十章《一節 記憶の断片》1
思考が真っ白に染まる。手が、体が動き、向けられた槍の柄を掴む。
オルグレンの中を巡るのは感情だ。
湧き上がる衝動が体を支配し、力を振るう。
気づいた時、オルグレンの腕は男を駱駝の上から引きずり落としていた。武器を奪われまいとする抵抗があった気もしたが、それが何だというのか。
どうにか足で着地した男の腕から槍をもぎ取る。
血が登るまま、オルグレンは男の襟首を鷲掴んだ。そのまま体を力づくで引き倒す。
踏み荒らされた地面に男が転がった。
「――街へ、だと?」
オルグレンの口をついて出たのは、叩きつけるような言葉。
「馬鹿を言うな!」
獣のように叫ぶ。
その顔を、その心臓を、貫いてやりたい衝動が強く身の内を駆け抜ける。わずかな理性が、辛うじて奪った槍の穂先を男へと向けるに留めていた。
「言え! ロゼをどこへ連れて行った!!」
どこに行ったのか、どういうつもりなのかと、オルグレンは問う。
一方で門兵だった傷顔の男は、引きつった表情だ。形勢が逆転した動揺と恐れが顔に浮かぶ。
オルグレンはそれを目に映したが、そんな物はどうでもよかった。
「言えッ!」
叫びで喉がひりつく。傷顔の男は答えない。
それが何よりも、神経を荒立てる。
槍を真っ直ぐに上げ……直後――
――突く。
オルグレンは深々と槍を突き立てた。仰向けに倒れた傷顔の男、その顔の直ぐ脇へと。痺れを伴った力が地面を穿つ。
その喉に突き立ててやりたい。辛うじて、彼はそれを堪えた。
今突き立てられないことが腹立たしく、肺腑の奥で溶解した熱が渦を巻く。
守りたい者が――ロゼが、脅かされている。
それがオルグレンには、何よりも許しがたい。
疲れ切り、弱り、それでも気丈に振舞っていた顔。
互いの命を守るために、無理をしてでも立ち回っていた動き。
諦めていなかった視線。
そして、動けないオルグレンの前に立った、背中。
それらの光景が頭に過ぎり、溢れだす力のあまり槍を握る手が震える。
いっそ――、オルグレンは傷顔の男を見下す。
男はぐっと奥歯を噛む表情となっている。
身の危険を感じているはずだが、彼は何も言わなかった。その顔には、身内を守る覚悟が浮かぶ。
この男は簡単に口を割らない。
ならば、喋らせるため、喋りたくなるよう、喋らざるを得なくなるようにする。
――どんな手段を取ろうとも。
オルグレンは胸中で吐き捨てた。キグナという始まりの種族の男と、その従者たちはそれだけのことをしでかしている。
ロゼの居場所を喋らせるためであれば、何でも出来る。
目の前の男に、どれほど恨まれようと、呪われようとどうでもいい。オルグレンの目には、傷顔の男が、人の形をした敵としか映らない。
「――答えろ」
言いながら、オルグレンは槍を引き抜いた。
上げた穂先を、敵に向ける。
先ずは耳。顔の近くで振るわれる鋼は、恐怖心を呼ぶ。それに耳は、二つあるのだ。片方が残っていれば、こちらの問いを聞くに十分。
次は、目か、或いは身を削いでもいい。
指を奪い、手を奪い、腕を奪い、足も同様に。
痛みに痛みを重ね、血の上に血を溢れさせる。それを喋るまで続ける。何度でも。何度でも。
すでに彼らは、こちらへ害を成したのだ。慈悲を抱く必要などない。
穂先を定める。男の左耳へと。
そして振り上げ、振り下ろす――
――刹那。
衝撃が奔った。耐え難い圧倒的な何か。
あまりにもの感覚を、オルグレンは痛みだと感じた。
矢が降ってきたわけでも、鋼を受けたわけでもない。
身体ではないどこかが、破裂したような感触。
全てを後追いで認識し、オルグレンは理解した。
これは身の内、――記憶が弾けたものだ、と。
額の傷からの頭痛とともに、耳の奥が痛む。
耳を塞ぎたい。オルグレンの耳には、音が鳴り響いていた。
それは――、子供の泣き声。
ただの泣き声ではなく、その声はあまりに悲痛だった。
おおよそ子供のあげるものではない、魂を千々に裂かれたような慟哭。
同時、彼の目の前に幻視が過った。見えたのは、青黒い髪の子供だ。
大きな白い何かに縋りついた、十を数えるかどうかといった年ごろの子供の姿。少女とも少年ともいえない、あどけない顔立ちをゆがめ、悲しみと謝罪を叫ぶ。
瞬きほどの間現れた、白昼夢のような光景――
それを思い出しオルグレンは、どっと汗をかいた。
憤りとは別の衝撃で、心臓が脈打つ。締め付けられるような痛みで胸が満たされ、オルグレンはよろめいた。
心が慄き、幻影があった場所から離れるよう、後ずさるように足が動く。
それは意図せず、傷顔の門兵の上から離れる格好となった。
すかさず、門兵が尻で地面をするようにして後ずさる。
そうして――、彼は逃げようとしたのだろう。
門兵が距離を取って立ち上がり、傍らで立ちすくんでいた駱駝の手綱を掴む。
「……、……待ってくれ」
額を押さえ痛みに喘ぎながら……、それでもオルグレンは言った。
この彼にロゼが連れていかれた先を聞かなくてはならない。そのことは変わっていない。
聞き出さなくては、ここで逃してしまえば、もう二度と……。
そう暗い想像にとめどなく心を苛まれながら、しかし――
オルグレンは、持ったままだった槍を地面へと投げ捨てた。
先程までの怒りがすべて折れていた。
あの泣き叫ぶ声が、取り返しようのない何かに思えて胸を突く。当然の手段だったはずの鋼は、今はどこか恐ろしい。
それでも、どうにか……
「……本当にすまなかった。だが、どうか教えてほしい」
頼む、と。オルグレンは深く頭を下げた。
腰を折り、深く深く頭を垂れる。
「……連れて行った仲間を返してほしい。彼は俺の友人だ。恩人であり、相棒であり、家族……、――弟だと思っている」
門兵が押し黙る。
それでも、オルグレンは言葉を足した。
「つらい時に居てくれた……俺に居場所をくれた、大事な人なんだ」
だからどうか返してほしい、会わせてほしい、と。
言ううちに、喉に熱いようなわだかまりを感じ、オルグレンの声は震えた。それでも彼は訴えた。
別れの言葉さえ交わせないまま、二度と会えないなど、そんなことは耐えられない。
受け入れられない。
だから……、と。それはもはや、説得の言葉でもなんでもない、ただの懇願だった。
オルグレンはそれを自覚しながらも、ただ頼んだ。
門兵の顔が、次第に眉を寄せたものへと変わる。
ややあって……
「近くまで、だ」
門兵は低く言った。
「近くまで行って、キグナ様……いや、集落の者と相談し、お前を連れて行ってよいか聞く」
その返答次第だ、と門兵が答えた。




