九章《三節 災いの刻》1
口数が減っている。
表面上取り繕おうとしている様子だが……、オルグレンの目には少年の疲労が映った。
ガマリの街を離れてしばし、追手たちの目から逃れるよう、主要な街道を外れる進路を取った。いつか、ルキフの街から逃れた際に街道から外れ、山脈を突き抜けたのと同じ手段だ。
大きな街の連なりからは遠く、通り難い道を行く。道は岩の山谷を連ねたものへと変わり、人里への間隔も広がっていった。
とはいえ、そこまでは問題ない。
そこからの出来事だ。
北の山脈へと向けていた進路を、リリートゥへと変えた頃、状況が変わってしまった。
つまり、傭兵団に捕捉された。これはツァーカの地形のせいだ。砂の海原を越えるわけがないと踏み、傭兵団は国の北側を重点的に探したらしい。
そこから始まったのが、消耗戦の様相。
「……、この先は行けそうにないな」
オルグレンは呟き、道の先を見つめた。剣を下げた男が二人立っている。
肩に袋をぶら下げただけの身軽な様子に、皮の鎧……そして、何よりも腰に下げた長剣。
それらが、彼らが偶然に居合わせた旅人ではないことを物語る。
恐らく離れた所に、もう一人程度潜んでいるはずだ。
一度捕捉されて以降、おおよその進路を把握されてしまっている。
まともに通れそうな街道の要所には、少人数であるもののこうして傭兵と思しき人間が立っていた。
或いは見渡しのいい辺りにも人が配され、また或いは駱駝に乗り遠目に姿を現すことさえある。
幸いにして見上げるほどの巨岩が乱立する地形であるため、避けようもある。だが、その分まともな道はなく、また大きな迂回を余儀なくされている。
そして何より、夜が厄介だった。
それは昨日晩も例外なく訪れた。
硬く重い、砕ける音。夜の闇が落ち、星明りだけでは移動が困難になった頃、ふいに落とされる石の音だ。
それはこちらの居場所を正確に捕捉しきれては居ない為、遠いこともあったが、逆に近いこともある。
その度に警戒せざるを得なかった。
灯火を投げ込まれ、いつ鋼を交えることになってもいいよう、身構えなくてはならない。例えそれが嫌がらせだとわかっていても、気を抜くわけにもいかなかった。
交代で警戒するなど、どちらかが休めるよう取り計らおうともした。
だが……、ロゼは些細な気配で意識をとがらせる癖が抜けないらしい。
昨日も手足に堪える寒さに苛まれつつ、焚火をすることもできず過ごす最中。
音の度に少年が獣のように警戒するのを、オルグレンは寄せあった肩が跳ねる気配で感じた。
夜の闇を見通すことができる目を持つがために、彼は敵を探そうとしてしまうらしい。
自惚れて考えるのであれば、自分を守ろうとしてくれるあまりに……。
それが為に……、オルグレンはそっと背をかがめた。
そうして覗く黒い外套の中で、ロゼの双眸が前を見ている。先に邪魔な傭兵が立っていることを目に映している様子だが、オルグレンの声や行動は届いていないらしい。
薄く唇を開け、乾いた呼吸を繰り返している。
ここしばらくで、ロゼの疲弊は実に顕著なものとなっていた。休むに休めず、加えて補給の不安から水も食料も切り詰めているがために、日々の活動に対して回復が追いついていない。
「ロゼ」
「…………、あ」
オルグレンが静かに声を掛ければ、はたと我に返った様子で視線が動く。
「ああ、ええと……」
今少しの間のことが、分からなくなってしまったらしい。視線が戸惑うように彷徨い、乾き掠れた言葉を漏らす。そんな自分に当惑してか、ロゼが努めたように大きく息をし、強く瞬きし直して視線を上げた。
「……ごめん、何だったかな」
「いや、迂回しようと呟いただけだ」
オルグレンは言い直した。そうだね、と言うロゼの声は、どこか息の方が多く独りごとのような響きがある。
踵を返す様も、どこか鈍い。
彼は自分の弱みなど口にしなかったが、体力に自信があるような人間ではない。消耗の色が濃かった。
一方で、敵はある程度交代で動いている。一晩中嫌がらせをしながらも、自分達の消耗は抑えている様子だった。
オルグレンは内心を炙られるのを感じた。追い詰められていると実感する。
脇道へと逸れる間、ロゼが自身の手を握る、或いは両の手の動きを確かめるような、小さな仕草を繰り返す。
それはオルグレンの目には、動くか確認をしているかのように映った。
ちゃんと戦える状態か、点検を繰り返しているのだ。そうしながら、彼は表面上は普段と変わらぬ様を取り繕おうとしていた。
ここで消耗を気取られるのが不味いと、彼も分かっている。伝わってしまえば、間違いなく襲われるのだ。
事態が好転するような何かを見つけられるまで、どうにかやり過ごしていかねばならない。
今二人で期待しているのは南からの風――、もはや遥か遠くとなった河、滔々たる大河を遡る大風。それと共に起こるという砂嵐。
それに姿をくらませて強行軍で突破し、傭兵団を振り切りたいと考えていた。
それまでは、敵に弱みを見せてはならない。
弱っていると気取られてはならない。
そうしながらも、体力を温存しなければならない。
オルグレンは空を仰いだ。胸の中がざわめき立ち、気ばかりがせく。
意のままにならないとわかっていて、荒野に向かって風を吹かせろと叫びたかった。
オルグレンとしては、この状況を早く抜け出し、ロゼを休ませたい。
体が切実に訴えているはずの辛さを、意思でねじ伏せ何でもないように振る舞っている、少年の姿を見たくなかった。
とにかく眠らせ、休息を取らせたかった。
今でもロゼが楽になるのであれば荷物を預かりたかったが……それをすれば目についてしまう。
すこしでも消耗を回復させねば……、彼は近いうちに動けなくなる。
何か……。
オルグレンは考えながら歩き、そして暫し、
「ロゼ」
黙々と歩く姿に声を掛けた。
数歩行き過ぎてからロゼの足が止まる。
「確か、前に氷砂糖を少し残していると言っていなかったか?」
そこに追いつきオルグレンが言ったのは、もう思い出になってしまった記憶だ。
白い流れ人が返事をしたのか、聞き取れなかった。
それでも、ロゼが腰の小袋を探り始める。
「……少し色が、濁ったけど、……食べられると思うよ」
油紙に包んだそれを見付け出して観察し、細い声でロゼが言う。
「……もう少し、取っておけばよかったね」
言外に最後だと言いつつ、彼がそれを差し出す。
食べたいと言ったように解釈されたらしい。そうとオルグレンは理解する。
そうして、指先ほどの氷砂糖をつまみ――、
「……っ」
オルグレンは呼吸を繰り返すロゼの口の中に、それを押し込んだ。
「俺じゃない」
お前が食うんだ、とそのまま手のひらで口を覆う。
少年が目を大きく瞬かせるが、吐き出すこともできず欠片が歯に当ったらしい小さな音が鳴った。
困惑の目が向けられ、抵抗のように手首が握られる。
だが、オルグレンはそのまま手を離さず待った。やがて……、観念したのだろう。口が動き、噛み砕く音がする。
砂糖は巷では万能薬と呼ばれている物だ。
あらゆる病を治す薬。
無論、噂されるような奇跡の秘薬ではないことを、オルグレンは知っている。
それでも弱った体を元気づけ、わずかながらに癒す力があることは、全くの嘘という訳ではない。
ちゃんとロゼが食べるのを確認しつつ、彼に降り注ぐ陽射しをオルグレンは体で遮った。
どこに監視の目があるかわからず、あまり目立つようなことはできない。
だが、突き刺さるような陽射しを少しでも和らげるように、影を作った。




