅を繰り返す。
次に目を開け、ロゼは人を見た。
男が顔をのぞき込んでいると、ややあって理解する。
その髪の色が、黄金ではなく朱色と気付き、ロゼは再び目を閉じた。
気が遠のいたからではなく、始まりの種族独特の交信に身構えようとして。
始まりの種族が一つ、兄姉なる者、狼 竜キグナにとってはそれが当たり前だからだ。
案の定……頭ではなく、何か別の、物を考える部分がつながる感触を覚える。それが、こころの繋がり――つまり精神感応だった。
アディーシェにて初めて経験させられたそれは、溶けるようで心地良くもあるが、ロゼにとっては耐え難いものだ。
自他の境界がなくなり、隠したいものの全てが隠しようがなくなる。そうして自身だけのことにしておきたいものが流れ出ていく。
同時に相手のこころも流れ込んでくることを防ぎきれない。
彼が――いや始まりの種族達が、感ずること、思うことは、到底人の器では測りきれないほど膨大で、底がなく深い。
その大波に足から頭まで飲まれる。
現実とは異なるこころの繋がりの中であるために、それは実際に奔流となってあふれ、全身が沈む。
溶かされ、腕が、足が、体の輪郭があいまいになる感覚。
ロゼと言う個ではなくなり、希釈される。
変えられてしまう。
自分が消える――
それにロゼは足掻いた。懸命に思い出すのは声だ。
『ロゼ!』と。
強く呼ぶ、オルグレンの声。それは今、ロゼにとって強い縁となっていた。時に静かに、時にやさしく呼ぶ声。自分はそう呼ばれる者なのだと思い出し、それを支えに自己を取り戻す。
水の奔流をやり過ごし、ロゼはどうにか自身の姿を保った。
とはいえ、安堵する間などない。
「果たせ、履行しろ」
朱色のたてがみを持つ獣がそう言う。
その獣、――本来の姿のキグナが発する、声ではない言葉……唸りのような思念に、ロゼは首を振った。
「いやだ……」
消し去りたいのは、あなた達ではない。
あなた達には生きていてほしいのだと、ロゼは願った。
現世であれば口にしない限り、決して伝わらないその思いは、こころの繋がりの中では、言葉と同様に響いていく。
そして同時に、こころの中であるからこそ、それが形作られてしまった。
ロゼの――この思いの原点。
目の前に生じたのは、巨大な翼と獣の四肢を持つ獣。
朱色のたてがみを持つ巨大な黒い狼である狼 竜と、対を成すような白銀の姿。
ロゼが最もよく知る始まりの種族、弟妹なる者……
「鷲獅子……」
キグナが呟く。
ロゼは、顔を覆った。
失ったはずの存在を、形作ってしまったことに指先がしびれ、胸が、目の奥がひどく痛む。
幻であるがために、またすぐに失われてしまうのだという悲しみ。
それでもまた姿を見れたことに沸き上がる嬉しさ。
相反する二つが浮かぶ。
種族……姿形は違えど、ロゼにとって、それは家族の姿だった。
陽を浴びた体の匂いも、翼の下に抱かれたときの暖かさもすべて覚えている。
その記憶が過ぎり……喉の奥が痛み、ロゼは細い声で呻いた。
しまい込んでいた記憶がざわめき、止めどなく溢れていく。
それは幸せであった時のものもあったが……やがて、そうではなくなっていく。
――これ以上は、見たくない。
そうロゼは思った。だが、さざ波だった記憶の止め方が分からない。止めどなく浮かび上がってくる泡のような、それら。
湧き上がってくるものを消そうと、ロゼは手を振り回した。そうして彼は自身の手が、小さく幼いものに変化していることに気づいた。
肩に落ちる髪の色は、――青黒い。
「とめて……」
誰へでもなく、ただ恐れからロゼは言った。
はたと気づけば、周りが燃えている。
血の海が広がり、臓物が散っていた。報復だと始まったそれで、大人達が殺され、或いは槍や剣に脅されて集められる。
倒れた人々の姿は、泥人形のようにロゼの目に映った。
転がった人だった物。
見知った者の虚ろな目。
馴染みある声の、聞いたことのない絶叫。泣き声。嘆き。
全てのことに身が竦み、縮こまり――……たまらない緊張がどんどんと心を小さく潰す。
それが限界を超えて、弾けた。
瞬間、ロゼは駆け出した。
怖かったのもある、恐ろしかったのもある、それらと共に……あの時は、そうしなければと、彼は思ってしまったのだ。
走ると言うにはあまりに覚束ない足取りで、よろめきながら動き出してしまった。
胸に……息の臓器に矢が突き立ったまま。
集落が燃やされ、壊された。
痛くて、辛くて、苦しい……そのただ中で。
せめて……何よりも大切な者たちには、難を逃れて欲しいと……。
そして、それが、そのせいで――
「……!」
ぬっと目の前に手が現れ、ロゼは我に返った。
息は荒れ、冷たい汗が流れる。ロゼは繋がりが解かれたのだと、気づくのに時間を要した。
そのまま、キグナの手に視界を覆われる。
反射的に瞼が動き、いつの間にか瞬きを忘れていた目を、ロゼはようやく閉じた。
キグナは何も言わない。そのことに何か感慨を浮かべる余裕はなく、ロゼは再び気が遠くなるのを感じた。
「……動けるようになるまで面倒を見る。世話の準備を頼む」
キグナが誰かに命じている。遠いようなその声を聞きつつ、ロゼはまた意識を手放した。
ただ一つ、ぽつりと思う。
もう、何も考えたくない……、と。




