九章《一節 行く先の夕暮れ》1
「ロゼを、お願い致します」
オルグレンは、その言葉を胸の中に反芻した。
伝承にある始まりの種族が一つ精霊母が一人、セラーフィナ。
彼女が別れ際に、そっとオルグレンに告げたのがその言葉だった。
そして彼女はオルグレンに、もう一つ警告を告げてくれている。……以前オルグレンが、深手から目覚めてすぐ聞いたことと同じだ。
精霊母は待つことを選択しましたが、そうはできない者もいるでしょう、と。
こころに結ばれた紐――こころの繋がりで、そうと感じるのだと彼女は言った。
より親しきもの、近き者とは深く強く、そして遠き者とも細く繋がった、始まりの種族達。その個でありながら全という性質により、苦痛や喪失さえも共有するのだという。
オルグレンは深く息をし、前を見た。
その先ではロゼが軽い足取りで進んでいる。強い陽の光に照らされた少年の髪は輝いていた。
空に浮かぶ大きな雲のような純白。それがオルグレンの目に眩しく映った。
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その後の旅路は、今までとはまた違った道のりだ。
クゼリュスの手勢などに追い立てられることはなかった。しかし、それよりもある意味手ごわい敵がいたのだ。
ツァーカに入って苦しめられたのが、気候。
足を踏み入れた黄金の国ツァーカは、乾いている。干からび割れた地面からは風が吹くたびに砂塵が舞い上がり、外套を被っていて尚服のそこかしこに砂が溜まった。
当然砂は口や鼻にも入り込み、焼け付いた匂いと、ざらついた味がする。
その不快感をぬぐう意味もあり、水筒から一口だけ水を含む。
そして、オルグレンはゆっくりと大事に嚥下した。
この地で水は貴重品だ。ともすれば雨となるアディーシェとは違い、水がないのだ。
常に水の残量を気遣っていなければならないのは、随分と精神に負荷がかかることだった。
その貴重な水を慎重に扱いながら、思わず目が向くのは東。
今は褐色に煙るその方へ、オルグレンは目を細めた。そうして思うことはメーヴを伴わなくてよかった、ということだ。
馬はよく水を飲む。つまり、連れ歩くならば十分な量の水が必要になる。
それの確保が難しいこの環境では、恐らくは賢き黒鹿毛の馬に、相当の苦しい思いをさせる結果になったに違いない。
「……痛」
思わず遠くをみる調子になっていたオルグレンを引き戻したのは、ロゼの小さな声だった。視線を落とせば少年が手の甲を覆っている。
「あ、なんでもないよ。火傷の跡に障っただけだよ」
オルグレンが気づいたことを察してか、ロゼが目深に被った外套の下で笑った。大丈夫、と言うロゼの手の甲には赤く腫れた箇所がある。それが水筒の出し入れの際に、外套にでも当たってしまったらしい。
照りつける太陽のせいだ。
陽射しが強く、うっかり肌が露出していると日焼けを通り越し、その部分が熱傷になる。肌を守るという塗り薬を施してはいるのだが、細かく塗り直さねば汗や身動きなどで落ちてしまう。
薬が落ちたことに気づかずじわじわと焼かれ、或いは今のロゼのように薬を塗り直した後、手袋を付け忘れ……などと言った経緯で、ロゼもオルグレンもそこかしこに火傷がある。
この暑さを通り越した炎熱も辛いが、もう一つ煩わしい気候があった。
逆に夜は冷え込むのだ。凍える程ではないが、手足がかじかむ。一日でひと季節以上変わったのではないかと思うほどの気温差はなかなかに慣れない。
それでも、早くも数日もの距離を歩ききり――
「アディーシェとはすっかり景色が違うな……」
思わずの言葉が出る。オルグレンの目には、それだけのものが映っていた。
ロゼが、そうだね、と応じる。
気づけば乾き尖った幾重もの岩山の向こうに、陽が落ちつつあった。その沈みゆく太陽の緋色、青暗い空、影の落ちる砂色の景色。
それは緑の丘陵や、瑞々しい深い森に覆われた山とは、まるで違う光景だ。
ゆっくりと視線を転じると、行先の街が視界に入る。
オルグレンは近づくにつれ、はっきりと見えるようになった街の輪郭を眺めた。今まで立ち寄ってきた街とは違い、囲郭が低い。夕方であるため余計に……だろうが、魔物避けの輝きもあまり見られない。
「瘴禍が蹂躙せし土地にして、去りし土地。……戦いは激しく、傷はいと深く、焼け爛れた後は不毛となった。以来、瘴禍はこの地を恐れ近づかない」
ロゼが唄うように言う。
彼でもよく知らないという、ツァーカの土地。
それを渡るにあたってオルグレンもロゼも、タロト西岸街を初め、ここまでで立ち寄った村などで、人にさまざまな話を聞くようにしている。
加えてロゼは河の賢者の庵で、よく本を読んでいた。
オルグレンも自身が本を読むのは嫌いではないとその時気づいたが、それよりも、ロゼがその日知った内容を話してくれるのを聞く方が心地よかった。
ともあれ、ロゼが言ったのは、その中の一つだ。
ツァーカの伝承。始まりの種族――兄姉なる者と瘴禍との闘争の昔語り。
そうして彼は言葉を続けた。
「……話だけかと思ってたけれど、本当に魔物の被害が少ないようだね」
「それでこの発展か」
オルグレンは、たどり着いた門――その奥の賑やかに明かりの灯る、目抜き通りを見て言った。
瘴禍の出現がほとんどない、ということは人の往来がほかの土地よりも容易だと言うことだ。
人の行き来が激しければ、作物を初めとした商品の流通が増えていく。物の移動が活気を生み、ツァーカは他の土地よりも、華やかな文化を育んで行ったらしい。




